火熊との戦い
「織姫、ヤタオロチを持ってきてない!」
屋敷にうっかり忘れてきたことを激しく後悔する。といってもあの剣があったところで、背後に迫る熊の化物に勝てるとは到底思えないが……。
「心配するな。あれは普通の剣ではないからの。念ずれば良い!」
「念ずる?」
「手元に来いと命令するのじゃ。ヤタオロチはお前の下僕。必ず現れる!」
そんな非現実的なことがあるのか? なんて今さらか。この世界で俺の常識ほどアテにならないものは無い。
頭の中にヤタオロチの剣を思い浮かべ、強く念じてみた。
“俺の所へ来い!!”
次の瞬間、俺の手には抜き身のヤタオロチが握られている。
「はっ? え!!?」
「よくやったハシラ! 呼べたではないか!」
あまりにも一瞬のことで軽く混乱中。まるで始めから剣を握っていたかのようだ。タイムラグさえなく現れたヤタオロチに、若干恐怖を感じる……。
しかも、漆黒の刃に浮かぶ赤い波紋が、まるで鼓動のように脈打っていて、異様な雰囲気を出している。まるで剣として誰かを斬る瞬間を今か今かと待ちわびているようにも見えた。
「織姫、……この剣、怖い」
「大丈夫じゃ! ハシラに牙を剥くことは決してしない! それより早くヤツを止めよ!」
そうは言っても、ぶっちゃけ剣を握るのも初めてですが……。
「ハシラ、お前は戦える! 記憶になくても、肉体が剣の振り方を知っているはずなんじゃ。詳しいことは後で説明するが、ハシラには出来るんじゃ!」
なんだそりゃ? よく分からないが、織姫がそう言うならそうなんだろう。
どのみちもう追いつかれるし、覚悟を決めるしかない。
「よっしゃー!! やってやる!」
俺は立ち止まり颯爽と振り返る。
……と、思っていたよりも火熊はすぐ目の前まで迫っていた。
近くで見ると本当にでかい……。燃えたぎる岩山が押し迫ってくるようだ。だが不思議とそれほど恐怖を感じない。何なら、手に持っているヤタオロチの方がはるかに恐ろしい。
「ゴアアアアアア!!!!」
火熊が咆哮を放った。
俺は努めて冷静に、剣撃の狙いを定める。
どれほどの巨体であっても、弱点はあるはずだ。いや、むしろあって欲しい。
その時、火熊の体内に光の線が浮かび上がった。
まるで血管のように全身を張り巡り、それらを目で辿ると、額の奥に輝きが集中しているのが見えた。もしかすると、そこが弱点か?
火熊を包んでいた炎が消え、代わりに全身の毛が赤く逆立つ。
「肉弾戦に切り替えたぞ! 炎を取り込み、肉体の動力に換えたんじゃ。気をつけろ、見た目より速いぞ!」
ヤタオロチを見てから火熊の殺気が変わった。たぶんこいつもヤタオロチにびびってるのだろう。分かるよ。
額に狙いを澄まし飛び上がる準備をすると、火熊が凄まじい速さで右腕を振り下ろしてきた。ギリギリで躱すと、続けざまにもう1本の右腕が振り下ろされる。足が8本もあるとは厄介だ。タコ熊め。
さすがに躱すのは無理だと思ったその時、自然と構えた剣が火熊の右腕を受け止めた。自分でも驚くほどの力で右腕を振り払うと、左右から振り下ろされる連続の攻撃を全て受け止め、いなしていく。目で追うのもやっとの速さなのに、肉体は当然のように剣を払い、俺自身、そのことを当然のように受け入れている。とても不思議だ。ヤタオロチと共に戦うこの体験に、懐かしささえ感じられるのだから。
攻撃があたらず業を煮やした火熊は、再び鋭い咆哮を放った。まるで、わがままを聞いてもらえない駄々っ子のようだ。
