第13話 敗者たち
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
宇佐見菫子は、夢を見ていた。
夢に違いない。こんなものが、現実であるわけがないのだ。
「殴らないと思ってた? 男は女を殴らないって、教師は生徒を殴らないって。残念、殴るんだなぁーコレが」
体育教師・菅原の拳が、蹴りが、容赦なく降り注いで来る。
眼鏡は壊れ、顔面は鼻血まみれである。口を開けば、豚のような悲鳴しか出て来ない。
そんな菫子の有り様に、クラスメイトたちが楽しげにスマートフォンを向けている。
「いいねー。いい絵、撮れてるよう菅原っち」
「あたしらのためにぃ、いつも頑張ってくれてる菅原センセにぃ、今日はご褒美の日! あたしらのオモチャで一緒に楽しんじゃおーの会ってワケ!」
「楽しい? ウザゴミ菫子ちゃん。ねえ楽しい? 楽しんでんだよねえ、そんなブタみたいに喚いちゃってさあ」
3人いる。3人とも女子である。クラスの女王とも言える今野敦美と、その取り巻きである有賀恵子に西優奈。
菅原光男は彼女らの奴隷で、宇佐見菫子は彼女らの玩具であった。
放課後の教室で、奴隷が玩具を壊しにかかっている。
(起こして……誰か……)
芋虫のように全身で床を擦り、身を折りながら、菫子は呻いた。血まみれの口の中で。
(誰か……起こしてよう……)
菅原が、菫子の小さな身体をガスガスと踏みつける。誰も起こしてくれないので、悪夢が終わらない。
「なあウザゴミちゃん。自分が何でこんな目に遭うか、わかってる?」
今野が言った。
「イジメとかじゃないの、わかってくれてるよね? もちろん」
「あんたさぁ、あたしらの事バカにしてる? よねえ、普段から」
有賀と西が、便乗する。
「何かさあ、そーゆう空気が滲み出てんだよ日頃ウザゴミのくせによお!」
「もういいよ菅原っち、本番いっちゃおう。殴らないと勃たない菅原っち」
今野の言う『本番』の意味は、すぐ明らかになった。
倒れ痙攣している菫子を見下ろしながら、菅原がカチャカチャとベルトを解いている。ズボンを脱ごうとしている。
この体育教師が、今野たちに奴隷として取り込まれた経緯は、菫子も噂としては聞いている。3人に、色仕掛けと言うか美人局と言うか、そんな事をされたらしい。そして弱みを握られた。
言ってみれば菅原も、今野たちの被害者。菫子と同じ境遇と言える。
そんな事を、しかし今、菫子は微塵も考えてはいない。
あるのは、ただ恐怖のみである。
「……嫌…………」
立ち上がれぬまま、菫子は身を引きずって後ずさりをした。
菅原が、おぞましく隆々と屹立したものを剥き出しにして迫り来る。
「ぎゃっはははははは! 相ッ変わらず元気だねえ菅原っち」
有賀が、馬鹿笑いをしている。
「でもさぁ菅原っちって案外まだ童貞だったりすンのよねぇー。何か直前でダメになっちゃう感じ? やっぱ殴りながらじゃないとイケないのかなぁこのセンセはもー」
「……うるせえぞ」
菅原の声が、痙攣した。
有賀が、ぐしゃりと吹っ飛んでいた。菫子のように鼻血を噴きながら。
先程まで菫子を滅多打ちしていた拳が、有賀を殴り飛ばしたのだ。
「な……何しやがんだテメエ!」
西が激昂する。有賀は、鼻血をぶちまけ泣き喚く。今野は呆然としている。
まともに声を出せる西が、さらに怒鳴り散らした。
「わかってんのかド変態野郎! テメーの画像だって」
それきり西は、喋る事が出来なくなった。口元が破裂し、舌がちぎれ、何本もの歯が飛び散っていた。
「ああああああ、おっ女! オンナ殴んのって気ン持ちイイイイイイイイイ!」
悦びの絶叫を垂れ流しながら、菅原は人間ではなくなっていった。ラグビーだかアメフトだかで鍛えた巨体はさらに筋肉を膨張させ、巨大化した両手が西と有賀をまとめて打ち砕き引き裂いてゆく。少女2人分の臓物やら何やらが、教室内にぶちまけられてゆく。
