第二話 常世
額にヒンヤリとしたものが、そっと触れた。
その冷たさに私の意識が少し浮上する。完全に覚ます切っ掛けになったのは、私に話し掛ける優しい声だった。
「……目を覚ましましたか」
低い声で話し掛けられて、私は完全に目を覚ました。見覚えのない青年が私を見下ろしている。
二十代前半に見えるその青年は、腰近くまで伸ばした黒髪を無造作に一つに括っていた。背はそれ程高くない。ただ、切れ長の目をした、とても顔面偏差値の高い青年だった。
「僕が見えますか?」
青年は返事をしない私を心配して、壊れ物を扱う時のように戸惑いながら、それでも優しく頬を撫で尋ねる。熱があるのかな、冷たいその手がとても気持ちよかった。
いつもの私なら、誰かに触られるのは嫌で嫌で仕方なかった筈だ。それでも無理に触ってこようなら、気持ち悪くなって吐いていた筈。
なのに……不思議と、青年の手を自然に受け入れている。だけど、それがおかしいと思える余裕は今の私にはなかった。
「どこか痛いところはありませんか?」
質問を変えて、再度青年は尋ねてくる。
「…………大丈夫です」
どうにか答える。とても小さな声だった。近くにいても、聞き取りにくい程の大きさだ。声もがらがらで、少し声を出すだけで息が上がって苦しい。
それでも、言おうとしている事は青年に通じたのか、ホッとしたように微笑みを浮かべ私を見下ろしている。凄く優しい目だ。
(何で、そんなに優しい目で私を見てるの……? それに、どうして苦しいの……?)
ーー私は死んだはずなのに。
死んでも苦しみは続くのかな。正直、それは嫌かな。気を失う前に味わった苦しみよりはましだけど。
「…………ここはあの世ですか?」
青年に尋ねた。
私の問い掛けに、苦笑を浮かべながら男は答える。
「違いますよ。ここは貴女の言う〈あの世〉ではありません。〈常世〉と呼ばれています」
「……とこよ?」
「ええ。〈常世〉です。〈あの世〉と隣接した世界。よく混同されてますが、全く違います。それに、死人はこの世界には来れません。……貴女は生きてますよ」
(生きている!? 私が!?)
私の驚きをよそに青年は言葉を続ける。
「正確に言えば、貴女は生き返って、〈常世〉に堕ちて来たのです。睦月」
その青年は、確かに「生き返って」と告げた。
(じゃ、一度私は死んだの? それに、何で私の名前を知ってるの? 今、はっきりと私の名前を呼んだよね。聞き間違いじゃないよね)
「……何で、私の名前をーー」
知ってるの? 最後まで言葉に出来なかった。
青年は私の言葉を遮るように瞼に手を添えると、「おやすみ……」と言った。青年の声は彼の目と同じように、とても温かく優しかった。
青年の声に促されたのか、強烈な睡魔が襲われ、私は夢の中に吸い込まれて行った。だから、私は知らない。
「お帰り、睦月」
青年がそう呟いたことをーー。
私がどうにか体を動かせるようになったのは、それから一週間後だった。
動かせるといっても、少し体を起こすだけで息が切れた。情けないよね。それに、まだ微熱は続いている状態だし。どうにか、トイレの往復が出来るぐらいかな。ゆっくりだけど。これでも、大分回復した方だ。
寝て起きての生活を繰り返していても、意識はしっかりしている。だから、色々な事を知る事が出来た。
私を助けてくれたあの青年は、意外と忙しい身らしく、目が覚めたあの時から姿を見ていない。代わりに私の看病をしてくれているのが、青年の親友、陣さんの妹だ。名前を小町といった。
驚く事に、小町さんは鬼の娘である。
小さい角が二本、屈んだ時にちらりと見える。その他は普通の人間と変わりはしない。ほんわかとした雰囲気を纏っている、可愛い(でも美人)鬼の娘さんである。
因みに、お兄さんの陣さんは北の王という偉い人に遣えているらしい。かなりのエリートなんだって。公務員のようなものかな?
小町さんや陣さんのような鬼を、この世界では【鬼人】と呼んでいる。北の王も鬼人なんだって。
この世界に墜ちて来た時、私はこの世界を〈あの世〉だと勘違いした。
〈あの世〉は死者が棲む世界。
反対に、〈常世〉はあやかしが棲む世界。
どちらの世界も、普通の人間は誰一人住んでいない。
ましてや、この世界に墜ちて来るまで、私は常世と接点がなかった筈だ。
だけど不思議なことに、小町さんは私の名前を知っていた。あの青年もだ。
その理由は至って簡単で、直ぐに判明した。
「二年程前かな。一度、ここに堕ちて来たことがあったから」
小町さんは微笑みながら、さらっと、とんでもないことを口にした。
(二年前?)
