第38話 幻想郷という名の牢獄
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
魔法の実験や弾幕の実戦を繰り返してゆけば、怪我もする。火傷を負う。
癒えれば、皮膚も頑丈になってゆく。
そんなふうにして、すっかり分厚くなってしまった魔理沙の手と比べると、森近霖之助の手は綺麗である。たおやかである。
その繊細な五指が、素早く複雑に動いて、小型八卦炉を解体し組み立ててゆく。惚れ惚れするような高速作業であった。
ぼんやりと見とれながら霧雨魔理沙は今、伊吹萃香と会話をしている。
「じゃ、お前はあれか。その八雲紫って奴を、ぶちのめすために……わざわざ博麗神社へ来て、私らを酔っ払わせてくれたと」
「なかなかの酔いどれ具合いだったぜえぇ魔理ちゃんよォ」
「……お前、馴れ馴れしいな」
「なぁんかよー、おめえらとぁ長え付き合いになりそうな気がすンだよなあ」
そう言って萃香は瓢箪の中身を呷り、ぷはぁーッと息をついた。
その傍らでは射命丸文が、鎖で縛り上げられたまま目を回している。その頭でたんこぶが膨らんでいるのは、萃香が鎖を引きずって石階段を下りたからだ。
博麗神社の、長い石階段を下りたところである。
巫女・博麗霊夢は、あのまま社務所に籠もってしまった。
鳥居の方を見上げながら、萃香が言う。
「……くそったれスキマ妖怪の八雲紫は、とりあえず霊夢に譲る。あいつ本気でブッ殺す気になってやがるからなあ。へっへへへ、どうなるかぁ愉しみだぜい」
「……今の霊夢は完全に、私情に走っているね。それが悪い事かどうかは、わからないけれど」
言いつつ霖之助が、作業を終えていた。
「魔理沙の力は必要になるかも知れない。さあ、ちょっと試してみてくれるかな」
「おっ。ありがとうよ、こーりん」
魔理沙は、小型の八卦炉を受け取った。
それを、晴れ渡った春の空に向けてみる。
「じゃ、ちょっとだけ。マスター、スパークっと……ぉおおお、おおおおっ! どわあああああああ!」
轟音と共に、巨大な光の柱が出現した。
八卦炉から、空を焼き払うかと思えるほどの、爆炎の閃光が迸ったのだ。
萃香が、片手を庇にしている。
「おおう……こりゃあ、アレだな。人里の半分は消えて無くなる」
「私……魔力、ちょっとしか出してないぞ……」
爆炎の閃光は、消え失せた。
呆然と空を見つめたまま、魔理沙は呟くしかなかった。
「こーりん……これ、強すぎ……」
「うん。強すぎるのは、魔理沙の力さ」
霖之助は、事も無げに言った。
「調子の悪い八卦炉で、ずっと戦っていたんだろう。だから今まで、本来の力は出せていなかったはずだ」
眼鏡の似合う細面が、優しく微笑んでいる。
「そちらの伊吹萃香殿が言われた通り……魔理沙が本気でマスタースパークを撃てば、人里が消えて無くなる。その時、僕が人里にいたら、まあ苦しむ暇もなく消滅して死体も残らない。そうなったら運が悪かったと思うしかないな」
「私が……人里を……こーりんを……」
魔理沙は、軽く頭を押さえた。
記憶の中から、誰かが語りかけてきた、ような気がしたのだ。
調子に乗るなよ魔理沙。お前はな、弾幕使いなんだ。その気になれば……いや、その気なんかなくたって人を大勢、殺せるのが弾幕使いだぞ。わかってるのか? お前がちょっと魔力をばら撒いただけで、普通の人間の十人百人は一瞬で挽き肉に変わる。お前がそれをやったら、間違いなく私よりずっとタチの悪い化け物になるぞ。
(誰……だから、誰なんだよ……あんたは……)
「知ってるか魔理ちゃん。魔法使いってのはなぁ、人間が人間やめる2番目の近道なんだぜい」
萃香の言葉に、霖之助が興味を示したようだ。
「ほう。では伊吹殿、1番の近道とは?」
「死んじまう事さ。ま、お勧めは出来ねえ。上手いこと亡霊にでも成れりゃいいが……狙い通りの化け物に変わる事なんて、まずないからな」
萃香が、射命丸を引きずり歩み去って行く。