そんな光景の中で、今野が弱々しく尻餅をついた。
完全に人外の何かと化した菅原が、巨体を反らせて牙を剥き、叫ぶ。
「男が殴らねえからってよォー、てめえら女どもは調子ぶっこき過ぎだってんだよおクソゴミどもがああああああああっ!」
おぞましく勃起したものが、どぷどぷと液体を噴射する。
そんな姿のまま、菅原は菫子に向き直り、迫る。
「オメーはよぉ、なんかブン殴ってて特に楽しかったわ。もっともっとブチのめしながらコイツをぶっ込んでやっからよォーぐへへへへへぎゃぶッ」
笑いを悲鳴に変えながら、菅原はよろめいた。
その巨体に、無数の光が突き刺さった。菫子には、そう見えた。
何本もの、ナイフであった。
「私もね、お前たちを切り刻んでいると楽しい気分になれるわ」
心が凍り付くほどに、冷ややかな声。
優美な人影が1つ、教室に歩み入って来たところである。
力みなくナイフを保持する綺麗な五指に、菫子の目はまず向いた。
「それしか楽しみのない仕事……片付けると致しましょう。楽に死にたければ無駄な抵抗はしないように」
眼鏡がなくとも、はっきり認識出来る美貌。さらりと妖しく揺れる、銀色の髪。制服の似合う細身は、痩せているようで凹凸がくっきりとしており、男子生徒たちの劣情の的となっている。
「……十六夜……さん……」
菫子は呟いた。無視された。
十六夜咲夜。1週間ほど前に編入された、転校生である。
同じ中学生とは思えないほど、大人びている。本当は高校生ではないのか、と菫子は常々思っていたものだ。
「……ンだぁ、てめえは……」
よろめいていた菅原が、全身にナイフが突き刺さった状態のまま踏みとどまり、咲夜と対峙する。
ナイフよりも鋭く冷たい、少女の視線に激昂している。
「殴られてえってツラぁしてんなあ……ボッコボコにされながらよぉ、ズッコンばっこんヤられてえって目ぇしてんなああああ!」
襲い来る巨体に向かって、咲夜の方からも踏み込んで行く。
少女を捕らえようとした剛腕が、派手に空を切った。咲夜の細身と菅原の巨体が、擦れ違っていた。
どす黒い血飛沫が噴出し、何やら汚らしいものが大量に噴出する。
菅原の、臓物だった。
人間をやめた体育教師の、腹部に突き刺さっていたナイフを、咲夜が擦れ違いざまに引き抜いたのだ。引き抜きながら、彼女は切り裂いていた。
噴出した臓物が、魚の如くビチビチと暴れながら牙を剝く。
「あぁああぁあぁぁ……い、痛ぇええじゃねーか嬢ちゃんよォ! 男が殴り返さねーからって好き勝手やってんじゃねえぞメスガキがあああああああッ!」
叫びながら、菅原が臓物を伸ばした。
暴れ出した寄生虫のようでもある臓物が、大口を開いて咲夜に喰らい付こうとする。
ふわり、と太股が見えた。形良い太股にベルトが巻かれ、そこに何本ものナイフが収納されている。
「時間を止める、までも無し……」
咲夜は、空を飛んでいた。飛翔としか思えぬ跳躍で、牙ある臓物をかわしていた。
凶暴な寄生虫のようなものが、咲夜という標的を見失って今野を誤爆する。少なくとも外見は美しい少女が、呆然と座り込んだまま、美しい顔面を根こそぎ食いちぎられる。
その間、咲夜は、
「お前たち妖怪は、精神的な痛手に弱い」
空中から、光を投げつけていた。
美しい太股から、一筋の光が引き抜かれ、投射されたのだ。
「だから、このナイフに退魔の念を込める……それだけで、お前たちは終わりよ」
退魔の念、が込められたらしい1本のナイフが、菅原の眉間に深々と突き刺さる。
咲夜は、軽やかに猫の如く着地していた。
愛らしく端麗な唇が、冷たく言葉を紡ぐ。
「汚物が……消えて失せなさい」
精神的な痛手、なのであろうか。
ともかく1本のナイフに込められた『退魔の念』とやらが、菅原の全身に突き刺さった全てのナイフに伝播したようである。
