第5話 夜空に立ちはだかる者たち
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
朝に朝露が発生するが如く、妖精は自然の中から生まれ出でては消え、また生まれる。
父親と母親が、いるわけではない。
家族という概念が、妖精にはない。
父親、母親、兄と弟、姉と妹。そういうものが妖精以外の種族にはあるらしいと、チルノは聞いた事だけはあった。
姉妹とは何か。
このフランドール・スカーレットという生物に出会い、捕獲され、お気に入りのぬいぐるみのように扱われながら、チルノはチルノなりにそれを考察し続けてきた。
考え続けるチルノを、ぬいぐるみのように抱き運びながら、フランドールは空を飛んでいる。冬の夜空を切り裂くように凶暴な速度でだ。
「ふ、フラン、ねえフラン! あたい、わかったよ!」
可憐な細腕にガッチリと捕らえられたまま、チルノは叫んだ。
「フランは、お姉ちゃんに会いたかったんだ。閉じ込められてる間じゅう、ずうっと! お姉ちゃんに会いたかったんだ!」
フランドールが急停止した。チルノは一瞬、息が詰まった。
「お、お姉ちゃんって、あたい何だかよくわかんない……きっと、あたいにとっての、大ちゃんとか美鈴や魔理沙みたいなものなんだよ……ルーミアは、ちょっと違うかな……とにかく。だから、フランはずぅっと会いたかったんだ」
吸血鬼の少女の可愛らしい両手は、しかし絶大な破壊の妖力の塊である。妖精の肉体など、一瞬にして引き裂いてちぎり砕く。
この手に引きちぎられ粉砕されたら、妖精でも再生は出来ないかも知れない、とチルノは思った。
そんな可憐な繊手に捕獲されたまま、それでもチルノは言う。
「美鈴が言ってた。フランは、お姉ちゃんの事が大っ嫌いで許せなくて、仕返ししてやりたいんだって」
フランドールは何も言わず、捕らえたチルノを間近から見据えている。
愛らしい美貌に、表情はない。澄んだ真紅の瞳に、感情はない。
人形のような美少女は、ただチルノを見ているだけだ。喜びも楽しみも憎しみも露わにする事ないまま、次の瞬間にはチルノの身体を引きちぎるかも知れない。
ちぎられる前に、チルノは言葉を続けた。
「……あたいは、そう思わない。フランはただ、お姉ちゃんに会いたくて……お姉ちゃんと一緒に、遊びたいだけなんだよ。けど、もうちょっと待ってあげて」
フランドールの姉、レミリア・スカーレットに関して、チルノは何も知らない。ただ数百年ぶりの再会を果たした妹によって、いかなる目に遭わされたのかを、紅美鈴から聞いただけである。
レミリアは現在、博麗の巫女の保護下にある。秋冬の間ずっと博麗神社にいて、紅魔館に近寄ろうともしなかった。
だから今こうして、妹の方から近寄ろうとしている。
「……あたいが大ちゃんとケンカした時もね、そう……すぐ会いに行っても、大ちゃん会ってくれなかった。だからフランも……もうちょっと、待ってあげようよ。ね?」
フランドールは、やはり何も言わない。人形の眼差しを、チルノに向けているだけだ。
引き裂かれるのは、1秒後か。2秒後か。
声を発したのは、いつの間にかそこにいた紅白の少女である。
「……あんたって凄いわ、チルノ」
博麗霊夢。
2つの陰陽玉を左右に従え、空中に佇んでいる。
「博麗の巫女が絶対に出来ない事を、本気でやろうとしている……会話の出来る奴が相手だったら、成功していたかもね」
「霊夢……!」
言おうとするチルノを、フランドールは放り捨てるように解放した。
そして、霊夢と空中で対峙する。相変わらずの、人形の美貌。
虚ろなほどに澄んだ真紅の瞳を、霊夢はまっすぐ睨み返す。
「……駄目なのよチルノ。妖怪相手の揉め事はね、最初っから会話で解決しようとしちゃ駄目。話し合いなんかしなくたって、大抵の事は力で思い通りに出来ちゃう連中なんだから」
お祓い棒をふわりと揺らしながら、霊夢は言った。
「力だけじゃどうにもならない事を、まずは思い知らせる……そのためにいるのが、博麗の巫女よ」
植物は、物言わぬ生命体である。人間のように、喋る事はない。獣のように吠える事もない。鳥のように啼く事もない。
なのに、悲鳴が聞こえる。絶叫が、慟哭が聞こえる。
悲しみが、憎しみが、苦しみが、どろどろと渦を巻いている。