「博麗の腋丸出し巫女ちゃんも大概だけどよ、おめえもだぞ霧雨魔理沙。人間やめる道に片足突っ込んでやがる……2人とも、この先どんな化け物に成り果ててく事やら楽しみにさせてもらおうかい。じゃ、またな」
応える事も出来ず、魔理沙はただ見送った。
「僕たちも帰ろうか」
霖之助が声をかけてくる。魔理沙はやはり、返事が出来なかった。
「……悪かった。少し、脅かしが過ぎたようだね。大丈夫、人里には守り手が大勢いる。魔理沙がうっかり弾幕をぶちまけたくらいで、人死が出る事はないさ」
「……だろうよ。わかってるさ、私に……そんな力、あるわけない……」
魔理沙は半ば無理矢理、微笑んだ。
それに応えたのは、霖之助ではなかった。
「そう……自分の力に怯えるのは、良い事よ」
女の声。
博麗神社周辺の、春の風景が、すっぱりと裂けていた。
「存在するだけで、人間たちを消滅させ殺戮する……私たちのように、なってはいけないわ」
その裂け目から、大勢の妖怪が出現していた。博麗の巫女であれば、まとめて退治せねばならないところであろうか。
魔理沙は、魔法の箒を武器のように振りかざし、霖之助を背後に庇った。
存在するだけで、人間たちにとっては虐殺と破壊の嵐となる。そこにいたのは、まさしく、そんな姉妹であった。
「お前……! 一体、どこへ行ってたんだ」
「……外の世界、と言ったら信じるかしら?」
レミリア・スカーレットが、にこりと牙を見せた。
血まみれである。返り血ではない、自身の流血だ。桃色のドレスは汚れ破け、痛々しく負傷した柔肌があちこち露わである。
霊夢には、とても見せられない姿であった。
日傘を広げ、吸血鬼の少女を日光から守っている1人の女性に、霖之助が話しかける。
「八雲紫……外の世界で、また神隠しでもやらかして来たのかな?」
「……神隠し、では済まない事をね」
霖之助よりも、もちろん魔理沙よりもずっと綺麗な手で日傘を保持したまま、その女は微笑んだ。
美し過ぎる、と魔理沙は思った。これほど美しい女が、人間であるはずがない。邪悪な妖怪でないはずはない。
根拠も無く、そんな事を思わせてしまう美しさである。
「八雲紫……お前が」
「活躍、見守っていたわよ霧雨魔理沙。幻想郷の守り手として貴女は、今のところ博麗霊夢よりも有望だわ」
そんな巧言を、魔理沙は聞いてなどいなかった。
日傘の下に、もう1人の吸血鬼がいるからだ。
「…………フランドール・スカーレット……!」
霖之助を、逃がさなければならない。
それ以外の思考が、魔理沙の頭からは全て消え失せた。
「こーりん、早く逃げろ! こいつらは私が止めるけど、いつまで保つかわからないから早く!」
「落ち着きなさい霧雨魔理沙。私がフランに、そんな事はさせないわ」
レミリアが妄言を吐いている、としか魔理沙は思わなかった。
フランドールを止める。レミリアに、そんな事が出来るはずがないのだ。
何やらキラキラとしたものを、フランドールは抱いていた。可憐な細腕で、ぬいぐるみのように。
霧の塊。それが凝固し、氷と化してゆく。
レミリアが近くにいる、と言うのにフランドールは無表情である。人形の美貌を、虚ろなほどに澄んだ真紅の瞳を、腕の中の氷塊にじっと向けている。
八雲紫が言った。
「危ないところだったわ。外の世界では……妖精は、恐らく正常には再生する事が出来ない。妖精の肉体・自我の再構成には、幻想郷の自然が必要不可欠」
「だから大急ぎで戻って来たというわけね。おかげで私とフランの決着が曖昧なものになってしまったけれど……まあ、仕方がないわね」
「何……言ってるんだ、レミリア……」
おかしな夢でも見ている気分に、魔理沙はなった。
「お前と、フランドールが……決着、だと? 言っちゃ悪いが、そんなもの最初っから……」
「そう思われて当然。私は、それが気に入らなかった」
言いつつレミリアが、妹の腕に抱かれた氷塊を見つめる。
「だから私は、フランと……子供じみた喧嘩をね、してきただけ。ふふっ、もしかしたら霊夢には心配をさせてしまったかしら」
