海
「よう、ブラジェイ! 買出しか?」
カジナルという町に来たブラジェイは、気の良い男に声を掛けられた。
ブラジェイはこの町より南東にあるグリレルという村の出身だが、週に一度か二度、買い出しにカジナルまでやって来る。
「ああ、まぁな。あとなんか適当な仕事はねーか?」
「そういや、先生んとこが人手不足っつってたな。行ってみたらどうだ?」
「先生んとこ、か……ま、行くだけ行ってみっか」
ブラジェイは男に礼を言って元気よく駆け出した。すると前方から見知った女がやって来る。
「やっほー、ブラジェイ!」
「よう、ティナ」
ティナは仕事中のため、軽い挨拶だけですれ違うだけだ。
彼女はカジナルに住んでいるが、グリレルによく遊びに来る、幼馴染みのような存在で、同じ十七歳だ。
「なんだ、むさ苦しい男がいると思えば、ブラジェイじゃないか」
そんな声が聞こえて今度は後ろを振り向くと、そこには長身の女が立っている。クロエという勇ましい年上の美人である。
「んだぁ、クロエじゃねぇか。お前、仕事はよ?」
「今は休憩中だ。煙草を吸うくらい構わんだろう」
「程々にしとけよ。んじゃな」
ブラジェイがそう言って背を向けると、「愛想の無い男だね」とクロエは煙草をふかしていた。
医者の家に来ると、ブラジェイは遠慮もなしにその扉を開ける。そして医師のエドガーの姿を確認すると、やはり「よっ」と軽く挨拶をして診療所に上がり込んだ。
「せんせー、俺でもできる仕事ねーか?」
「おお、あるある。すまぬが、薬を配達に行ってくれんかのう?」
「おぅ、それくらいならお安い御用だぜ!」
「薬を入れてある袋に住所を書いておるからな、間違えんようにの」
ブラジェイはたくさんの袋が詰められたカバンを手に取り、またカジナルの街中を走り始めた。一軒ずつちゃんと確認し、次々と配達していく。そして残りの一袋を手に取り、書かれた名前を確認して目を疑った。
「シンシア……」
そう呟いてブラジェイは眉を寄せる。昔、グリレルに療養に来ていた女の子だった。病気が良くなって、カジナルに戻ったはずだったのだが。
ブラジェイは訝しみながら、シンシアの住む家に急いだ。
家の前まで来るとブラジェイは乱暴にノックする。いや、乱暴なんて認識などなく、ごく普通にノックしているだけなのだが。
中から扉が開かれると、ブラジェイを見た女性は驚き、そして嬉しそうに声を上げた。
「まぁ、ブラジェイ君! 遊びに来てくれたの?!」
シンシアの母親のファーリンだ。彼女も共にグリレルに居たので、ブラジェイもよく知っている。
「おばちゃん、久しぶり。エドガー先生の使いで薬届けにきたんだが……」
その言葉を聞いたファーリンは、一瞬で顔を曇らせた。
「そう……まぁ、中に入ってあの子に会ってやってくれる?」
「シンシア……まだ悪ぃのか……?」
ブラジェイの質問に、ファーリンは答えようとはしなかった。ブラジェイは案内されるまま二階に上がっていく。
「シンシア、ブラジェイ君が来てくれたわよ」
ノックをしながら開けると、そこには顔色の悪いシンシアの姿があった。ブラジェイの姿を見ると、彼女はうっすらと微笑みを見せる。
「お久しぶりです、ブラジェイさん」
「……ヨォ、シンシア」
弱弱しい微笑みを見て、ブラジェイは少し声がうわずった。ファーリンは「ごゆっくりね」と言って部屋を出ていく。パタンと扉が閉じられると、少しの静寂が訪れた。その沈黙を破ったのは、シンシアだ。
「お元気そうですね、ブラジェイさん」
「ブラジェイさんはよせっつってんだろ。同い年なんだからよ」
元気だ、とブラジェイは答えずにそう返した。明らかに元気のない彼女の前でそれをいうには憚られて。
「だって、あの村でいる時、ずっとブラジェイさんのこと年上だと思ってたから……」
「そりゃ、俺が老けてたってことかぁ!?」
「そ、そういう意味じゃありませんけど」
シンシアは声を立てて笑った。その儚い笑顔が切なくなる。
「まーシンシアは童顔だからな」
「……未発達なんですよ……こんなだから」
