幕間 薄明の君
——眼前に迫っていた巨体が消失した。
私を潰さんとする怨敵が、音も無く眼前から消え去っていた。予想だにしない突然の事態に、私は呆然としてしまう。
そんな私の事を置き去りにしながら、再び鈴の音が響く。
『おい、生きているか?これで死んでいたのでは、私が出てきた意味がないからな』
その声に、私は返事すら出来なかった。声がまともに出ない上に、もう視界すらぼやけ始め、声の主がどこにいるのかすらよく分からなかったのだ。それでも生きていることを伝えるようと、何とか腕を少し上げ、左右にゆっくり振った。
『......生きているな、なら良い。間に合ったのなら何よりだ』
果たして、その声の主は私の意図を読み取ってくれたらしい。安堵を含んだ声と共に、何かを漁るような音が聞こえてきた。次の瞬間、唐突に口へと何かが差し込まれた。突然の事に動揺するも、流し込まれたのが何かしらの液体であることは分かった。だが今の私にはそれを上手く飲むことすら出来ず、口の端から漏れ出てしまう。
『......全く、世話が焼ける』
声の主は溜息を零すのが聞こえた直後、首元に手が添えられたのを感じ取った。それが、気道を確保するための行為だと朧気に認識した瞬間、口に柔らかいものが振れた。それが何かは分からなかったが、そこから再び液体が流れ込み始め、今度は私の喉へとゆっくり流れていった。
しばらくして、口に触れていたものが離れていき、それと同時に薬が効き始めたのか視界が快復し始めた。徐々にはっきりとしていく私の視界は声の主を探し、そして一色に染め上げられた。
——白。
絹のような純白の髪に、穢れを知らぬ肌。こちらを覗き込む、雪の結晶を彷彿とされる瞳。まるで御伽噺に出てくるような精霊を彷彿とさせる、美しい容姿。
暗闇の中、月光に照らされて浮かび上がる女性の姿は、正に月の化身のよう。私は先程までの状況すら忘れて、彼女から視線を外せなくなっていた。
『よし、何とか回復したようだな。これで助からなかったのでは、私が捧げた意味がないからな』
『......?』
その言葉の意味を数瞬考え、私は目の前の女性が自分を助けてくれたのだと理解した。ゆっくりと視線を下げると、先程まで溢れるように流れ出ていた血も止まり、体の痛みも和らいでいる。恐らくだが、先程呑み込んだ液体は何かしらの薬だったのだろう。瀕死の状態から持ち直したことから中々に高価な物だったのだろうけど、流石に全快とはいかなかったらしく、傷が癒えてはいても満足に動くことは出来なかった。
そこで、私はようやく先程まで相対していた仇敵の存在を思い出した。軋む体に鞭打って周囲を見渡すと、少し離れた場所に奴は倒れ伏していた。よくよく見れば、その腹には大きな穴が開き、胸から上と下半身は脇腹当たりの肉だけで何とか繋がっているような状態だった。
奴が既に死んでいるのは、どう見ても明らかな状態だった。
『............っ』
思わず苦しくなり、手を胸に当てて拳を握りしめた。すると、目の前の女性はすぐ横にしゃがみこみ、布らしきもので私の目元をそっと拭った。そこでようやく、私は視界が滲んでいると、自分が泣いているのだと気付いた。けど、その涙を私は止められなかったし、止めようとも思わなかった。
しばらくの間、私は地に伏したまま涙を流し、女性はそれを横でずっと見守っていてくれた。
『......ありがとうございました、助けていただいて』
涙が枯れるくらいに泣き終えた頃には、薄っすらと空が白み始めていた。幸いと言うべきか、仇敵たる魔物がこの一帯で暴れていたのもあって他の魔物と鉢合わせすることは無かった。
ここで初めて、私は助けてくれた女性に礼を告げた。しかし、彼女から返ってきたのは意外な言葉だった。
『礼なら、帰ってからお前の仲間に言う事だな。そいつらから相談を受けて、私はお前を探しに来たのだから』
『......え?』
始めは、その意味が理解できなかった。私は、どう考えても騎士団の中では厄介者だろうと思っていたから。まさか、同僚達から気遣われているとは思いもしなかったのだ。
そんな私の内心を読み取ったのか、女性は呆れたようにため息を吐いた。
『あのな、この国ではお前の父のように魔物に殺される騎士は決して少なく無い。もちろん、お前の様に失ってしまった者もな。だから、お前の気持ちはよく分かるし、迷惑に思う訳が無いだろうが』
まるで当然とばかりに彼女は告げる。
『だから、騎士の中にはお前のような奴は何人もいる。けど、そいつらを見捨てることは決してしない。騎士団は、いや我が国の民は全力でそいつらを支え続ける。それこそが我が国が生まれた理由であり、信念だからだ』
『————』
その言葉で、私の脳裏を過ぎる様々な記憶。騎士団の同僚や先輩、国の人々が俺をどれだけ心配し、支えてくれていたのか。憎悪に呑まれている間は見えていなかったそれが、幾つも思い浮かんでいく。
そして、もう一つ思い出した事がある。かつて、父が私に語ってくれたある話。この国の誕生経緯——その根底にあった、想いの話を。
《領主様の民を護りたいという想いから、全ては始まった。王国の支援を受けられなくとも、自身の財のほぼ全てを投げ打ってでも成し遂げようとするその意思に、その背にこの地の誰もが敬意を抱き、共に歩もうと誓った。それは砦が完成した後も変わりはしなかった。北から迫る魔物、南から利益だけ吸い取ろうとする王国。それらと相対し、乗り越える為に我らは一つとなった。領主も、貴族も、騎士も、民も関係なく、互いが互いを助け合う。その想いこそがこの国が生まれた理由で、そして今も国の根幹を為す柱なんだよ》
そう語る父の、誇らしげな顔。ずっと忘れていたその顔が、今はありありと思い浮かぶ。
そんな私を見て、女性は朗らかな笑みを浮かべた。
『だから、次はお前の番だ。今まで助けてもらった分、いやそれ以上にお前が皆の、そしてお前のような誰かの助けになれ。分かったな?』
そこまで言ってから、女性の笑みが僅かに崩れる。何処か照れているようにも見えるその表情に、私は戸惑う。
『......それと、私にもちゃんと返せよ。救命行為とは言え、初めてだったんだからな』
『......?...........っ!?』
数秒その意味を考え、私は気付く。純白の女性、彼女の唇だけが鮮やかに、血で真っ赤に彩られていることに。それをみて、私はようやっと理解した。あの時口に触れたもの、それが何であったのかを。
——そして、目の前の女性が、一体何者であるのかも。
『ククッ、責任は取ってもらうぞ?——シグレ・ベルカよ』
揶揄うように笑う目の前の女性、その頬が微かに朱に染まっていたのは、昇る朝日のせいでは無いだろう。
——その日、命と引き換えに仇を取った私は、失うはずだった生を拾われた。
————敬愛するあの方、シルヴィア・ヒダルフィウス殿下によって。




