第19話 死の妖精
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
西行妖は、今や満開寸前であった。
その咲き誇る様は、まるで冥界の空に広がる桜色の雲だ。
雲海の如き桜の所々で、まだ花を咲かせていない裸の枝が露出している。骸骨の指、のようでもある。救いを求めて手を伸ばす、亡者の群れ。
西行寺幽々子は、ぼんやりと見上げていた。
見上げ、見渡すほどに巨大な西行妖と、1人の小さな少女が向かい合っている。
リリーホワイトであった。
1人、空中に佇み、西行妖と対峙している。
春を、呼び起こし続けている。花の咲かない桜の巨木を、満開へと導くために。
無理をしないで。あまり根を詰めては駄目、少し休みましょう。
そう声をかけようとして、幽々子は思いとどまった。
リリーホワイトは今、西行妖と語り合っているのだ。邪魔をしてはいけない。
「誤算でした」
背後から、声をかけられた。
いくらか不穏な気配に、幽々子は先程から気付いてはいた。
「西行妖が、花を咲かせる……よもや、そのような事があろうとは。西行寺幽々子、私は貴女の力を甘く見過ぎていたのかも知れません。死をもたらすだけが取り柄の亡霊に、花を咲かせる事が出来るなどとは思いもしませんでした」
「私の力、ではありませんよ。死せる西行妖をここまで甦らせてくれたのは、リリーホワイトと魂魄妖夢です」
幽々子は振り返り、恭しく膝を折って一礼した。
「ようこそ、おいで下さいました。西行妖だけではございません、白玉楼の桜は今が見頃……ごゆるりと、お過ごし下さいませ。今、お茶と甘味をお持ちいたしますね」
魂魄妖夢は現在、出撃中である。
客人の歓待は、白玉楼の主たる西行寺幽々子が一から全て、こなさなければならない。
その客人が、しかし言った。
「貴女は……この私が、それほど暇だと思っているのですか?」
「貴女様は、働き過ぎでいらっしゃいます。たまには、のんびりとお花見でもなさいませ」
「あいにく、そんな時間は取れそうにないのですよ。何しろ……冥界の管理者が、大問題を引き起こしてくれるものですから」
客人が、悔悟の棒を幽々子に突き付けた。
「一体全体……何をしているのですかっ、貴女は!」
「? 咲かぬ桜を咲かせてあげる事が、それほどまでに許し難い理由とは……いかなるものでしょうか」
この客人が何をそんなに憤っているのか、幽々子は理解出来なかった。
「ねえヤマザナドゥ閣下。貴女様は、かわいそうだとお思いになりませんの? 罪科も落ち度もなく、咲く事を禁じられてしまった桜……お花なのですから、罪や落ち度があるはずもなく」
「罪のない、単なる花に過ぎぬものが、やがて死をもたらす禍いの大樹と化した……その原因を作ったのは貴女なのですよ、西行寺幽々子」
「そうですか……私、極悪人でしたのね」
幽々子は、己の胸に片手を当てた。
「何となくですが、覚えているような気はいたします。私……とても悪しきものを、かつては持っておりましたのね。どろどろとした、おぞましいもの……今は一体どこにあるのでしょう。私それを、どこへ置き忘れてしまったのでしょうか……」
「かつての貴女は何百度、地獄へ落ちても足らぬほど悪業を重ねていました。都合良く忘れてしまっているようですが」
ヤマザナドゥ。楽園の閻魔。
その役職にある少女が言った。
「咲かぬ桜を憐れみ慈しむ……貴女のその心に、偽りはないのでしょう。人を、愛おしみ憐れみ慈しみながら殺戮する。それが西行寺幽々子という姫君でした。今の貴女は、他者を慈しむ一面のみ顕在化した無害なる存在……そう思えばこそ、私は貴女を冥界の管理者に任じたのです。今の貴女は、この冥界に存在しているだけで、死せる者たちにとっての癒しとなる」
自分では、そんな事は思わない。
この白玉楼の周辺には今も無数の、目に見えない者たちが漂っている。
皆、穏やかに漂っている。
幽々子の方から、彼ら彼女らに語りかけたり働きかけたりする事はない。虐げはしないが、慈しむ事もない。
この客人の言う通り自分はただ、冥界に存在しているだけだ。
「それだけで、死せる者たちは癒されているのです。貴女に、慈しまれている気持ちになってしまうのですよ。この無数に漂う死者たちが、だから冥界から顕界に溢れ出してしまう事はありません。皆、己の意思で冥界にとどまり、満足しているのです。西行寺幽々子、これは紛れもなく貴女の功績と言えるでしょう。冥界の管理者としての」
楽園の閻魔は、幽々子を誉めてくれているのだろうか。