その渦中に、リリーホワイトはいた。
「……何が、そんなに悲しいの? どうして、そんなに苦しいの? どうか教えて、西行妖……」
問いかけてみる。
答えは、返って来ない。西行妖は、ただ泣き叫ぶだけだ。
「本当はね、もう春なんですよー……」
リリーホワイトも、泣きたくなった。
「も、もしかして私が……お寝坊、しちゃったから? そのせいで、お花を咲かせる時期を見失っちゃった? ごめんなさいっ! い、今からでも一緒に頑張りましょう。ほら春ですよ、春ですよぉー!」
リリーホワイトは叫んだ。
西行妖も、叫び続けている。苦悶の叫び、怨嗟の叫び。
それらの中から、辛うじて聞き取れるものがある。
か細く、悲痛な願い。
消え入りそうな声で、西行妖は何かを願っている。
「……お花を咲かせたい、のよね……満開に、なりたいよね……」
辛うじて、リリーホワイトは聞き取った。
春告精がうっかり聞き逃してしまいそうなほど、弱々しく儚げな願い事。激しく渦巻く悲鳴や慟哭に、押し潰されかけている。
違う、とリリーホワイトは感じた。気付いた。
西行妖の悲鳴、慟哭……ではない。
この巨大なる桜の古木は、ただ花を咲かせたいと願っているだけだ。
その願い事を、苦痛の悲鳴や怨嗟の慟哭で圧し潰さんとしているのは、別の何者かの群れである。
西行妖の、中にいるものたち。
この桜の巨木に、養分として吸収されたものたち。
「……人の、命……?」
リリーホワイトは目を凝らした。いや、目で見る事は出来ない。
それでも、存在を感じる事は出来る。
「……誰?」
渦巻きながら泣き叫ぶ、無数の命。
それらの中心部に、黒い何者かが存在している。
黒い、としか表現しようのない何か。
優美、でありながら禍々しくおぞましい人影。
「あなたは……誰?」
問いかける。答えはない。
答えを知ってはならない。ぼんやりと、リリーホワイトはそう感じた。
だが、知らなければならない。西行妖の、願いを叶えるために。
花を咲かせたい。満開になりたい。
ただそれだけ、誰かが不幸せになるわけでもない願い事を、叶えるために。
だからリリーホワイトは、問いを重ねた。
「ねえ、あなたは誰……どうして、西行妖をいじめるの?」
音楽が、聞こえた。
哀調。それはまるで、悲鳴と慟哭を渦巻かせる無数の命を、宥め、慰め、鎮めるかのような響きと調べであった。
リリーホワイトは聞き入った。魂を、引き寄せる音色。
我に返った。リリーホワイトは、現実に引き戻されていた。
「…………ここは……」
「戻って来たわね、春告精」
ヴァイオリンを弾きながら、ルナサ・プリズムリバーが言った。
「貴女……西行妖に、取り込まれるところだったのよ」
「取り込まれる……?」
「食べられちゃう、って事! あっはははは、危なかったわねえ」
トランペットを吹きながら、笑い、喋る。そんな器用な事をしているのは、メルラン・プリズムリバーである。
「でもでも。春の妖精を食べちゃったらぁ、この寝坊助な妖怪桜も目ぇ覚ますんじゃない? 春が全身に行き渡って満開になるかも。どうよリリーホワイト、食べられてみるぅ?」
「あー、メル姉の世迷い言は聞き流してね」
キーボードを叩きながら、リリカ・プリズムリバーが微笑む。
「でも良かったわ、戻って来られて。危うくアレよ、リリーホワイトを弔う曲を奏でなきゃいけなくなるところだったわ」
「私……頭の中で楽譜が書けたわ。春告精に捧げる葬送曲。ちょっと合わせてみましょうか」
「ルナ姉も! 暗い曲ばっかり作るのはやめなさい。まあ後で聴かせてもらうわ」
三姉妹の会話をぼんやり聞きながら、リリーホワイトは見回した。
桜吹雪だった。
眼前にそびえ立つ、三分咲きの西行妖。それ以外の桜は満開である。
白玉楼の庭園であった。
優美な気配が、声と共に近づいて来る。
「リリーホワイト……無理をしては駄目よ」
白玉楼の主。少女、と言うより令嬢あるいは姫君。
西行寺幽々子の、どこか不吉なほど気品と色香の漂う姿が、そこにあった。
「私、全く急いでいないわ。ゆっくり、ね? いきましょう。この西行妖……急いで満開にさせても、意味はないし風情もないわ」
「幽々子様……」
「この白玉楼では皆、ゆっくりと過ごすものよ。人間も、妖精も、妖怪も、生者も死者も」
「私ら騒霊もねえ、きゃははははは」
メルランが笑い、リリカが言う。
