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笑う門には

作者: 天口 洋平

ああ、くつろいで聞いてくれ。

飲み物はいるかい。そう。えー、どこから話したものかな。

私が最近新しい活動を始めたことは知っているな。いやいや、それほど大した集まりじゃないさ。週に1回、暇を持て余す人間たちが集うというだけのことだ。うん? 具体的に何をしているか、と? おっと、もちろん大事なことだ、単純だがね。笑うのさ。何でもいい、各人が各人、いろいろなものを持ち寄って他のメンバーを笑わせる。3時間ぶっ続けで笑える映画を見せてもいいし、数秒で終わるジョークを披露してもいい。ルール無用、ただ笑えればいいのだ。おかしな集まりだろう? うん、きみが気に入りそうな話だからな。ふむ、会の名前か。いや、そういうものは特にないのだよ。特にメンバー同士仲が良いわけでもないし、普段からの付き合いがあるわけでもない。だが、会員の条件のようなものがどうかあるか私は知らないが、おそらく次の2つは要求されるだろうな。純粋に笑おうとすることと魅力的な笑い声であること。後者について、自慢じゃないが私の笑い声もさわやかだとたびたび言われているのだ。

私を誘った男もまずそのことに触れていたよ。あれは1ヵ月ほど前のことだったか、とにかくその日は深夜まで友人と飲み歩いていた。ようやくもう十分飲んだというところで終わりにして、家に着いたところで友人とは別れたが、家に帰るまでのことはよく覚えていない。覚えているのは、家の玄関の前で鍵を探してポケットをゴソゴソやっているときに男がどこからともなくスッと私の横に現れたことだけだ。あれは驚いたな。まるで音がしなかったのだから。もっとも、べろべろに酔っぱらっていた私が気づかなかっただけかもしれんが。その男というのはなんとも描写しにくいんだが… 目立ったところはないやつ、というのが楽だろう。うん、快活な男だったというのは間違いない。ニコニコ笑いながら傍に立っていて、それで私は思わずわっ、と言ってしまった。そのせいか知らないが酔いもすっかり醒めてしまってな。それ以後のことは正確に思い出せる。


「どうもすいませんね。驚かしちまったみたいで。ハハハ」


そいつは言ったよ。まるで悪気はなさそうだったが。だがそれよりもその引き込まれるような声に私は心中でさっきよりもびっくりしたのだ。ハハハという笑い声のなんと美しかったこと! 

「実はあっし、駅からずっとあなたがご友人とお話になっているのを聞いていたんですよ」

夜中の3時に見知らぬやつからそんなことを言われて警戒しない人間がいるものだろうか? 返事はせずに胡散臭そうにそいつのことを睨むと、こっちの警戒などまるで感じないかのようにヘラヘラして勝手に喋り続けるときたもんだ。

「ええ、ええ。そうなんですよ。ところであなたとても良い笑い声を持ってらっしゃる。あなたなら十分資格が有りますねえ」

わけもわからず話しかけられて、こっちが頼んでもないのに資格がどうの、と言うものだからさすがにイラッとしてしまったよ。まず名前を名乗らないというのは気分が悪い。

「何の資格について君が判断しているかは知らないが、私には関係ないことだ」

こちらの意図としては相手が怯んでいるあいだにさっさと家の中に入ってしまおうということだった。もう酔ってはいなかったから、すぐに鍵を見つけてドアを開けた瞬間、またまた驚かされたことにだ、そいつはノブに手を掛ける私の腕を急にガシッと掴んで放さないのだ。満面の笑みを浮かべていながら眼の奥には鋭い光がちらとよぎったのを私は見逃さなかったよ。その瞬間私は理解した。この男は自分の魅力的な笑顔がどのような力を、影響力を持っているかよーく分かっているのだと。その男は私の言ったことなどまったく聞こえていなかったように先を続けた。

「そうお急ぎにならずに。へへっ、実はあっしちょっとした秘密組織に属してるもんでして、」

「秘密組織?」

いくつになってもそういう響きは甘美なものだな。

「ひひっ、ま、そんなおっきなもんじゃありません」

興味を持たせてしまえばもうあちらの土俵だったろうよ。当然次に聞いたのはその組織についてだった。

「どうも、興味を持っていただけたようでありがとうごぜえます。いや失礼、あっしらの会の目的はただ1つ、笑いの追求でして」

私も最初はさっぱり何のことやら分からなかったよ。だけども、それからその男はさも当たり前のようにこの家に上がり込んできてさっききみにしたような説明を私にしたのだ。そういえばそいつが座っていたのも今のきみの場所だったかな。その後はとんとん拍子に酒も話も進んだよ。どうもそのまま私はソファで寝てしまったらしく、明朝起きたときにはそいつは既に帰ったあとで、机の上には次にいつ、どこへ行けばその会に参加できるかを書いたメモが残されているだけだったけどもな。

