第23話 アルティメット・トゥルース
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
西行寺幽々子の背後に、絵巻物が扇状に広がっている。そのように見える。
何が描かれているのかは、よく見えない。
だが霧雨魔理沙は、その絵巻物から、とてつもなく禍々しい物語を朧げながら読み取る事が出来た。魔法の箒で、高速の回避飛行を披露しながら。
「西行寺……幽々子……お前……」
色彩の上品な、大小様々の光弾が、呻く魔理沙の全身をかすめて飛び交う。
その弾幕の中、箒の速度と身体の角度を小刻みに制御しつつ、魔理沙は息を呑んだ。
「外の世界で……一体、何をやらかしてきた……?」
「それを、ね……私が知りたいのよ……」
博麗霊夢の、生命を、魂を、愛おしげに抱き締めたまま幽々子は言った。
「私の、罪と穢れ……どろどろと、おぞましく息衝くもの……ぎらぎらと生々しく輝くもの……一体どこへ行ってしまったの? 何故、貴女たちはそれを持っているの? ずるいわ。ねえ……私に、ちょうだい……」
邪悪でありながら純真無垢。そんな物語の描かれた絵巻物から、無数の宝珠が溢れ出す。
全て、光弾だった。
襲い来るそれらを、飛行速度を落とす事なく回避し続ける魔理沙に、幽々子が笑顔を向ける。
「貴女、速いのね……凄いわ。私には、とても真似が出来ない」
本気で、心の底から、西行寺幽々子は自分を賞賛してくれている。それが魔理沙にはわかった。
だからこそ、心が冷えてゆく。怒り狂っていた心が、恐怖に近いもので冷却されてゆく。
冥界の管理者であるという、この少女は、本気で誰かを賞賛・尊敬しながら、その誰かを殺める事が出来る。
誰かを愛おしみ慈しみながら、その誰かを死に至らしめる事が出来る。憎悪や殺意など一片も抱かずにだ。
「何だ……お前、一体何なんだよ……紅魔館の姉妹の方が、まだ理解出来る所にいるぞ……」
冷える心を無理矢理に燃え上がらせながら、魔理沙は眼前に八卦炉を浮かべた。
それが、回転しながら炎を噴く。魔理沙の叫びに合わせてだ。
「……とにかく、霊夢を放せ。霊夢を返せ! お前みたいな奴が霊夢に触るなぁあああああッ!」
噴出した爆炎の閃光が、冥界の管理者をまっすぐに襲撃する。
無数の蝶が幽々子の周囲を舞い、鱗粉を放散する。まるで霧だ。
その霧の中に、爆炎の閃光は吸い込まれ、消えて失せた。
「……こんなもの、ではないでしょう? 貴女の力。私には、わかるわよ」
禍々しくも美麗極まる絵巻を背景に、幽々子は微笑んでいる。
「どろどろとした、ぎらぎらとした、おぞましく綺麗なもの……貴女、もっと持っているはずよ。見せて? お願い……」
いくつもの、光の球が生じていた。それらが、魔理沙の周囲で花火の如く弾け散る。
飛散した光の破片は、全て蝶だった。
何色をしているのかよくわからない蝶々の群れが、あらゆる方向から魔理沙に群がって来る。
「くっ……!」
魔理沙は箒を駆った。回避、と言うより逃亡に近い形になってしまった。
蝶の群れが、ひらひらと追いすがって来る。ゆったりと宙を舞っているだけ、であるはずの蝶たちを振り切れない。魔理沙がどれだけ速度を上げても、周囲にいる。
そんな蝶たちが突然、動きを止めた。目に見えない蜘蛛の巣にでも触れたかのように。
幽々子の全身に、ナイフが突き刺さっていた。
単なるナイフではない。退魔の念をたっぷりと宿した、破邪の刃だ。
どの辺りで、なのかは当然わからない。ともかく、どこかで時間を止められた。
空中に静止したナイフの上に、十六夜咲夜が軽やかに降り立ったところである。
「魔理沙あなた、無意識に……いえ気付いているとは思うけど」
並の妖怪であれば絶命している状態の幽々子を、油断なく見据えたまま咲夜は言った。
「本気で、攻撃が出来ていないわね? 今の西行寺幽々子は、本人にそのつもりはないにせよ……霊夢を、人質に取っている状態」
「……霊夢の魂だぜ? マスタースパークの誤爆くらいで、消えるわけがない……」
呟きながら、魔理沙は唇を噛んだ。
西行寺幽々子は、ただ欲しい物を手に入れて抱えているだけだ。人質、などという意図はない。そのような思考が、根本から欠落している少女なのだ。
自分が勝手に、霊夢を過剰に心配し、臆病になっているだけ。それは魔理沙も頭では理解している。
「……いい……わね、貴女……」
幽々子の顔面に突き刺さっていたナイフが、ぽろりと抜けて落ちる。
無傷の美貌で、幽々子は微笑む。