氷塊に、亀裂が走った。
それは、氷の卵であった。卵殻がひび割れ、砕けていた。
まるでフランドールに温められて孵化したかの如く、チルノがそこにいた。意識を失ったまま、吸血鬼の少女に抱かれている。やはり、ぬいぐるみのように。
「お互い……やり過ぎたわね、フラン」
レミリアが、この妹に普通に話しかけている。それが魔理沙には信じられなかった。
「私たちの姉妹喧嘩は、私たちが思う以上のものを巻き添えにする……もちろん人間どもは、ひたすら邪魔なだけ。巻き添えで粉砕し飛び散らせたところで、あまり綺麗ではない背景効果にしかならないけれど」
そっとチルノの頰を撫でながら、レミリアが言う。
「フラン……貴女の大切なものを消滅させてしまうところだったわね。それは、それだけは気を付けなければ」
「お前ら……何、やらかしてきた……?」
魔理沙は訊いた。聞くまでもない、という気がした。
意識のないチルノを、フランドールは無言で、無表情のまま、見つめている。
虚ろに澄んだ赤い瞳の奥で、しかし幽かに、本当に幽かに揺らめいているものが、あるのかも知れない。
朧げに魔理沙が思った、その時。
「うわぁあああああああん! チルノのバカやろう!」
紅美鈴が、チルノとフランドールをもろともに抱き締めていた。泣き叫びながら、妖精と吸血鬼を胸で圧迫する。
レミリアは、美鈴の抱擁をさりげなくかわしたようであった。
「ねえ霧雨魔理沙。私たちが今、外の世界で何をしてきたのか……本当に、聞きたい?」
「……いや……いい……」
これは本当にレミリア・スカーレットなのか。
傷だらけでボロをまとった、この小さな少女に、魔理沙はしかし圧倒されかけていた。
何なのだ、と思う。これは本当に、炬燵の中で霊夢に擦り寄っていた弱々しい小動物と同一の存在なのか。
「幻想郷の本質というもの、少しだけ理解したような気がするわ。ねえ八雲紫?」
レミリアは言った。
「この幻想郷という場所は……牢獄、なのよね。私たちを閉じ込めておくための」
「貴女たちを隔離して、外の世界を守るための……ね」
美しい手で巧みに日傘を操り、吸血鬼2人を防護しながら、紫が応える。
「外の世界の人々は、何しろ貴女たち姉妹が道を歩いただけで容易く死んでしまう……」
「それは、お前も同じ事よ。スキマ妖怪」
「……そうね。外の世界の人間たちが、まさかあそこまで輪郭の強さを失っていたなんて……あれでは、罪悪の袋にすら成れない」
紫の目が、いつの間にか魔理沙の方を向いている。
「博麗大結界は、外の世界を守るためのもの。道を歩いただけで人が死ぬ、そのような存在を隔離し押し込めておくための幻想郷……私たちは本来、そこから1歩たりとも出てはいけない。私も、ここにいる紅魔館の面々も。博麗の巫女も。そして貴女もよ、霧雨魔理沙」
「外の世界の人間ども、多少は理解した事でしょうね」
レミリアが笑った。白く美しい牙が、剥き出しになった。
「自分たちが、この私の目こぼしで危うく生き長らえているという現実を……うふふふ。受け入れられずに右往左往している頃かしらね、今頃」
「お前……」
魔理沙は、もはや認めなければならなかった。
レミリア・スカーレットは今や、博麗神社で飼われていた非力な愛玩動物ではない。
羽ばたきひとつでマスタースパークを掻き消して見せた、紅き悪魔だ。いや、禍々しさにおいては、あの時よりも遥か高次元にいる。
紅い霧どころではない異変を引き起こしかねない夜魔の女帝を、八雲紫は甦らせてしまったのだ。
「さて……霊夢に、挨拶をしないといけないわね。その傘を差したまま付いて来なさい、スキマ妖怪」
「駄目だ」
魔理沙は言った。
「今の霊夢とお前らが顔を合わせたら、えらい事になる。だから……ちょっと、待ってくれ。頼む」
「霊夢が、どうかしたとでも?」
「お前がなあ、勝手にどっか消えちまったせいで! ぶっ壊れかけてんだよ霊夢の奴!」
「そう……私、霊夢に寂しい思いをさせてしまったのね」