その隙を狙い、火熊の前足を踏み台にして額の上に飛び移る。光の線が集まる場所を狙い、剣を振りかざすが……。少し気が変わった。
構えを解くと、剣を持ち替え右腕に力を込める。先程空高く飛び上がった脚力を思えば、腕力だってバカに出来ないはずだ。渾身の力で拳を握り、火熊の額をめがけ激しく打ち込んだ。
「グオオオオオオ!!」
火熊が叫び体勢を崩すが、そのまま二発、三発と続けて拳を打ち込む。相手は全身を震わせ、轟音とともに地面へと倒れ込んだ。
赤く逆立った体毛は、火が消えたように黒くなり、気のせいか大きさも一回りほど縮んだように見える。
「よ………っしゃーー! 勝った!!」
「うむ……マジでやりおったな、ハシラ」
織姫が懐でうんうんと頷く。
「じゃがなぜ火熊の弱点を知っていたのじゃ? 妾でさえお前が額を狙うまでそこが弱点なのを忘れておった」
「知ってたわけじゃないが、光の線が額に集中していただろ? そこを狙えば倒せるのかなって……」
「光の線?」
「全身を伝ってたんだが……。これって、俺にしか見えない……のか?」
「…………ハシラ、お前は」
その時だった。
様子を窺うように、ひっそりと潜んでいたもう一つの気配が、突如俺たちに迫った。
「………っ!!!」
殺気をギリギリに感じ、背中側にのけぞる。鋭い刃で前髪が何本か切り落とされた。
だが不思議なのは、相変わらず敵の姿が全く見えないことだ。
「隠遁を使っておる」 織姫が言った。
「隠遁?」
「妖狸族独自の術じゃ。体を完全に見えなくすることが出来る」
それは何とうらやまし……、いやけしからん術だ!
「熟練の妖狸族であれば、姿の他に気配までも完全に断つ。どうやら妾たちを襲っておるのは……半人前のようじゃの~?」
おっと、挑発か? 明らかに相手を煽っているが、狙い通り怒りの感情が伝わってくる……。
再び殺気を感じたので、そちらに向けて剣を振る。
何ものかが後ろに飛び退いたのが分かった。
「術も半人前ならば、動きも半人前じゃの。これが、国に名を馳せた妖狸族とは思えんのー。ぷっぷっぷー」
挑発が子供!
敵を見えるところに引きずり出したいんだろうが、さすがにそんな子供じみた挑発に……。
「う、うるせーーー!!!!!」
乗ったー!
姿を見せたのは、オオカミ顔で赤い鎧を纏った男。先程頭に浮かんだイメージそのままの姿だ。
「黙って聞いてりゃ好き勝手言いやがって!!! テメーら俺様をなめんじゃねーぞ! 妖狸族の次期長である、このイヌナギ様をなー!!!」
姿見せた上に、名前まで名乗ったよ。
「だっはっは。ぽんこつタヌキが長とは、妖狸族も先は長くないようじゃの。ご愁傷様じゃ!」
「何だとテメーー!!!」
なるほど、妖狸というのはタヌキが原型か。そういやイヌ科だもんな。
「ふん、どのみちテメーら無事じゃ済まねーぜ。山ノ神を操り、俺たちの里を襲った理由、きっちり聞かせてもらうからな!!」
「……山ノ神って?」
「火熊のことじゃろ? わりと神聖視している種族も多いからの」
「なるほど。で、俺たちが火熊を操り、里を襲った……とは?」
「勘違いしとるんじゃないか? 見るからにバカっぽいし」
「テんメー-!!!!」
もしかして織姫、さっきから挑発しているわけじゃなく、本当にただバカにしているだけなのか?
「いいか! 子供だからって容赦はしねー!! 山ノ神を操り、ぶっ倒すくらいだ。おおかた名のある魔物が変化してんだろ!? 俺は騙されねーぞ!!!」
名のある魔物というより、32歳のオッサンですが?
