第36話 U・N・オーエンは正義の味方(5)
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
紅魔館という勢力は、幻想郷において、飢饉にも等しい事態を引き起こすところであった。
博麗霊夢と霧雨魔理沙が、それを阻止してくれた。紅魔館の所業は、何日間か日照を遮るだけで終わったのだ。
だから幻想郷の人々は、紅魔館を受け入れた。許した、と言うよりも、紅魔館の引き起こした異変は、大々的な許しを必要とする事態に至らなかったのである。
いつからか博麗神社で居候をしている幼い少女が、その紅魔館の主であった事を森近霖之助が知ったのは、いつの間にか何となく、であった。霊夢が、その少女を伴って香霖堂を訪れた事もある。魔理沙もいて、雑談が弾む。耳を傾けていれば、おおよその事情は読めるものだ。
紅魔館で内紛が起こり、当主であった令嬢が追い出されて博麗の巫女に拾われた。つまりは、そういう事であるらしい。
「ちょっとレミリア! 何やってんの出て来なさいよ!」
博麗神社、境内。
霊夢が、慌ただしく動き回りながら叫んでいる。酔いは、すっかり覚めてしまったようだ。
「いい歳して隠れんぼでもないでしょうが! どこ行ったのよ五百歳児、とっとと出て来ないと怒るわよ! ご飯抜くわよ! ねえちょっとレミリアぁあああああああッ!」
ここまで取り乱した博麗霊夢の姿というものを、霖之助は見た事がなかった。あるのかも知れないが記憶にない。
魔理沙が、声をかけている。
「お、おい。落ち着けよ霊夢……」
「落ち着いてられない! 見てよ、これ!」
石畳の上に放り捨ててあったものを、霊夢は拾い上げた。
開きっ放しの、日傘である。
魔理沙の口調が、重くなった。
「これがほっぽり出してある、今は昼間……で、吸血鬼が行方不明……か」
「レミリアの奴……その辺で、灰になってたりして……」
霊夢が、弱々しく座り込んで頭を抱え、黒髪とリボンを一緒くたに掻き乱す。
「ねえ魔理沙、大丈夫よね……吸血鬼って、灰になっても……夜になれば、元に戻るのよね……」
「霊夢……」
「ったく、何てぇザマだい。博麗の巫女ともあろうモンがよぉ、ひっく」
伊吹萃香が言った。
「今のお前になら私、簡単に勝てるぞ? だけどまあ……そーかぁ。あのレミリア・スカーレット、お前にとっちゃそこまで大事な存在なんだな。うん、そうゆうのは嫌いじゃねえよ」
言いつつ、酔っ払いつつ、可愛らしい鼻をひくひくと震わせている。自身の酒気、以外の匂いを嗅いでいる。
「……ははん。やられたな、こいつは」
「何がよ……」
霊夢が、牙を剥いた。
「レミリアが……誰に、やられたって言うの!? そいつぶっ殺す!」
「落ち着けよ。してやられたのは、私たちさ」
萃香の酔いが一瞬、覚めたように霖之助には見えた。
「胡散臭さが、残ってやがる。こいつはな、スキマ妖怪……八雲紫の仕業だ」
「八雲紫……」
霊夢は呻いた。
「その名前……何回か、聞いた気がする……」
「だろうよ。幻想郷の妖怪なら一応、知らん奴はいねえ……ああ畜生。あいつの名前、言っちまった。口直しだい」
萃香が、瓢箪の中身を呷った。
「ぶはぁー……で。このスキマ妖怪、誘拐の達人でな。そこいらじゅうの空間に裂け目ぇ開いて、そこに人でも妖怪でも引きずり込んじまう。まず逃げられねえし、捜す事も出来ねえ。ま、あきらめな。しばらく待ってる事だ」
「……待ってれば……レミリアが、帰って来るって言うの……」