「そんな記憶ないんだけど……?」
二年前って言ったら十二歳だ。全く記憶がない。訳が分からない私に、小町さんは常世の世界について詳しく教えてくれた。
まず、〈常世〉と〈地球〉。
この二つの世界は、時間の流れ方が違うらしい。ラノベや昔話でありがちな展開だね。
〈常世〉の一年は〈日本〉では五年。
ということは、私が今いる常世の五倍の速さで、日本の時は流れている事になる。
そうすると、小町さんが言う二年程前って……十年前だよね。
私は身に覚えがあった。だって、その時に起きたことが、後の私の運命を大きく変えることになるんだから……、
十年前ーー。
四歳の時だ。私は神隠しに遭った。
神隠しに遭ったその日、雪が降っていた。常世に墜ちて来た時と同じだね。
私は公園で兄たちと雪だるまを作って遊んでいた。まだその頃は、私たち家族は家族だった。
両親は私たちが遊ぶ様子を離れたところで見ていた。暫くして、風邪をひいたら困るからと、私たちに帰るように言った時だ。私は両親の元に駆け寄ろうとして、皆の目の前で忽然と姿を消した。
戻って来たのは、それから十カ月後。
その間の記憶は全くない。
両親が私を恐れるようになったのは、この後だ。
小町さんの話が本当なら、私は二カ月間、常世にいたことになる。小町さんは常世にいる間、あの青年の家、つまりここにいたのだと教えてくれた。
直ぐに信じられるような話じゃなかった。
だけど、どうしても彼らが嘘を吐いているようには見えなかった。それでも、私が小町さんの話を信じたのは、私の好みと癖を知っていたからだ。私が忘れてしまった昔の自分の事を、彼らは知っていた。
小町さん曰く、二年前に常世に来たのなら、彼らが私の名前を知っていて当然だ。でも、疑問は残る。
「姿が変わったのに、よく分かったね?」
小町さんにとって二年前でも、私は十年分生きて来た。容姿がかなり変わっている筈だ。なのに……小町さんも青年も、迷わなかった。
「分かるわよ。全然変わってないじゃない」
私の問いに、小町さんは笑いながら答えた。それはそれで、とても複雑だ。
楽に起き上がれるようになってからは、私は小町さんの仕事の合間を見付けては、色々話し掛けた。 小町さんは嫌がらずに付き合ってくれる。
今まで人と出来るだけ関わらないように、ある一定の距離を保っていた私が、自分から話し掛けている。
全てに興味を無くしていた私が、この世界に、この場所に、明らかに興味を持っている。
私は小さい頃から……心にぽっかりと大きな穴が開いていた。その穴の正体が何なのかは分からなかったが、おそらく、私の中から消えてしまった記憶が関係していると、昔から考えていた。
その答えが今目の前にある。興味を持たない方がおかしい。
だから私は、小町さんに色々聞いた。そして知ったことがある。
私を助けてくれたあの美しい青年は、伊織という名前だという事。そして彼は、本屋を営んでいる事だ。
主に三階が住居で、私はその一室で寝かされている事。
前も、この部屋で寝起きをしていた事。その時も小町さんが泊まり込みで看病してくれた事。小町さんは私が椎茸が嫌いな事を知っていた。それは家族しか知らない事だった。
店主である伊織さんは、本の買い付けに行ったまま帰って来ないらしい。
一週間以上帰って来ないことも珍しくないって、小町さんは苦笑しながら言ってた。その間は、小町さんとサス君が店番をしている。サスケという名前らしいが、小町さんはサス君と呼んでいた。彼にはまだ一度も会っていない。
そして最後に……この世界の事。
たまに、私のように堕ちてくる人がいるって事。
だが、五体満足で堕ちて来る人は少ないらしい。大概が体の一部が欠損してたり、精神が壊れてしまった人も多いと聞いた。
私のように熱を出すだけの人間はすごく珍しいと、小町さんは教えてくれた。ましてや、二度も堕ちてきて平気なのは、あり得ないとまで言い切ったよ。
それから、これが最も大事な事。
〈日本〉に帰るには、伊織さんの力が必要だという事だ。その理由については教えてくれなかったが、彼が戻らないと帰れないことは確かなようだ。
そしてもし帰れたとしても、私はまた……この世界の記憶を失うのだ。
それが、この世界〈常世〉の理だった。
睦月が遂に〈常世〉にやってきました。
これからの睦月の成長を見て頂けたら、すっごく嬉しいです。私も睦月と一緒に成長できたらなぁと、考えています。
最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございましたm(__)m