17. その補佐官は思案するーⅠ
陛下とリディアの頭脳戦の前に、
とある補佐官の視点から見た
不安な食卓での会話の続きと、ちょっとした過去話へ遡ります。
――そこはとある執務室。
左手に書物を抱え、目の前に佇む本棚を眺めながら……その首席補佐官、アレン・ラセルはつい先刻に起きた、夕げの席での出来事をゆっくり思い返していた。
『――――カシャーンッ!……』
国王陛下の突然の発言の直後、アレクセイの座る席のすぐ後ろの壁際に控えていた自分の目の前で、その幼馴染みはフォークを落としていた。
いつも凛と前を向いて優雅に歩き、誰にも穏やかに向けるその可憐で優しい微笑み。……それこそが、リディア・ディ・オリエントというお姫様の所以だ。
――そんな彼女が陛下の一言で表情が固まり、食器を落としても尚、動きが完全に静止していた。
周りの者もフォークを落としたのが、普段から所作には一段と美しい姿勢で振る舞っていた彼女だったこともあってか、思わず一斉に視線を向けてしまう。
自身が仕える主であるアレクセイ様も、妹君の様子に驚いたように目を見開かれていた。
この場にいる皆、思ってしまったことは総じて同じだろう。「……あのリディア様がフォークを落とすなんて……」と。
――いつも皆の前では完璧に振る舞っているのに……こんなこと初めてだ……。
見慣れない光景に、俺は後ろに組んで回していた両手の拳を握りつつ少し戸惑った。
……最も、一番そういう表情をしていたのは他でもない、彼女だったのだけど……。
「……ね、姉様っ。落としましたよ?」
暫しの沈黙が流れる中、事の光景を理解したルクス様が控えめながらに、今尚も静止している彼女に声をかけた。
「――え?……あ。」
ルクス様の声でようやく我に返ったように見受けられた彼女はそこで改めて、左手に持っていたフォークがなくなっていたことを理解した。
……落としてしまったのは恐らく無自覚だったんだろう。現に彼女は、どうして落としてしまったのかが分からないといった様子だった。
彼女は静かに自身の左下の足元を見下ろし、そこに落ちたフォークの存在を認めた。
「大変、失礼致しました。」
起きた状況を直ぐに受け止めた彼女は陛下方へ向き直り、非礼を詫びる。
……けれどその表情にはいつもの微笑みが浮かんではいなかった。今の彼女は、心ここにあらずといった表情だ。……そんなにショックを受けてしまったのだろうか。
フォークは彼女の後ろ近くに控えていた執事が拾いあげると、素早く替えのフォークに取り替えて彼女の手元に置き直された。
そして彼女はそのまま陛下へ視線を向け、先程の話について静かに問いかけていた。
「……父上様。今のお話は本当でしょうか?」
改めて、今しがた陛下が申されていた事について、彼女は聞き返している。
その声色には緊張めいたものが感じられ、それに対し、陛下は順を追って説明を始めた。
「――ここ三年ほどは何事もなく、お前の身に危険は訪れなかった。……だから無事に成人を迎えられると考えていたのだが、それが甘かったようだ。
今回の騒動は我々の甘さが招いた結果。
しかしこの先、城の外に出ればその機に乗じて不遜な輩がまた現れてくるやもしれん。
誰もお前を脅かすことがないという確証が得られん限りは、外に出ることは認められん。」
……陛下の仰ることはごもっともだ。
彼女はこの国の《宝》に等しい……。その存在が脅かされる危険性が少しでもあるのなら避けた方が懸命なのかもしれない……けれど……。
――俺は知っていた。
彼女が16の歳を迎えるその日を、どれだけ待ち望んでいたのか……。
幼い頃から何度も何度も外のことが描かれた本を読み耽っていたり、展望から城下の街並みを眺めて、未来の想像を膨らませたり……。本当に楽しみにしていのだ。
俺自身もいつも彼女に手を引かれて連れられるように、幾度となくその光景を見ていた。
――心待ちにしているように見えて、その瞳の奥には何かを案じ、実行せんと決意しているような様子だったことも知っている……。
確か陛下は昔、大神官様や幹部の貴族様方と交えて彼女の身の置き方について思案されていた。
《神の御子》である彼女を守るためには、城の中でのみの生活を強いることになる……。
けれどそれは生活的に窮屈なものだ。
守ることに固執して誰とも関わらないように暮らしていれば、王女としての外聞にも多少の変化が生じてしまうだろう。
……この国の王族は「民の声をよく聞き、寄り添う」ことを主にしているから。
おまけに当時の彼女は病弱だった。
事あるごとによく体調を崩したり、酷いときは突然倒れてしまったりして……。
どれも側仕えが目を離した隙に一人で何かをした後だったようだけど、その時彼女が何をしていたのかまでは分からない。
神殿は、病弱の原因は神の力を持つが故の対価だと噂していた。
そんな事も相まってか、その王女様は更に過保護な者たちによって大事に大事に……し過ぎるほどに守られてきた。
…………出会った頃は今と違って、かなりの不満がそのまま現れたような表情してたなぁ。
このまま外に出ずに生活していても、いずれ彼女が16歳になればこの国にとっての大事な行事が……成人の儀がやってくる。
神様への信仰心の高いオリエント国民にとって、これを避ければ要らぬ予感をよぎらせた輩が暴動を起こすかもしれない。
