第30話 博麗神社に春が来た
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
竹は成長の早い植物である、らしい。
冷たく清かに降り注ぐ月光が、その成長を促している。そんなふうに小悪魔は感じた。
迷いの竹林である。
夜のうちに霧の湖を出発し、夜のうちにここへ到着した。
月の位置は、変わっていない。
昏睡状態のパチュリー・ノーレッジを今泉影狼から受け取り、恭しく抱き支えながら、小悪魔は驚嘆するしかなかった。
「速いのね、今泉さん……」
「天狗の連中に比べたら全然よ。さて、それよりも」
竹林の夜景を、影狼は見回した。
月明かりを浴びて、艶やかに光る竹。
それしか見えない単調極まる風景に、しかし小悪魔は心奪われていた。
ここでは永遠に夜で、常に月が出ているのではないか。
無論そんな事はないのだろうが、そう思えてしまう。迷いの竹林の、朝昼の風景というものを、小悪魔は全く想像出来なかった。
太陽よりも、月の似合う場所。
動の存在しない、静だけの領域。
そんな事を思い始めた小悪魔の視界の隅で、しかし何かが動いた。
白いものが無数、音もなく駆け跳ねながら、影狼とパチュリーと小悪魔を取り囲んでいる。
兎であった。
小悪魔は、目を見張った。この兎たちが一瞬、少女のようにも見えたのだ。純白の装いをした少女たち。
「妖精と、同じようなものよ」
影狼が、説明をしてくれた。
「迷いの竹林、限定の妖精ね。ええと、こいつらが出て来たって事は……おおーい」
竹林のどこかに、影狼は呼びかけた。
「いる? いるんでしょ、因幡の姐さん」
『……引きこもり気味の仔犬ちゃんが、やけに忙しく出歩いているじゃあないかね』
何者かが、応えた。
『いや結構、結構。うちのお姫様にも見習わせたいものさねえ』
「どうでもいいけど……いや、良くないか。私、犬じゃなくて狼だから」
影狼が、文句を言っている。
「まったく。狼の目の前に、こんなに無警戒に兎が出て来るってどうなのよ」
『はっはっは、警戒なんてしないよ。みんな、お前さんが大好きなんだ』
小悪魔は息を呑んだ。
冷たく降り注ぐ月光の中に、いつの間にか異形のものが出現していた。
白い獣毛に覆われた、巨大な肉塊。
それが、じろりと眼光を向けてくる。立ちすくむ小悪魔に、意識のないパチュリーに。
『で……ふうん。なあるほど、急患ってわけかい』
でっぷりと巨大に肥え太った、猪。いや牛か、あるいは熊か。
違う。兎であった。
兎が、どれほど長く生きれば、ここまで巨大に育つのか、と小悪魔は思った。
「こ、こんな夜中に、非常識なのはわかってるよ」
兎たちが、影狼に群がっている。
白い、もふもふとした包囲の中で、影狼はうろたえていた。
「だけどね、その人、朝まで生きていられるかわかんないし」
『急患ってのは、そういうものさね……ふむ』
巨大兎が、じっと小悪魔を、パチュリーを、観察している。
「……初めまして。私、紅魔館で働いている、名も無い小悪魔です」
名乗る名前がないので、そんな自己紹介をするしかなかった。
「こちらは私の主パチュリー・ノーレッジ様です。今泉さんがおっしゃった通り、明日をも知れぬお命……どうか、お助けいただきたく」
『帰りなよ』
白い大兎が、言った。
『その死体になりかけの魔女、その辺にほっぽり出してさ。お前さん1人で帰っちまいな、小悪魔の嬢ちゃんや』
「え……と、それは」
小悪魔は戸惑った。
「パチュリー様を、お預かりいただける……こちらで助けていただける、という事ですか?」
『助からないから、もう放っとけと。そう言ってるのさ』
小悪魔の頭の中が、真っ白になった。
『その辺に置いとけば、いずれ竹林の肥やしになっちまう。人間の死体なんて、そのくらいしか使い道ない……ああ? 人間じゃないのかい、それ。まあ私らから見りゃ同じようなもんさね』