「……このまま西行妖が満開になれば。死が、冥界から幻想郷へと溢れ出します」
そういうわけではないようだ、と幽々子は思った。他人を誉めるためだけに、この多忙な人物が自ら足を運ぶ事はない。
「かつて貴女が、もたらした……否、それ以上の災禍となる。功績者である貴女を、私は罰さなければならなくなるのですよ」
「そうですか。西行妖が咲くと……幻想郷の人たちが、死んでしまうのですか……」
幽々子は、ぼんやりと見回した。
見えはしない。だが、目に見えない人々は確かに存在している。皆、白玉楼の桜を楽しんでくれている。
皆、幻想郷の人々を、穏やかに和やかに迎え入れてくれるだろう。
「……盛大なお花見に、なりそうですね」
「貴女は……! かつての西行寺幽々子と、どうやら根本のところは何も変わっていない」
閻魔の両眼が、幽々子を見据えて燃え上がる。
「いつまで、死をもたらす災厄のままであり続けるのですか……っ!」
何を言われているのかは、よくわからない。
ただ1つ、わかる事がある。自分は今、喜ぶべきなのだ。
「ついに……私、ああ……ついに私も……閻魔様の、お説教をいただけたのですね……」
「お説教だけで、済ませたいものです」
「うふふ……お説教、以外にも何か下さるのかしら」
微笑む口元を、幽々子は扇子で隠した。
隠してはおけないものもある。
何羽もの蝶が、幽々子の周囲にひらひらと発生し、飛翔していた。
「例えば……そう、弾幕」
「私も、書類仕事の実績だけで閻魔の地位を得たわけではありません」
楽園の閻魔。一見、盛装した小柄な少女である。
その小さな身体が、後光を背負った。そう見えた。
無数の悔悟棒が生じ、円形に並んで浮かび、後光の形を成しているのだ。
「……見ますか? 地獄の、弾幕を」
「至福……」
「駄目ですよーっ!」
リリーホワイトが、幽々子と閻魔の間にふわりと降下してきた。
元気そうだ、と幽々子は安心した。西行妖との交信に、少し根を詰め過ぎているのではと思っていたのだが。
「春です! 仲良くしましょう、お二人とも」
「この度の件……貴女も、無罪の被害者では通りませんよ。春告精」
閻魔の説教が始まった。
「西行妖と接触したのであれば、これがどれほど危険な存在であるかは妖精の頭でも理解出来るはずです。その危険を貴女は今、己の意思で満開へ導こうとしている。咲けない花を哀れんでの事でしょうが、優しさは免罪符とはなり得ません。軽はずみな同情心で貴女は今、数多くの生命を死に追いやろうとしているのですよ」
「だって春ですもの。春って、死の季節でしょ?」
幽々子は耳を疑った。
これは本当に、リリーホワイトなのか。
「生き物が、沢山生まれて! 沢山死ぬ! みんな腐って土に還って、新しい生命の栄養になるの。そうして生まれた生命もね、どんどん死んで腐っていくの! だから私、春が好き。冬はみんな最初から死んでいるから嫌い。みんなが生まれて死んでいく春が好き! 春が大好き! 春、春、春、春! 春ですよぉおおおおおおっ!」
「リリー……ホワイト……」
幽々子は、ふらふらと後退しながら身を翻した。
回避。激しく吹き荒れる赤色と青色が、全身をかすめて行く。
愛らしい両手と翅をいっぱいに広げ、二色の光弾を無数ぶちまけながら、リリーホワイトは飛行上昇していた。
否。リリーホワイトではない、と幽々子は思った。冬が嫌い、などと彼女が言うはずはない。
それに、黒い。
リリーホワイトの白い衣服が、帽子が、黒く染まっている。
赤と青の弾幕をばらまきながら、黒衣の春告精が飛び去って行く。
呆然と見送る幽々子に、閻魔が言葉をかけた。
「……あれが、かつての貴女ですよ。西行寺幽々子」
意味不明な言葉であった。
「リリーホワイトは、西行妖に支配されてしまいました。彼女がこのまま冥界を出て幻想郷へと舞い戻れば……死が、振り撒かれます。西行妖のもたらす死が、春告精を通じて幻想郷全域に」
「それは駄目……」
人を殺す。自分がそれを行うのは一向に構わない、と幽々子は思う。
「リリーホワイトに、そんな事をさせては……私、レティ・ホワイトロックに顔向けが出来ないわ……」
「行っても無駄です。貴女に、春告精を救う事は出来ません。殺す事は出来ても、ね」
ふわりと飛翔しかけた幽々子を、閻魔の言葉が止めた。
「この宇宙でただ1人、妖精という存在を死に至らしめる事が出来る……それが貴女です。リリーホワイトを生かして救いたいのであれば、貴女は何もしないように」
すでに姿の見えぬリリーホワイトを、閻魔がじっと見送っている。
「博麗の巫女が来ているのでしょう? 彼女に任せなさい」
