樹海にて阻むもの
ヒダルフィウスが亡国となってから五十余年。その間樹海の中央、そして最奥たる北に足を踏み入れた者は一人としていない。
樹海の北——ヒダルフィウスのかつての都にして、始まりでもある砦が建設された地。そしてそのさらに北側から続く、ギラール山脈へと繋がる道がどうなっているのか。骸王に堕とされたことでそれは樹海と同様に霧に包まれ、一切が不明となった。
中心部に近づくにつれ霧はその濃さを増し、木々はより一層生い茂る。天から射す陽の光は弱まり、白い霧に覆われながらも進むにつれ樹海は暗闇に呑まれていく。北に進むにつれ寒さもより厳しくなり、冬の今は段々と雪すら積もり始めてくる。
だが、樹海において最も脅威とされるもの。それはけっして、霧でも、木々でも、闇でもない。
——騎士の国。何故ヒダルフィウスがそう呼ばれる事となったのか、その意味を樹海の奥に進まんとする者達は、身を以て知る事となるのだ。
僅か先すら満足に見通せぬ霧の奥より、いくつもの槍が襲来する。視界を封じられている状態であっても、それらの穂先は狙いを違えることは無い。
「くっ!?こいつら、一体どうなっているっ!?」
眼前に迫るそれを必死に剣で捌きながらも、王国騎士の一人は思わずそう叫んでいた。
そんな彼へと、今度はその横から槍が迫る。霧の奥から突如現れた槍に騎士は反応しきれず、穂先は彼の喉を貫かんとする。
だが穂先は肉を抉る前に、硬質な音を奏でながら何もない空中で動きを止めた。その光景に僅かの間呆けた王国騎士だったが、すぐに何が起きたのかを理解し、慌ててその場から後退した。
「すまない、助かったっ!」
騎士と交代するように、その横を拓馬が進み出る。そんな彼へと再び幾つもの穂先が霧の奥より襲い掛かるが、〈守護方陣〉を持つ彼であれば十分防げる程度のもの。槍を防ぎつつ姿の見えない敵に向かって剣を振るが、その刃は空を斬るのみ。僅かに霧が裂けただけであり、その霧もすぐに満たされしまう。
「......やっぱり無理か」
剣が当たらなかったことに、拓馬は思わず顔を顰める。やはり、と彼が口にしたのは、既に何度も同じ戦法を試しているからに他ならない。
樹海に突入してから十五日程が経過していた。一行は順調に北へと進んでおり、既に道行きの半分は越えた場所まで辿り着いていた。この調子で行けば、十日ほどで目的地に到着できるだろう、そんな風に少し楽観視し始めていたくらいだ。
それも無理は無い。綾の〈千里の標〉による案内は迷霧樹海の霧と地形を物ともせず、最短距離での進軍を可能としていた。周囲の死霊の位置も正確に把握し、それらに見つからないように進むことで体力の消費も最小限に留められた。
教義派の教会騎士達は魔物を避けるなど言語道断、討伐すべきだと騒いでいたが、奥に進むことこそが優先だとデュバリィが説き伏せた。彼らを率いるのが彼女である事、そしてその実力差もあってか、渋々ではあったが彼らはそれに従った。
そんないざこざも有りはしたが、順調といって問題ないペースで進んでいた一行。だがここに来て、彼らは足止めをくらう事となる。
——霧の奥より襲い来る、無数の死霊によって。
見えざる敵からの攻撃が一旦は止んだことを確認してから、拓馬は後退する。〈守護方陣〉の頑丈さは現時点でも相当のものであり、死霊の猛攻も問題無く防げてはいた。しかし、その力は決して万能という訳ではない。攻撃を絶え間なく受け続ければいずれ強度の限界は訪れ、より強い敵が現れれば割られてもおかしくはない。
何より、魔力が持たない。この世界に召喚されてから一年弱、その力は大きく成長したとはいえ未だ発展途上。魔力の量も同様、鍛錬により伸びてはいても膨大といえる程では無い。方陣の展開範囲を狭めることで消費を減らすことは出来るが、この霧の中ではそれはリスクが高い。ただし拓馬の場合、もう一つの固有スキルのお陰でそのリスクを緩和しているのだが、それにも限りはある。
既に戦闘開始から数時間は経過している。彼の魔力量も、徐々に限界が見えていた。
——しかし、敵はそのような事情を組むことは無い。
「っ!?来たかっ!」
拓馬が鋭い視線を向けた先から、霧をまとった槍が飛び出してくる。周囲を霧で覆われていながら、死霊の攻撃は彼を正確に捉えている。それを方陣で捌きながら、死霊に向けて剣を突く。今度は逃げられる前に敵を捉えたものの、突き出した剣は槍で弾かれてしまう。