悲痛な、だがどこか嬉しげでもある絶叫を迸らせながら、菅原は砕け散った。教室の壁に床に天井に、様々なものがビチャビチャッ! と付着する。それは爆発と言って良かった。
今野、有賀、西、菅原。全員が一緒くたになって眼前に広がっている。
起き上がれぬまま、菫子は呆然とそれを見つめていた。
「……以上。十六夜咲夜、お前の学校生活は本日をもって終了である」
スーツ姿の男が2人、いつの間にか教室に入り込み、仁王像の如く立っていた。
「相変わらず見事な手並みであった。守矢様も、お喜びであろう」
守矢。その名は、菫子も知っている。某政党の支持母体として知られる組織。
別段、危険な集団として一般国民に認知されているわけではない。表向きは、単なる大規模な宗教団体である。
裏向きの一面がある、というのはネット上の噂話に過ぎない。
曰く。この菅原のような、人間ではない何かが実は一般社会に大量に潜伏しているという。
それらを人知れず駆除する……言ってみれば妖怪退治の専門家のような集団を、私兵として使っている。
この十六夜咲夜は、そんな噂話の実例と言うべき存在なのか。
「私は……次は、どこへ転校すれば?」
「次は転校ではない。学生に化ける必要などない、大規模な戦いとなるだろう」
咲夜の問いに、男たちは答えた。
「十六夜咲夜。お前には、欧州へ飛んでもらう」
「……紅魔、ですか?」
「ヨーロッパ全域が今や恐怖と混乱のさなかにある。我が国がEUに絶大な貸しを作る好機なのだよ」
欧州で何か物騒な事が起こっている、というのもネット上の噂話である。
「守矢の退魔士として、その力……全世界に知らしめるのだ」
「人間が、妖怪に変わる……この度のような事案が、頻発しています」
咲夜は言った。
「その原因究明に、私はいずれ使われるものと思っていましたが?」
「人間が妖怪に変わる。その原因……お前には、すでにわかっているのではないか?」
「……そう、ですね」
自身が作り上げた虐殺の光景を、咲夜は冷ややかに眺めた。
「人間とは、醜悪下劣なる魔性のものへと容易に変じてしまう存在……」
「無論、守矢様の加護を受けたる我々は違うぞ」
「守矢様のご期待に、背いてはならぬ。さあ行こう」
男たちと共に、十六夜咲夜は去って行く。
その後ろ姿に向かって、菫子は弱々しく手を伸ばした。
「行かないで……」
声が漏れた。咲夜に、聞こえてはいない。
詳細は知らない。が、菫子にもわかる事はある。
十六夜咲夜は、自分とは全く別の世界の住人だ。今まではそうでなくとも、これからそうなる。
「私も……連れて行って……」
この悪夢そのものの世界とは違う、別の世界。
そちらの方が夢であるのなら、それでも構わない。
夢か幻のような世界。幻想の世界へ、十六夜咲夜は行ってしまう。菫子を、この悪夢のような現実に残してだ。
「連れて行ってよう……」
涙が溢れる。
絶望が心に満ち、溢れ出す。
溢れ出したものが、教室内に散らばった血まみれの机や椅子をカタカタと弱々しく揺らす。
自分の中で、何かが目覚めつつある。泣きじゃくりながら菫子は、ぼんやりと、それを感じた。
あの頃の自分は、思い上がっていた。
妖怪ごときに自分が敗れるはずはない。そう自惚れていた。自惚れ、以外の何物でもなかったと十六夜咲夜は思う。
自分が日本で退治討伐していたのは、今思えば妖怪とも呼べぬ輩であった。人間から変じた、妖怪の成り損ないだ。
欧州で、本物の妖怪を知った。人間を原材料とする出来損ないではない、生まれながらの妖怪。
その名は吸血鬼。
食物連鎖のピラミッドにおいて人間よりも上位に立つ存在が、気まぐれに抱いた温情によって、自分は今も生かされている。
それを思いながら咲夜は、冬の晴天を見上げていた。魔法の森の冬景色の、真っただ中でだ。
「出歩いて、大丈夫なのか?」
霧雨魔理沙が、声をかけてくる。
「あんまり無理するなと言いたいとこだが……身体が動くなら、ちょっと手伝って欲しい事が」
「この幻想郷では」