「私が……」
西行妖の巨大な根に、幽々子は弱々しく座り込んでいた。
「……私が、悪いのでしょうか? ヤマザナドゥ閣下……」
「何を今更、と言いたいところですが」
四季映姫・ヤマザナドゥは、溜め息をついた。
「数多の生命を躊躇いなく奪いながら、ごく少数の誰かの苦境に心を痛める……貴女は、いえ幻想郷に住まう人妖ことごとくが、そう。まったく、閻魔たる私がどれほど難儀をしているものか、少しは考えてみるのも無駄ではないと思いますよ?」
爆炎の中から、妖怪4体の辛うじて原形をとどめた姿が露わになる。
殺さずに済んだ、と霧雨魔理沙は思った。
甘い考え、なのかも知れない。だが幻想郷における妖怪退治とは、必ずしも妖怪の命を奪う事ではないのだ。
「……まだ! まだだ……っ」
ぼろ雑巾のようになったレティ・ホワイトロックが、歯を食いしばっている。
プリズムリバー姉妹は3人とも、水中を漂う溺死者の如く空に浮かび、力尽きた様を晒していた。
彼女らを庇っているかのようでもあるレティに、魔理沙は声を投げた。
「おい、本当にもうやめとけ。お前のそもそもの目的は何だ? 私らを倒す事じゃあないだろ。お前は、リリーホワイトを守らなきゃいけないはずだぜ」
「リリー……」
レティは、魔理沙の言葉で我に返った……わけでは、なさそうである。
彼女の背後で、ざっくりと裂けた空。
魂魄妖夢が刻み込んだという、その裂け目から、またしても不吉な何かが流れ漂い出したのを魔理沙は感じた。
レティは、もっと強く感じたであろう。
リリーホワイトの身に、何かが起こったのを。
「リリー……!」
呼びかけながらレティは躊躇いもなく魔理沙に背を向け、空中の裂け目に飛び込んで行った。
「……私らも行くぞ、咲夜」
魔理沙が後方に声をかけた、その時。
息を呑むような悲鳴が聞こえた。
「……いない…………」
チルノだった。
氷の妖精でありながら寒そうに青ざめ、震えている。
「フランが……いなく、なっちゃった……」
「何だって、おい……」
チルノが感じられるフランドール・スカーレットの気配が、消えた。それは一体、何を意味するのか。
フランドールが……死んだのか。
それは、しかし十六夜咲夜のいる場で口に出せる事ではない。
「……フランドール様の御身に何事か起こった、のであれば。それを、まずは知らなければならない。調べなければ、いけないわね」
咲夜が言った。
「行きましょう魔理沙……それとチルノ、貴女はここまでよ。この先の戦い、貴女を伴うわけにはいかない」
「咲夜……! あたいだってフランを助けるよ、助けに行くよ!」
「……なあ、チルノ」
魔理沙は、じっとチルノを見据えた。
ここから先、恐らくはレティやプリズムリバー姉妹よりもずっと強力な敵と戦わなければならなくなる。
チルノの力が通用する戦い、ではなくなる。
それを、はっきりと告げなければならないのか。
チルノは俯いた。
「……あたい、妖精だから……死なないから……魔理沙も咲夜も、あたいを弾幕除けにでも使ってくれればいいよ……」
「出来るわけないだろ、そんな事」
魔理沙は、チルノの頭を少し強めに撫でた。
「……ここまで連れて来てくれて、ありがとうな。フランの事は任せとけ」
「魔理沙……」
「チルノ、貴女にはいくら感謝してもしきれないわ」
咲夜も言った。
「貴女に偉そうな戦力外通告を下す資格が、私にはない……だけど、これだけは言わせてもらうわ。自分を弾除けに、などという考えは今この場で捨てなさい。貴女も1度は紅魔館のメイド服を着用した身、私の命令に背く事は許されない」
咲夜は、チルノを抱き締めていた。
「貴女を粉砕した美鈴が……あの時、どんな思いをしたのかわかる? 妖精の頭でも、それはわかりなさい」
「咲夜……」
「……言われた通りにしておきなさい、氷精」
水死者の如く漂っていたルナサ・プリズムリバーが、弱々しく声を発した。
「貴女は……妖精という種族の不死性を、過信しているわ」
「……妖精の不死身なんて、幽々子さんには通用しないんだから……」
メルラン・プリズムリバーも、辛うじて生きている。
「生命、そのものを持って行かれるわよ……それはねえメイド長さん、それに白黒の魔女、あんたらも同じ……せいぜい、気を付けなさいよね……」
「お前たち、手当てが必要かしら?」
咲夜の言葉に答えたのは、リリカ・プリズムリバーだ。
「要らない……貴女たちの音楽が聞こえているから、私らすぐ元気になるわ……まったく、こんな音楽を鳴らす魂……幽々子さんが、放っとくわけないわね……」