年齢の割りに幼い体つきは、生まれついて病弱のせいだと訴えているようだった。ブラジェイはなんと言っていいかわからずに、一瞬目を逸らす。しかしすぐにその焦点をシンシアに合わせた。
「出かけ……られっか?」
「どこに……ですか?」
「どっか行きたいとこあるなら連れてってやる」
ブラジェイにそう言われ、シンシアは少し考えた後、呟くように答えた。
「海……」
「う……み……だぁ??」
この内地で海を見たいなどと、なにを言い出すのかと言わんばかりに、ブラジェイは声を上げた。その反応にシンシアは苦笑いする。
「だって、連れてってやるって言ってくれたから」
「まぁどうしてもっつーんなら連れてやらんでもないがな。お前、そんな遠出できんのか?」
「無理です」
「無理なこと言うんじゃねーよ」
「ブラジェイさんは見たこと、あります?」
「んあ? なにをだ?」
「海、ですよ」
「いや、ねぇ。この国から出たことねーからな」
「なーんだ」
明らかにがっかりされて、ブラジェイは眉を寄せる。
「なんだよ? なんで海なんだ?」
「知ってますか? すべての生命は、海から生まれたんですよ。一度生まれた場所を見てみたいって思いませんか?」
その言葉を聞いてブラジェイはプっと噴き出す。
「すべての生命が海から生まれただぁ? 俺ぁそんなとこから生まれた覚えはねーな。生まれた場所を見てみてーなら、お前の母親の腹でも覗いてみた方がいいんじゃねーのか」
「も、もう! ブラジェイさんってロマンがない!」
「そっかぁ? 俺ぁ割とロマンチストだぜ」
「ど、どこがですか!」
と、シンシアが叫んだ瞬間にゲホゲホと咳き込み始め、ブラジェイは慌てる。
「おいおい、大丈夫か」
「すみません、平気です……」
少し落ち着くとシンシアはゴクリと水を飲んだ。
「グリレルに来るか? また療養すれば……」
「もう、そこまで行く体力がないんですよ」
カジナルからグリレルまでは馬車で四時間かかる程度の距離だ。ブラジェイは早馬を飛ばして二時間も掛からず来ているが。
それだけの遠出が彼女にはもうできなくなっているのかと、ブラジェイは彼女の衰弱具合に愕然とした。
「どこなら行けんだ?」
その質問にシンシアが答えることはなく、やはりうっすらと笑っただけだった。そして二階の窓から階下を見下ろす。シンシアの視線の先にいた一人の少女が、元気に駆け抜けていった。
「ティナさん、ですね」
「ああ、本当だな。仕事帰りだろう」
「いいな、あんな風に走れて。そういえば、シャノンさんはお元気ですか?」
「あー、元気元気。相変わらず小うるさくってよぉ」
「ふふふ。いいじゃないですか。婚約者、ですものね?」
どーだかな、とブラジェイは言葉を濁した。シャノンとブラジェイは隣同士で幼馴染みだ。幼い頃に事故で彼女の両親が亡くなってからは家族同然に暮らしている。誰かに言われたわけでもないが、あの狭い村ではすでに婚約者と認識している者が多かった。特に過疎化が進んでからというもの、若い男女などブラジェイの弟のロビとシャノンしかいないため、それは必然とも言えるものだ。
「いいな……」
シンシアはポソリと呟く。なにがだ、と聞くほどブラジェイは鈍感ではない。そんな相手がいることに、彼女は憧れているのだろうと察しはつく。
「よかーねぇよ。俺の周りにいる女なんざ、シャノンやクロエやティナみたいな、気のきっつい女ばかりだぜ。たまにはしおらしくしてみろってんだ」
「ブラジェイさんにはそういう女性の方がきっと上手くいきますよ。だから、そういう人と仲良くなれるんでしょう?」
「だがなー、俺もたまには……」
ブラジェイはちらりとシンシアを見た。しおらしい、とは違うかもしれない。しかし、その控えめな性格がブラジェイには新鮮だった。
「なんですか?」
やはり彼女はうっすらと微笑む。そして気付く。さっき会ったときから比べると、幾分体調が悪そうだということに。
「いや……起きてて平気か? 悪かった、長居し過ぎちまったな」
「そんな、会えて嬉しかったです。お忙しいでしょうのに私なんかの話し相手になって下さり、ありがとうございました」
彼女が丁寧に頭を下げると、ブラジェイはその頭をそっと撫でた。いつも乱暴な彼の仕草とは思えないくらいに優しく。