独り言のように、咲夜は言った。
「……春になると、桜が咲くのよね?」
「本当はもう咲いてなきゃいけない時期なんだぜ。そっか、お前らが来たのは夏の頭頃だものな」
「ええ。だから幻想郷の桜は、まだ見た事がないの」
桜。
人の心が腐り果てた、あの国の、唯一の美しいもの。
あの国からは急速に失われつつある風景をとどめた、この幻想郷という場所で、桜が咲く。本当は、もう咲いていなければならない。
お前の国の桜を1度、見てみたいわ。レミリア・スカーレットは、かつて咲夜にそう言った。
(幻想郷の桜なら、そろそろ咲きますよ。レミリアお嬢様……)
この場にいない令嬢に、心の中で語りかけながら、咲夜は言った。
「霧雨魔理沙。私に手伝わせたい事というのは……幻想郷に、春を取り戻す戦い?」
「十六夜咲夜。お前が一緒に戦ってくれたら心強い、とは言っておくぜ」
魔理沙が、じっと咲夜を見つめている。
「……頼む、力を貸してくれ」
「私は……妹様を、お止めしなければ」
「フランなら、いるぞ咲夜」
チルノが、いつの間にか、そこにいた。
じっと空を見上げ、何かを目で追っている、ようである。咲夜にも魔理沙にも視認出来ない、何かを。
「春の流れる道……その先に、フランもいる。これから魔理沙が行こうとしている所に」
「いい加減な事を……」
「なあ咲夜。チルノはな、お前も私も気付かなかったフランドールの存在に、真っ先に気付いたんだぞ」
魔理沙が言った。
「わかるんだよ。チルノには、私たちにはわからない事が」
「私は……妹様を捜し出して、紅魔館へお連れしなければならない。そのついでに、貴女の戦いを手伝えと?」
「ああ、片手間でいい。私1人の力じゃ……悔しいけど、駄目なんだ。駄目だって事が、わかっちまった。だから」
「魔理沙は……やれば、出来る子よ」
神綺、と名乗った少女が、いつの間にか家から出て来ていた。
「……行くのね?」
「ああ。世話になったな、いつか必ずお礼はする。今は、行かせてもらうぜ」
「……私も行くわ。魔界の神が、貴女の戦いを終わらせてあげる」
この少女の名は、神綺、ではないだろう。何となく、咲夜にもそれはわかる。
名無しの人形使い、としか今は呼びようのない少女の肩を、魔理沙がぽんと叩いた。
「お前は、まずは自分の名前を思い出せ」
「な……何を言うの魔理沙! 私は」
「お前が、強い魔法使いだってのは知ってる。私を助けてくれたもんな」
理知的な、だが現実を見つめていない少女の瞳を、魔理沙がまっすぐに見つめている。
「自分の名前を取り戻したお前は、もっと……どんなに凄い奴なんだろうって思うぜ。その時に力を貸してもらう。期待してるぜ」
「魔理沙……」
言い募ろうとする少女に、咲夜はナイフを突き付けた。
「ひ……っ……」
人形使いが、雪の上にへなへなと膝をついた。
怯えている。あの時、教室の床で、血まみれで震え上がっていた少女のように。
「おい咲夜……」
咎めに来る魔理沙を片手で制しながら、咲夜は言った。
「名無しの人形使いさん、貴女……戦いが出来なくなっているでしょう?」
座り込み、青ざめたまま、人形使いの少女は答えない。
咲夜は、言葉を重ねた。
「わかるわ。貴女、負けた事があるわね。全力で戦って、敗れ去って、後がないところまで追い詰められて……今、そこから逃げ出している最中なのよね」
「な……何が……」
聞こえる言葉を発する事が出来るだけ、あの時の少女よりはましか、と咲夜は思った。
「何が、わかるのよ……貴女なんかに……」
「私も負けた事がある、だから大きな事は言えない。後がないところまで1度でも戦ったのは、立派だと思うわ」
慰めにもならない事を、咲夜は言った。
「本気の戦いがもう2度と出来ないのなら……無理に、現実と向かい合う必要もない。人形たちに囲まれて夢を見続ける。それも悪くはないでしょう。無理に戦おうとするのは、おやめなさい」