「ぶっ潰す!!!」
そう言って再び姿を消すイヌナギという男。つうか誤解なんだが。
「無駄じゃ。ああいう思い込みの激しい奴は、人の話も聞かん。ぶった斬ってしまうのが一番手っ取り早い」
ぶった斬るって……。
「さすがに命を奪うのはどうかと思うが……、そもそもアイツの方が強いんじゃないか?」
「さっきも言ったじゃろ? 妖狸族では火熊に勝てん。ハシラが火熊に勝ったのならば、必然的にお前の方が強いんじゃ」
「けど姿が見えないしな」
「それなんじゃが……」
その時、再び殺気が迫ったので、木の枝に飛び乗りそれを避ける。
どうやら、ゆっくり話をさせるつもりは無いらしい。
「ハシラ、お前は奴の姿が見えなくても攻撃を避けられる。それはなぜじゃ?」
「なぜって……。なんとなく分かるんだよ。あいつが来る方向とか、どこを狙っているのか、とかが……」
「ふむ。それに、ハシラは奴が隠遁を使っている間も、その容姿を言い当てたな?」
「あ、ああ。頭の中にイメージが浮かんだからな」
その間も攻撃が訪れ、俺は隣の木へと飛び移った。
「ハシラのそれは、もともとハシラヌシが持っていた能力じゃ」
「ハシラヌシが?」
「そう。神眼と呼ばれる術での。ハシラヌシはその力を使い、相手の霊力を“視る”ことが出来た」
「???」
「さっき火熊の全身に光の線が見えたと言ったじゃろ? その線は霊脈と呼ばれる、霊力が通る道じゃ」
「なら、あの光が霊力そのものだったのか?」
「そうじゃ。大小様々なれど、命あるものは必ず霊力を宿しておる。まして魔物などほとんど霊力の塊じゃからの。姿や気配を消しても、霊力さえ辿れば一挙手一投足まで丸分かりということじゃ」
そいつは便利だ。
「今は力が目覚めたばかりで安定しておらぬが、集中して敵を“視て”みろ。ハシラならばきっと、隠遁を封じることが出来るはずじゃ」
言われた通り、イヌナギの気配に意識を集める。どうせ見えないのだから、目も閉じてしまおう。暗闇の中にたゆむ、光の流れを見つけるんだ。
その隙にも、イヌナギからの攻撃は飛んでくる。
クナイや火球を飛ばしたり、剣で俺のいる大木を切り倒したり。まるで忍者だな。あの手この手を繰り出して、実は結構な強敵なんじゃないか? もっともこの世界の標準を知らないので何とも言えないが。
やがて光がイヌナギの姿を形作る。
顔から尻尾の先、手に持った剣先までもはっきりと瞼の裏側にイメージすることが出来た。
こうなると事は早い。それまで攻撃の直前にしか分からなかったイヌナギの行動が、言葉通り目を閉じても分かるのだ。
俺はさっと地面に降り、やつの居場所めがけて剣を振り払った。驚いたイヌナギが慌てて剣で受け止めるが、不意討ちだけに踏ん張りが利かず、後方へ弾け飛ぶ。
だが、さすがは魔物。飛ばされながらも剣を振り、真空の暫撃をいくつも放つが、……残念、俺はもうそこにいないんだ。
イヌナギを弾き飛ばした瞬間、真横に回り込んでいた俺は、ターゲットを見失い狼狽えるイヌナギの顔面を思い切り蹴り降ろした。
凄まじい音とともに、地面にめり込むイヌナギ。我ながら恐ろしいキックだ……。
「なんじゃ、ぶった斬るのかと思ったのに」
隠遁が解け、地面にめり込んだままの姿を現したイヌナギを見て、織姫がつぶやいた。
「物騒なやつだな。そんなに簡単に命を奪うなんてダメだろ?」
「そうは言うが、生きておるのか? コレ」
……たぶん。ピクピク動いてるし。いや死後痙攣の可能性も……?
