白翼亭
「伊織殿とサスケ殿だね。錦から聞いている。こっちだ」
上空から降りてきた女天狗は、開口一番そう告げると、伊織とサスケが口を開く前にさっさと歩き出す。その対応に、伊織もサスケも額に青筋をたてるが、ここで事を荒立てるのは止めた。
凄く混んでいる人混みの中を器用に避けながら、女天狗はずんずんと進んで行く。一度も後ろを振り返らない。
伊織もサスケも、一度も誰にもぶつからずに、人混みをすり抜けて行く。女天狗は自分のスピードについてこれる二人に、内心、感服していた。
これだけの人混みを誰にもぶつからずに歩く。
それは簡単なことではない。かなりの俊敏さと動体視力が必要になる。
武術に優れた天狗たちでさえ、この人混みをすり抜けて歩くのは容易はない。実際、結構な人数で試してみたが、出来るものは錦以外に一人しかいなかった。義息子の伊吹だ。女天狗は夫である錦が二人を認める理由が分かった気がした。
伊織たちを迎えに来た女天狗が案内したのは、中央都首都の外れにある一軒の宿屋の前だった。
看板には『白翼亭』と書かれている。
宿屋の名前からして、天狗が経営しているのは分かるが、あの錦が携わってると思うと、伊織とサスケは戸惑いを隠せない。
昔の錦は強面で、本屋の店番や普通の時でさえ、笑みを浮かべることは滅多になかったからだ。子供を泣かしたり、女性のお客様を、普通に立って仕事をしているだけで怖がらせていた。その錦が、宿屋をやっている。昔を知っている者なら、戸惑って当然だろう。
戸惑う二人を放って、女天狗は宿屋の扉を開けた。
「お帰りなさい、姉さん。お客様ですね。どうぞ!! お好きなところにお座り下さい」
兎の耳をした獣人が、伊織たちを店内に案内しようとする。
「梨杏、この二人は客じゃない。旦那の昔の友人だよ」
梨杏に姉さんと呼ばれた天狗は、悠然と店内を通り抜け階段を上る。
「ついてきて」
伊織とサスケは促されるように階段を上った。
途中下を見下ろすと、結構な賑わいと繁盛ぶりがうかがえる。昼前だけど、かなりのあやかしたちがお酒を飲み、大声で騒いでいる。その間を兎の耳や熊の耳をした獣人たちや、天狗たちが忙しなく動き回っていた。皆、若い娘ばかりである。
「伊織、ここに錦がいるんだよな」
階段を上りながら、小声で伊織に話し掛ける。どうしても戸惑いを隠しきれない。
「確かにここにいますよ。サスケも分かっているでしょう。気持ちは分からなくもないですが……。それに、カラスも屋根に留まってますしね」
伊織が答える。確かに屋根に、伊織が放ったカラスが留まっていた。
「だよな……」
サスケと伊織の間に微妙な空気が流れる。
「何ぐずぐずしてるんだい。早く上がってきな」
階段の上から二人を呼ぶ声がする。
それにしても、この女天狗は少し、いやかなり口が悪いようだ。姉さんと呼ばれているのも分かる気がする。おそらく、彼女が宿屋を仕切っているのだろう。それに、先代の族長を平然と同じ天狗が呼び捨てにする。
伊織とサスケは、彼女の正体が何者なのか気付いていた。
伊織とサスケは視線を女天狗に戻すと階段を上った。後をついて行くと、女天狗は一番奥の部屋の前で止まった。軽くノックする。
「錦、連れて来たよ」
「入れ」
女天狗の言葉の後に、かなり低い声が一言かえってきた。その声を伊織とサスケはよく知っている。錦の声だ。
女天狗はドアを開けると二人を室内に通した。彼女は部屋には入らず、宿屋の手伝いに戻った。
「久しぶりだな。小僧、サスケ」
粋に着物を着崩した三十代半ばに見える男が、片膝を立て畳の上に座っていた。右手には煙管を持って、煙草を吹かしている。背中に生えているはずの翼は隠しているようだ。
錦ほどの法力を持っている術者は、自分の姿を自由自在に変化することが簡単に出来た。サスケが人型でいるのも、変化の一種である。本来なら、耳も完全に消すことは出来るのだが、人間そのものの姿は要らぬ厄介事を招きかねないので、あえて耳は残していた。
「錦、私はもう大人なんですから、小僧は止めて欲しいんですが」
錦は煙を吐くと、伊織の言葉に鼻で笑った。
「大人なら、目上に対して挨拶の一つぐらいしたらどうだ」
「悪いが、錦。俺たちにそんな時間はない。お前の息子に睦月さんが誘拐された。ここに来た理由は分かってるだろう」
サスケが錦を見据えながら、低い声で言い放つ。
錦は下からサスケの視線を受け止めると、軽く溜め息をついた。
「……正確には、弟の方だがな」
錦の言葉に引っ掛かったが、今はそんなことを追及している余裕は全くない。
「それは今、どちらでもいいことだ。錦、お前の所有している、白翼船をかせ」
サスケは不敵な笑みを浮かべながら、錦に言い放つ。それは恫喝でもあった。
実のところ、サスケの霊力は錦の法力を上回っている。それは見た目にも出ていた。
あやかしの見た目は年齢に左右されない。持っている、霊力や法力によって決まるのだ。サスケは錦よりも実際の年齢は遥かに上なのに、見た目は十歳以上違うのだ。サスケの霊力の強さが分かるだろう。今まで、サスケは本気になったことはないが、その実力は五聖獣も認めている程だった。
そのサスケが、今ここで本気を出しても構わない。そう言っているのだ。そうなれば、この店はあっという間に瓦礫と化するだろう。いや、瓦礫さえ残らない。
サスケにとって今一番大事な者は、昔の親友であり仲間であった者よりも、睦月なのだ。でも出来ることならば、そうしたくはなかった。
錦はサスケの顔をじっと見つめる。
再確認するまでもなく、サスケが腹を据えてここに来ていることは、長い付き合いから、錦はよく分かっていた。変わらんなと、錦は思う。
錦はサスケのことを前から、危ない奴だと内心思っていた。大切な者の為なら何でも出来る。何でもだ。自分を犠牲にすることも平気でやってのける。自分にはそこまで主に対して、思い入れることは出来なかった。羨ましいと思う反面、自分には到底出来ないと、錦はずっと思っていた。
「……分かった」
錦は軽く息を吐くと立ち上がる。
「船はもう用意している」
そう告げると、錦は後ろを指差す。
上空に一隻の船が停留していた。