「八雲紫ってのはな、回りくどい事にかけちゃ幻想郷で右に出る奴はいねえ。あいつなりに考えてる事があって、人や妖怪をさらったりすんのもその一環だ。それが済みゃあ、帰って来る。戻される。生きてりゃな」
「…………!」
霊夢が息を呑み、青ざめる。
萃香が、ふっと微笑んだ。
「……お前、よっぽど心配なんだな。あの吸血鬼の嬢ちゃんが」
「別に……あんなの、ただのペットだし……」
青ざめた顔を、霊夢は俯かせた。
「……まあ……死んじゃったら、かわいそうかなって……」
「信じてやれ。レミリア・スカーレットにはな、多分やらなきゃいけない事があるんだ。あの小賢しいスキマ妖怪、それを手伝うふりして何かに利用しようとしてんだろうが」
「殺す……」
霊夢の周囲で、風景が歪んだ。
もはや妖気に等しいほど禍々しい霊気が、博麗の巫女の全身から立ちのぼっている。
「八雲紫……絶対、殺す……!」
八雲紫を、生かしてはおけない。
心の底から、紅美鈴はそう思った。
「妹様……!」
呼びかけてみる。
フランドール・スカーレットは当然、応えてなどくれない。月を背景に、無言のまま夜空に佇んでいる。
槍ほどに巨大化した時計の針、とでも言うべき奇怪な得物を右手に。大きく燃え盛る光の剣を、左手に。それぞれ握ったまま、フランドールは空中から地上を見下ろしていた。
澄んだ真紅の瞳は、凶猛なほどに活き活きとした眼光を湛えている。
その笑顔は、人形の美貌ではなかった。邪気のかけらもない、天使の微笑。
否。天使という生命体が妖怪の如く実在するにしても、ここまで可愛らしく魅惑的ではないだろう、と美鈴は思う。
このフランドール・スカーレットという少女が、これほど愉しげな感情を露わにする相手。この世に、1人しかいない。
愉悦に輝く真紅の瞳が、見下ろす先。
そこでは雑居ビルが1つ倒壊し、瓦礫の山と化している。中に人間がいたとしたら、1人も生き残ってはいないだろう。
だが、美鈴は人影を見たのだ。小さな人影。
屍ではない。弱々しく、それでも確かに動いている。
愛らしい細腕で瓦礫を押しのけ、よろよろと立ち上がろうとする1人の少女。
「……貴女は……強いわ、フラン……」
そんな事を、言っている。
「私は……それを、認める事すら……恐れていた……」
「何を……言ってるんですか……」
空中に立ったまま、美鈴は思わず叫んでいた。
「何で……こんな、所に……いるんですかレミリアお嬢様ぁあああああああああああッッ!」
「……おかしいわね、美鈴と……咲夜が、いる……」
美鈴の隣では十六夜咲夜が、立ち尽くし、立ち竦んでいる。その綺麗な爪先が、空中に静止したナイフから今にも滑り落ちそうだ。
鋭利な美貌は青ざめ、美しい唇は痙攣して言葉を紡ぎ出す事も出来ずにいる。
そんな咲夜に、レミリア・スカーレットは血まみれの笑顔を向けた。
「私が……死に際の、幻でも……見ているのかしら……?」
「それはこっちの台詞ですよ、あんたと妹様が1対1でやり合ってるなんて! どんだけタチの悪い幻覚なんですか!」
結局はレミリアを力で止める事が出来なかった自分に、このような事を言う資格はない。それは美鈴も、わかってはいるのだ。
「八雲紫ですね、レミリア様を唆して! さらって! こんな事をさせてるクソ妖怪は! ぶち殺す!」
「……唆されていないわ。これは、私の意思……」
「騙されてる奴はね、大抵そう言うんですよ!」
そんな会話をしている場合では、なくなった。
フランドールが、2つの武器を振り構えながら急降下を敢行したのだ。レミリアを、瓦礫の山もろとも粉砕する強襲。
空中の、見えざる足場を蹴って、美鈴は駆けた。夜空を疾駆した。
