八合目にて
僕は、僕が一番信頼している叔父さんと山登りをすることになった。
その山登りで、お互いにお互いの心の固まりを解かしてゆく……
周りにある、僕を囲んでいる大自然。
周りは薄いもやに包まれていて、風景全体に白を含ませて、ぼかしたようになっている。
ちょっと遠目になって、自分の目指す山の頂上から目を離してみる。
すると、自分が大自然の真ん中に置き去りにされてしまっているような、得もいえぬぞくぞくっとしたものが背筋を駆けのぼってくる。
僕の周りにある、緑とも灰色とも白色とも言えない微妙な色の地面。
その色の中身が、限りない。
言葉では表現できない、今の自分のいるこの地面の色。
空気が綺麗だ…… 早朝の、このすがすがしさが全身に染み渡ってくる。
心の奥に溜まっていた、灰色っぽいものがすっかりと溶け込んで、なくなっていくようだ。
心の洗濯って、こういう状態のことを言うのかもしれないな……
そして、改めて思う。
僕は一人では生きてはいけない。
こんなに限りない世界で、一人ぼっちになるのは嫌だ……と。
◇ ◇ ◇
僕は今、高校二年生。
普通の公立高校に通っていて、普通の高校生活を送っているつもりだ。
ちなみに学業の方の成績は、クラスの中では結構いい方だったりする。
でも…… でも、最近どうにも調子が出ないんだ。
けだるいというのか、無気力というのかは分からないが、何かにとり憑かれているような感じがするんだ。
原因はよく分からない。ま、とにかく何をやってもうまく行かないんだ。
テストの点数は、それなりに以前通り準備はしているつもりなのだが、全然芳しくない。
それも関係してか両親とはつまらないことで衝突ばかり。
友達との話の輪に入っていくことさえ、最近気が乗らない。
自分を取り巻いている物事が、自分から遠く離れたところにいつの間にか遠ざかっていってしまう気がする。
その物事を、自分の方に引き寄せて処理していくのがだるいのだ。
自分の立っている位置の周りに、新鮮な光が入って来ない。真っ白な、曇り一つない光が。
これは、僕が手を伸ばしていないせいなのか、それとも僕のいる位置自体が悪いのか……
思えば、昨日もうんざりだった。
ことの始まりは、『日本は今、平和だよなあ〜』なんて、父さんが仕事から帰ってきて、夕食の場でぽつりと言った言葉だった。
その後、僕が何か突っ掛かるようなことを言ったのだろう。
父さんがだんだんと僕にじりじりと寄ってきて、それに対して僕も、調子に乗って応戦し出してしまった。お互い疲れていたこともあって、好戦的だった。
はじめの方はまだ良かった。良識ある家族会議、のような雰囲気になっていたからだ。それはそれで悪い状況ではない。
しかし、疲れていたこともあって、昨夜はお互いに好戦的すぎた。
だんだん互いに言葉使いは荒くなっていき、お互いの言葉にケチをつけだした。
それが度を越してヒートアップしてしまい、激しいつば競り合いになってきた。
『おまえはいっつも屁理屈ばかりしか言わないな!』
『僕が言ったこと、みんな屁理屈にしてるじゃないか!』
時計の短針が一周したぐらい回って来た頃には、
『おまえはどうしてそうやって人を嫌な気分にさせるんだ!』
『今の状況はお互い様じゃないか! どっちが人を嫌な気分にしてるのかなんて知ったものか!』
という段階になり、挙句の果てには
『いい加減にしろ! 父さんがおまえをどれだけ苦労して育ててきたと思ってるんだ』
というような過激な発言まで双方が使い出して、
『そんなにこの家に居たくないのか!!』
ってところまで行ってしまった。
時計の短針はとうに三周を完走していた。
どこでどう折れ曲がったらあそこまで行ってしまったんだろう……
今思っても不思議で、きっかけすらもよく把握できていない。
たった一言、父さんたちの気に障ることを言ったのだろう。
どこか、ほんの何気ないところで。
……どっちが悪かったのか、それは当然闇の中。
なんか、学校の方でもいまいちぱっとしない。
友達と話をしている時に、時々、浮かない表情を無理に笑顔に直して、ひたすら相
槌ばかり打っている自分にはっとしたりする。
以前は集中できていた授業にも、最近は授業の終了時間しか気にならない。ついつい時計の方に意識が吸い寄せられてしまう。
もっとひどい時には、気が付けば授業中に夢の中と現実との境目が分からなくなっ
てしまっている時もある。
分かりやすく言うと、耳の奥では先生が教壇に立っていて、こちらに話し掛けてきている。
しかし、頭の中は真っ白になっている。
というような状態。
授業中に眠気を覚えることすらなかった、かつての勉学に燃えていた僕はどこにいったのだろう。
最近はうんざりだ。
どっちを向いても、明るく開けている方向がないんだ。
もともとは真面目な、周りから見れば優等生だった僕だからこそ、こんな状況が一
番許せないのは自分だった。
自分が、底が見えないほど深い灰色に濁った底なし沼に落ちてしまうような気がするの
が、怖い。
堕落しきって、周りから『あいつはもともとは優等生だったのに……』なんて陰口をたたかれたくない。
このまま行ったら、戻れない所まで行ってしまいそうな気がする。
街灯も街の明かりも、何にも無い所まで逝ってしまう気がする。
でも、そんな状態からいつも僕を引っ張り返してくれる人が一人だけいる。
僕の叔父だ。
僕の叔父は、僕にとっては赤々と光る灯台のようなものなんだ。
僕が迷っていたら、湾までの道筋をその力強い光で導いてくれる。
僕が悩んでいたら、向かうべき所をそれとなく照らしてくれる。
僕が困っていたら、その素直な赤い光で、行方がわからなくなったものを、四方八方くまなく捜してくれる。
叔父はそんな人だ。
彼は、思い出せばいつだって僕の側にいてくれた。
彼だけは信じられる。そう、その彼だけは……
◇ ◇ ◇
ところで僕は今、B山の中腹、いやもうちょっと頑張れば頂上が見えるちょっと手前の辺りにいる。
眼下は、まるで小さい点の集まりみたいだ。
ぼーっと下の世界を見下ろしたら、自分が飲み込まれてしまいそうな錯覚さえも覚えるほど、世界はこまかかった。濃かった。
実は、今回の登山は、叔父が僕を誘ってくれたものだった。
まあ叔父は僕をよく登山に誘ってくれるから、今回がそんなに特別なんだという訳ではないのだけれど。
僕は、通常だったら、基本的に登山はあんまりやりたくなかった。
まず第一に、体力に自信がない。
それに、苦労して山頂に登ってどうなるのか? とも思うし、
一番大きいのは、これまでにほとんど登山経験がなかったことだ。
しかし、一方の叔父は根っからの登山好きで、僕の前であまりにも山登りについて楽しそうに話すものだから、それを聞いていたらついつい乗ってしまって、今回は一回行ってみようかな、ということになったのだ。
その流れに乗って今に至っている。
流されて、ここまで乗ってきてしまったけど、叔父さんの具合は大丈夫なんだろうか?
