第11話 妖精の目
原作 上海アリス幻樂団
改変、独自設定その他諸々 小湊拓也
「メイド姿が板についてきたわねえ、大妖精さん」
穴の縁に腰掛けた人魚が、嬉しそうに手を叩く。
霧の湖。凍り付いた湖面に穴を空けて、その人魚は姿を現していた。
「私、紅魔館のお嬢様が羨ましいわ。大妖精さんがメイドとして色々お世話をしてくれるなんて」
「紅魔館の方々には、良くしていただいてます」
大妖精は微笑んだ。
「わかさぎ姫さんのおかげです。お料理とか、いろいろ教えて下さって。メイドのお仕事するのに、すごく助かってます」
「……貴女、咲夜さんにいいように使われているだけよ」
小悪魔は、口を挟んだ。
「で……この人魚さんが?」
「はい、わかさぎ姫さんです」
「大妖精さんのお友達? 初めまして、わかさぎと申します。姫、は省いて下さって結構よ。付けていただけたら、それは嬉しいけれど」
「霧の湖に、人魚がいたなんてね」
小悪魔は身を屈め、わかさぎ姫をまじまじと観察した。
「パチュリー様に御報告したら、興味を持っていただけるかしら……」
「だ、駄目ですよ。あの方は、また危ない実験をなさいます。わかさぎ姫さんが変な生き物に変わってしまったら、どうするんですか」
「……貴女ね、パチュリー様を一体何だと思ってるの」
「パチュリー・ノーレッジさんなら私、会った事あるわよ。紅い霧が出ていた頃に1度ね。珍しくお屋敷から出て、1人で湖畔を歩いていたから」
わかさぎ姫が言った。
「どうして太陽を隠すのか訊いてみたの。お友達のためだって、あの人は言っていたわ。何日間も紅い霧を出し続けるなんて大変でしょうに。お友達思いの、優しい人なのね」
そう。レミリア・スカーレットのためであれば、パチュリーはいくらでも己の命を削ってしまう。
心の中で暗い炎を燃やしながら、小悪魔は言った。
「その、お優しいパチュリー様がね……無理をなさったせいで、寝込んでおられるのよ。ねえ、わかさぎ姫さんはご存じない? 迷いの竹林に、腕利きの薬師さんだかお医者様だかがいるってお話」
「あの人たちについては……私、友達から聞いた話しか知らないのよ」
「その、お友達に会えない?」
「……ちょうどいいわね。あの子、遊びに来たわ」
わかさぎ姫が、ひょいと視線を動かす。
その眼差しを、小悪魔は追った。
湖畔の、森。人影のようなものが、いくらか慌てて木陰へ隠れたところである。
「あらあら……あの子、貴女たちを恐がってるわね。大丈夫よ影狼ちゃーん、こっちへいらっしゃぁあああい」
わかさぎ姫が、手を振って呼びかける。
こんもりとしたものが、木陰からおどおどと現れ、凍り付いた湖面に恐る恐る足を踏み入れる。
そして、滑って転んだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
大妖精が、飛んで行って助け起こす。
一言で表現するなら、毛皮の塊であった。
何枚あるかわからぬ毛皮の外套を、歩行に支障をきたすほど着込んでいる。顔も見えない。毛皮と毛皮の隙間で、左右の眼光が頼りなく灯っている。
そんな着膨れした生き物が、大妖精に助け起こされ、ぺこぺこと頭を下げている。
着込んでいるのは、寒いから……だけではないようだ。小悪魔は、わかさぎ姫に問いを投げた。
「……人見知り?」
「許してあげてちょうだい。竹林に引きこもりがちな子なのよ」
「それでも、貴女には会いに来るわけね」
わかさぎ姫に会いに来た何者かが、大妖精にエスコートされて、よちよちと氷上を歩いて来る。
「ひ、姫……この人たちは?」
辛うじて女性であるとわかる、くぐもった声。
おどおどと灯った眼光が、小悪魔に向けられる。
「あ、悪魔がいる! 恐いよー」
「……ふふん。恐ろしければ、ひれ伏しなさい」
「ちょっと、小悪魔さん」
調子に乗った小悪魔を、大妖精がたしなめる。
わかさぎ姫が、紹介をした。
「私の友達、今泉影狼ちゃんよ。迷いの竹林に住んでいるの。影狼ちゃん、こちらは紅魔館の方々」
「ええと、私は正確には違うんですが……ともかく今泉さん。貴女に、お聞きしたい事が」
大妖精に続いて、小悪魔は言った。
「……竹林に、すごいお薬を作る人が住んでいるのよね。その人の事、ちょっと教えてくれると嬉しいんだけど」
「……病気か大怪我でもしたの? 誰か」
言いつつ影狼が、毛皮の懐から小袋を取り出した。
「よっぽどじゃない限り、あの人たちには頼らず自力で治した方がいいと思うよ……はい姫。つまんないものだけど、お土産。雪の下に生えてた」