「また、カジナルに来た時には寄ってやるよ」
「そんな、私と会う時間がもったいないです! ブラジェイさんの大切な時間を私に裂くなんて……」
「来てほしくねーってか?」
「いえ、そうではなくてですね……」
「なら来てくれって言えばいいんだ。他の奴ならきっとそういうぜ」
「他の奴……?」
「ああ、クロエなら『来い』、シャノンなら『来なさいよ!?』、ティナなら『来て来てー!』だな」
ブラジェイのその物まねが微妙に似ていて、シンシアは眉を下げて笑った。
「ふふふっ。じゃぁ、私も……来て、くれたなら……嬉しいです」
「ああ」
ブラジェイはにやりと笑うと席を立ち、その家を出た。
通りに出て振り返り二階を見上げると、シンシアはうっすらと微笑み、手をブラジェイに向けて振る。ブラジェイはそれに応えるように手を上げて、後ろ髪を引かれながらもカジナルを出た。
ブラジェイの近くにいる人間に、あんなに儚げに笑う女などいない。ブラジェイ自身、彼女のどこに惹かれたのかわからなかったが、放ってはおけなかった。
ブラジェイは週に一度から二度、カジナルに訪れる。そのたびにブラジェイはシンシアに顔を見せた。シンシアはブラジェイが現れると、とても嬉しそうにうっすらと微笑みを見せる。
しかし会うたびに消えていきそうな笑顔は、ブラジェイの心に不安を駆り立てていた。
「ブラジェイさんのお母さんもお婆さんも、お元気ですか?」
「ああ、元気元気。ピンピンしてるよ」
「そういえば私、ブラジェイさんのお父さんを知らないわ。お元気なの?」
「シンシアは会ったことなかったか。ま、もう会えないけどな」
「……え?それってどういう……」
「死んだんだよ。戦闘があってな」
「死……」
ごめんなさい、と頭を下げるシンシアは必要以上に青ざめている。ブラジェイは安易に死という言葉を使うのではなかったかと後悔した。
「いや、すまん、気にせんでくれ。それよかなんか買ってほしいもんとかないか? 次に来る時に持ってくるぜ」
「じゃぁ、木彫りの置物!」
「そんなもんでいいのか? ついそこで買えるぞ」
「買うんじゃなくって、ブラジェイさんが彫ってくれたものが欲しいんです」
「……俺がぁ???」
ブラジェイは顔をしかめた。自慢じゃないがそういう細かい作業は苦手だ。とてもじゃないがうまく作れる気がしない。
「すまんが、俺はそういうのはなぁ」
「海に連れて行ってっていうよりは、現実的だと思いますけど?」
「まぁな」
「木彫りの置物をプレゼントするのが流行ってるって教えてくれたの、ブラジェイさんじゃないですか」
「買っていいんならいくらでもプレゼントしてやるよ」
「いやです。ブラジェイさんの手彫りがいいんです」
引き下がらないシンシアにブラジェイは頭を抱えた。
「まぁ、作らないではないが……期待すんなよ?」
「ふふっ。期待しちゃいます」
やはり彼女はうっすらと微笑んだ。ブラジェイは「しゃーねーな」と覚悟を決めた様子でその日は彼女と別れる。シンシアは嬉しそうに二階の窓から見えるその後姿を見送っていた。
***
一週間後、ブラジェイは約束の物を持って現れた。照れくさそうに「ほらよ」と乱暴にそれを投げ、シンシアは宙に浮いた物を上手く受け取る。
「わぁ……!」
手に投げ入れられた木彫りの置物。何を彫っているのかはさっぱり分からなかったが、自分のために彫ってくれたという事実だけでシンシアは胸が苦しいくらいに嬉しかった。
何度も掘り直したため、手のひらに乗るくらい小さなものになっている。
「な、なんの形かわかるか……?」
不安そうに聞くブラジェイ。その様子がおかしくてシンシアはさらに微笑んだ。
「いいえ、わかりません……ごめんなさい」
やっぱりか、と頭を抱えてブラジェイは「魚だ」と教えてくれる。
「魚、ですか……」
「ああ」
「どうして魚なんですか?」
「おめぇ、海に行きたいっつってただろう。それ見りゃちっとは海に行った気分になれんじゃねーかと思ってよ」
シンシアは手の中の木彫りを見た。どこをどう見ても魚に見えないこれをみて海に行った気分になれ、と。不可能すぎてやはり可笑しくて笑った。
