第4話 激動の紅魔館
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
腕を、もぎ取られた。
翼を、引きちぎられた。
無邪気な幼児に捕まった虫のように、あの時レミリア・スカーレットは生きたまま解体されていた。
妹の、可愛らしい手によって。
地獄そのものと言える激痛の余韻が、まだ全身に残っている気がする。
小さな身体に大きめの袢纏を着せられたレミリアが今、博麗神社の境内から夜空を見上げていた。
冬の夜である。容赦のない冷え込みが、レミリアの身体を震わせる。
否、寒くて震えているのではない。
寒さなど問題にならぬほどの恐怖心が、レミリアの中では生きている。
あの時、フランドールは笑っていた。愛らしく、幸せそうに楽しそうに。
天使の笑みを浮かべながら、フランドールは姉の肉体を引きちぎっていた。本当に、楽しそうに。
妹がその気であれば、レミリアの肉体など一瞬にして砕け散り、消え失せていただろう。藤原妹紅のように。
それをせずにフランドールは、時間をかけて姉をちぎり殺しにかかっていた。
「私を……楽に死なせては、くれないのよねフラン……なぶり殺しにしなければ気が済まないのよね……」
この場にいない妹に、語りかけてみる。
寒々と晴れ渡った冬の夜空では、月が白く冷たく輝いて、地上の雪景色を照らしている。
妖怪に恩恵をもたらす月の光を、こうして全身に浴びていても、恐怖心は消えない。激痛の余韻が消えてくれない。
「フランは、私が憎いのよね……それも当然の事……」
五百年近く、フランドール・スカーレットは紅魔館の地下に幽閉されていた。何故か。
幽閉する能力に長けた妖怪が、スカーレット家の家督争いに介入し、レミリアに与力したからだ。
己の地位を脅かす妹と、自力で対決する事も出来ない。自力で向かい合おうとすれば、あのような様を晒す。
そんな姉の姿が無様で滑稽で、もはや笑うしかない。だからフランドールは、あんなに愉しそうに笑っていたのだ。
数百年に及ぶ幽閉は、フランドール・スカーレットという1人の罪なき少女を、憎しみの塊に変えてしまった。
姉を、叩き潰し引きちぎる。
フランドールは今や、それ以外の物事に全く喜びを見出せなくなっているのだ。
あの妹が未だ、その愉しみを実行せずにいる理由は1つ。
紅魔館の周囲で、雨が降り続いているからだ。夏の、あの日から、ずっと今も。
晴天の幻想郷にあって、紅魔館周辺のみ雨天。
水で出来た垂れ幕が、天空から降りて紅魔館のみを覆っている。そんな感じの不可思議な光景が、霧の湖の畔にずっと出現し続けている。遠くから、レミリアも何度か見た。
自然の天候ではあり得ない流水の幕が、吸血鬼の少女を紅魔館に閉じ込めているのだ。
「また……閉じ込められているのね、フラン……」
今は、誰がフランドールを閉じ込めているのか。
誰が、何のために、自然ならざる雨を降らせているのか。
「パチェが……私のために、また無理をして……」
呟きながらレミリアは思う。自分は卑怯者だ、と。
パチュリー・ノーレッジを負担から解放してやりたいと思うのならば、するべき事は1つしかない。
今すぐにでも紅魔館に赴いて、フランドールに殺される。なぶり殺しに身を委ねる。
妹に対する贖罪のためにも、そうするべきなのだ。
それをしようともせず、博麗の巫女にぬくぬくと保護され続けている自分。
まさしく没落貴族である。
パチュリーにも、美鈴にも、咲夜にも、愛想を尽かされて当然なのだ。
3人とも、しかしそんなレミリアを守ってくれている。
レミリアが、本来であれば自力で対峙しなければならない相手からだ。
「肝心な事……1つ忘れてない? ねえレミリア」
この神社の主……博麗霊夢が、いつの間にか近くにいた。レミリアとお揃いの袢纏を羽織っている。
「自分も吸血鬼だって事。あの雨を突っ切って紅魔館へ入るのは無理だし、私も運んで行ってあげるつもりはないから」
「霊夢……」
「紅魔館へ行かなきゃ、なんて思ってたんでしょ。まあ思うだけにしときなさい」
白い息を吐きながら、霊夢は笑った。
「吸血鬼だからって夜更かしは駄目。寒いんだから、お風呂入って暖かくして寝ちゃいなさい。今日も一緒に入ってあげないと駄目?」
「……そうね、寒いわ」
レミリアは言った。
「こんなに寒いのに……パチェは、また無理をして……」