「このクソ兎、死にたいのかあああああああッッ!」
真っ白になった頭の中で、脳漿が煮えたぎる。
「お前が竹の肥やしになれ!」
「ち、ちょっと小悪魔さん!」
兎たちが、ぴょこぴょこと影狼に飛び乗りモフモフとのしかかる。倒れた影狼の、スカートの中にも潜り込んで行く。
「短気を起こしちゃ駄目、因幡の姐さんは貴女を試して、きゃあああああっ! いやぁん」
影狼が悲鳴を上げる。
大兎は、冷静だ。
『……弾幕戦をやるなら、相手は私じゃあないよ』
「どいつか知らないけど、弾幕戦で勝ったらパチュリー様を助けてくれるってわけ? いいわ、やってやる!」
小悪魔は吼えた。
「そいつのところへ連れて行きなさいよ!」
『……命懸けになるんだよ、わかってるのかい? わかってないだろう』
大兎は、小悪魔を気遣っているようですらある。
『お前さん、言っちゃなんだが弱いだろう。いや、ちょっとくらい強くたって同じ事さ。人間だろうが妖精だろうが妖怪やら悪魔だろうが、地上の生き物が弾幕戦で勝てる相手じゃあないんだよ。この奥にいる連中はね』
「……そんな人たちだからこそ、パチュリー様を救う事が出来る……私は、そう思ってる」
小悪魔は言った。
「会わせてよ、お願いよ……私の命で済むなら、いくらでもあげるから……」
『命ってものの大切さを、わかってないだろう。もうちょっと自分を大事におし』
「パチュリー様を助ける、それが私にとっては自分を大事にするって事なのよ」
『いくら大事な相手でも、所詮は他人さ。死にかけの他人なんかほっといて、もっと自分勝手に生きなけりゃ駄目』
兎は、にやりと笑ったようだ。
『……それが、長生きの秘訣さね』
「私は……自分勝手を押し通すために、ここへ来たのよ」
今にも命の灯火が消えそうなパチュリーの細身を、小悪魔はぎゅっ……と抱き締めた。
パチュリーに、すがりつくような格好になってしまった。
「パチュリー様を助ける……それが私の、自分勝手」
「……その言葉。口先だけのものじゃないって事、証明する気はあるのかい?」
でっぷりと肥え太った巨大な兎は、すでにいない。
代わりに、1人の少女がそこにいた。頭に兎の耳を生やした少女。小柄な細身に、薄桃色の衣服をまとっている。
可愛い顔に、癖のある笑みが浮かんでいる。
「あるんなら、ついて来なよ。地上にはない地獄を味わえるよ……宇宙って、地獄をねえ」
天国か地獄か判然としない目に遭いながら、影狼はいつまでも悶絶していた。
縄と縄の間から、食べ頃の果実にも似た膨らみが柔らかく押し出されている。
揉んでみたくなるような胸だ、と霧雨魔理沙は思った。
形良い細腕は後ろ手に縛り上げられ、瑞々しい左右の太股はもじもじと落ち着きなく密着し擦れ合っている。股間にも、縄が食い込んでいた。
単なる縄ではない。所々に紙垂の付いた、注連縄である。
「……霊夢、こいつは?」
「害鳥よ。神社の周り飛び回ってたの」
博麗神社。境内の石畳に、注連縄で縛り上げられた妖怪が1体、転がされていた。
「が、害鳥じゃありませんよう……」
一見、清楚な美貌を、その牝妖怪は切なげに紅潮させている。
「清く正しい、文々。新聞ですぅ……あの、この度の異変に関しまして、博麗の方にインタビューを……」
おどおどと、半泣きの様を見せている。だが相当に強力な妖怪であるのは見ればわかる。
相当に強力、程度ではしかし博麗神社の注連縄を振りちぎる事は出来ない。
「ふん……射命丸文ってのは、あんたね」
牝妖怪から分捕ったのであろう、黒っぽい箱を、霊夢は軽く掲げた。写真機、である。
「あんたの書いた記事、なかなか面白かったわよ。憶測だけでよくもまあ、あそこまで真に迫ったお話を書けるもんよね。感心しちゃった」
