第十話 黒髪の美女と空飛ぶ帆船
朝御飯をすませた後、栞に案内されて甲板に出た私は、驚き過ぎて口が開いたまま立ち尽くす。
「……サッ…サス君、栞、飛んでる!!!! 空を飛んでる!! スピード出てるのに全然風吹いてないよ!!」
興奮のあまり声が上擦る。
そう。この船は空を飛んでいたのだ。かなりの速さで飛んでいるはずなのに、甲板の上は不思議と無風だった。
「睦月様。主に、この世界の移動手段は、徒歩、馬車などが一般的ですが、他の大陸に行くには帆船でないと行けないのです」
栞が説明してくれる。
「どうして?」
「大陸それぞれに、守護結界が張られてるからですよ。特定の方法でしか、結界を通過することが出来ないんです」
今度はサス君が教えてくれる。
「その方法が帆船なんだ」
「そうです。正式な航路を通って入る。それが大事な事なんです」
サス君の説明を聞く。
(なるほど……)
自由に渡れたら、結界の意味がないよね。といって、完全に遮断することも出来ないし。犯罪者が入らないようにするためにも、通過方法が特定された方がいいよね。
だからこそ、特定の方法でしか行けないようにしてるのか……。
ここにいるのは私の意思じゃなかったけど、本屋を出て、私はこの世界のことを一つ知った。
甲板を走り、柵に手を掛け下を覗いてみる。遥か下で、建物の茶色の屋根が見えた。あまりの高さに足がすくむ。
サス君と栞は、そんな私の様子を微笑みながら見ている。一応、誘拐犯と被害者だよね?
「黒翼船全体を包み込むように結界が張られているので、この速さでも無風で安全に航行出来るんです、睦月様。黒翼船は常世一速い帆船なんですよ」
栞が教えてくれた。そのすぐ後だった。
「あんまり身を乗り出すと危ないですよ、睦月様」
栞とは違う、大人の落ち着いた女性の声がした。
私は声がする方を振り向く。
そこには、胸当てを装備した黒髪の美女が立っていた。腰には刀を携えている。背中には漆黒の翼根が生えていた。
そして、美女の数歩下がったところに、がっしりとした男が立っている。その男もまた、胸当てをし、腰に刀を携えていた。
私の顔から自然と笑みが消える。
「姉上!!」
栞が嬉しそうに声を上げる。
「栞、睦月様の前ではしたない」
黒髪の美女が栞を軽くたしなめる。栞は「すみません」と小さく呟くと、しゅんと肩を落とした。
栞は黒髪の美女のことを姉上と呼んだ。ということは……この二人、姉妹なんだ。
確かに顔形は似ているが、翼根の色、髪の色が全く違う。雰囲気もまとっている空気も全く違った。だから、顔形が似ていても、姉妹とは分かりにくかった。陣さんと小町さん兄妹とは正反対だ。陣さんたちは顔形は全く似ていないが、まとっている空気はよく似ていた。
私の表情の変化に気付いているのか、それとも、敢えて無視しているのか分からないが、栞の姉である黒髪の美女は微笑みながら尋ねてくる。
「睦月様、サスケ様、昨夜はよく眠れましたか?」
だが、私は返事を返さなかった。返したくなかったからだ。
私は厳しい顔で、私は話しかけてくる美女とその背後に控えている男を睨み付けた。
私を誘拐した男は腰に刀を携えていた。後ろにいるその男が、誘拐の実行犯なのか、どうかは分からない。あの場に複数人いたのかも分からない。
だが、その男と、族長の娘である黒髪の美女が関わっているのは明らかだ。もう少し突っ込めば、栞の姉が指揮したかもしれない。だって、彼女は族長の娘なのだ。
私は自分が誘拐されたことよりも、彼らか桂と刀牙を傷付けた、その事がどうしても許せなかった。子供にも平気で暴力をふるう人たちに、話しかける言葉を私は持っていない。そして、聞く耳も持ち合わせていない。
「サス君、行こう」
自然と私の声は低くなる。私はサス君にそう声を掛けると、甲板を後にした。
「睦月様!!」
栞が姉に頭を下げ、急いで私の名を呼び後を追いかけてきた。