なんて思っていたら、
「ぷっはーーー!!!」
と、大きく息を吸い込み、イヌナギが起き上がった。
思いの外タフで良かった。とホッと胸を撫で下ろす。
「くっそ、くそーー!!! 俺様がこんなガキんちょに!! 冗談じゃね-!!」
などと言っているが、どうやら蹴りの衝撃でいくつか骨が折れているらしい。肩で息をしながら足を引きずり、脇腹を強く押さえている。何となくだが、動物をいじめているような罪悪感に襲われる……。
「おい、無理して起き上がるな。お前が何もしなけりゃ、俺たちも手は出さない」
「ふざけんなっ!!! そもそもお前らが先に俺たちの里を襲ったんじゃねーか!! 山ノ神まで操って!!」
「だからそれは勘違いだっての」
「うるせー!! この森にはお前ら以外、誰もいねえじゃねーか! それに山ノ神がお前らを襲ったのが何よりの証拠!」
操ってる奴が、自分自信を襲わせたりしないだろ……。
「例え命が尽きようとも、テメーらを絶対に許さねー!!!」
やれやれ、聞く耳持たずだ。どうやって誤解を解けばいんだろう。
「もう良いじゃろハシラ。めんどうじゃし、ぶった斬ろう」
織姫は織姫で短気だし……。
その時、そばに倒れていた火熊がモゾモゾと動き出した。
まずいな。さっさと逃げるつもりが時間をくってしまった。
二人(いや二匹?)を相手にどうするか……などと考えていると、何だか火熊の様子が先程と違う。
殺気がなく、穏やかな澄んだ目でこちらを見ていた。そして静かに、頭に響く声で話し出す。
〈妖狸の若者よ……。迷惑をかけてすまなかった……〉
「や、山ノ神っ! 生きていたんで……?」
イヌナギが驚き、ひざまづいた。
〈この者たちが、我に慈悲を施してくれたのだ〉
「? このくそガキ共が?」
おい。
〈この者たちは、我を殺すことも出来たはず。だが命を奪わずにいてくれた……。たった今目覚めるまで、傀儡となり果てていた我をな……〉
「山ノ神……一体何があったんです?」
〈分からぬ……。ゆえに恐ろしいのだ。意識が奪われ、仮初めの憎悪が胸を満たすその瞬間まで、術にかけられたことさえ気づかなかった。もちろん、それを施したのは、この者たちではない……〉
「な……、それは本当で?」
火熊は、澄んだ瞳で俺たちをじっと見つめ、話し続ける。
〈残念だが、我の力では術者を辿ることは出来なかった……。唯一したことと言えば、意味もなく怒りに囚われ、妖狸の里を燃やし尽くしたことだけ。……本当にすまなかった、妖狸の若者よ〉
「仕方のないことです! 山ノ神が操られていたことは、カイエン様はじめ、里の皆も承知のこと。誰もあなた様を責める者はおりません!」
〈だとしても……我の気が納まらぬ。里を燃やした後、自らを滅し詫びようと思ったが、操られ、それさえもままならなかった。だがかすかに残った自我が、我を滅する力を持つ者を見つけたゆえ、そなた達を追い、助けを求めてしまった……〉
だから俺たちを執拗に追っていたのか……。殺されるために。
何だか可哀想な話だ。
〈すまなかった……、鬼の者たち〉
「本当じゃ! せっかく妾がハシラと二人きりでモゴモゴッ……」
慌てて織姫の口を塞ぐ。
「気にするな。そこのイヌナギが言う通り、責められるべきはあんたを操った者。あんたが気に病む必要はない」
〈そう言ってもらえると救われる〉
「モゴっ……妾は許しておらぬぞ! 邪魔しおって……」
「謝ってるんだから良いだろ?」
「ふん! 謝れば何でも許されると思ったら大間違いじゃ! こっちは下手すりゃ死にかけたのじゃぞ! ふんだ、ふんだ!」
子供か!
「どうだろう、これで誤解だって分かってもらえたか?」
俺はイヌナギに向かって問いかけた。
「ん? あ、ああ……。悪かったな、話も聞かずに」
以外と素直な奴だ。
その後、山ノ神と言われる火熊は、森の奥にある自分の住処へと帰って行った。少しヨロヨロしていたが、寝床で休めば回復するとのことだった。
「なあオメーら。良かったら俺たち妖狸族の里に来ないか? 無礼を働いた詫びに、何か協力したい」
山ノ神が去った後に、イヌナギがそう言った。
俺たちが着の身着のままの格好をしているのを気にかけてくれたようだ。
このまま歩き続けるのもどうかと思っていた所だし、織姫と顔を合わせ、イヌナギの招待を快く受けることにした。