「んな笑うんじゃねーよ」
「いえ、嬉しくて……」
笑いをこらえるかのようにクックと笑うシンシアを見て、ブラジェイも同じように笑った。彼女が笑ってくれるのが嬉しかった。どんな理由であれ、この少女が笑ってくれるのは嬉しいことなのだと、ブラジェイの中で再認識する。
「大事にしますね。本当にありがとう。海に行けなくても、これを見て想像しておきます」
「ああ。しかし、なんだってそんなに海に行きてーんだ?」
「海はすべての生命の源だからです……海に浸かれば、生命力が溢れるような気がして」
そういう彼女の顔色はもちろんよくはない。出会った頃に比べると幾分よくなっているような気がしていたが、医者でない彼には本当のところどうなのかわからなかった。
「そうか……いつか、連れて行ってやるよ。だから元気になれ」
「……そうですね」
うっすらと微笑むシンシアの瞳に涙が滲んでいたことなど、ブラジェイは気付きもしない。
「私、元気になったらやりたいこといっぱいあるんですよ」
「なんだ?」
「走りたい。馬に乗ってみたい。旅に出てみたい。たくさんの町を見てまわりたい。人と触れ合いたい。学校にも行ってみたいし、剣術も習ってみたいな」
「そんときゃ、剣術の稽古に付き合ってやるよ」
「うん。……それと……」
「なんだ?」
「男性とも……お付き合いしてみたいな……」
シンシアは顔を赤らめる。そんな愛らしい彼女を見て、ブラジェイはフと笑った。
「ああ、シンシアみたいな性格なら、すぐにでも男ができるさ」
「本当ですか?」
「いや、どうかな。元気になっちまったら気が強くなって、中々できなくなるかもしれん」
「じゃあ、今彼氏を作っておいた方がいいってことですか?」
「まぁそういうこった」
そう言ってしまってからブラジェイはハッとした。目の前にいる少女が、自分に熱い視線を投げかけてきているのを感じ取って。そしてそんな視線が嫌ではないことに、ブラジェイは気付いていた。
しばらく見つめ合っていた二人だったが、シンシアの方が先に我に返って視線を外す。ブラジェイも慌てて同じように視線を外した。
「じ、じゃ、帰るわ」
「は、はい、今日はありがとうございました」
いつものように部屋を出ていくブラジェイ。シンシアはそれを見送った。
シンシアはなにを考えていたのだろうかと自身を嘲笑する。彼にはシャノンやクロエやティナといった、魅力ある女性が周りにたくさんいるというのに。
「こんな想いを抱えられて、彼もきっと迷惑よね……」
シンシアは病気ではない痛みを胸に抱えた。
もう会わない方がいいのかもしれない。こんな病気がちの人間では、彼に重荷を背負わせるだけなのだからと。
シンシアは彼からもらった木彫りのお守りを手に取った。
不思議な感覚がシンシアの中を駆け巡る。魚と言われればなるほど魚に見えてきたのだ。目を瞑ると、想像していた波の音が、傍で聞こえる気がした。
──海に、行きたい。生命力溢れる、海に。
元気になったら、ではなく、元気になるために海に行ってみたかったと、シンシアは心から思う。海に浸かれば元気になれる気がして。
「ブラジェイさん……」
彼のように強く逞しく、そして優しい人間に、シンシアはなりたかったのだ。願いは力ずくでも叶えそうな勢いのあの男が、シンシアは好きだった。
──でも、もう二度と会わない方がいいに決まってる……
彼のためにと、シンシアは唇を噛み締めた。最初に来て下さいなんて言うべきではなかったのだと。彼の時間を無駄に奪ってしまっていただけなのだと。
申し訳なくて、シンシアのその目からは、涙が零れ落ちた。
***
翌週、ブラジェイはいつものようにシンシアの家に訪ねたが、ファーリンに断られて会わせてもらえなかった。体調がすぐれないから、と。次も、その次も。
「ごめんなさいね、ブラジェイ君……今日も体調が……」
「そんなに話せねぇほど悪ぃのか?」
「いえ……多分、痩せこけてしまった自分を見せたくないのよ、あの子は……」
「俺はそんなの気にしねぇって伝えてくれよ」
「ねぇ、ブラジェイ君……」