疾駆、跳躍。あるいは飛翔と言うべきか。とにかく美鈴は、フランドールに横合いから激突して行った。強靭な美脚を、槍の如く突き込んで行った。
「妹様、御無礼を!」
飛び蹴りが、フランドールの小さな身体をへし曲げる。
へし曲がり、吹っ飛んだフランドールが、ふわりと滞空しつつ体勢を立て直した。
美鈴に向けられたのは、人形の美貌である。微笑みを、フランドールは失っていた。
当然だ、と美鈴は思う。この妹君が微笑むのは、姉レミリアに対してだけなのだ。
「ねえ妹様……お怒り、で構いません。私にも何か、感情を向けては下さいませんか?」
美鈴は笑った。フランドールは、変わらず無表情である。虚ろなほどに澄んだ赤い瞳は、それでも美鈴の方を見てはくれている。
「私ね、貴女様に今ボッコボコにされてるレミリアお嬢様よりも弱いです。妹様から御覧になれば虫ケラみたいなもんです」
言葉と共に美鈴は、気の力を右手に集中させた。
「虫ケラが……身の程もわきまえず、妹様に刃向かいます。さあ、お怒りを!」
集中・凝固したものを、美鈴は投げ付けた。気の光の、塊。
それが空中で爆発し、色彩豊かな光弾の嵐となって激しく渦を巻く。
渦巻状の弾幕が、フランドールを襲っていた。
宝石の翼を軽やかにはためかせ、フランドールは揺らめいた。風に舞うような回避飛行。色とりどりの弾幕が、全てかわされてゆく。
その回避の先へと、美鈴はすでに回り込んでいた。
回り込み、踏み込み、突き込んで行く。人体を穿つ鋭利な貫手を、フランドールに向かって。
宝石の翼を広げた可憐なる肢体が、くるりと翻った。時計の針に似た槍が、美鈴の貫手を受け流す。
受け流された身体を、美鈴は無理矢理に振り返らせた。両腕に、全ての気力を流し込みながら。
防御のための、気力集中。
巨大に燃え盛る光の剣が、横殴りに一閃したところである。
斬撃を、美鈴は両腕で受けた。光り輝く気力で護られた左右の前腕を、がっちりと強固に交差させた。
その防御の上から、フランドールの斬撃が激しくぶつかって来る。
「ぐうッ……!」
紅美鈴という妖怪を構成する妖力が、砕け散ってしまうところであった。
砕け散りそうな妖力を懸命に結合させ、己の存在を辛うじて保ちながら、美鈴は空中でよろめき踏みとどまった。
「回避、捌き……申し分のない技量の冴えです、妹様。受け流しから攻撃への移行も、素晴らしいですよ」
フランドール・スカーレットが、戦いの技術を向上させている。
生まれながらに規格外の力を持った吸血鬼の少女が、力任せではない戦い方を覚えつつある。それを、美鈴は感じ取った。
「……敗北を、経験なさったのですね? 妹様」
人形の美貌が一瞬、有るか無きかの反応を示したのを、美鈴は見逃さなかった。
痺れる両手を無理矢理に動かして抱拳をしながら、美鈴は言った。
「……おめでとうございます妹様! 貴女はこれから、もっともっと! お強くなられますよ」
レミリア・スカーレットが、瓦礫の中から立ち上がろうとして失敗し、よろめいて倒れる。
十六夜咲夜は、瓦礫の山に降り立った。そしてレミリアに駆け寄ろうとする。
足が、竦んだ。
駆け寄って、何をしようと言うのだ。
もう1人の十六夜咲夜が、心の中から冷たく問いかけてくる。
何かが出来るとでも思っているのか。お前に、その資格があるのか。
(私は……)
あの音が、また聞こえた。
プリズムリバー楽団によって絶望の楽曲へと仕上げられた、あの音が。
(こんな所で……何を、しているの? 私は……)
竦んだ足が、震えている。