さて、結局、メモに書かれた期日に書かれた場所に私は行った。行かずにはいられまいよ。うん? ああ、古ぼけた洋館やら崩れ落ちそうな小屋を想像させたかな? ところが指定された場所というのは全く何の変哲もない真新しいアパートでね。近くの家でウグイスが呑気に鳴いたときには私も一瞬騙されたかとも思ったよ。

階段を上り、当の部屋のドアを開けるまでその疑念は消えなかったがね、中に入った瞬間、自分が間違っていなかったことが容易に理解できた。60インチ以上はあろうかという大きなテレビに、恐ろしく座り心地の良さそうなふかふかのソファが3脚、それによく陽の通るガラス窓。部屋の中はアパートの一室にしてはかなり広いほうで、12畳はあったと思う。別段人を笑わせるような仕掛けが施してあるわけでもなかったが、人を寛がせようという意図がありありと見て取れたのさ。既に男が2人、女が1人座って談笑していた。

「おや、見ない顔だ」

窓際のソファに深く腰掛けた、眼鏡で白髪の男が最初に口を開いた。

いかにもインテリ風の男で、こんな男が笑いまくるための集まりにいるというのはどうも不思議な気持ちがしたものだ。

「新しい方ね、いらっしゃい」

続いて私を迎えてくれたのはこちらもそれなりに年齢のいったご婦人。柔らかな笑みが印象的な人だった。あれくらいの年齢の女性の中にはときどき妙に派手な服装をしている人もいるものだが、その人は薄めの色を基調にした随分質素な恰好をしていたね。

「今日はこれで最後だと聞いています」

残った男が私に会釈しながら言った。前の2人とは違ってかなり若い、おそらく40になりかけかどうかといったところだったろう。と言っても痩せに痩せた明らかに栄養の足りていない男性だったがね。

私はというと、そこに来たのはその日その時が初めてだったのだから勝手が分かるはずもない。痩せすぎの男は一番年下のようだったが、彼がその日の仕切り役のようだったからとりあえず私は隅っこに座って進行するに任せておくことにした。ところが、だ。

「では、あなたから…」

痩せすぎ男はまず私を指名したのだよ。大体の説明はさっき話した男から聞いていたがね、具体的にはどんなものかちょいと見ておいてから… ってのが一般的心情ではなかろうか? しかしながら、私のほかはだれもそんなことは気にしていないようだった!

「えー、私が最初ですか」

耐え切れずに時間稼ぎの意味も込めて私は3人に問うた。インテリはただ頷き、婦人は微笑み、痩せすぎは肩を竦めただけだった。それらが意味するところはもちろんはっきりしていた。『いかにも』とね。

「あー、そのう…」

しどろもどろになりながらも私はなんとかかつて新人時代に会社の上司との間に起こった小話を再現して語って見せた。身振り手振りを交えて何かに必死に取り組んだのは久しぶりだったよ。いやいや、今もう一度、というのは勘弁してくれよ。とは言いつつも私は初めてにしてはよくやった方だと思うよ。なぜなら3人が3人みなそれぞれ一応大いに笑ってくれたからだ。結果的に無愛想に見えたインテリは実は大変な笑い上戸だということが判明したし、清廉そうな印象を受けたご婦人の笑いは、あー、思ったより上品ではなかったよ。痩せすぎは想像通りの引きつった笑い声だったがね。私のあとに3人がそれぞれ思い思いの方法で同志を笑わせようとした。インテリは偉人についての小話をしてみせた。これは大笑いするような類のものではなかったが、クスクス笑うには十分だった。続いてご婦人は指人形劇を演じて見せた。こいつはシュールさにかけてはその日一番だ。痩せすぎはあるアニメを題材に、登場人物そっくりの声で全く異なるセリフをあててみせた。これには我々全員大爆笑でね。聞けば痩せすぎ男は昔声優志望だったのだそうだ。