ファーリンは申し訳なさそうにブラジェイに告げる。
「もう、ここには来なくていいの。今までありがとうね。感謝してるわ」
その妙な物言いにブラジェイは眉を寄せた。
「なんで……迷惑だったのか?」
「いいえ、そんなわけはないわ! あなたが来てくれたおかげで、あの子はすごく嬉しそうに笑うようになったもの」
「だったらなんで……」
「あなたがつらくなるだけだから……シンシアも、それを望んでないの……」
つらくなるだけ……どういう意味か一瞬理解できずに考えたブラジェイだったが、おそるおそる頭に浮かんだことを言葉に出してみる。
「悪い、のか……? そんなに……?」
母親は今にも泣きそうな顔で頷き、ブラジェイの頭は真っ白になる。
「どれくらい、生きられる……?」
「余命宣告を受けてから、もうその日はとっくに過ぎているの……あなたがここに来てくれた日……それがあの子の体力が持つであろう最後の日だった……」
その日からもう二ヶ月が過ぎようとしている。いつどうなってもおかしくない状態ではないかと、ブラジェイは体を震わせた。
「あなたに会ってから……嘘のように良くなっていったの。もしかしたら、治ったんじゃないかって思えるくらいに。……だけど、もう……」
「会わせてくれ!! シンシアに!!」
ブラジェイはファーリンに懇願した。自分に会えば、きっとシンシアは良くなるに違いないと。いや、違うのかもしれないが、ブラジェイはそう思いたかった。彼女が死ぬだなんて考えられない。
──再会してから、いつも微笑ってたじゃねぇか! 嬉しそうに、楽しそうに……! あんな笑顔を見せられる人間が、死ぬわけねぇ!!
ぎりっと唇を噛んだブラジェイに、ファーリンは眉を下げる。
「ブラジェイ君、もう娘のことは忘れて……あなたが苦しみを背負う必要はないわ」
「それは、俺が決めることだ!!」
そう言うと、ブラジェイはファーリンの制止を振り払って二階に駆けていく。ドタドタと騒々しい足音を響かせて、目の前に現れた扉を乱暴に開け放った。
「シンシア!!」
「ブ、ブラジェイ……さん……」
シンシアは驚きの瞳を見せる。しかしそれは大きくは開かれずに、なんとか目を開けた程度だ。頬は痩せこけて、顔色は真っ白。上布団から出ている手は、骨と皮しかなかった。
「やだ……見ない……で……」
シンシアはそのこけた手で自身の顔を隠す。しかし隠し切れずにその指の間から彼女の瞳が覗けた。
「シンシア……」
想像以上のその姿にブラジェイは愕然としたものの、ブラジェイは態度になど表さない。務めて明るく、いつもの調子で彼女に話しかける。
「おまーな、なんで俺を拒否してんだよ。俺がそんなちんけな人間だと思ってんのかぁ?」
「だ、だって……私……もう、きっと、ダメ……」
「ダメなわけあるか!!! やりたいこといっぱいあんだろ!? 旅に出たいんだろ!? 海、行くんだろ!! そんときゃ俺も一緒に行ってやるよ!!」
「ブ、ブラジェイさん……」
「なぁに、大丈夫だ!! お前のお袋さんは俺が説き伏せてやる。一緒に海、見に行こうぜ。だから元気になれ! な!?」
「うん……うん……っ」
元気になれ、なんて言葉を言うべきではないのかもしれないとは思った。彼女だって自分の体のことは気付いているはずなのだから。
それでもブラジェイは、前向きな彼女の姿が見たかった。声に出すことで本当にそうなるような気がして。
そんな力強いブラジェイの言葉を受けたシンシアは、不思議な力に包まれる気がした。もうダメだと、今にも死にそうだと思っていた自分の体に力が沸いてくるような感覚を、シンシアは覚えたのだ。
ブラジェイの元気な顔と声が自分の中に入り込んでくるような気さえした。彼がそう言うなら、本当にいつか海に行けるのはずだと。
「ありがとう、ブラジェイさん……私、頑張る。頑張るから……」
「ああ、しっかり食って、がっつり寝ろよ! また来てやっから!!」
「うん、待ってます!」
ほんの少し明るくなったシンシアを見てブラジェイはほっとした。
大丈夫だ、そんな簡単に死ぬわけがないと。彼女には生きる意欲があるのだから。