足が動かない、わけではない。どこへでも行ける。前、以外ならば。
目の前に、見えない壁がある。咲夜と、レミリアの間に。
それは、咲夜が作り上げてしまった壁なのだ。
前方、以外ならばどこへでも行ける。ならば引き返すべきではないのか、と咲夜が思った、その時。
「行けっ、さくやーっ!」
チルノが、後ろからぶつかって来た。
咲夜は、突き飛ばされていた。
目に見えぬ壁を、突き破る事が出来た、のであろうか。
などと考えている暇もなく、咲夜は転倒していた。レミリアに向かって、前のめりに。
抱き止められた。
凄まじい妖力の塊である、可憐な細腕に。
咲夜の手など借りる必要もなく、自力で起き上がったレミリアが、自力で前に進む事も出来ない無様なメイドを、小さな身体でしっかりと抱き支えている。
「私も貴女も……お互いに無様、という事かしら? ね、咲夜……」
「……レミリア……お嬢様……」
絶望の音は、聞こえなくなった。
代わりに聞こえるのは、耳元を優しくくすぐるレミリアの声。
「……しっかりなさい、咲夜。私も……しっかりして、見せるから……」
「そのために……妹様と、戦おうとなさるのですか……」
咲夜は、レミリアの顔を真正面から見据えた。
「なりません! お逃げ下さい! 美鈴が、妹様を止めてくれている間に……」
「そんな事をしたら……フランは、もう2度と私に……感情を向けてくれる事は、なくなってしまう」
美鈴が、フランドールに叩き落とされ墜落し、瓦礫に埋まった。
「……何で……さっさと、逃げてくれないんですかぁ……レミリアお嬢様……っ!」
瓦礫を押しのけながら、美鈴が呻く。
「私が殺される前に、逃げてくれないと……私、無駄死になんですよ……」
「今、逃げるくらいであれば。最初から、こんな所に来たりはしない」
レミリアの口調が、毅然としている。
いけない、と咲夜は思った。レミリアが、フランドールと戦って死ぬ覚悟を決めてしまった。
「やめて……レミリアお嬢様……」
咲夜の声が、震えた。
「無様で構わないから……逃げて……生きて……」
光の雨が、降って来た。色とりどりの弾幕。
飴玉のようでもある光弾の雨を、フランドールがぶちまけたところである。レミリアに、咲夜と美鈴に、向かってだ。
「……わかってちょうだい、咲夜! 美鈴!」
レミリアが、愛らしい右手を掲げた。
光が、燃え上がりながら長大に伸びた。弾幕の塊でもある、赤い光の槍。
それが、夜空を薙ぎ払うが如く回転し、フランドールの残幕を粉砕する。
立ち上がれぬまま、咲夜は美鈴と身を寄せ合っていた。
周囲では、砕かれた光弾の破片がキラキラと美しく舞い落ち、消えてゆく。
「……私はね、フランと仲直りがしたいのよ」
レミリアは、いつの間にか空中にいた。
小さな身体で、精一杯に広げた皮膜の翼で、燃え輝く光の長槍で、咲夜と美鈴を庇っている。
さらなる高空で、さらなる破壊の雨を降らそうとしているフランドールと、レミリアは対峙している。
「フランは強い。私は、まずはそれを認めて受け入れなければいけなかったのに……それをせず、スキマ妖怪に頼ってフランを遠ざけてしまった。そんな無様な私と……ねえ、ずっと会いたがっていてくれたのよね? フラン」
フランドールは、言葉では応えない。
ただ、微笑んでいる。無邪気な、愉悦の笑み。姉に対してだけ見せる表情。
咲夜の方から、レミリアの表情は見えない。
「だから……今日はね、心ゆくまで付き合ってあげる。この汚らしい外の世界が滅びるくらいに、さあ遊びましょう。フラン」
この上なく愉しげに微笑んでいるのだろう、と咲夜は思った。