追撃しようとした拓馬だったが、その直前で勢いよく後ろに跳躍する。先程まで彼が居た場所を影が通り過ぎる。馬に乗っているように見えるその影は馬上槍らしき大きな武器を構えており、それが何を貫かんとしたかは容易く想像できた。
「はぁっ、はぁっ......」
息を荒げる拓馬の顔色は芳しくない。それは彼だけでなく、近くにいる王国騎士達も同様だ。そもそも、迷霧樹海は白兵戦に向いている場所ではない。視界は常に濃い霧で覆われ先が見通せない。地面は木々の根や岩などによって荒れており、その上霧の影響でぬかるみ、今彼らがいる辺りからは雪も積もり始めている。こんな場所では満足に戦うことも出来る訳がない。
一方、潜む敵は霧など物ともしていないかのように彼らへと襲い掛かってくる。先程通り過ぎた馬らしきものに乗った影も、地形など気にも掛けず樹海の中を駆けまわっている。霧も地形も一切が死霊には障害となっていない。
何より、練度が違う。遠征隊は寄せ集めとは言えないものの、全体で連携が取れてはいない。表向きはともかく、各自が腹に一物を抱えている状況では、互いを信頼することは難しい。対して、死霊の連携は実に見事なもの。樹海に侵入した者達を排除せんと、絶え間ない攻撃を繰り出し、遠征隊を追い詰めていく。
多方向から一斉に攻撃しながら互いを邪魔することは無い槍、反撃に転じられた際は素早く身を翻し霧に隠れ、疲れを見せた瞬間に騎馬が突撃。遠征隊が撤退しようとした時にはそれを察知して、矢の雨すら降らせてくる。
——ベルメール騎士団。
ギラール山脈より降りてくる魔物から大陸中央部を護り続けていた、北の砦。常に魔物との戦いを強いられてきた地で鍛えられてきたその実力は伊達では無く、集団戦における実力と連携の練度においてはアルミッガ大陸有数の軍であると知れ渡っていた、ヒダルフィウスが誇る最高の守護者。
それが今、人へと牙を剥く。今は亡き祖国を滅ぼした怨敵を護る盾として、立ちふさがる。
死してなお、守護者と謳われた実力に陰りは無い。宿敵に使役されるという汚辱に塗れながら、彼らはその命に従わされ戦い続ける。仇への怨念を猛らせ、仇の敵を排除する。その魂が解放されるまで、永久に。
防戦一方の遠征隊は次第に追い詰められていく、かのように見えた。しかし、拓馬や王国騎士達の眼に諦観は一切ない。何故なら、彼らの役目は足止めと陽動に過ぎないのだから。
「っ、綾殿!」
王国騎士の一人が声を張り上げる。声を掛けられた綾は、それに対し名にも返さない。その目を皓々と光らせながら、白に覆われた周囲を把握していた彼女は、数秒のちに答えを出した。
「......もう、十分です!集まりましたっ!」
「っ!総員、撤退!」
彼女の声が周囲に響くとともに、騎士達は撤退を開始する。樹海に足を取られないようにしながら、邪魔にならないように全速力で。
その行動に死霊達が追撃に移ろうとし、直後、場に一陣の風が吹く。その颶風は死霊の足を止めさせ、そして周囲に満ちた濃霧を纏めて吹き飛ばす。
数秒もしない内に、視界が開ける。霧の消えた樹海、その奥に潜んでいた者の姿が露わとなる。木々の隙間から姿を現したのは、統一された鎧を着た亡者の騎士。屍体や骨などその様相に差はあれど、立ち並ぶその姿は樹海の中でも整然としており、それだけで彼らの練度の高さが計り知れる。
数は、数百どころか千近くいるだろうか。かの騎士団の将兵達は、突如として晴れた霧に動じる様子は一切見せず、再び遠征隊に突撃すべく武器を構えた。その動きの速さは生前からのものか、或いは死霊へと墜ちたことの影響か。しかしその判断に間違いはない。数は依然して騎士団の方が勝り、その上遠征隊とは違い死霊である為疲れを見せない。吹き飛ばされた霧も数分しない内にこの場に再び満ちる。その優位は、決して揺らいではいない。
——その数分さえあれば十分である、そんな戦力さえいなければ。
「——誘導、ありがとうございます」
樹海に涼やかな声が響く。その声が聞こえてきたのは、遠征隊の後方。そこにいたのは、白き鎧を纏う聖騎士が三人。彼らの体からは金の燐光が立ち上っており、中でもその中央、声の主であるデュバリィの体からは他の聖騎士二人以上に濃い燐光が漏れ出ている。そして彼女が右手の剣を上に掲げるのと同時に、その頭上に巨大な金色の矢が——否、もはや杭と呼ぶべき代物が幾つも現れる。
彼女に続いて、二人の聖騎士も腕を天に掲げる。それに呼応するように、空中に現れたのは無数の金の球体と剣。一つ一つの大きさは杭には及ばないが、数においてはデュバリィのそれより勝っている。