当然のことだが、それがすごく気になった。
けれど、そんなに大事なことを差し引いてでも、今回はどうしても叔父と一緒に行きたかったんだ……
実は、叔父さんは末期がんに罹っている。そして、もう、余命何ヶ月なんていう状態まで進行しているんだ。
『最初に気づいた時にはもう手遅れだったんだ。医者のつぶやいていた言葉を盗み聞きしてその事実を知った』
と、叔父さんは僕に話してくれた。
叔父さんによると、うっかりと医者が看護婦にこぼした、
『かわいそうに』
という一言が耳に飛び込んできたらしい。そして、普段からの医師の異様に温かい視線を思い出し、大体のことを察したという。
聞きたくて聞いたのではない、聞こえてしまったのだ、と。そうも叔父さんは話していた。
僕はその少し前に家族からその話を聞いていた。だから、初耳ではなかったけれど、何回聞いてもショックは大きかった。
特に、本人から、その告白を受けた時には、叔父さんに思わず泣きついてしまったほどだった。
僕、もうそんな歳じゃないのに。
でも、その瞬間にはっきりと見えたんだ。
叔父さんが、僕の声の辿り着けない、分厚い何層もの壁の向こうにある別世界へと、ゆっくりと進んで行く光景が。
その時に僕は叔父に向かって叫んだんだ。死なないでくれ、って。どうにもならないのに。
なんとかならないの、と。そんな方法があったらこんなに胸が詰まるようなことを聞くことも無かっただろうとは知りながら。
結局は、そんな事を言っても叔父にとってはどうしょうもない事なのに。
そして、冷静に遠くから眺めているような気分になろうとして気づいた。叔父が一番苦しいはずだということに。
それ以上は一言も言葉が吐けなかった。医者の悪口も、叔父さんの“最後の望み”も。
自分の能無し加減にほとほと悲しくなった。
冷静になって考えてみると、どこからどう見ても、僕は止めるべきだった。叔父さんは、もう登山するような身体じゃないんだから。
でも、僕はこの天からの贈り物のような時間を、むざむざと天に返すようなことはできなかったんだ。
二人っきりで。
二人っきりで何かできるのはこれが最後だと、頭の奥でうるさく警鐘がなったから。僕は、自分を抑えられなかった。
当然、僕以外にも、叔父さんの周りにいる人みんなが心配した。
そして、誰もが止めようとした。でも、叔父さんは頑としてそれをはねつけた。
『俺の人生、最後は自分の好きなことやって幕を閉じたいじゃないか!』
叔父さんは、ついにみんなの前でそう言い放ったらしい。
その話を叔父さんが複雑な表情をしながら話してくれたとき、僕はようやく悟った。
どうして誰も僕に“行くな”と言わなかったのか。そして、なぜかみんなが僕に視線を集めているような気がしていた訳を。
◇ ◇ ◇
今回、叔父が僕と二人で登るのに選んでくれた山は、家から電車に乗って一時間弱の所にある、郊外のとある山だった。
秋には紅葉が有名で、麓のあたりは大勢の人が紅葉狩りにくるらしい。しかし、あいにく今は夏真っ盛り。
周りの木々はまだ平生の姿でぴんぴんしていて、青々として堂々と生い茂っている。季節はずれと言っては何だが、人はだいぶまばらだった。
ところで、この山は、登山者達にとっては難易度が低めの山らしいと言っても、山頂まで行くとなると標高は結構ある。
普通にプランを組めば一泊二日で登るような山なのだ。冬になったら山頂にはちょっとだけだが雪も降る。
果たして僕なんかに登りきれるものなのかどうか……
そして、叔父さんは本当に大丈夫なのだろうか……
ところが叔父さんが言うには、『俺だけだったらこんな平坦な山、お断りだな』レベルらしい。平らすぎる、と言うのだ。
さらに、今回は僕に合わせてゆっくりと登ってくれると言う。
『裏を返せば、この山には急な斜面もないし、かといって低すぎるというものでもないから充実感もそれなりにあるだろうしな。
ちょうどいいんだよ、俺達には。俺だって、今回はちょっとは楽しみたいしな。低すぎたら面白くないからな』
叔父さんに、この山を選んだ理由を聞いたらそうさらっと答えてくれた。
どちらも、末期がんの患者が言う台詞ではないな、と僕は苦笑い気味になる。
でも叔父さんが楽しめるのならば、僕はそれで良いと思う。これは、早まった意見なのだろうか?