「心配?」
「知ってるでしょう霊夢。あの子、身体が弱いのよ。特に寒さが駄目なの」
布団にくるまって身を震わせ、苦しげに咳き込んでいるパチュリーの姿が、見えるようだった。
冬の彼女は毎年、そんな有り様だ。
「私の事なんて……見捨ててくれれば、いいのに……」
「そうしたら雨が止んで、あの化け物が紅魔館から解放されて、あんたを殺しに飛んで来る。私が、あれと戦う事になるわけね」
戦って欲しい、などと望んではいない。
毅然と、そう言い放つ事が、レミリアには出来なかった。仮に今この場にフランドールが現れたとしたら、自分など結局は霊夢の背中に隠れるしかなくなってしまうのだ。
「……私が、様子を見に行ってあげる」
言いつつ霊夢が、袢纏を脱いでレミリアに押し付けた。
いつもの、紅白の巫女装束が現れた。
「パチュリー・ノーレッジの生死確認……あと、どれくらい生きていられそうか。それだけ見極めたら、すぐ戻って来るつもりだけど。何かあって長引くかも知れないから、先にお風呂入っちゃいなさい。頑張って、1人で入って」
「霊夢……」
境内に設置された、狛犬の像。その頭に積もった雪を、霊夢は素手で払い落としている。
狛犬の頭を撫でている、ように見えた。
「まずは、1人お風呂を克服しなさい」
お祓い棒を携え、左右に2つの陰陽玉を従えて、霊夢は跳躍した。跳躍が、そのまま飛行になった。
「そうすれば吸血鬼だってね、そのうち流れる水を渡れるようになるかもよ? じゃ行って来るから」
白い付け袖を翼の如くはためかせ、長い黒髪を寒風になびかせながら、霊夢は飛んだ。霧の湖の方向へと、あっという間に見えなくなってしまった。
今の自分は、あんなに速く飛ぶ事は出来ない。
そんな事を思いながらレミリアは、袢纏をぎゅっと抱き締めた。霊夢の匂いがした。
パチュリー・ノーレッジが、透明になってゆく。
小悪魔は、そう感じた。
透き通るような白い肌、というのはまさにパチュリーのためにある言葉で、彼女を見ていると、その儚げな美貌の下には、生々しい顔面筋肉も血管も頭蓋骨も存在しないのではないか、と思えてしまう。
ベッドの上で、パチュリーは上体だけを起こし、分厚い大型の書物を広げている。ページを繰るのも辛そうな、細腕と繊手でだ。
今に、こうして書物を保持する事も出来なくなる。
全ての力を魔法に注ぎ込んでパチュリーは今、雨を降らせ続けているのだ。
フランドール・スカーレットを、この紅魔館へ閉じ込めておくために。
「図書館を……直してくれたのね、小悪魔」
パチュリーの声も、透き通っている。生命の濁りを、全く感じさせない。
「私がこんな有り様で、貴女には苦労ばかりさせてしまうわ」
「そのような事……おっしゃらないで下さい、パチュリー様」
はっきりと、小悪魔は感じた。
パチュリー・ノーレッジの生命の火は、燃え尽きようとしている。
全ての燃焼力を彼女は、雨を降らせるための魔力に注ぎ込んでいるのだ。
愚かな小悪魔が解き放ってしまった怪物を、紅魔館へ閉じ込めておくために。
「図書館がどうにか元に戻ったのは、妖精メイドたちがよく働いてくれたからです。あの大妖精のおかげです。私なんて何も……私、馬鹿をやらかすだけで……」
「貴女は何も悪くないわ。悪魔族の子にとっては、侮辱にしかならないかも知れないけれど」
パチュリーが微笑む。
透明な笑顔だ、と小悪魔は思った。
日に日に、パチュリーは透き通ってゆく。
やがて彼女は見えなくなり……本当に、いなくなってしまう。
小悪魔は震えた。
暖炉は、赤々と燃えている。火を絶やさないのも小悪魔の仕事である。
何しろ、春だというのに冷え込む日々だ。寒さが、パチュリーの乏しい生命力を日に日に蝕んでゆく。
だが今、小悪魔が震えているのは、寒さのせいではない。
「誰も悪くないのよ。フランも、それに……レミィも……」
言いつつ、パチュリーは咳をした。
細い身体が痙攣している。かなり厚着をしているはずだが、着膨れしているようにも見えない。
「パチュリー様……」
半ば無理矢理、パチュリーをベッドに横たえながら、小悪魔は言った。
「もう……雨を降らせるのは、おやめ下さい。どうかこれ以上、ご無理をなさらないで……良いではありませんか。フランドール様が、外へ出てレミリアお嬢様の命を狙う……良いではないですか、それで。首尾良くレミリア様が殺されて下されば、パチュリー様がお苦しみになる事もなくなります。それでは、いけないのですか?」
