第18話 退魔士・十六夜咲夜
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
「断言しよう、十六夜咲夜。お前はいつか守矢を裏切る。
まあ、それはそれで構いはしないさ。自立は、時として裏切りや不義理を伴うもの。生みの親、育ての親に、背かなければならない時もある。
それに……今の守矢は、お前が骨を埋めるような場所ではない。
お前は、いつか旅立たなければならないだろう。
その旅立ちは、血生臭いものになるかも知れない。何故かな、そんな気がするのだよ。
その時までに、さあ鍛えておくがいい。
お前のその、時を止める力。人外の者どもが相手となれば、恐らくお前が期待するほどの決定力とはなり得ないだろう。
現に……ほれ、私には効かぬ!
気付いておらぬか。お前の最大の力、それは時を止める能力などではない。
妖怪どもに対する、最も強力な武器……人間の、意志の力よ。
強き退魔の意志を、そう。そのように刃に宿し、戦うのだ。
ああ、いいね十六夜咲夜。お前は実に鍛え甲斐があるよ。
初めはね、思っていた。お前こそが、探し求めていた私の風祝かも知れないと。
だけど、どうやら違うね。お前を見ていればわかる。お前はいずれ守矢から自立する。
自立するための力を、さあ身に付けるのだ。
この私が……守矢の戦神が、お前をもっと鍛えてやろう」
「自立……」
自分の呟く声で、十六夜咲夜は意識を取り戻した。
一瞬、意識を失っていた。
その一瞬の間、自分は一体、誰と会話をしていたのか。
全身、メイド衣装に血が滲んでいる。
深手、ではない。
致命傷には程遠い浅手を無数、立て続けに負った。
時の止まったナイフの上に立っているのが、精一杯である。
ナイフの時間を止めておく、それだけで気力と体力を消耗してゆく。
幻想郷の上空に咲夜は今、血まみれで佇んでいた。
このまま力尽きて墜落死を遂げるのか。それとも、この敵たちに殺されるのが先か。
「なぁんかさあ、弱い者いじめみたくなってきちゃったよねー」
メルラン・プリズムリバーが言った。
「かわいそうだから、もう殺しちゃおっか?」
「びっくりだわ。紅魔館で最初に見た時は、すごい出来る女って感じだったのに」
リリカ・プリズムリバーが、呆れている。
「お嬢様が近くにいないだけで、ここまで弱くなっちゃうなんて」
「何度でも、はっきり言ってあげる……」
ルナサ・プリズムリバーが、言葉と共にヴァイオリンを奏でる。
「レミリア・スカーレットがいなければ何も出来ない……それが貴女よ、十六夜咲夜」
咲夜は応える事が出来ない。ただ弱々しく呼吸を整えるだけだ。
プリズムリバー三姉妹が、空中で咲夜を取り囲んでいる。
視界の隅で、光と光がぶつかり合っていた。
弾幕戦の、煌めきだった。霧雨魔理沙とレティ・ホワイトロック。1対1の激戦である。
冬に、冬の妖怪と戦う。そんな難業を、自分は魔理沙に押し付けてしまっている。
そんな事を思いつつ咲夜は、またしても呟いた。
「自立……」
お前は、いつか旅立ち、自立する。そう言っていたのは誰であったか。
自分を、守矢の退魔士として鍛え上げてくれたのは、誰であったのか。
誰かが、いた。それは間違いない。
守矢神社という腐敗し果てた宗教組織にあって、ただ1人。まさに神の如く崇高な心を持ち、咲夜を教え導いてくれた、偉大なる誰かが。
思い出せない。その存在すら、今まで忘れていた。
今になって、その誰かの言葉だけを思い出す事が出来たのは、自分に死が迫っているから、であろうか。
「自立……ふふっ、誰が……?」
咲夜は、笑うしかなかった。
かつて自分は守矢の退魔士として、人外のものたちと戦っていた。人間を守るために。人間の愚かさを、嘲笑いながら。
孤高の戦士でも、気取っていたのかも知れない。
気取っていられたのは、彼女がいたからだ。咲夜を鍛え導いてくれた、崇高なる誰か。
今にして、わかる。自分は、彼女に甘えていただけだ。