なので陛下方は更に頭を悩ませた。
――そんなとき、彼女は悠々と提案した。
「では16歳までとしたらよいのでは?」と。
成人までに自身を狙う不穏の種を回収して、その日までの二、三年くらい大した騒動が起きなければ安全面は多少なりとも確保されるでしょう……と言ってのけたのだ。
意とも容易く発言された言葉に、当時は反論意見が絶えなかったものだ。
病弱については彼女いわく、「じきに解決しますので。」と述べていた。
その言葉はまるで未来を見通したように核心めいた口調であり、思わず確かな信憑性を感じさせてしまうほどだったらしい。
――そして彼女の言葉通りに、時が経つ事につれて王女を狙う事件は起きなくなっていた。
あれほど毎度絶えなかった誘拐や暗殺も、段々と潮が引いていくようになくなっていき、……一つだけ大きな事件があったけれど、ここ三年ほどはパッタリと何事も起きなかった。
彼女の病弱体質も日毎に改善されていく。
倒れる事も徐々に減って突然気分が悪くなることもなくなり、医師のお墨付きが取れるほどにすくすくと元気に育っていった。……身を守る術を身に付けられるくらいに。
――全て、彼女の言うとおりに事が運んでいったのだ。
周囲は後に、彼女のあの言葉は予知によるものだったのではないかと囁かれていた。
――結局、危惧されていた彼女への反感の声も……「穏やかで心優しいお姫様」の評判によって今日まで対した批判は飛んで来ず、寧ろ彼女を熱狂的に支持する者が身分に問わず後が絶えないほどだった。
また、才色兼備ぶりを存分に発揮していたこともあってか幹部貴族たちの信頼も勝ち取っていた。
だからこそ、陛下は成人の日に彼女を外に出すご決断を下されたのだ。
――……そういった経緯があったからだろう。
彼女は陛下の言葉を静かに聞いていたけど、それでも納得とまではしてなさそうだ。
「神殿の儀はどうされるおつもりでしょう。」
「当日は騎士団の護衛のもと、厳戒体勢で行うこととする。護衛と大神官以外は誰も近付けさせん。
……約束を交わしていたその後の外出許可については認められない。今回は諦めろ。」
陛下は彼女の質問にも顔色一つ変えることなく冷静に答えている。殿下方もそれぞれ何か思うことはある様子だけど、二人のやり取りに介入はせず見守っているようだった。
……アレクセイ様は何かを思案しそれを発言しようか迷われているご様子に対し、シリクス様は平然と食事を続けておられる。……肉料理の新しいメニューが大層気に入られたのか、美味しそうに食べて今は給仕におかわりを指示していた。
ルクス様ははらはらと困惑した様子で陛下と彼女の顔色を交互に窺っているご様子だ。
彼女も徐々に陛下の言葉に口を瞑ぎ、次第に下へ俯いてしまって……い、る…………あれ……?
「――諦める期間は、どのくらいでしょう。」
理由は分からないけれど、直感が走る。
……何だろう。ごくごく冷静に話している風なのに、何だかどんどん彼女の表情に陰りが見える……。
「少なくともあと二年は様子を見る。」
陛下は食事を進めながら淡々と答えている。彼女の雰囲気の変化にはまだ気付いていない。
アレクセイ様とルクス様も気付いてない。……俺の見間違いなのだろうか……?
あ、でもシリクス様の手が止まった……。一瞬だけど、彼女へ視線を向けていた。
……すると俺の横で、あちらには聞こえない程度の小さな声で近侍の者たちがひそひそと何か話している。
「……リディア様、さすがにショックを受けられたんじゃないのか?」
「お顔色がどんどん沈んでおられて……」
「楽しみにしていらっしゃったでしょうに……」
陛下と彼女のやりとりを聞いていた者たちは、彼女を心配する声が上がっていた。
と、いうより……普通は誰でもそう見てとってしまうだろう。陛下方も、彼女が落ち込んでしまわれたと思っておられるのだろうか……。
不安な声があがる中で、俺は皆とは正反対の考えを案じてしまった。
――……いやこれは……少し違う気がする。
僅かに嫌な予感がした。
彼女の変化を正確に感じ取ったのは、この部屋の中では恐らく俺とシリクス様だけだろうか……。
俺自身は幼い頃より傍に仕えていたから彼女の心の機微については大抵把握しているつもりだけれど、シリクス様は流石の感性……とでもいうのだろうか。
あの方の洞察力はとても鋭い。彼女が苦手意識を抱いているのも頷ける……。
「――――成る程。つまり陛下は約束を破られる……ということなのですね?」
……ここでようやく、陛下は食事の手をピタッと止めた。重い沈黙から発せられた彼女の言葉で……流石に気づいてしまわれただろう。
アレクセイ様たちも周囲の者も顔色が変わり、彼女の発するアレを感じ取ったのか冷や汗が現れる。
――先程、食事前に言い争っていた王子殿下二人をその迫力ある圧で黙らせた陛下の威厳オーラとはまた違う……。
言葉は確かに冷静なのに、どこか含みのあるように聞こえる口調と声色。更にそれを対して隠さなくなるようになれば、もう確定だ。
――ここで彼女は笑顔を見せていた。
にこにこといつも周囲の心を一瞬で掴んでしまう、あの無敵の微笑み。
……の、裏には陰りが見える。その背後に現れるのは、陛下と同じ筈なのにどこか黒い……かなり黒い『ゴゴゴゴゴ……。』が見えるのだ。
俺の予感は的中した。
……あ、これ……かなり怒ってる……。