ブラジェイは優しく彼女の頭を撫でる。そして帰ろうとした時だった。
「お願いが、あるんですが……」
「うん? なんだ? 言ってみろ」
シンシアは激しく言い淀み、ブラジェイは何事かと彼女の次の言葉を何も言わずに待つ。そしてついに紡がれた言葉は。
「病気が治ったら、私と付き合ってくれませんか?」
という、ブラジェイが予想もしてなかった言葉だった。
驚きのあまりブラジェイが声を出せないでいると、シンシアは眉を下げて笑う。
「やっぱりイヤですよね……」
「イヤじゃねぇよ」
ブラジェイのその言葉は、ごく自然に出ていた。イヤなどあるはずがない。ブラジェイだってシンシアを好いていたのだから。
その言葉に驚いたのはシンシアの方だ。ダメだといわれるのを覚悟で言った言葉だった。そうすれば、諦められると。
「な、な、なんで……だって、シャノンさんは……」
「まぁなぁ。でもあいつにはロビだっているし、村の連中が勝手に俺たちをくっつけたがってるだけだからな」
「い、いいんですか? そんな、私となんか……私、絶対元気になってブラジェイさんと付き合っちゃいますよ?」
彼女が死ぬと思ったからイヤじゃないと言ったのではない。生きて、そして付き合ってほしいと思ったから出た言葉だ。
「ああ、絶対元気になれよ。シンシアが元気になったら、俺たち付き合おうぜ」
感激のあまり、シンシアの瞳から涙が零れ落ちる。まさか、そんな答えが返ってくるとは思わなかったから。自分の想いが人に通じるということ。それはなんて素晴らしいことなんだろうとシンシアの体は震えた。
「今日はゆっくり休めよ。震えてんじゃねーか」
「違うんです、これは……うれしくて……」
「そうか」
ブラジェイは優しく微笑み、その頬に手を置いた。しばらく見つめ合った二人はやがて顔を赤らめて目を逸らす。
「じゃ、帰るわ……」
「はい、お気をつけて……」
ブラジェイが帰っていくと、シンシアはゆっくり目を瞑った。しかし眠れそうになかった。想いを告げ、受け入れられた。こんな喜びが今までにあっただろうか。彼は約束を違うような人間ではない。元気になった暁には、必ず付き合ってくれる。それは確信だ。
──私、絶対に……元気になる。ブラジェイさんと旅をして、海を見て、そして……
たくさんの想像が彼女の脳を駆け巡った。早く元気にならなくてはと。
次にブラジェイが来るのはいつだろうかと胸を高鳴らせる。今別れたばかりなのに、もう会いたくて仕方がなかった。
シンシアはその日、彼の力強く優しい言葉を何度もリフレインしながら眠った。
ブラジェイが再びシンシアの家に訪れたのはその五日後である。
なにやらいつもと様子が違っているのを感じ取ったブラジェイは、二階に駆け上がった。開け放たれたままの扉。中にはシンシアの両親、そして医師のエドガーがシンシアを取り囲んでいる。
「シンシア!!!」
ブラジェイは彼女の名を叫び、その部屋に飛び込んだ。脈を診ていたエドガーがそっと場所を譲る。
「シンシア……シンシア!!!」
うっすらと目を開けるシンシア。その瞳が嬉しそうに笑った。
「ブラ……ジェイ……さん……」
その弱弱しい声。今にも瞑りそうな瞳。細い息遣い。誰が見たってわかる。もう、臨終を迎えていると。
「おい!! 海に行くぞ!!!」
ブラジェイの言葉に驚いたのは周りの大人たちだ。目を大きく広げたまま、ポカンとしている。
「行き……たい……行く……」
言われた本人は戸惑うことなく肯定の言葉を紡ぐ。それを受けてブラジェイは彼女の体をそのごつい腕で持ち上げた。
「な、なにをしておるのじゃ、ブラジェイ!!」
エドガーが慌てて止める。しかしブラジェイはそんな制止など聞く気はなかった。
「俺は、こいつが一番望んでることをしてやりてーんだ!!! 止めても無駄だぜ!!!」
「なにを言ってるんだ、貴様、誰なんだ?!」
ブラジェイの肩を掴んだシンシアの父親の腕を、今度は彼女の母親が掴んだ。
「あなた、行かせてあげて……! シンシアの、最期の願いなのよ!!」
泣きながら訴えるファーリンに、父親の手が緩む。その瞬間、ブラジェイはスルリとその部屋から飛び出した。