彼女の言う通り、自分はやがて守矢を裏切り、紅魔館に仕える事となった。
守矢神社が、紅魔館に変わっただけだ。
そこで咲夜は、今度はレミリア・スカーレットに甘える事になった。
(レミリアお嬢様……私は、貴女がいなければ……何も……)
自立など、出来ない。
それが自分・十六夜咲夜という、無様な人間なのだ。
陰鬱な音楽が聞こえた。ヴァイオリンの暗い音色。
「たった今、楽譜が書けたわ。御主人様のいない、かわいそうなメイドに捧げる葬送曲……」
ルナサが、細やかに弓を操っている。音と言うより、絶望そのものを奏で出している、と咲夜は感じた。
リリカとメルランが、それぞれキーボードとトランペットで、姉の音楽に合わせてゆく。
「さすが……死にたくなる系の曲は、ルナ姉がピカいち。私たちまで鬱のトンネルに入っちゃいそう。気を付けないとね」
「うふふ。これがねえ、あんたの音楽よ十六夜咲夜。いいじゃない? 中途半端な希望の欠片もなくて」
絶望の楽曲が、咲夜を取り囲んで流れ響く。
どこかで聴いた事がある、と咲夜はぼんやり思った。
フランドール・スカーレットが、紅魔館を破壊しながら出現した時。怯えて身を丸めたレミリアを、目の当たりにした時。そんなレミリアに、自分が罵声を浴びせた時。咲夜の心の奥から、聞こえてきたもの。
あの時は、単なる絶望の響きでしかなかった。
ルナサ・プリズムリバーが今、それを咲夜の中から拾い上げ、編曲し、合奏音楽に仕上げたのだ。
あの時、咲夜は思った。
(勝てない……レミリアお嬢様を、妹様から守る事が……私には、出来ない……)
出来る事は1つ。レミリア・スカーレットを、フランドールから遠ざける。それだけであった。
だから追い出した。紅魔館から、レミリアを。
守るため。そんなものは言い訳に過ぎない。
あの時、あの場で、自分はフランドール・スカーレットと戦うべきだったのだ。
プリズムリバー楽団が今、奏でているのは、音楽という形をした絶望と後悔そのものだ。
咲夜は、己の首筋にナイフを当てていた。刃を引けば、頸動脈が切れる。
「そう、それでいいのよ。弾幕戦で砕け散るなんていう野暮な死に方は無し。ルナ姉の最高傑作を聴きながら、美しい絶望に浸りながら! あんたは自分で死ぬのよ十六夜咲夜!」
メルランに言われるまでもない。自分は、このまま死ぬ。
否。とうの昔に死んでいたのだ、と咲夜は思う。
(レミリアお嬢様……貴女との、絆……ふふっ、そのような美しいものが私に本当にあったのだとしたら……それを自ら断ち切った、あの時。十六夜咲夜という愚か者は、死んだのです……)
「私の事など、思い出さず……どうか、お幸せに……お健やかに……」
冷たいものが、咲夜の顔面に当たって弾けた。
氷の粒だった。
レティの巻き起こす寒気の大渦が、空気中の水分をも凍結させ始めている。
……否、違う。レティではない。
「ちょっと、何やってんのよ」
リリカが言った。
「見てわかんないの? あんたなんかの出る幕じゃないって事」
「わかんないんでしょうねえ。同じ妖精でも、リリーホワイトみたいな健気なお利口さんとは違う……可愛げのない単なるおバカ!」
メルランの罵声には何も答えず、可愛らしい両の細腕を左右に広げて咲夜を背後に庇ったまま、チルノは言った。
「それをやったら……あたいよりバカだぞ、咲夜」
「チルノ……」
「美鈴も大ちゃんも、咲夜が帰るの待ってるぞ」
小さな氷の粒が、大きめの氷塊が、チルノと咲夜を取り巻いてキラキラと旋回している。
「お嬢様がいないと、なんにも出来ない。いいじゃないか、それで」
「何を……!」
咲夜は、激昂しかけた。
怒らせて、自害を思いとどまらせようとしている……のだとしたら、チルノにしては頭が回る。
「あたいだって、大ちゃんたちがいなきゃ何も出来ない。あんなに強いフランだって、お姉ちゃんが本当にいなくなったら、きっと全然ダメになっちゃうと思う……フランのお姉ちゃんも今頃、咲夜がいなくて、なんにも出来なくて全然ダメな真っ最中だと思うぞ。だから」
