100文字小説 11-20
十一
ぼくは「大好きな湖」を油絵に描いた。生まれつき目が見えない彼女は、指先でなぞって「きれい」と言った。写真じゃこうは伝わらない。
彼女は「大好きな歌」を唄ってくれた。生まれつき耳の聞こえないぼくにも、その声は届いた。
ぼくと彼女の間に障害はない。
十二
若者のヘッドホンから音が漏れている。ダンスミュージックだ。サングラスの怖いオジサンが頭を振って近づいていくと、とつぜん踊り始めた。子供達がマネして体をゆすり、昔を懐かしそうに腰をふるおばさん。優先席の老人達は杖でリズムとり、スーツのサラリーマンはブレイクダンス……。
午後の山手線はダンスフロアと化す。
十三
その牢獄に鍵はかかっていなかった。看守もいないし、壁にはぽっかりと穴さえ空いていた。むかし、捕まっていた誰かが脱獄した抜け穴だった。
そんな牢獄にいつまで囚われている男がいる。
「もう、逃げよう」と決断できない彼は、自分で自分を閉じ込めている。
十四
忘れられない匂いとすれ違って僕は振り向いた。
駅のホーム。女の人の香り。その後ろ姿はもちろん彼女ではない。彼女であるはずないのだ。
(もう一度、君に会えるなら僕は何だってする……)
女性が階段を上って見えなくなっても、茨に絡みつかれたように僕は動けなかった。
十五
一歩、一歩、また一歩。同じ歩幅で生きてきた。
あの悲しい出来事に、顔色一つ変えずに前に進んだ私を冷酷という人もいた。幸福な時間にも別れを告げて旅にでた。
年のせいか、最近は歩幅が乱れる。
チッ、チッ、チ――
大きな古時計は誰にも気づかれぬまま、動きを止めた。
十六
君のこと 愛しているよ 誰よりも
仕事投げだし 逢いにゆきたい
それならば 妻と別れて 籍入れて
わたし惑わす 戯れ言よりも
人の世の 願い叶わぬ はかなさよ
これほどまでに 君を愛せど
十七
いやな夢だった。
部屋でゲームをしていると母親が入ってきて喚き立てる。
「お前なんかに生きてる価値はないんだよ!」
頭が真っ白になった。よく思い出せないが、気がついたら母親が倒れていた。血だらけ。
いやな夢だ。はやく覚めてほしい。
十八
神経細胞が死んでいく。思い通りにならなくなった身体は重さだけを残して肉の塊と化していく。
「残念ながら現代の医療で完治する方法はありません。この薬は進行を遅らせるためのものです」
こんな命、延ばしたところでどうなるものか。そう思いながら、一日五回の薬を今日もきちんと飲んだ。
十九
「ルールってのは破るためにあるんだよ」
若い男の二人組がやってきた。大学受験をおえた反動で、自由なキャンパスライフを謳歌しているのかもしれない。
「他人の決めたルールに従うなんて、俺は死んでもやだね」
信号が青になると、交通ルールに従って二人は歩き始めた。
二十
「やっぱりご飯とお味噌汁がよかった……?」
妻は心配そうに聞いた。私は怪訝な顔をしていたのだろう。
「新婚旅行で行った熱海のホテルで朝食バイキングだったでしょ? 思い出したら作りたくなっちゃって。覚えてる?」
「もちろんさ」と、席についた。
認知症の妻がつくった二回目の朝食を食べるために。