「こ、光栄です……あのね、天狗の新聞っていうのはね」
射命丸文は、涙ぐみながら悦んでいる。
「自分の書いた記事で、こうやって死ぬような目に遭って一人前きゃうんッ!」
霊夢が、注連縄を引いた。
束縛された牝妖怪の全身、様々な箇所に縄が食い込んでゆく。
「いっ痛い、あぁんっ! いたぁい!」
「インタビューとか言いながら……あんた、私でも下手したら気付かないくらい素早く飛び回って、これで隠し撮り盗み撮りしようとしてたでしょ」
霊夢は、写真機を揺らした。
「ま、よく来てくれたわ。天狗の連中とはね、1度きっちり話しなきゃって思ってたとこ」
「き、記事になるお話なら、いくらでも」
頬を赤らめ、吐息を乱しながら、射命丸はいくらか不敵に微笑んだ。
「ちなみに……そのカメラ、壊しても無駄ですよ。何しろ、お山には河童がいますから。いくらでも作ってくれます」
幻想郷で『山』と言えば、『妖怪の山』である。
霊夢が、射命丸の形良い尻を踏み付けた。悲鳴が弾んだ。
「こんな機械よりも、自分の身体がぶっ壊される心配をしなさい」
「なあ霊夢……」
束縛された肢体を、くねくねと悩ましく躍動させる牝妖怪。
見下ろしながら、魔理沙は言った。
「……撮ろうぜ、こいつ。もうちょっと服でも脱がせて」
「いいわねえ」
「やめて!」
身体の様々な部分を注連縄に圧迫されたまま、射命丸は泣き叫んだ。
「わっ私、撮るのは好きだけど撮られるのは嫌! 誰かの恥ずかしいところスクープするのって最高ですけどォ、自分がそういう目に遭ったら最悪じゃないですかあ! わかるでしょ? 他人の気持ち、もうちょっと考えましょうよー」
「お前……性格、腐ってるなあ」
霊夢から写真機を受け取りながら、魔理沙は呆れた。
「他人を撮っていいのは、撮られる覚悟のある奴だけだぜ。お前の新聞、読んだけど……まあ面白かったけど、ちょっと他人の事を好き勝手に書き過ぎじゃないか?」
「新聞書いてる奴らなんて大抵そうでしょ。さて……」
「……そこまでにしてあげなさいよ、霊夢」
声をかけてきたのはレミリア・スカーレットである。天気が良いので、日傘を差している。自分で、日傘を持っている。
「弱い者いじめは良くないわ……なんて私が言える事ではないけれど、博麗の巫女のする事ではなくてよ」
「あぁ……感激です、紅魔館の御令嬢……!」
射命丸が、涙を流す。
「清く正しい射命丸文! お初に、お目にかかります!」
「私を隠し撮りしていたくせに、何を言っているの」
レミリアは苦笑した。
「それより霊夢も魔理沙も。こんなにお天気の良い日に、お馬鹿な事はやめておきなさい」
「ふうん。こんな真っ昼間に、天気がいい……なんて」
霊夢が、興味深げに言った。
「吸血鬼の台詞とは思えないわね」
「春を愛でる心くらい、吸血鬼にだってあるわ」
春の博麗神社を、レミリアは見渡した。
雪は、ほとんど残っていない。
桜も咲いている。
大人しく慎ましやか、に感じられてしまうのは仕方がない。何しろ、満開寸前の西行妖を目の当たりにしたばかりである。
だが、と魔理沙は思う。これこそが、桜なのだ。
「……嘘よ。そんなもの、なかったわ。春の美しさ……幻想郷で、初めて知った」
レミリアが呟く。彼女にとっては初めての、幻想郷の春である。
「霊夢、魔理沙……貴女たちの、おかげよ」
「咲夜も、だぜっ」
帽子の上から、魔理沙はレミリアの頭を少し強めに撫でた。
今年の春は、何やら心が弾む。異変があったからだ、と魔理沙は思った。
その異変も、解決済みである。嬉しくなるのは当然と言えた。
「今こそ、仲直りの花見宴会! ……と、いきたいとこだが。それどころじゃないのか、紅魔館は」
「……パチェの事なら、貴女たちが気にかけてくれる必要はないのよ」
レミリアが俯く。
「本当は……私が、パチェを救わなければ……紅魔館の主として」