「立ち去りなさい、愚かな氷精。1度だけは見逃してあげる」
ルナサが言った。
「私たちの演奏を……邪魔する事は、許さない」
「プリズムリバー。あたい、あんたたちの音楽は大好きだよ。でも……これはダメだ」
咲夜に背中を、氷の翅を向けたまま、チルノは叫ぶ。
「聞いたら死にたくなる音楽なんて、あたいは嫌だ!」
「生死すら自在に操る音楽、あたしらが追求してるのはそれよ! おバカな妖精の好みに合わせようなんて気はさらさらなぁあああいッ!」
メルランのトランペットから、音符と光弾の嵐が迸る。
絶望と後悔の楽曲が、乱れ崩れた。
己の首筋にナイフを当てたまま硬直している咲夜の眼前で、氷の翅が冷たく眩く発光する。
渦を巻いて旋回していた大小の氷塊が、全てメルランに向かった。
それだけではない。
チルノの小さな全身から、まるで飴玉のような色とりどりの光弾が無数ぶちまけられ、なおかつレーザー化した冷気が一直線に迸る。
それらが氷塊の渦と合流し、メルランを襲う。
チルノの、精一杯の弾幕であった。
それが、メルランの放った音符・光弾の嵐と激突する。
空中で、爆発が起こった。
爆風に吹っ飛ばされたチルノを、咲夜は抱き止めた。
「……無茶よ、チルノ……妖精の力で、プリズムリバー楽団に戦いを挑むなんて……」
その無茶をさせたのは自分だ、と咲夜は思った。
「なあ咲夜……フランと、お姉ちゃんの仲直り……だいぶ時間かかるぞ……」
咲夜の腕の中で、チルノが弱々しく微笑む。
「だからさ、まずは……咲夜が、フランのお姉ちゃんと……仲直り、しよう」
「チルノ……」
「ふん……ふふっ、あっははははははは! おバカの雑魚妖精が!」
メルランが笑う。
「妖精のくせに、なかなかいい音楽! 鳴らしてんじゃない。ねえリリカ、ルナ姉、聴こえたよね?」
「メル姉は野暮とか言うけど、やっぱり弾幕戦……これだから止められないよね。新しい音楽がガンガン湧いてくる」
「愚かな氷精の、愚かな音を……いいわ。極上の楽曲に仕上げて見せる」
この三姉妹は、戦う相手の「音」を聴き取る。聴き取った音で楽曲を組み上げる。
それは、相手に絶大な影響をもたらす武器となるのだ。
現に咲夜は今、チルノがいなければ自ら命を絶っていたところだ。
「強敵……」
左腕でチルノを抱き支えたまま、咲夜は右手でナイフを構えた。
「手強い妖怪ばかり……そう、これが幻想郷」
心の中で、何かが燃える。それは、久しく忘れていた炎だった。
守矢の退魔士として、かつて戦っていた。妖怪とも呼べぬ醜悪下劣なものたちを、単なる作業として狩り殺していた。
燃え盛る炎とは無縁の、寒々しく白けた日々だった。
この炎を初めて感じたのは、いつであったか。
そう。渡欧し、紅魔館との戦いが始まった時。
守矢の戦闘集団をことごとく殺戮しながら、紅美鈴は咲夜を見て微笑み、言った。
お前、美味そうだな。肉とはらわたは私がもらう。血はお嬢様に捧げよう。
「……どうだ。楽しいだろ、妖怪退治って」
霧雨魔理沙が、いつの間にか近くにいた。箒にまたがり、咲夜の傍に浮かんでいる。
「幻想郷を守る戦い……楽しんじゃいけない、のかも知れない。だけどな、どっかで楽しまないとやってられないってところもある」
「楽しめ……とでも言うの、私に……この戦いを……」
「……お嬢様のため、とかな。そういうのは忘れないにしても一旦、脇へ置いちゃっていいと思うぜ」
レティ・ホワイトロックも、プリズムリバー楽団と並ぶようにして空中に佇んでいる。
見据え、ニヤリと微笑み、魔理沙は言った。
「まずは、桜を咲かせよう」
「桜……」
「お嬢様の事を考えるのはな、その後だ……仲直りの花見宴会、絶対やるからな」
魔理沙の周囲で、無数のマジックミサイルが発生する。いくつもの水晶球が旋回しながら発光する。
「さあっ、楽しい楽しい妖怪退治だぜ!」
「……楽しい楽しい、人間狩りといきましょうか」
特に楽しそうな様子もなく、ルナサがヴァイオリンを弾く。