叔父さんはその後に、何かにこそっと混ぜて流すように、
『俺の具合は気にするな』
と付け加えていた。何はともあれ、叔父さんが人のことを気遣いできる余裕がある、というのはホッとできた。
しかし、他方では、僕の心の中でますます何かの不安が大きくなった気がして、叔父さんの方を向いて、そっとつぶやいた。
『無理はしないで下さいね、絶対ですよ』と。
僕は、上は軽い感じの薄手の上着、下はジーンズっぽい長ズボンという比較的ラフな服装に身を包んでいる。
叔父さんに言われて、ちゃんと温かい上着も持っては来ておいた。準備は万端だ。
叔父さんは、何か、すごく懐かしさを感じさせるような、全体を色で表すとすると、茶色っぽい登山姿だった。それがいつも通りの登山姿だと叔父さんは言う。実際、見ていると着慣れている感じが伝わってくる。
でも、その中身は僕とあんまり変わっていない。違うのはズボンが大人っぽい、落ち着いた感じの生地だというところぐらいではないだろうか。まあとにかく、その格好が着慣れているらしい。
そしてついに、僕たちは明るく最初の一歩を同時に踏み出した。
これからの道のりの前途が楽しくなるように、かけがえの無いものになるようにと切に願いながら。
腕時計は七時過ぎを指していた。日がはっきりと地平線から顔を出し、存在感をアピールしだしてくる。
山は何にも答えない。しかし、木々はさらさらと優しく揺れていた。
登り始めてしばらくは、いわゆる物珍しさというやつも手を貸して、足は無意識にずんずんと進んでくれた。
でも、世の中そうはうまくできていない。
ここで、いきなりだか一つの法則を紹介する。
何かのものにチャレンジするとする。それが日記でも、毎朝ジョギングでも、早寝早起きでも何でも良い。
それらは、挑戦を始めた始めのうちは、“こんなの楽すぎるのでは?”なんて気持ちすら起こってくる。自分を何かが支えているような心強さを感じる。しかしその実は、ほんの少しかじっただけの状態では、それらの本性は八割も見えていない。
そして、とある時にいきなり気づく。“これはかなり長い勝負になるぞ”、と。
そして、それに臆するようになったら最後だ。背中を向けたその途端、それは本性をあらわにする。 いきなり不意をついて掴みかかってくるんだ。
そこから寝首を掻かれてしまうか、とっさの判断でそれをかわして堂々と向かい合っていけるかは別問題なのだが。
叔父が言ってくれた、『急ぐと後が辛いぞ』という忠告も僕には全然耳に入っていなかった。
先に挙げた、人生の大法則とも言えるものに、僕はこれまでにいくつつまづいてきたかも覚えていない。
英語の単語帳、数学の一日一題、毎日早朝に起きてラジオ体操、等々……でも、僕はまだそれを軽視していた。
というか、いつも無意識で知らないうちに弾き返されて終わっていた。
登るにつれて、木々の間から垣間見える周りの景色がだんだんと雄大さを増してくる。まるで、地図の縮尺をだんだんと大きくしていくような。
その大きさが、純度の高いもののうちは疲れなんて感じなかったんだ。
でも、だんだんとその変化に退屈になって、不純物が混じり出したら、急に足が重く感じられるようになった。
その段階が過ぎると、周りはどこを見ても、全部が緑っぽく見えてきた。
結果、登り始めて数時間が経ったぐらいで、僕の足が悲鳴をあげ始めた。
まだ頂上はおろか、せいぜい半分すら登っていないだろう。
それを雄弁に物語るように、太陽はまだ頂上までは上りきってはいない。腕時計を見ると、まだ十一時前ぐらいだった。
これまではそんなに急な坂は無く、むしろ平坦な道で着々と歩を進めていただけなのに。これからがきついだろうとは分かっているのに。
けれど気持ちの建て直しはできなかった。勢いはいよいよ目に分かるぐらいに衰え、騎虎のものとなり、上り坂を踏ん張る足に力が入らなくなってきた。
ふっと隣を見てみると、叔父さんは全然へたっていない。むしろ、ようやく調子が出てきたという雰囲気すらする。
叔父さん、それで末期がんなんですか?
僕は心の中で叫んだ。
そんな事を思っていると、
ああ、ちょうど僕の目の前に屋根を藁で葺かれた、こじんまりとした粗末な小屋が見えてきた。
それに目を奪われた途端、僕の唇は勝手に形を結び、
『お、叔父さん〜 お互い、この辺りで少し休んでいきませんか?』
なんて言葉を発していた。
叔父さんは、あんなに元気に見えるけれど、病人なんだから、気遣ってあげないとね。僕もちょうどしんどくなってきた所だし。
自分の心の中で、ちゃんとその言葉の大義名分を作っていた。
言葉は元来正直なものだ。
そんなことを、だれか偉い人が本の中で書いていたような気がするけど、全くその通りだった。
いつの間にか、山は僕に微笑まなくなっていた。
深く染まった緑は僕を冷たく見下し、体力、それに根性もない僕を嘲笑っているかのようだった。
朝はまだこんなに外は明るくなかったのにも関わらず、笑っていてくれたのに。
叔父さんは、なら仕方ないな、といった様子で同意してくれた。
ちなみに、叔父さんは僕のヘルプを聞いたとき、一瞬ポカンとした表情になっていた。
そして、僕の顔をまじまじと見つめて、それが本気の発言であると気づいた時に渋々頷いてくれたのだった……
と、いうことで僕たちはこの小屋でしばらく小休止していくことにした。
健康でも、体力のない僕は、ほっと一息といった緩んだ表情で。
病人でも、登山のエキスパートである叔父さんは、まだまだ歩きたいのにといった、物足りなさそうな表情を少し滲ませて。
◇ ◇ ◇
小屋の中はいたってシンプルだった。
中はほとんど正方形のスペースになっていた。
周りの壁は全て地味なねずみ色のコンクリートになっている。
ぱっと中を見渡したところ、山小屋らしいという感じがするのは、頭上の屋根が藁を束ねてできていて、その色が薄汚れた茶色という所ぐらいだった。
その空間に、いくつかの色の煤けた長いすが正方形の中に収まるだけきちんと並べてある。
紅葉狩りの頃なら、ここも人がよく来るのだろう。しかし、あいにく今は閑古鳥が、その声が枯れてしまいそうなほどに鳴いていた。
周りを見渡しても、僕たち2人しか人はいない。
隅っこの方の長いすはうっすらと埃をかぶっているし、人が最近はほとんど来ていないのが分かる。
中に入ってひと休み、と言っても、これではあまりにも静かすぎてやりずらい。
と、いうことで自然と会話する方向になっていた。二人だけしかいないのだから、人目は全く気にする必要がない。
ところが、それを阻んでいる一つの壁があった。それは、お互いに複雑な気持ちが絡み合っていることだった。
そのせいで、麓からほとんど会話を交わせていなかった。でも今、叔父さんが喋り出してくれたので、会話は自然と繋がってくれた。
思えば、僕は叔父さんの勇気にいつも助けられっぱなしだったよな……これまで。
「……おまえと山に登るなんて、もしかして初めてじゃないのか?」
「僕、そういえば小学校の登山大会以来ですよ。山になんて登るのは」
「おまえ、はやくばて過ぎだぞー 俺はまだ、足のストレッチにしかなってないぞ。もうちょっと体力つけたほうがいいんじゃないのか?」
「ま、まあそうかもしれないですね…… というか、叔父さんが元気すぎるんですよ。もう十分、歳をとって……」
あ、しまった。
今僕は言ってはいけないことを言ってしまった。家族や親戚との暗黙のルールを破ってしまった……
今回だって、出発する前にさんざん言われたのに…… 僕ってやつは!