「睦月さん。睦月さん」
サス君が私の足下で何度も私の名前を呼ぶ。唐突に足を止めた。サス君が私のふくらはぎにぶつかる。
「……睦月さん?」
起き上がったサス君が、心配そうに私を見上げている。
「だって許せないよ!! 私を誘拐するのに、桂と刀牙を傷付けたんだよ。子供に平気で暴力をふるったんだよ!!」
今でも、胸が締め付けられる。
桂と刀牙が突風に吹き飛ばされて、ピクリとも動かなかった。あの光景が頭から焼き付いて離れない。
私は一気に吐き出すと唇を噛み締めた。握り込んだ爪が掌にくい込んでいる。握り込んだその手に温かいものが、そっと触れた。栞だった。
「睦月様、手が傷付きます」
その声はか細く震えていた。私の手に触れるのに、どれだけ勇気がいっただろう。だけど私は、反射的にその手を振り払った。栞を思いやる気持ちに余裕がなかった。
「……ごめん、栞。しばらく一人にして」
私は栞に視線を向ける事なく、サス君と共に部屋に戻った。そして襖を背に座り込む。
何でだろう……。
悲しい訳でもないのに涙が出てきた。悔しかった。そして、腹がたった。
天狗たちに対してもだけど、一番に腹が立ったのは自分自身だった。何も出来ない自分自身に腹が立つ。
涙が次から次へと溢れてくる。溢れ出てくる涙をどうすることも出来なくて、声を殺し、ただ膝を抱えて震えていた。
サス君はそんな私に声を掛けることなく、ずっと横に座っていた。
長い間……そうしていたと思う。
顔を上げた時、太陽は完全に真上を過ぎていた。
顔を膝から離した私に気付いたサス君が、声を掛けてくる。
「……大丈夫ですか?」
泣き腫らした真っ赤な目を擦りながら、私は照れくさそうに笑って答えた。
「もう、大丈夫。なんかすっきりした。ずっと側にいてくれてありがとね、サス君」
そう答えた私を見て、今度はサス君は下を向いてしまった。
「どうしたの? サス君」
「……すみません。僕がしっかりしてなかったから、睦月さんも桂たちも傷付けてしまった」
サス君は辛そうに、とても苦しそうに謝罪の言葉を吐き出す。
私はそんなサス君を抱き上げると、ギュッと抱き締めた。首筋にサス君の温かみを感じる。私はクスッと笑うと言った。
「馬鹿だなぁ、サス君は。偉い狛犬様なのに。私はいつでもサス君に護られてるよ。サス君がここにいてくれるから、私は私でいられるんだよ。……ありがとう、サス君」
サス君は何も言わなかった。
(涙がまた出そうだよ)
私は泣くのを我慢する代わりに、サス君を抱き締める腕に力を込めた。
数ヵ月前は泣くことなんてなかった。
自分自身を守る為に心を殺してた。それが強さだと勘違いしてた。でも今は……簡単に泣いている。感情を制御出来ない自分がいる。でも不思議と、自分が弱くなったとは思えない。
(強くなったとも思えないけど……)
なんか可笑しくて、笑みがこぼれた。
「サス君、お腹すかない?」
間の抜けた質問に、サス君はつられるように笑う。
「そうですね。お腹空きましたね」
私はサス君を畳の上に下ろすと、部屋の襖を開けて廊下へと続く引き戸を開けた。廊下には栞が立っていた。あれから、ずっと立っていたのだろう。栞の優しさに胸が熱くなる。
「……睦月様………」
心配そうに呼び掛ける。私は払い除けてしまった栞の手を握り締めた。
「一緒にご飯食べよう」
「一緒にですか!?」
私の提案に栞は驚いている。私は「うん」と頷いた。
「はい!! すぐにお持ちしますね」
栞は嬉しそうに満面の笑みを浮かべながらそう答えると、廊下を走って行った。
私は引き戸を閉めると部屋の奥に戻る。
この時、私は気付いていなかった。
廊下の壁に、大きな割けたような傷が出来ていたことをーー。
そして、何も気付かず部屋に戻る私とサス君を、曲がり角の陰から見詰めている女と男がいたことなど、私は知るよしもなかった。
最後まで読んで頂いて、本当にありがとうございました。