「この刃に込められた……どろどろ、ぎらぎら、したもの……ああ、血生臭くて最高よ……」
その優美な全身を無残に穿っていたナイフが、ことごとく抜け落ちて行った。
「貴女どうして……こんなに、血生臭いの?」
「……人間が、嫌いだからよ」
咲夜は答えた。
「腐りきった人間が、腐り果てて行き着く先……それが、お前よ西行寺幽々子。私は外の世界で、お前のような輩をひたすら狩り殺す日々を送っていた。魂まで返り血にまみれている。さぞかし生臭いでしょうね」
「素敵……」
無数の蝶が、光弾の嵐が、幽々子のたおやかな全身から迸り出ていた。
「2人とも、とっても素敵よ。その魂……閻魔になんて、渡すわけにはいかないわ」
押し寄せる弾幕の中で、魔理沙はひたすら箒を制御した。速度を落とさず進行方向を常に微調整し、光弾や蝶々をかわし続ける。
かわしたはずのものたちが、全身をかすめる。チルノの氷やレティの寒気とは全く異質の冷たさが、衣服や肌を通過して肉や骨を苛んでくる。
やはり、と魔理沙は思う。小刻みな回避制動は、霊夢の得意分野である。自分は苦手だ。
咲夜の姿は、すぐに見えなくなった。だが気遣っている場合ではない。
他者の心配をしていられる状況に今、魔理沙はいない。
「こいつは……っ」
回避飛行を強いられたまま魔理沙は、咲夜の言葉を思い返した。
西行寺幽々子は、かつて人間であった。
先天的にか後天的にか、とにかく能力を持ってしまった1人の人間の、行き着いた先。
それが、この人外の弾幕使いなのだ。
(わかったぜ、霊夢……)
魔理沙は、心の中で語りかけた。
(この西行寺幽々子って奴は……お前や私が、下手すると成り果てちまうかも知れない姿だ。だからこそ……負けるわけには、いかない……!)
その思考が、凍り付いた。
恐ろしく冷たいものが、魔理沙の心に、脳髄に、触れてきた。肉体を通過してだ。
幽々子の、片手。
体温のない繊細な五指が、魔理沙の形良い顎を、そっと撫でている。
「この冥界はね、天国へも地獄へも行けない魂の集う場所……まさしく、貴女のためにあるような世界よ」
箒が、いつの間にか停止していた。空中で、魔理沙は今、硬直している。
その隣に、西行寺幽々子はいた。左腕で霊夢の魂を抱いたまま、右手で魔理沙の頰と顎を愛撫している。
「善悪定かならず、かと言って中途半端なわけでもなし。どんな枠にも収まらずにギラギラと燃え輝く、この魂……」
涼やかな囁き声が、魔理沙の耳孔をくすぐりながら、脳内へと染み渡ってゆく。
「もう、私のものよ……」
そこで、今度は幽々子の心が凍り付いた。
全ての思考と感覚を奪われる寸前で、魔理沙はそう感じた。
魔法の箒を駆り、その場を離脱する。
空中に取り残された幽々子が、霊夢の魂を抱いたまま、美貌を引きつらせている。
引きつった眼差しが、冥界の背景である巨大なものへと向けられた。
西行妖。
満開寸前の桜の巨木。その枝の上に、十六夜咲夜は佇んでいる。
「思った通りね……西行寺幽々子。お前は、この西行妖から投映されている幻に過ぎない」
何本ものナイフが、西行妖の巨大な幹に突き刺さっている。
退魔の念が、岩のような樹皮の内側へと流し込まれてゆくのが魔理沙にも感じられた。
「本体と呼ぶべきものは、こちらにある。さあ……出て来なさい」
「……………………ッッ!」
幽々子が、悲鳴を上げたようであった。呼吸が止まったまま絶叫している。
優美な肢体が、霊夢の魂を抱き締めながら苦しげに痙攣し、反り返る。淡白な美貌は青ざめて引きつり、見開かれた瞳が呆然と、冥界の空を見つめている。
そんな幽々子を護衛する形に、蝶の群れが舞った。撒き散らされた鱗粉が、全て光弾に変わった。
漂い襲い来る弾幕を魔理沙が回避している、その間に幽々子は背を向けていた。
そして、ふわりと逃げ去って行く。霊夢の魂を抱き捕えたままだ。
「あっ、待て……」
魔理沙が追おうとした、その時。
禍々しい何かが、桜吹雪と共に吹き荒れた。
死んだ、と魔理沙は感じた。自分も、それに咲夜も、普通の人間であったら今、間違いなく死んでいた。
「幻は放っておきましょう、魔理沙」
空中で時の止まったナイフに降り立ちながら、咲夜が言う。
死、そのものが西行妖全体から立ち昇っている。魔理沙の目には、そう見えた。
立ち昇ったものが集合・融合し、人影のような姿を成しながら、桜吹雪をまとう。
「これを斃せば、幻も消える。霊夢は解放されるわ」
「これが、西行寺幽々子の……本体……?」