「あら、春の山菜がこんなに……ありがとう! すごく嬉しい」
「本当に、ちょっとずつだけどね。春に、なってきてはいると思う……ああ、それで悪魔さん。あの人たちの事だけど」
「教えて。お願い」
小悪魔は、詰め寄った。
「私にとって、大切な方がね……今、よっぽどの事なのよ」
自力で健康を取り戻すなど、今のパチュリーには明らかに無理である。
「その人たち、というのは……恐ろしい方々なの? 助力の対価に、例えば命や魂を要求してくるとか」
「悪魔じゃないんだから、そんな事はしないよ……と、思うよ」
毛皮の塊が、頼りない事を言っている。
「親切な人たち、だとは思う。私も、助けてもらった事あるし……恩を着せてくる人たちでもない。何て言うのかな、親切過ぎて……ちょっと恐いと言うか」
「……わかる気がする。優しくされると、かえって恐い時あるわよね」
小悪魔は思う。レミリア・スカーレットが、まさにそれだ。
目下の者に対し、暴力的に振る舞う事もない。自分のような下等な魔物にも、優しく接してくれる。
だから皆、結局はレミリア・スカーレットの思い通りに動く事となる。己の意思で、だ。
あのカリスマは、妹によって容赦なく粉砕された。
それでも紅魔館の面々は、レミリアを守るための行動を取り続けている。運命を操る程度の能力は健在なのか。
「ごめんなさい、上手く説明は出来ない……ただね、あんまり積極的に関わり合ったら良くない人たち、っていう気はする」
影狼は言った。
「そんな人たちに、どうしても頼らなきゃいけない……ってなったら、私これからも時々、姫に会いに来るから。その時、言って。姫の友達なら、出来るだけの事はする」
「貴女が……私を、その人たちに会わせてくれるの?」
「私、そんなに大物じゃないよ。見てわかる通り」
影狼は、笑ったようだ。
「ただ……あそこで働いてる老いぼれ兎とね、知り合いなんだ。信用出来る奴かどうかはアレだけど、話くらいは聞いてくれると思う」
「霊夢! こっちよ、こっち。早くぅー!」
「こらこらレミリア、走り回らないの。転ぶわよ? まあそれは一向に構わないけどほら、日傘をちゃんと差しなさい」
博麗神社の境内で、レミリア・スカーレットが楽しそうにしている。
博麗霊夢に、微笑みかけている。
自分が知らない笑顔だ、と十六夜咲夜は思った。
レミリアはこれからも、咲夜の知らない様々な顔を、霊夢に見せ続けるのだろう。
「……当然ね」
鳥居の陰で咲夜は、霊夢とレミリアに背を向けた。
自分は一体ここで何をしているのだ、と思う。
レミリアの眼前に姿を現わす資格、どころではない。今の自分には、レミリアの顔を見る資格すら無いのだ。
「? どうしたの、レミリア」
「今……そこに誰か、いたような」
「気のせいでしょ。自慢じゃないけどねえ、この神社に来る奴なんて、あんたみたいな妖怪だけ! 吸血鬼が居候してる神社になんて誰も参拝に来ないわよ。まったくもう」
「ふふん。それなら、この神社! これから先はずっと私と霊夢、2人っきりね」
そんな会話を背に受けながら咲夜は、とぼとぼと神社の石階段を降りて行く。
そして、立ち止まった。
小さな人影が、足取り軽やかに石階段を上って来る。にこにこと、無邪気に楽しそうに微笑みながら。
人形のような美少女。だが今は、人形ではない。普段は無表情な美貌に、今は悦楽の笑みが浮かんでいる。
「妹様……!」
咲夜は息を呑んだ。
フランドール・スカーレット。この少女が、ここまで愉しげな表情を見せる相手は、ただ1人。
「駄目……紅魔館へお戻り下さい、妹様。ここから先、貴女様を行かせるわけには参りません」
咲夜は立ちはだかり、ナイフを構えた。
フランドールは立ち止まらない。愛らしい歓喜の笑みを浮かべながら、ぴょこぴょこと石段を上って来る。咲夜など、いないかのように。
この少女には、姉レミリアしか見えていないのだ。
「お許しを、妹様……レミリアお嬢様を、どうか許して差し上げて」
そこで、咲夜の言葉は止まった。それ以上、声を発する事が出来なくなった。
ナイフを振るう暇もなかった。フランドールは、すでに眼前にいる。小さな身体が、咲夜に密着している。
可憐な左手が、咲夜の鳩尾に突き刺さっていた。
可愛らしい五指が、咲夜の体内で、何かを握り潰す。
自分の身体が破裂するのを感じながら、咲夜は目を覚ました。
「おはようさん。よく眠れたか? もうちょっと寝ててもいいと思うぜ」
声をかけられた。
「働き過ぎのメイド長。お前さん、寝坊や二度寝なんてした事ないだろ? いい機会だ、ゆっくり休んじゃえよ。どうせ他人の家だぜ」