でも、叔父さんは幸い全く気にしていないみたいだ。
少なくとも、僕の目にはそう見える。だって叔父さん、全然普通じゃないか。
表情だって、さっきと全然変わってないじゃないか。
少なくとも、自分ではそう思いたかった。彼にダメージは与えていないと。僕は有効打は放っていないと。
「……ま、おまえは体育系の部活とかにでも入った方がいいかもな。今それじゃ、大人になってからが思いやられるぞ」
「僕、バスケ部にでも入ろうかなとは前々から思っていたんですよ。実は、前からちょっと、興味を持っていたんですよ」
「そうかそうか。それは良い事だぞ。うん、良い事だ」
叔父さんは強い。今は自分の気持ちの整理をつけるのに忙しいはずなのに。
なのに、それなのに僕なんかの傍にずっといてくれる。僕のことを、誰よりも真摯になって考えてくれる。
でも、そんな叔父さんのとめどない広さが、明るさが、どこかで無理してるんじゃないかと僕をはらはらさせる。
「さて、もう休んだだろ。さっさと行くぞ〜 俺の足はまだ本格的に登山してないんだからな」
「はい。行きましょう!」
気づけば、僕たちは二人で固く手を繋いでいた。
叔父さんの手は温かかった。僕はそれを無意識に強めに握ってしまった。
叔父さんは、笑っていた。
僕はすっかり元気になっていた。
落ち着いて考えれば当然だ。実際のところ、そんなに長く歩いてきたわけじゃないから、ちょっと休んだらすぐに元気になる。
叔父さんは物足りなさそうだけど。
それに、叔父さんとあんなに話ができた。それの方が実際は大きかったりしたんだ。
よし、ここからは僕が頑張って叔父さんに楽しんでもらわなくちゃ。
僕の新たなる気合を抱えきった頃、再び二人は歩き出した。
今度は自分でペースをわきまえて進むようにした。オーバーペースだと長くは持たない、というのは良く分かった。
自分で自分をコントロールして行こう。歩く速さやテンポを自分で制御していこう。
これを意識して頑張ることにした。
◇ ◇ ◇
それから、僕は何とか順調に進めるようになってきた。
叔父さんも、どうしてだろう、全然大丈夫そうだ。状態が落ち着いていて、隣で見ている側から見ても、少しだけ安心できてきた。
叔父さんの方から何か感じることは感じるんだ。でもそれは、叔父さんの山登りを純粋に楽しんでいる気持ちのような気がした。
だから、何にも言わなくて良い気がした。
僕は、山登りで学んだことがある。自分で意識して、その場の勢いに飲まれないようにするということは大事なんだということだ。
それに、山登りの面白さもだんだんと分かってきた。
今改めて気づいたことの一つは、山登りは山頂だけが楽しみではない、ということだ。途中に通りかかる場所ごとに風景は変わっていく。たとえ、三分前に通った所と今通ったところを比べても、だ。そして、その風景のズレが自分の足によって与えられている、という所が言葉では言い表せないすごいものを感じるのだ。
まあ、僕が山登りをすること自体が珍しいから、これも多分物珍しさというやつが後ろで尾を引いているのだろうけれど。
それに、自然の中を歩く、ということ自体が面白い。
自分の裾の方角に大パノラマが開けてきて、その木々の間から光が差しているところ。
目の前がちょっとした崖になっていて、そこから下の風景がパノラマのように見下ろせるところ。
草がぼうぼうに茂っていて、木がアーチを造っているところ。
ぱっと横を見たら、岩が蔦の間から剥き出しになっていて、自然が生々しいところ。
印象に残った所は、数え出したらきりがない。
それほどに自然は印象的だった。
人には作り出せないものが、そこには溢れていた。
僕はそれらに一気に魅せられてしまった。
僕が、都会の中で人工物に囲まれて感じるものよりも格段に大きい感動や驚きを与えてくれる、その大自然に。
◇ ◇ ◇
単純すぎるかもしれないが、僕はあっという間に登山が楽しくなった。
つい数時間前には、心の中でへばりきっていた、あの僕が。
ふっと気づいて叔父さんの表情をたまにチラッと覗いてみると、叔父さんも楽しそうだった。
でも、何というか、無邪気な楽しさからくるものではないような彼の楽しそうな表情を見ていると、心と胸の間がぎゅっと締め付けられるようだった。
僕たちは数時間ほど喋らなかった。
理由は簡単。さっきの山小屋のように、お互いに喋れるきっかけがなかったからだ。
お互いがお互いに気を遣いあっていたら、お互いがお互いを牽制するような格好になってしまっていた。
僕はそれもあって、山の方に必要以上に意識を向けていたのかもしれない。無意識のうちに。
それに、叔父さんだって心の中では気づいているはずだ。
みんなが日を追うにつれて自分に対して過度に気を遣うようになってきていることを。
どうにもならないものはある。何でもズバッと気持ちよく解決できる訳は無いんだ。
とにかく、僕がこの登山に来た第一の目的、それは“叔父さんと”一緒に何かを楽しみたかったからだ。
それもあって、今度は僕の方が重い口を最初に開けた。
「叔父さん、山頂まではあとどれくらいなんですか?」
叔父さんは僕の方をすぐに振り返り、あのボロ小屋で僕に見せた笑顔で、
「そうだな…… ま、もう半分は過ぎたんじゃないか?」
なんて答えを返してきた。
先に話題を振ってしまったことにより、僕はもう我慢ができなくなっていた。
水に飢えている時、ほんのちょっとの水が中途半端に目の前にあるのは拷問だ。
これ以上、時間がただ流れていくのを傍観することはできないんだよ。1秒だってもったいないくらいなのに。
―もうダメだ。我慢なんてできない!