「小悪魔……」
パチュリーが微笑んだ。
「……今の言葉、聞かなかった事にしてあげる。だから……ちょっと、外の様子を見てきてちょうだい。雨が、まだ降り続いているかどうか……」
「パチュリー様……」
「いよいよ本当に……魔力が、続かなくなってきたわ……」
無理に続ける必要はありません、そのままお休み下さい。
小悪魔が、そう言い募ろうとした時。
「パチュリー様! 生きてますかーっ?」
大量の布団を担いだ紅美鈴が、寝室に押し入って来た。
「さあさあ、あったかくして寝ましょう。今夜も冷え込みますからねえ」
担いで来たものを、美鈴がパチュリーに押し被せる。
布団の山の下敷きになりながらパチュリーは何か言ったようだが、それは潰れた悲鳴にしかならなかった。
代わりに小悪魔が怒った。
「ちょっと美鈴さん何やってるんですか! パチュリー様が」
「お忙しい咲夜さんに代わって、パチュリー様のご様子を見に来たんだよ」
言いつつ美鈴が、ちらりと小悪魔を見る。
「お前も休め、小悪魔。咲夜さんと大妖精の次くらいに忙しいだろ、今のお前」
「わ、私は別に……」
「……言う通りになさい、小悪魔」
布団の山の中でパチュリーが、辛うじて聞こえる声を発した。
「貴女が動けなくなったら、まず私が困るわ……それと美鈴。忙しい咲夜を悩ませている問題が、あるのではなくて?」
燃え盛る暖炉に、パチュリーの視線が向けられる。
「……薪が、足りなくなっているのでしょう」
「えっ、いやそんな事ないですよ……と言いたいところですが、パチュリー様を騙せるわけはないですよね」
美鈴は言った。
「まさか、冬がここまで長引くとは……幻想郷ってのは毎年こんな感じなのかと思いましたけど、チルノ曰くそんな事はないそうです。今年の冬は、やっぱりおかしいって」
「異変……と、いうわけね……」
布団に埋もれたまま、パチュリーが弱々しく微笑む。
「恒例行事のようなもの、なのかも知れないわね。この幻想郷という場所では……私たち紅魔館の引き起こした異変も、その1つに過ぎない……」
「私たち、元いた世界じゃそれなりの顔だったつもりなんですけどねえ。この幻想郷って所じゃ、その他大勢みたいなもんですか」
美鈴が軽く頭を搔いた、その時。
「たっ、大変です! お嬢様が、フランドール様が!」
1人の妖精メイドが、寝室に駆け込んで来た。大妖精だった。
「フランドールお嬢様が……外に、出てしまわれました」
「雨は……!」
息を呑んだ美鈴の言葉を、パチュリーが引き継いだ。
「……止んで、しまったのね……私の魔力が……やはり、続かなかった……」
「いえ、よく今まで頑張ってくれました。ゆっくり休んで下さいパチュリー様!」
言葉を残して、美鈴が大妖精と共に駆け出して行く。
見送りながら小悪魔は、
(こうなったら貴女に……レミリア・スカーレットを、この世から消してもらうしかないわね。フランドールお嬢様……)
この場にいない令嬢に、心の中で語りかけていた。
(そのために貴女を、解き放ってあげたんだから……という事にしておくわ、もう)
晴れ渡った夜空を、久し振りに見た。
紅魔館の庭園へと駆け出しながら、紅美鈴は束の間、月に見とれた。
雨の暗幕から解放された月光が、冷たく心地良く降り注いで来る。
その冷たい月明かりの中、十六夜咲夜は庭園に倒れ伏していた。
「咲夜さん!」
「……大丈夫よ、美鈴」
美鈴が駆け寄り、助け起こす必要もなく、咲夜は立ち上がっていた。負傷している、わけではないようだ。
「妹様を、お止めしようとして……振り払われただけ。まったく無様な事」
「妹様は、どちらへ……博麗神社、ですか」
訊いてみるまでもない事であった。博麗神社には、レミリアがいるのだ。
「まっすぐ博麗神社へ向かわれたわ……ぬいぐるみのように、チルノを抱っこなさったまま」
「そんな……」
咲夜の言葉に、大妖精が青ざめる。
「任せとけ。妹様と一緒に、チルノも連れ戻してやる」
跳躍しようとした美鈴の腕を、咲夜が掴んだ。
「……それは、私の役目よ」
「咲夜さん!」
「聞いて美鈴。貴女には1つ、してもらいたい事があるの」
咲夜が、じっと美鈴を見つめてくる。
「美鈴にしか出来ない事よ。お願い、頼まれてちょうだい……」