「……霧雨……魔理沙……」
柔らかな布団の中にいる自分の有様を、咲夜はまず認識した。
紅魔館の寝室、ではない。魔理沙の言う通り、他人の家だ。
他人の家で寝込むような事態に、自分は陥っていたという事だ。
「妹様は……」
「その傷、やっぱりフランドールにやられたんだな」
魔理沙にそう言われて、咲夜は気付いた。思い出した。
自分はフランドール・スカーレットを、止めようとして止められず、負傷したのだ。
布団の中で今、自分が着用しているのは、下着と包帯だけである。
美鈴あたりと比べて、随分と胸の貧弱な胴体に、きっちりと包帯が巻かれている。なかなかの手際だ、と咲夜は感じた。
ゆっくりと上体を起こす。
痛みはない。ただ何かしら激しい動きをすれば激痛が走るだろう、とわかる。
広い部屋に、2つのベッド。片方を咲夜が占領しており、もう片方に魔理沙が腰掛けていた。
「……貴女が……私を、助けてくれたの?」
「残念、私じゃないんだぜ。紅魔館を仕切ってるメイド長に、思いっきり恩を着せてやりたかったんだけどな」
魔理沙が笑う。
「まずはチルノに感謝しな。お前さんをここに運んで来たのは、あいつだ。そして運ばれて来た怪我人を手当てしたのは」
「私よ」
この家の主であろう人物が、そこにいた。椅子に腰掛け、編み物の手を止めて、こちらを見ている。
少女であった。魔理沙と同じ年頃、に見える。
理知的な瞳は、しかし咲夜の方を見ているようで、どこかあらぬ方向を見つめているようでもあった。
「貴女、人間? 信じられないほど頑丈な身体をしているのね。ふふっ、まるで妖怪みたい」
「……人の道は、とうの昔に踏み外している」
咲夜は言った。
「貴女が、私を助けてくれたのね。ありがとう……申し訳ないけれど、今は返せるものがないの」
「魔界の神はね、人間や妖怪に見返りを求めたりはしないわ。ただ救うのみ。その力と慈悲をもって、ね」
「魔界の神……貴女が?」
「そうよ。我が名は神綺」
少女がゆらりと優雅に椅子から立ち上がり、微笑む。
「大いなる魔界の造物主……その慈悲を受ける事が出来たのは、貴女の幸運よ。感謝など必要ないわ」
何体かの人形が、少女の周囲でちょこまかと踊る。魔界の神を讃える踊り、なのであろう。人形使いとしての技量は、まあ大したものだ。
魔理沙が、何か言いたげな顔をしている。
咲夜は理解した。
神綺などと名乗った、この人形使いの少女は、どうやら本当にあらぬ方向を見つめている。現実を見ていない。
見る必要などなかろう、と咲夜は思う。自分を魔界の神と、思い込むだけならば個人の自由だ。
現実が嫌なら、無理に直視する事もない。
(直視し難いものと、無理に向き合う必要などないのですよ? レミリアお嬢様……)
およそ五百年の間ずっと、レミリア・スカーレットは怯えていたのだ。己の背後でいつ目覚めるかわからぬ、フランドール・スカーレットという恐怖に。
紅魔館の主として、しかし怯えを見せる事は許されなかった。恐怖心をひた隠しにしながら超然と傲然と振る舞い、カリスマを演出しなければならなかったのだ。
針の筵であったろう、と咲夜は思う。
そんな環境から、レミリアは解放されたのだ。今は博麗の巫女の庇護下にあって、安寧を享受している。
そこへ咲夜が顔を出す事など、許されない。先程の夢の通りに。
(妹様は、私がお止めいたします。ですからレミリアお嬢様……その安寧を、どうかお捨てになりませぬよう)
「おお、咲夜が生きてた」
いきなり扉を開けて入って来たのは、チルノである。
「咲夜は強い! フランにぶたれて、生きてるなんて」
「……私が生きていられるのはね、チルノのおかげよ」
駆け寄って来たチルノの頭を、咲夜は撫でた。
「本当に、ありがとうね……ところで」
おかしな生き物を1匹、チルノは伴っていた。
包帯の塊が、黒い洋服と赤いリボンを着用している。
「お前、ルーミアね? 随分と酷い目に遭ったようだけど……また紅魔館に雇われてみる? 雇われ者を守ってあげるくらいの事は出来るわよ」
「えへへ、やられちゃった。咲夜さんと同じくらい恐い奴がいたなー」
「……私がちょっと馬鹿をやらかしてな。結果ルーミアに、こんな大怪我をさせちまった」
魔理沙が言った。
「で……どうだった? チルノ」
「……うん、魔理沙の言う通りだったよ」
チルノなりの、真剣な口調と顔つきであった。
「春が流れてる、川……って言うか道? みたいなのが空に出来てる。あれは確かに、あたいら妖精じゃないと、わかんないし見えないかな」