こんなわけで全員が発表を終わったころにはみなニコニコしてペチャクチャしゃべり合うようになったのだよ。

おや? 質問かい。メンバーはそれで全部なのか? いやいやそんなことはあるまい。というのも私はそれ以後もかなりの頻度でその集まりに参加したが、メンバーが最初の4人だけだったということは決してなかったし、集まった人数が2人のときもあれば最大で8人のときもあった(こうなるとかなり窮屈な思いをしたものだが)。若い黒髪美人がいたこともあればそこに来たこと自体が奇跡とも思える老人が参加していたこともあったとも。全員に共通していたのはとにかく自分も笑って、他人も笑わそうという意図だけ。この数か月というもの、週一回私は他人に大いに笑わせてもらい、また私もメンバーに楽しんでもらえるよう努力したつもりだ。なるほど笑いというものがあれほど多種多様だとは私は知らなかったよ。

爆笑。

哄笑。

朗笑。

失笑。

憫笑。

嗤笑。

嘲笑。

いやはや挙げれば切りがない。文字の上では知っていても、実際我々は日常笑いを観察する暇などないからね。非常に興味深い体験を私はさせてもらっていると集会に行くたびに感じたものだ。苦しいことも辛いこともすっかり忘れてただ笑うことだけに力を注ぐ。笑うということがいかに偉大で欠かせぬものか、はっきりと自覚できたよ。

きみはどうかね、最近心を空にして笑ったことがあるかね? ない? そうだろう、そうだろうとも。そんな機会がある人間のほうが稀なのだ。この集まりの良いところは互いに互いを詮索しないところにもあるし、なんといっても笑わせる方法に制限が無いところだ。常識と法に反しなければ笑わせればいいのだからねえ。ひたすらメンバー全員に酒を飲ませただけだった発表者もいたよ。最後にはみな何故か楽しくなって爆笑の渦が巻き起こったがね。が、単に面白いことや楽しいことを見せれば良いというわけではない。逆に恐怖や残酷さが笑いを引き起こすこともあるのだよ。分かるだろうね。うん、結構。あんまり恐ろしいと笑っちゃう人もいるのだね。私? 私がそうだとは言わなかったと思うが。


そろそろどうだね。疑問の1つでも湧いてきたんじゃないのかね。ああ、言ってみたまえ。私が抱いた疑問と同じだと嬉しいが… うん、やはりだ。畢竟最初から最後まで分からないことはただ1つ。この集まりの目的は? それに尽きる。この疑問に答えることは簡単だ。あの男の言を借りれば笑いの追求。説得力には欠けるかもしれんが。しかし1つの大きな疑問はまた別の疑問を生起させるね。例えば、会の創始者や主催者はだれか? メンバーはどのようにして集められたのか? 私を最初に勧誘した男の正体は? …とね。会自体には1つも文句は無いのだが、それに満足してしまうと枝葉の部分が気になってくるものだ。分かってくれるだろうね。…あなたはそれらの問題の答えを知っているのか、だと? きみ、知りようがないじゃないか。しかし…



「偶然、私はその答えをすべて知っている」



なぜか? 聞いたからだ。だれに? 私を勧誘した男にだ。 いつ? つい昨日。どうやって? 彼に聞いたら教えてくれたよ。


昨日は今月最後の集まりだった。覚えてるだろう、寒い夜だったな。帰ってきたとき、例の男は薄ら笑いを浮かべて私の後ろに立っていた。最初のように音もなく、ね。私が聞きたいことがあるのに応じて現れたかのようだった。

「へへっ。旦那、お楽しみ頂いているようで」

おかしなものだ。会合にその男は一度も姿を見せなかったのにこちらのことはすっかり判っています、という顔をしているのだよ。

「ああ、誘ってもらって感謝している」

驚愕も動揺も押し殺して私は言った。

「いやっ、違う、違いますね。旦那、小さいけれど、不満がおありのようだ。そんな芽は今のうちに摘み取っておきましょうや。メンバーはいつも心から笑っててもらわねえと。改善できるところはそう致しますからなんなりと仰ってくだせえ」