「まぁだ、そんな事言ってんのかしらねえ。この小動物はっ」
霊夢が、もっと強めにレミリアの頭を撫でた。
「そもそもね。救助が必要な状況かどうかも、まだわかんないんだから。もうちょっと落ち着いて、どっしり構えてなさいっての」
「わははは霊夢。この小っちゃい身体で、どっしりは無理だぜ」
「それもそうねえ、うふっ。ふふ、あっはははははは」
霊夢が笑う。魔理沙も、笑いが止まらない。
レミリア1人が、訝しげにしている。
良い匂いがする、と魔理沙は感じた。春らしい、花々の香り。
それだけではない。
霊夢と魔理沙を、上機嫌にさせずにはおかない、謎めいた香気。
「よっしゃ、任しとけレミリア!」
上機嫌な己自身を、魔理沙は止められなかった。
「パチュリーは、私たちが探して助けてやるぜ!」
「泥船に乗った気分でいなさいって!」
「霊夢……? それに魔理沙も、どうしたの。何か変よ?」
レミリアが、危機感を露わにしている。
何が起こっているのか、魔理沙はおぼろげに理解しつつあった。
春の花の匂い、と共に漂うこれは、謎めいた香気などではない。魔理沙も霊夢も、よく知る芳香。馴染み深い、かぐわしさ。抗いがたい、芳醇なる香り。
酒の匂い、であった。
匂い、だけではない。酒精そのものが、霧状に漂っている。
酒の霧が、霊夢と魔理沙を包み込んでいた。
状況を、理解は出来る。抗う事は出来ない。何しろ、極上の酒だ。
「ひゃははははは霊夢! しっ沈む、泥船が沈むぜー!」
「ああん、じゃあ泳がなきゃ」
ほんのりと顔を赤らめながら霊夢は、紅白の巫女装束を脱ぎ始めた。レミリアが血相を変えた。
「何をしているの霊夢! ちょっと、魔理沙も!」
「沈む沈む、酒の海だぜぇー! ひっく」
白黒の魔女服を、魔理沙も脱ぎ始めた。
この場にいるのは人妖の少女ばかりである。男が覗いているわけではない。覗いていたら、マスタースパークかスターダストレヴァリエで灼き払うだけだ。
「ちょっと何やってるんですかあっ!」
声が聞こえた。
境内の狛犬が、台座から飛び降り、こちらへ駆けて来る……ように見える。我ながら珍妙な酔っ払い方をしている、と魔理沙は思った。
レミリアが、左手で日傘を保持しながら、右手だけで霊夢と魔理沙の蛮行を止めようと奮闘する。
「やめなさい2人とも! 自分が何をしているかわかっているの!? わかっていないでしょうがぁああああっ!」
「ああもう、やめて下さぁーい!」
誰かがレミリアを手伝っているようにも見える。気のせいか。
「あ……あぁ、だっ誰か、この縄をほどいて! 私を解放して、カメラを! カメラをぉおおおおおっ!」
射命丸文が、縛られたまま暴れ喚いている。
「千載一遇どころじゃありません、こんな機会! この先一万年生きたって絶対ないですカメラ! 私をほどいてカメラ、カメラ! カメラをおおおおおおおおお!」
「やかましい!」
レミリアが、巨大な宝珠のような光弾を投げつける。
直撃を食らった射命丸が、爆風に吹っ飛びながら呟く。
「ああ、貴女は……貴女様は……」
「……よう射命丸、お前また縛られたりブチのめされたりしてんのか。今度は何やらかした?」
声がした。
酒の霧、と共に漂っていた何かが、凝集・凝結しつつある。
魔理沙に理解出来たのは、そこまでだった。
「……何者!」
レミリアが、何者かと対峙している。
「この……凶猛極まる妖気。ただ者では、ないわね」
「ただ者さあ。ただの酔っ払いだよ、ひっく」
紅魔館は宴会どころではないのに、宴会が始まっている。
魔理沙は、そんな事しか考えられなかった。
「スキマ妖怪の胡散臭さを辿ってたら、こんな所に来ちまった」
声が、遠くなりつつある。
「しっかし何だい、この小娘ども。鬼の酒の匂いに、ここまでどっぷり反応しちまうたぁ……普段どんだけ酒浸りなの」