レミリアは今、本気で、心の底から、霊夢を哀れんでいる。
「それならば尚の事よ。霊夢に、顔を見せてあげなければ」
「……今は、なりません。レミリアお嬢様」
十六夜咲夜が、ようやく言葉を発した。
「まずは、傷のお手当てをしなければ」
「ふん。こんなもの、勝手に治るわ」
「お手当てをいたします。ひとまず紅魔館へ、お戻り下さい」
身を屈め、レミリアと目の高さを合わせながら、咲夜は言った。
「……このような事になるから、私たちは……貴女を、紅魔館から追い出したのですよ……? だけど貴女は、帰って来てしまわれた。紛う事なき、紅魔館の主として……」
「……私を、受け入れてくれるのかしら?」
「受け入れるしか、ないでしょう……」
咲夜は、涙を流していた。
「博麗神社で幸せに過ごしておられる貴女を、私は夢に見ておりました……どちらが良かったのか、私にはわかりません。私ごときの思いに関わりなくレミリアお嬢様は、紅魔館の主としての道を再び歩み始めたのです。ですから、まずは紅魔館へ戻っていただきます。容赦なく、お薬を塗って……念入りに手当てをいたしますから……覚悟なさい……っ」
「わ、わかったわよ。もう泣かないで咲夜、わかったから」
うろたえるレミリア、泣きじゃくる咲夜。同じく泣きながら、チルノとフランドールを抱き締める美鈴。
豊かな胸に顔面を圧迫されつつ、フランドールは相変わらず無表情である。チルノは、いくらか苦しげな寝息を立てている。うなされているのかも知れない。
そんな面々を、ちらりと見渡しながら紫が言う。
「博麗霊夢は……やはりまだ、レミリア・スカーレットとの個人的な情誼から抜け出せずにいるのね。博麗の巫女がそのような事では困るわ。西行寺幽々子も、スカーレット姉妹も、ひとまず試練を乗り越えた。残るは霊夢、ただ1人」
「……試練って何だ、おい」
生まれ変わった八卦炉を、魔理沙は紫に向けてしまうところだった。
「お前……何様だ? 霊夢がレミリアと個人的に仲良くする、それが何で悪い」
「この度の異変で霧雨魔理沙、貴女は真っ先に動いた。博麗霊夢は、ただ情誼に流されていただけ。流されるままの戦いで幽々子に敗れ……傷だらけになりつつ戦い続けて来た貴女そして十六夜咲夜に、結局は救われる事になった。博麗の巫女はね、そんな無様な事ではいけないのよ」
「無様だと……おい、わかってるのか。霊夢はな、1回……死んだんだぞ……」
八卦炉が、ちろちろと魔力の炎を燃やし始める。
今、これを八雲紫に向けてしまったら。自分は間違いなく、マスタースパークを止められない。
「見ればわかるぞ。お前……今回の異変、何にもしてないだろ。そんな奴が……霊夢を、無様……?」
「無様ね」
紫の口調には、淀みがない。
「博麗の巫女は、誰に対しても等しく接しなければならない。誰に対しても、優しくしてはならない。厳しくしてもいけない。それが博麗の巫女……少数の何者かと個人的な友誼を結ぶなど、許されないのよ」
「誰がっ……決めたんだ! そんなことぉおおおおおあああああああッッ!」
「落ち着いて、魔理沙」
霖之助が言った。
「八雲紫……どうやら貴女は、魔理沙とはすこぶる相性が悪いようだね」
「ふふ。そんな事は関係なく、私は霧雨魔理沙を高く評価しているわよ」
「何しろ魔理沙は、良くも悪くも行動の人だ。自分では何もしない者に対して、どうしても優しくはなれない」
「あらあら。手厳しい事を言うのね、香霖堂さんも」
霖之助が、このような牝妖怪といつどこで知り合ったのか。そんな疑問も浮かばぬほど、魔理沙の頭では脳漿が煮えたぎっていた。一刻も早く姿を消してくれないと、本当に八卦炉を向けてしまう。
「……自分で何かをする力が、貴女に無いわけではないだろう八雲紫。貴女が動けば、数多くの異変を事前に鎮める事が出来るのではないのか」
「駄目なのよ、それでは」
空間の裂け目を広げながら、紫は言った。
「未然に鎮めては駄目……幻想郷にはね、実際に起こる異変が必要なのよ」