メルランがトランペットで叫び、リリカがキーボードに指を疾走させる。
冷気が、吹き荒れた。白い嵐。まるで隕石のような、巨大な雹の煌めきが見える。
「……見直したぞ、ちっぽけな氷精」
煌めき吹きすさぶ白色の中心で、レティが言った。
「お前の音楽とやらが、こうして奏でられ……どうやら私の能力を引き上げてくれているようだ。今の私は、幻想郷全域を凍らせる事が出来る! 無論そんな事はしないが、代わりに貴様たちを凍らせて砕く」
その目が、魔理沙の方を向く。
「霧雨魔理沙……お前の言う通り、リリーは何か危険な事をしているのかも知れない。お前たちをダイヤモンド・ダストに変えた後で、私が様子を見に行くとしよう」
「私たちと協力、って選択肢は……無しか?」
「無理だ……このプリズムリバーどもが、私の闘争心を掻き立てる! お前たちと戦わずにはいられない!」
荒れ狂う暴風雪そのものの音楽に合わせて、白い嵐が吹き猛った。
隕石のような雹が、吹きすさぶ冷気の粒子が、そのまま弾幕となった。
「ちょっと、私らのせいにしないでよ冬妖怪! ああんもう、何か止まらないいいっ!」
リリカが悲鳴を上げながら、無数の音符をぶちまける。
「弾幕なんて野暮……なのにぃ、何よこれ迸るーっ!」
メルランが、長大な光の刃を発生させる。
「……チルノと言ったわね。ちっぽけで愚かな氷精……その愚かさの陰に、これほどの音楽を隠し持っているなんて……!」
ルナサが戦慄しながら、光弾の嵐を放射する。
流星雨の如き雹が、冷気の弾幕が、光弾が、音符の嵐が、回転する光の斬撃が、襲いかかって来る。魔理沙を、咲夜を、チルノを、まとめて粉砕する勢いだ。
「おいおい……こいつらの弾幕、暴走しかかってるんじゃ……」
「え……も、もしかして、あたいのせい……?」
そんな事を言っているチルノを、咲夜は背後に庇った。
「……桜を、咲かせてあげる」
(お嬢様に、御覧いただくための……桜……)
そこまでは口に出さず咲夜は、迫り来る弾幕の嵐を見据えた。
そして。心の中で燃え盛る炎を、叫びに変えた。
「だから……冬に蝕まれゆく幻想郷の春よ、私に力を貸しなさい!」
春が、応えた。咲夜は、そう感じた。
燃え盛る心の炎が、春の力と融合しながら迸る。そう感じた。
迸ったものが、レティとプリズムリバー楽団による暴走弾幕を薙ぎ払う。
雹が、音符が、光弾が、光の刃が、砕け散った。キラキラと飛散した破片が、光の粒子に変わりながら流れ漂う。
流れ漂うものを、咲夜は全て吸収していた。
レティが、プリズムリバー姉妹が、呆然としている。
何が起こったのかわからないのは魔理沙も同様のようであるが、行動は彼女の方が早かった。
「……よくわからんが、今のうちに霧雨フルコースを喰らうといいぜ!」
魔理沙が、光の嵐を射出していた。マジックミサイルが、魔力のレーザーが、一斉に射出されたのだ。
それだけではない。彼女の眼前に浮かぶ小型の八卦路が、極太の爆炎を噴射していた。
霧雨魔理沙の全火力が、レティとプリズムリバー楽団を、もろともに灼き払った。
「これは……!」
八雲紫が、息を呑んでいる。
同じく息を呑みながら、八雲藍は教えを請うた。
「紫様、これは一体……何が、起こったのですか……!」
まずは自分で考えてみろ、と紫なら言うであろう。
藍は、己の考えを述べてみた。
「まさか……意思ある幻想郷の季節が、本当に……十六夜咲夜という1人の人間に、力を貸したとでも」
「……まさしく、その通りよ藍。季節に関わり深い異変が起こった時、その異変に挑む人間が……ごく稀に、この能力を獲得する事がある。あるべき状態を取り戻さんとする、幻想郷の季節の助力……」
美しい口元を、紫は扇子で隠している。
涼やかな切れ長の両眼が、微かにながら驚愕に見開かれている。その様を隠せはしない。
「まさか……私が最も期待していなかった十六夜咲夜が、この能力に目覚めるなんて……」
「この能力、とは……?」
藍の言葉に、紫は息を呑みながら答えた。
「…………森羅結界」