僕は強行策に出た。
「叔父さん、ちょっと見晴らしのいい所で止まって、話でもしませんか?」
出てきた言葉は、あまりにもストレート過ぎる直球ど真ん中だった。
「……そうだな。俺もおまえときっちり話しておかないといけないと思っていたことがあったんだった。
ちょうどいい機会だな」
叔父さんは素直に僕の提案を受け入れてくれた。真っ直ぐじゃない、いかにもカーブな言葉で。
ま、とにかく活路は開けた。
そして、僕たちはそのちょっと先にあった、壊れかけた木製の数人掛けのボロボロベンチに腰を下ろした。
腕時計を見ると、午後の四時になっていた。
太陽は地上にその存在のあった証拠をみんなに刻みつけようとにわかに色鮮やかなオレンジと赤の真ん中ぐらいの色に輝き出していた。
周りにある、さりげなく存在している緑は、何にも言わないし、何にも表していないような気がした。
◇ ◇ ◇
座り込んでから、会話が始まるにはまたしばらくの沈黙が必要だった。
目の前をさっと風が流れて、そして過ぎてゆく。登山道には、誰も登ってこない。
言い出したのは僕だろうに。
自分で言い出だしておきながら、言葉が一言一句紡ぎ出せないなんて、なんて情けないんだ……
二人の間に、痛い沈黙が重くのしかかる。
言いたいことははっきりとしているんだ。
でも、どう言えば一番相手が受けやすいかを考えていると、何にも言えなくなってしまったんだ。どうしよう……
ここでチャンスを逃すと、こんなにあけっぱなしな、何でも聞ける機会は二度とやってこないかもしれないのに。
どう言えばいいのか分からない。
言葉がありすぎて選べないよ……
そんな時に助けてくれたのは、……やっぱり叔父さんだった。
「もう気ぃつかわんでいいんだよ。俺が一番分かっているからな。自分の事は」
今の僕ではうまく表現できないが、温かいホットミルクをぐっと飲み干した時のような感覚になった。
……叔父さんは、僕と真っ直ぐに話すことを避けてはいなかったんだ。
それなのに、僕は言葉をオブラートに包むというだけのことに一生懸命になっていた。恥ずかしさと心の底から湧きあがってくるもので、僕は一気に赤面した。
「では、……」
僕は決心した。今、一気に決着をつけよう。
「叔父さんは、あとどれくらい生きていられるんですか?」
僕と叔父さんのは、横向きのベンチに座りながらお互い真剣な表情で向かい合った。
「……まあ〜 医者はあと一ヶ月って言ってたっけな」
「僕は叔父さんが登山が本当に好きなことは知ってます。今の具合は大丈夫なんですか?」
「ああ、おまえの足よりはよっぽど大丈夫だ」
確かに、今の僕の足はガクガクと震えが止まっていない。
最初の方に比べたら、山の登り方はましにはなったと思う。でも、初心者は初心者だ。それに体力もない。
正直なところ、足の上に大きい岩がのっているような錯覚さえする。足が痛く、重い。
でも、今は叔父さんの方がかなりしんどい筈だ。精神的、肉体的なものをトータルすれば。
それにもかかわらず、叔父さんはまだ笑うことができる。
「叔父さん、今の気持ち、聞いていいですか?」
「……楽しいよ。すっごく楽しいさ。おまえと山登りすることができたんだからな」
「そうじゃなくて、違うんです! なんというか……最近の気持ちというか」
「…………おまえが言いたいことは、何となく分かるさ。
まあ、なんとも言えないんだな、この気分は。それとも俺自身が、言葉で表すのが恐いのかな、今の正直なまっさらなところを」
「叔父さんがいないと、僕、これからやっていけません。叔父さんが僕を支えてくれたから、僕は今いるんです!」
「……いきなり何を言い出すんだ。おまえならやっていけるはずさ。
おまえは強いんだよ、十分すぎるほどな」
「そんなことないんです! 叔父さんみたいに強くないんですよ僕。
もう、これからどうしたらいいのか分からないんですよ! 本当に」
「……おまえなら何とかなる。
それに、おまえが思っているほど私は強くはないぞ」
「そんなの嘘でしょう? 叔父さん、今でも力強く僕のことを励ましてくれようとしてるじゃないですか。
何百倍、いや何千倍今は叔父さんの方が辛いと思いますよ。
それなのに、叔父さんは僕に嫌な顔1つしない。
ずっと笑ってくれているじゃないですか。どうやったらそんなに強くなれるんですか?」
僕が言いたかったことはこれだったのかな?
自分でも良く分からない。でもまだ全然、言いたいことが言えた気がしていない。胸の奥は、まだすっきりしていない。
それを聞いた叔父さんは、ゆっくりと僕に諭すように話し出した。
少したりとも笑顔を崩さずに。
「俺だって辛かった。いきなり目の前が真っ暗になったさ。しばらくは何にもまともなことができなかったよ。
何をやっても、どうせ死んじゃうんじゃ意味なんてないじゃないか、なんてことを思ったことが何回あったか。
でもな、俺は思ったんだ。
そもそも、俺の人生に俺は意味を見いだそうと思って、そして俺はずっと生きてきたのか、と。
それは違う。
俺は、満足した人生を送りたいとは常日頃から考えてきたが、そんなことをいちいち思って生きてきた訳じゃないぞ」
叔父さんの顔の笑いはいつの間にか消えていた。
気づけば、真剣な突き刺すようなまなざしを僕に向けている。
「……じゃあなおさら、叔父さんは強いですよ」
僕がそう言った途端、叔父さんの語尾が急に強まった気がした。
いや、もともとだんだん少しずつ強くなっていたのだろうが、それを僕が気づけていなかったのだろう。
「俺はそんなに強くない! 俺は、俺は……」
叔父さんはそこではっと我に返ったみたいだった。
「ごめんな。ついついかっとなっちまった。
でも、俺だって散々苦しんだよ。まだまだこの世にやりのこしたことはたくさんあるしな。
けど、俺は今は落ち着いてるよ。
それに、俺は諦めちゃいない! どんなに苦しくたって、その時が来るまでは生き残ってやるってことは決めてるんだ!」
叔父さんは、何だかんだいってもやっぱり叔父さんなんだ。
その変わらない叔父さんと、今僕は話している。
「……じゃあ叔父さんは、今はどうしてそんなに明るいんですか?」
「……ま、俺は今を楽しむことにするさ。おまえに話したい事は、また後で話すことにしたよ」
叔父さんはまたもや笑い顔に戻って、ベンチを立った。
そして、腰を回して大きく深呼吸してから僕に言った。
「さあ、今夜泊まるところはまだ先だぞ〜 頑張らないと着かないぞ」
僕はちょっとだけ安心した。叔父さんは、現実から逃げて明るく振舞っていた訳じゃないんだ。
……だったら、何が叔父さんを明るくしているんだろう?