桜吹雪の中に見え隠れする、人影のようなものを、魔理沙はじっと見据えた。
これが、西行寺幽々子であるのか。ならば先程、逃げ去って行ったのは何者なのか。
幻が、己の意思で逃げて行くものであろうか。
咲夜が幻と断じた、あの少女は、霊夢の魂に執着している。
執着心とは、生身の自我そのものではないのか。
そんな事を考えている場合では、なくなった。
桜吹雪をまとった人影が、蝶の群れと光弾の嵐を放射したのだ。
「つまり、あれか……この化け物桜が、自分を満開にさせるためにっ」
執拗につきまとう蝶々、流星雨の如く襲い来る大小の光弾。それらを飛行回避しつつ魔理沙は叫んだ。
「西行寺幽々子って操り人形を、いいように使ってたと! そういう事か!?」
咲夜は答えない。もはや姿も見えない。
返事などしている暇はないのだろう。彼女は彼女で、この禍々しき弾幕を自力でかわしていると信じるしかなかった。
「お前は……確かに許せない奴だよ西行寺幽々子。倒さなきゃいけない妖怪だ。だけどな」
己の魔力を、無数のマジックミサイルとして発現させながら、魔理沙は届かぬ言葉を発した。
「私には、わかるぜ。お前は操り人形や幻の類じゃあない。この上なくタチの悪い化け物として、ちゃんと独立している……だからこそ、ぶっ倒す! そして霊夢は必ず助ける!」
吹き荒れる弾幕の嵐が、冥界の空を凶暴に彩っていた。
博麗の巫女、に続いて現れた2人の人間が、魔法の光を、あるいは退魔の念を宿した刃を、投げ付けている。
桜吹雪をまとう、人影に向かってだ。
人影は、光弾や蝶を放ち、応戦している。
いや、影は自分の方ではないのか。
思いつつ西行寺幽々子は、博麗の巫女の魂を抱いたまま、弱々しく石段に座り込んでいた。
「私は……だれ……?」
半開きの唇から、呟きが漏れる。
幻。そう言われた。
確かに自分は、生々しいものを一切、持っていない。
「私、どろどろしていない……ぎらぎらも、していない……ただ、ぼんやりと存在しているだけ……いつから?」
何も、思い出せなかった。
忘れている、という事実すら忘れていた。
「どろどろ、ぎらぎら……しているもの……ふっ、うっふふふふふ、あるじゃない。ここに……」
肉体のない博麗の巫女を、幽々子はしっかりと抱き締めた。
いくら抱き締めても、それはしかし身体の中に入って来てはくれない。
「お願いよ、博麗の巫女。私のものに、なって……私に、なってよ……でないと私、幻のまま……」
幽々子は、泣きじゃくった。
飛び散った涙が蝶々に変わり、ひらひらと舞いながら、すぐに消えてしまう。
やはり、と幽々子は感じた。自分は、西行妖が生み出した幻影なのだ。
西行妖が、ああして自我を発現させ、弾幕戦で己の存在を主張し始めた今。幻は、消えるしかないのだ。
「嫌……いやよ……そんなの、嫌よぉ……」
泣き震えながら幽々子は、巫女の魂に唇を触れた。歯を触れ、舌を触れた。吸い付き、噛みちぎろうとした。
涙にまみれた美貌の下半分が、虚しく霊体にめり込んだだけだった。食べて吸収する事も出来ない。
「……お腹を壊しますよ、幽々子様」
声をかけられた。
満身創痍の少女剣士が、よろよろと石階段を上って来たところである。
「妖夢……」
呼びかけてみる。
自分が、きちんと声を出せているのかどうかも、幽々子はわからなくなっていた。
このままでは消える。妖夢と、会話も出来なくなる。
「この戦いが終わったら、きちんと食事をお作りいたします。今少し我慢なさいませ」
「妖夢……おねがい、私を助けて……」
博麗の巫女の魂を抱いたまま幽々子は立ち上がれず、魂魄妖夢のすらりとした両脚に身を擦り寄らせた。
「白楼剣で……私を斬って……このまま、惨めな幻として消えてしまうよりは……妖夢に斬られて……」
「貴女は、幻などではありませんよ幽々子様」
妖夢が身を屈め、幽々子と目の高さを合わせた。
「ここに、いらっしゃるではありませんか」
長大な楼観剣を操る剛力の細腕が、ふわりと幽々子を抱き寄せる。
「妖夢……」
「私はこれより、西行寺家の至宝に刃を向けなければなりません。どうか、お許しを」
ふわりとした抱擁は、すぐに失われた。
妖夢が立ち上がり、楼観・白楼、ふた振りの剣を抜き放つ。そして幽々子に背を向ける。
「貴女と西行妖との、悪しき縁……断ち切らせていただきます」
すらりと佇む少女剣士の細身に、半霊が戦装束の如くまとわり付く。
冥界の空で繰り広げられる弾幕戦を見上げ、睨み、妖夢は言った。
「……幽々子様を、返してもらうぞ。西行妖!」