清浄なる気配を宿すそれらに、死霊達の動きが一瞬止まる。それは、眼前のものが自分達を脅かす存在であると本能的に判断してのものか。しかし、その僅かな停止が彼らにとって命取りの結果となった。
「——悲しき者達に、安息を。......どうか、安らかに眠りなさい」
デュバリィがそう告げると同時に、三人が手を振り下ろす。滞空していた金色の聖術が一斉に、死霊達へと放たれた。
無数に降り注ぐ金光が、亡者を蹂躙する。木々をなぎ倒しながら迫るそれを死人の騎士達が迎撃せんとするが、それは無駄に終わる。聖なる光は、彼らに触れたその瞬間にその屍体を跡形もなく吹き飛ばす。魔の天敵、聖術がそう呼ばれるのは決して伊達ではない。魔物である限り、余程の力の差が無い限り防ぐ事すら不可能。金の輝きは、悪しき汚濁を一片残らず消し飛ばす。
やがて、轟音を立てながら降り注いでいた聖術が止む。残されたのは、丸ごと消し飛ばされた木々の残骸。千もいた筈の死霊達に至っては、ほぼ全ての者が亡き骸を残す事すら許されずに消滅した。その凄惨な光景に、王国騎士達は驚きのあまり呆け、何も言えずにいた。
「......流石だな」
一方で、晃は呆然としながらもどこか納得したように頷く。彼や召喚者達は、聖術の力を身近で思い知っている。他でもない彼らのリーダーが使うのを散々見てきたのだから。
「......驚きました」
そして、聖術を放った当の本人は、別の意味で驚いていた。それはデュバリィだけでなく、二人の聖騎士も同様。倒れた木々の下から、這い出して来る影を目にした為に。
それは、死霊達の生き残りであった。豪雨の如く降り注ぐ聖術をあれだけ受けながら、なお動き続ける屍兵。とは言っても数は数十体、いずれもその屍体はボロボロで限界を迎えているのは一目瞭然。
「残党を討つぞ!急げ、霧が迫ってきているからな!」
それに対し、一切油断することなく教会騎士と王国騎士達が仕留めに掛かる。彼らの言う通り、吹き飛ばした濃霧は再び場を覆わんとしていた。そうなる前に討たなければ面倒になる、それを理解している騎士達は一斉に動く。
「......終わった~」
それを尻目に、晃が疲労のこもった声を上げながらその場に座り込む。すぐ近くにいた拓馬も彼の様に座りはしなくても、同感と言わんばかりに無言で首肯した。
「まだ終わってないんだから、気を抜くな馬鹿」
「......でも、確かに疲れたよ」
そんな晃へと〈天翼〉を仕舞いながら京香が苦言を呈し、綾は同意しながらため息を吐く。その顔には濃い疲労が浮かんでおり、綾の〈標〉の光も弱々しいものとなっていた。
遠征隊の狙い、それは死霊の軍勢を一網打尽にすることであった。
拓馬や晃、騎士達が前線に立ちながら、死霊達一か所に誘導。十分に数が集まったところで霧を一時的に吹き飛ばし、姿を把握したところで聖術による蹂躙、という手順であった。
綾の役目は無論敵や周囲の把握。濃霧に覆われた状況で敵を誘導し、味方に被害を出さない為に〈千里の標〉によるサポートに徹していた。しかし〈千里の標〉は周囲の変化に応じて魔力の消費や綾への負担が大きくなる。この数時間、戦闘で酷使し続けた上に、彼女の状況把握が遠征隊の命運を握るというプレッシャーもあってか、彼女の疲労具合は特に酷いものだった。
晃や拓馬も、霧で敵の姿を捉えられない中数時間戦っていたため、疲労の色が濃い。拓馬は〈守護方陣〉による防御も担っていたので、魔力がもう心許ない。晃は固有スキルを使ってはいなかったが、それでもいつ襲い掛かってくるか分からない敵との死闘は相応の負担となっていた。
一方の京香は、そこまで疲労の色は見えない。彼女の役目は、〈天翼〉で風を操作し、霧を晴らす事。広範囲の操作には相応の魔力を必要とはするが、負担はそこまででは無かった。前線で戦っていた晃や拓馬に比べたら大したものでは無いので、今は苦言を漏らしながらも、三人に代わって警戒に当たっていた。
「............」
そんな中、デュバリィは一人思考の海に没入していた。その目は、じっと死霊の残党たちへと向けられている。
その後ろで、彼女を観察する影が一つ。その人物——保守派に属する聖騎士は、何かを考えこむ同僚を盗み見しつつ、彼女と同様に視線を死霊の方へと向けていた。
「......噂は、本当だったのか」
誰にも聞かれない小声で、そんな呟きを漏らしながら。