僕がはっと気づいたら、叔父さんはとっくに歩き出していた。
とにかく、今を楽しもう。今は、それが一番大事なんだ……
「ちょっと、叔父さん。待って下さいよ〜!」
周りは徐々に暗くなってきて、だんだんと日が低くなっていく。
山の色は今、落ちゆく日に照らされて、緑に赤をかぶせたような色になっていた。
◇ ◇ ◇
僕たちは、それからは一言も喋らなかった。
どうしてか、と言われても僕には分からない。気持ちの底の方が、話そうという方向には自然と向かなくなったんだ。不思議なんだけど。
なぜなんだ、と自問してみても答えは出ない。
でも、話したい事をさっき叔父さんに全てぶつけられた訳ではない。
言いたいことはいくらでも湧いてくる。それに、叔父さんが僕に言おうとしていた事の内容もすごく気になるんだ。
そんな事を頭の中でぐるぐる回しているうちに、周りはみるみる様子が変わり、次第に暗くなってきた。
“どこからが夜なの?”と聞かれたら、僕は悩んだだろう。
僕には、日があっという間に沈んでしまってからは、境目が分からないものなのだ。
日が沈んでいくと、だんだんと空は暗くなっていく。これは分かる。でも、問題はここからだ。
日が完全に沈みきったと思える時でも、まだ日の入りの方角はほんのりと明るい。その明るさも次第に闇に飲み込まれていくものだけれど。
その明るさが黒に染まったと思える時が来る。でも、これがいつ来たのかが、客観的に見ようとすると分からないのだ。
五分前だったのか、それとも二十分前だったのか、それともまだ明るさが少しでも残っているのか。
そして、月が昇る頃、ようやく僕らが今晩寝泊りする予定の山小屋に着いた。
その山小屋は、いかにもといった感じのものだった。
外壁は丸太っぽい感じが生かされたデザインになっていて、ごつごつしている。色はちょっと朽ちた茶色、といったところか。
小屋はまたまたきっちりとした正方形で、それが周囲に数個点在している。
これまでにいくつか小屋っぽいものは大小何箇所か見かけてきた。でもそれらはここと比べると休憩所と呼ぶのがちょうどだと思う。
ちょうどここは土地が開けていて、いい具合に日も当たるだろうし、宿営地にはちょうどいいところなのだろう。
ここに着いた時、叔父さんにさらっと何気なくを装って聞いてみると、ここまでくれば山頂はだいぶ近くだと答えてくれた。
確かに、言われてみると山の頂はぐっと近づいてきた気がする。周囲が開けているせいかそれが余計に強烈に感じるのだ。
時間もついでに聞いてみると、午後の八時過ぎぐらいだった。
◇ ◇ ◇
小屋の中に入ると、中身はシンプルなものだった。
かまどが一つ。それにだだっ広いスペースがあるだけだ。
ようやくホッと一息つけた。叔父さんも僕も表情が和らいでいた。
「今日はどうだった? 楽しんだか?」
「楽しかったですよ! もうここまでの道のりがあっという間でしたから」
「生意気言うな〜 最初の方に、俺に『お、叔父さん〜 お互い、この辺りで少し休んでいきませんか?』なんて言ってたのはおまえじゃなかったっけ?」
「ははは、そうだったですか? 僕は覚えていませんよ、そんな事」
暖炉の前で楽しそうに笑いながら話していると、心まで温まる。
叔父さんの、周りのものをすっかり包み込んでしまうようなこの顔。これは、久しく見ていなかったものだったような気がする。
「ま、おまえが楽しんでくれたのなら良かったよ。俺だって今日は楽しめたさ。
……それに、今回が本当に、俺にとっての最後の山になるだろうからな」
話は自然とそっちの方に繋がっていく。
でも、さっきほどは緊張した重苦しい空気は流れていなかった。
「叔父さん…… さっきの続きを聞いてもいいですか? べ、別に嫌だったら黙っていてくれていいですよ」
「ああ、俺がどうして今明るく振舞うか、ということか?
……それはな、おまえ達周りの人間に悲痛な顔をされたくないのが一つ、かなぁ。
二つ目は、ま、自分自身が笑っていたほうが何となく落ち着いている気分に近い状態をキープできるからかな。
俺はそんなに強い人間じゃないんだ。明るく振舞うのは、みんなに弱い所を見せたくないからという理由もあるだろうなぁ」
叔父さんの話し方は、なんだか不思議だった。笑っているのでもないけれど、まるっきり真っ暗な風でもない。
何か僕とは違う世界に行ってしまう一歩手前のような気がして、それが頭の中で冷たく固まって……
「叔父さん、叔父さんは僕にいつでも力をくれたじゃないですか! 僕の事を、僕以上に真剣になってくれた時もあったじゃないですか!