「ねえ幽々子さん。このバカでか桜、冗談抜きでヤバいわよ? 今ね、リリーホワイトが食べられそうになっちゃったんだから」
「そうさせないためにも貴女たちがいる。彼女を連れ戻した、今の演奏……とても素晴らしかったわ」
幽々子が微笑む。
「貴女たちの音楽には、妖精を救う力がある。きっと人間や妖怪も救うのでしょうね」
「……そんなもの、目指していないわ」
ルナサが暗い声を出す。
リリーホワイトは、ぺこりと頭を下げた。
「貴女たちの音楽は、私を助けてくれました……本当に、ありがとうございます」
「それよりね、教えて欲しいわ」
リリカが、ずいっと近付いて来る。
「……何か、見えたんでしょ? 妖怪でか桜の中に。新しい音楽のネタになるかも知れないから、ねえ聞かせてよ」
「いやその私にも、よくわかんないですけど……」
一瞬の躊躇の後、リリーホワイトは言った。
「黒い……とっても恐い、人影が……」
見たままを語ると、そんな頼りない言葉にしかならないのだ。
「……どこか幽々子様に似ていた、ような気もします。ごめんなさい、変な事言って……でも、そう思えてしまうんです」
魂魄妖夢がこの場にいたら、激昂していたかも知れない。
激昂などせず幽々子は、西行妖の巨体をじっと見上げている。
「……満開になりさえすれば、西行妖が内に溜め込んでいる全てのものが解放される。それらがどのようなものたちであれ、私にとってはどうでも良い事」
白玉楼全域を見下ろす桜の老樹。冥界の大地を穿つ巨大な根に、幽々子は身を寄せていった。
美しく豊かな胸の膨らみが、岩石のような樹皮に柔らかく押し付けられてゆく。
「私はただ、満開の西行妖を見たいだけ。春になっても花を咲かせない、まるで巨大な骸骨のような……そんな姿を、桜吹雪の中で晒し続ける……かわいそうな西行妖をね、咲き誇らせてあげたいだけ」
1人で、入浴を済ませた。そこまでは辛うじて出来た。
問題は、その後である。
レミリア・スカーレットは、布団の中で枕を抱いていた。
その枕を、霊夢と思い込む。それがどうにも上手くいかない。
「霊夢……」
呟いてみる。当然、枕は応えてなどくれない。
パチュリーの様子を確認したら、すぐに戻って来る。だけど長引くかも知れない。博麗霊夢は、そう言っていた。先に寝ていなさい、とも。
言われた通りレミリアは、1人で布団に入った。だが眠れない。
1人で寝る。
今のレミリアにとって、それは太陽を克服する事の方がまだ容易いのではないか、と思えるほどの難事であった。
霊夢は、帰って来ない。何かが長引いている。
パチュリーの体調が、思わしくないのか。
パチュリーは元気にしている。そうレミリアに報告する事が出来ず途方に暮れている霊夢の姿が、見えてしまう。
突然、レミリアは跳ね起きた。布団も枕も、放り捨てていた。
「愚かなレミリア・スカーレット……! どうして、それに思い至らなかったの!?」
霊夢は、紅魔館へ行ったのだ。
そして紅魔館には、フランドールがいる。博麗の巫女と出会ったら、どのような事になるか。
何事も起こらずに済むと何故、自分は疑いもせず思ってしまったのか。
着流しの寝巻きを、レミリアは脱ぎ捨てた。枕元に畳んであった桃色のドレスを、手早く身にまとう。この服でないと、翼を思い通りに動かす事が出来ないのだ。
レミリアは寝室を、社務所を、飛び出した。
霊夢が帰って来ない。
紅魔館で、フランドールを相手に悶着を起こしているとしか考えられなかった。いや、起こしたのはフランドールの方からか。
ともかく博麗霊夢と、フランドール・スカーレット。この両名の悶着が、殺し合いに発展しないわけがなかった。
「わかったわ、フラン……私の命をあげる。だから霊夢を……殺さないで、お願い……!」
レミリアは羽ばたき、飛翔し、そして空中で立ち止まった。
上空。博麗神社を見下ろす位置で、人影が1つ空中に佇んでいる。レミリアを、待ち構える格好でだ。
「……どこへ行こうって言うんです。今更あんたの居場所が、博麗神社以外にあるとでも?」
寒々と晴れ渡った、冬の夜空。
冷たく輝く満月を背景に、紅美鈴は不可視の足場に立っていた。
「今あんたに出来る事なんて、何もありはしませんよレミリアお嬢様。大人しくしていて下さい。1人で眠れないなら……私が、眠らせてあげます」