「お願いね、ブラジェイ君……!」」
ファーリンの言葉を背にブラジェイは駆け出す。彼女を抱きかかえていても、走るのになんの支障もなかった。軽すぎる彼女の体は、筋肉だらけのこの男にとって空気でしかない。
まったく重みの感じられないその体にブラジェイは震えた。もう、確実に死が迫っていることを如実に感じ取ってしまって。
腕の中のシンシア。彼女の息が引き取る前に海を見せてあげなければと、ブラジェイは町の南に向かって走った。
そして町を出て、さらに南下する。すると、そこには……。
「見えたぜ!!! 海だ!!!」
そう言われてシンシアは瞑っていた瞳をうっすらと開けた。そして、少し口の端をあげる。
「うそ……つき……湖じゃ……ないですか……」
「水があって魚がいりゃーおんなじだ!! これが海だ、そう思え!!!」
ブラジェイの勝手な言い分にシンシアはまたも口角を上げた。そしてかすかに頷く。
「海……ですね……」
「ああ、海だ!!!」
シンシアの瞳から涙が流れ落ちる。
「嬉しい……好きな人と、海を……見られる……なんて……」
「ああ……ああ、俺もだ……!!」
ブラジェイは彼女を優しく抱きしめた。強く、強く抱きしめたかったが、今にも消えそうな彼女の灯火を早めてしまいそうで、ブラジェイは彼女をシルクで包むほどの優しさで彼女を抱きしめる。
「ブラジェイ、さん……」
「シンシア……」
二人は見つめ合うと、シンシアはゆっくりと目を瞑り、そしてブラジェイは自分の唇を彼女に寄せた。
夕暮れの湖畔を背に、二人の唇は重なりあい、一つのシルエットを作り出す。
彼女の唇から死の香りがして、ブラジェイは喉の奥で泣いた。
そしてゆっくりと離れると、シンシアは嬉しそうに微笑む。
「私……初めてです……」
そういうシンシアの髪をブラジェイは優しく撫でる。
「そうか……」
「ブラジェイ、さん、は……?」
「俺も初めてだ」
嘘つき、という言葉をシンシアは飲み込んだ。
それが彼の優しさだと知っていた彼女は、ブラジェイを言及することなく。
優しい嘘を受け入れて、ゆっくり目を閉じていった。
「シンシア…………?」
その呼びかけに応える声はもう、ない。旅立っていった彼女の顔はとても安らかだった。
「シンシア……シンシア……ッ」
ブラジェイは彼女を強く強く抱きしめる。すでに旅立ってしまった彼女の体は徐々に冷たく硬くなっていく。死を、実感した瞬間だった。何度彼女の名を呼んでも答えはなく、ただ虚しく湖に響くだけ。
もし本当に海に連れていけたなら、とブラジェイは思う。彼女は元気になっていただろうか……と。
本当の海を見せてやりたかった。共に旅をし、いろんなところを見てまわりたかった。彼女との思い出は、部屋の中にしかない。あの部屋の中が、彼女のすべてだったのだ。
ふと、彼女の体から異物感を感じて彼女のポケットに手を入れてみる。出てきたのは、下手くそな木彫りの置物。
「シンシア……っシンシアーーーーーーーーッッツ!!!」
彼は叫んだ。心の赴くままに、彼女を抱きしめながら……
***
「うわーーー、海だよ! ブラジェイ!!」
ザザーーン、ザザーーンと波打つ音が聞こえて、ブラジェイは広がる景色を見渡した。
「私、海見るの初めてー! ブラジェイは?」
「俺も、初めてだ」
寄せては返す海。初めて見る、不思議な動きをした波。風で揺れる湖畔とは全くの別物だ。この力強さ。溢れる生命力。全ての生命の源。
ブラジェイは走り出し、ざぶざぶとその中に入っていく。
「ちょっと、なにやってんの!? ブラジェイ!! 宿でタオル借りてくるから待ってて!!」
そういうとティナは元来た道を走って戻っていった。
ブラジェイは仰向けに浮かぶ。湖よりも浮かびやすい気がした。
──海は全ての生命の源だからです……海に浸かれば、生命力が溢れるような気がして。
「ああ……力が、みなぎってくるようだぜ……」
少女の言葉を思い出し、ブラジェイはその身をしばらく海に預けていた。寄せては返し、止まることのない波。
「しょっぺぇ……」
そのしょっぱさが海のものとは知らず、ただ流れ出る己の涙の塩辛さだと、彼は思った。