……行かないで下さい。前にも僕、同じことを言いましたよね。こんな事を言うと叔父さんを苦しめてしまう気は何となくするんです。でも、叫ばずにはいられないんです! ごめんなさい、我慢できませんでした……」
「……ありがとうな、おまえ、きっと将来は俺よりももっとでかい人間になれるわ〜 俺じゃ、比べ物にもならないくらい」
「僕のどこがそんなに大きく見えるんですか! 自分自身でも、自分にいまいち自信が持てていないのに、どうして叔父さんにはそんなことが分かるんですか?」
「……それは言えないな。ふっ、でもおまえさんにこれから二つの話をしてやろう。
一つは、とある小さい窓際男の短い物語。もう一つは、俺が今叫びたい事だ。聞きたいか?」
「……叔父さんが話してくれるならばお願いします」
「よろしい。では、ちと長い話になるぞ。では、まず一つ目から行こうか。
とあるところに、とっても情けない男がいました。ある時妻が急死して、それに立ち直れずにぷかぷかと現実を彷徨っていました。
おかげで会社では常に浮いていて、厄介事ばっかり起こしてみんなから白い目で見られるようになっていました。
その男には、頼れるものがありませんでした。楽しみにしている物がありませんでした。もう未来は真っ暗でした。
この世に生きているのが嫌になって、いっそのこと死にたいと思っていたこともあったそうです。
でもその男は、とある機会にとある少年に出会いました。
その少年は、よく見れば見るほど小さい頃の自分に似ていました。
すぐに泣くし、変な事で笑い、いつも頑固で親の言うことを聞きませんでした。ちなみに、今でも時々調子が狂うと親子喧嘩をしているという話を聞きます。その男は、この少年のことがなぜか頭に残りました。
それからしばらくすると、その男は少年とよく話すようになりました。少年は、いっつもその男の元に厄介事を持ってきます。
その厄介事を解決するのを手伝うようになってくると、その男は思いました。この少年には、是非とも楽しい人生を送って欲しいと。
きっとその男は、少年に自分を勝手に乗せていたのでしょう。それで、その男はこころの大きな隙間がちょっとだけ隠れたような気がしました。
しかし、その男は気づかない間に不治の病にかかっていました。その時に、久しぶりにその男は死にたくないと思いました。運命を呪いました。 どうして、あの少年に出会う前に病に気づかなかったのだ!と。
仕方ないので、その男はその少年に何かを最後にプレゼントしてやろうと思いました。その男は、それから……」
叔父さんはここで言葉を切った。はっと叔父さんの顔を見つめてみると、何か半分上の空のようになっていた。
「ここまでで物語は終わりだ。この先は……その男次第、なのかなぁ? 俺も知らない」
僕はなぜか笑いたくなった。思いっきり大声をあげて。
でも、目の奥、涙腺の辺りに何かがこみ上げてきて、笑うときっと一緒に泣いてしまいそうな気がして止めた。
感想なんて無粋なもの、話せるような気分ではなかった。
「叔父さんって、も、物語を作る才能があったんじゃないですか? それなら、これからも頑張って生きて僕に物語を聞かせてくれるんですよね。
そ、そうですよね!」
自分で何を言ってるのかは意識していなかった。口の任せるままに言葉を発したら、気づけば奇怪な言葉だった。
「俺が生きている限り、その物語は続きを書きつづけるつもりだぜ! じゃあ、もうひとつの方に行って良いか?」
叔父さんはさらっと言葉を続けるが、もうひとつの方、と言うのには何か深いものが潜んでいる。
それが、叔父さんのこわばりぎみになっている表情から見てとれる。
「良いですよ、もちろんです!」
「では、……お、おほん!
俺は死にたくない! 俺はまだ生きていたい!
おまえだけには正直に言う。おまえだけには叫んでおきたかったんだ。
それから、おまえはもう十分に荒波を超える力を持ってるはずだ。
山登りでおまえは学んだだろう。
自分のペースの大切さを。世界の美しさを。それで十分なのさ。
……俺、ちょっとかっこいいこと言っちゃったな。えへへ〜」
叔父さんは、それを言い終わった後、ようやくいつもの笑顔に戻った。
それからは話が雑談に進み、双方の心が軽くなるまで語り合った。
楽しい時間だった。今、全てがこのまま止まって欲しい、とまで言ったら贅沢だろう。
でもせめて、この時間が限りなく遅く流れて続けてくれたら……
その時におじさんと一緒に食べた、遅い夕食のレトルトカレーは、熱かった。
お互いに明日も頑張ろう、と言って別れた後、僕は少し水筒から水を飲んで喉を潤した後、叔父が寝ようとしているのに続いて目を閉じた。
外は時々突風が吹く夜だった。でも、僕は温かかった。心も身体も。
◇ ◇ ◇
朝起きると、僕は一瞬自分の感覚器官を疑った。
僕は違う世界に行ったのだろうか。自分の周りがいつもと全然違った。又、その全て新鮮だった。
自分が寝転んでいた床、今深呼吸で思いっきり吸った空気の香り、自分のこころの中に沸いてくるこの爽快感、等など。
まさに全てだった。
その新鮮な気持ちを味わっていると、不意に叔父の夕べの顔が頭の中に浮かんできた。
ぱっと横を見ると、叔父はまだ寝ていた。
あれ、おかしいな……叔父はいつでも早起きなのに。それで、時計を見てみると、普通に朝の六時だった。
おいおい、これはよく分からないけど、まずいんじゃないのか! 叔父さん、昨日だいぶ頑張ってたから……
慌てて叔父の近くによって見ると、規則正しい寝息が聞こえた。
ああ、良かった〜 でも、叔父だって疲れてるだろうからそっとして置いてあげよう。
叔父の寝ている様子を見た後、いきなり心に真っ白な好奇心が沸いてきた。
無性に外に出たくなってきたのだ。
小屋の外は一体どんな世界になっているのだろう。どんな景色が広がっているのだろう。
その衝動に駆られて、僕は慌てて外に飛び出した。
外に出てみると、身体がぶるっと一瞬震えた。寝るときにそれなりの暖かめの服装をしていても、いざそのまま外に出ると夏でも寒いほどだった。叔父さんに言われて、ちゃんと温かい上着を持ってきて本当に良かったと思う。
でも、その温度感を一瞬で忘れさせてしまうものが、僕の周りを取り囲んでいた。
「うわぁ〜 こりゃまた……」
僕は無意識でそう発していた。
「……これがたまらないだろう?」
「―え!」
僕は一瞬心臓が止まったかと思った。でも、よくよく考えれば叔父さんしかいないんだから……
「起きてたんですか? 驚きましたよ〜 びっくりさせないで下さい!」
すると叔父さんはにやけて言った。
「この景色は、一回ぐらいは一人だけで見てみたほうが良いんだ。おまえだって、何となくは俺の言いたいこと、分かるだろ?」
まあ、分からなくも無かった。新鮮さは1人の方が強烈だとは思ったから。
でも、叔父さんと見るのもそれに負けずに良かったと思う……
「叔父さん、きのうはすみませんでした」
僕は、一応謝っておきたかった。昨日は勢いで行っちゃったから……
「謝らなくってもいいさ! 俺は感謝してるんだから。
でも、……もうグダグダは話さないぜ。俺もこれ以上、形のいい言葉が見当たらないからな」
「僕はもっと話したいです まだ話したい事が、数え切れない程残っていますよ!」
まだまだ、たくさん話したい事はあるんだ。掘っても掘っても切りがないくらいに。
だから、そんな展開にはなって欲しくない……
「……いや、ダメだ。俺がもたないからな。でも、そうだな……これからお互いにちょっとずつ最後の言葉を交わさないか?」
「最後……そんなの絶対に嫌ですよ! 僕は、最後なんて迎えたくないです!」
僕は、ついつい言葉を強めてしまう。顔をしかめながら、叔父の方を見た。
「じゃあ、最後とは言わないよ。俺だって話してしまうかもしれないしね〜 でもな、それくらいの気持ちで行こう。これでいいか?」
すると、こう言っている叔父さんの表情だって、どことなく寂しそうだった。
「……叔父さんがそこまで言うんだから、仕方ないですね」
僕はしぶしぶ了承した。
それに僕だって、そういう制限がないと際限なく食いついてしまうかもしれない。
それで叔父さんを傷つけてしまうのはもっての外だと思うし、これはしかたがないことなんだと、自分で自分を押さえ込んだ。
「じゃあ、俺から行くぜ」
叔父さんが先を取った。
「お願いします」
僕はその言葉を待った。
「俺だって、言いたいことや話したい事は山ほどあったんだがな…… でも、この辺で踏みとどまることにしようと思う」
叔父さんは、ここでゆっくりと言葉を切った。
その顔には、まだ踏みとどまりたくないと、はっきり書いてあったと思う。いや、きっとそうだったはずだ。
言葉では説明できないけれど。証明することなんて絶対にできないけれど。そして、この思いには、僕の願望が少なからず入っているだろうけれど。
それから何秒過ぎただろうか、周りの空気が一瞬でさっと僕達の雰囲気を押し流そうとした時、叔父さんはそれに乗って、ラストスパートをかけた。
「おまえにな、とにかくこの二つのものを渡しておきたいんだ。
それはな……」
叔父さんは、何か僕に背を向けてごそごそやりだした。慌てて震えている手で、ポケットから何かを僕に隠しながら取り出しているように見えた気がした。
「ほれ」
おじさんが渡してくれたのは……
叔父さんがさっきまで付けていた腕時計と、何か分からない紙束だった。
「これをおまえに託しておきたかったんだ…… おまえに是非持っていてほしいんだ。
俺には妻もいないし、子供もいない。でもこの腕時計は、ずっと俺と歩んできた同志なんだ。おまえに持っていて欲しい。
……あと、こっちの紙束は俺の……言うのも気恥ずかしいな。とにかく渡しておくぞ!
どうしても困った時に中身を読んでくれ」
叔父さんは、そこで言葉を切った。
叔父さん、ずるいよ…… 僕は、返す言葉が何にも出て来なくなってしまった。
何か叔父さんの心に残る、温かいやつをがつんとぶつけてやろうと思っていたのに。
叔父さんより先に、僕の心が沸騰してしまったじゃないか。温かくて、崩れそうなほどに苦しくて、でも何も叫べない。
そんな状態になっちゃったじゃないか。ああ、僕は、僕は……
「あ、ありがとう!! これまで、と、とにかくありがとう!!」
僕は、そうとにかく言いながら頭を下げた。
これしか言えなかった。いや、言い様もなかった。
なぜだ、とは思う。未練は無いのか、とも思う。でも、これだけしか言えない。僕にはそれ以外の気の利く行動が取れなかった。
そして、その場で叔父さんの胸の中に飛び込んで号泣してしまった。
叔父さんは僕を温かく包んでいてくれた。
もう僕はそれで良かった。投げやりになったのではない。でも、僕には言う言葉は残されてはいなかったんだ。
「一言って言ったのは俺なのに、最後に約束を破らせてくれ」
僕がだいぶ収まった頃にポツリと叔父さんは言った。
朝の光はあっという間に周りのもやを解かしていく。
周りの木々が一瞬ざわめく。辺りの空気はきりっとひきしまっていて、大自然の威厳が見え隠れしている。
麓の方の下々の景色は、宝石が砕けて飛び散った破片を大地にばら撒いたようだ。
「こちらこそ、ありがとう」
僕は独りでやっていかないといけない時期が来たんだ。
これからは、自分だけで周りの世界に正面から立ち向かっていかないといけない……
それは恐い事だ。そして、重い事だ。
でも、それをよけていたら何にもできないから。
山登りと同じで、坂を苦労して登らなければ、高いところにはいけないから。
叔父さんがくれた腕時計をきっちりと腕にはめて、紙束を大事に小脇に抱え込む。
今度は、一人で山に来よう。そして、おじさんのこれまで味わってきたものを自分の肌で味わってやろう。
そんな決意のもと、僕たちは山頂へアタックする支度を整えるべく、山小屋に戻っていった。
山頂から吹き降ろす、ちょっと冷たい風が心地よかった。
―それから一ヶ月後
とある男は安心していた。
あいつにあの時、俺の贈り物を渡せてよかった、と。俺の気持ちを込めて書いたあれを。
それは、手紙なんかじゃなかった。
それは、人生に翻弄されて疲れ果てた男が唯一、自分の手元に大切に取っておいたもの。
これまで登ってきた山の簡単なスケッチだった。
最後に渡すのがこんなのじゃ格好がつかないな、とその男は思ってはいる。
でも、その男はそれで満足だった。
言葉では伝えられない事がある。
今回の登山の間、あの少年はその男に向かって、何回か『ありがとう』と言った。
でも、最後のは、その男にぐっと来てしまった。まるで、その男の心自体が、少年によって鷲掴みにされて、そのまま押しつぶされそうな感覚だった。
その男は嬉しかった。そしてまだ生きていたいと思った。
でも、時はそれを許さなかった。その男は病院のベットでそっと息を引き取った。
その男は最後に風景を見た。
それは、あの少年の最後の『ありがとう』だった。その後の、山頂に着いた時に少年と2人で味わった、あの達成感をバックにして。
読んで頂いて、ありがとうございました。
これからも、悪い所があったら、推敲に推敲を重ねていこうと思いますので、よろしくお願いします。
プライスレス小説は、第三弾以降も書ければ書くつもりでいます。その時は、気が向いたら是非ご一読お願いします。