「疑問があるんだがね」

「もちろんお答えしましょうや」

「聞いたら会合には出入り禁止なんてことはないかね」

「例会がらみで秘密にすることも別にごぜえませんからね。ご安心なすって」

「まず、君はだれだ」

「だれ、と言われましても。別に決まった名前があるわけでもごぜえませんので、ご勘弁を。強いて言うなら笑いの案内人みたいなもんでしょうや」

「まあ、結構。では次。メンバーはどうやって集めている」

「こうやって笑いの追求をしてますとですね、街を歩いていても良い声、魅力的な笑い声ってのは自然と耳に入ってくるもんでして」

はぐらかされた気もしたが、納得できないことはなかった。それよりも大事だと思うことがあったしな。

「では、この会の目的はいったいなんだ? そこが気になってしょうがない」

すると男はきょとんとした顔をした。何をいまさら、とでも言いたげな。

「それは皆さまに笑ってもらうためでして」

「そういうことじゃない。ではあの部屋は? だれの部屋かね? この会にも主催者がいるんじゃないのか?」

「ええ、ええ。それはもう立派な方が主催なすっておりますです。その方のお部屋です」

「そいつは一度でも会に参加したか」

「いえ。あの方は一度もいらっしゃいませんですね、はい」

「なぜだ。自分で主催しておきながらなぜそいつは来ない」

実を言うとここまでで私は少々拍子抜けしていた。あまりにも簡単にボスらしき者の存在が明らかになったからだ。が、別に男は何も気にするところはないようだった。そこがだんだん薄気味悪くなってきてね。

「来たところで無駄なんでごぜえますよ」

「はっきり説明したまえ」

「あの方は笑えねえのです。ですから無駄ってわけでして」

「それは… 何かね、顔面麻痺とかかね」

「いえいえ。笑い過ぎた結果、笑いを失ったのです」

「さっぱりわからん。分かるように言いなさい」

「えー、そうですなあ、お聞きになりたいんで?」

「ああ、ぜひ聞かせてくれ」

「はあ、ではまず、笑いは伝染することをご存知で?」

「む、他人が笑っているのを見るとなんとなく自分もおかしくなってくる、ということか」

「その通りです。そして、この会の主催者である方はその研究を長年やりまして、あることを突き止めました。すなわち、質の高い笑いであればあるほどその伝染力は強く、時間的・空間的にも長続きするのです」

「なんだそれは」

急に聞いたこともない理論が登場して面食らったがね、なんとか話についていこうとしたよ。

「つまりですね、混じりけのない、純度の高い笑いであればあるほど、その笑いが他人に伝染しやすくなるのです。ま、インフルエンザみたいなもんですな。で、純度の高い笑いには前提条件として良い声を持っていることが挙げられます」

「例えば私のようにか」

「あなたのようにです」

「それでですね、その方は質の高い笑いってもんを探し回りましてね。テレビはもちろん、映画、本、あらゆるジャンルのものを観て、聞いて、感じました。ええ、一度などはアマゾン流域に住む民族の吹く矢には笑いを高める力があると聞いてブラジルまで行ったこともありました。結局それはデマでしたが。そして最終的に、その方は気づいたんですわ。つまり、笑い以外の感情が混じっていると笑いの純度は下がることにね。最近のメディアなんて見てごらんなさい。果たして真摯に相手を笑わせようとしてますか。ま、そこにビジネスや金儲けが絡む時点でそんなことは難しくなっちまうんですな。笑いの追求、そのためにはそれ以外のことを考えちゃだめだってその方は思い立った。そこで当会が発足させられたわけで。お分かりいただけましたか?」

「まっっったく説明になっていない」

だってそうだろう?

「おや、何か抜かしちまったかな」

「その主催者が笑いを追求してるのはわかったよ。で? その目的は? 笑いを失ったとは? はい、説明したまえ」

「ありゃいけねえ。あっしの悪い癖ですわ。すっ飛ばして喋るんだから相手さんなんにもわかっちゃもらえねえ。すいませんね」

「いいとも! が、早くしてくれ」

「はい。目的ですね。まあ一言で言うと世界平和でしょうな」

「ほう。また大層な目的だ」

「そうなんです。けど、べつに笑いで戦争を無くそうとか思ってはいないようです。単に笑えていない人々に笑いを届けることが目的なんですね。ええ、この冷酷な世界で飢えや貧困、不治の病、悲惨な戦場でむごたらしく死んでいく人。彼らに笑いを届けようとその人は考えたわけです。そしたら世界も少しは笑うんじゃないか、とね」

「つまり…」

「そう。『笑いは伝染する』んでして。高純度の笑いは地球の裏側まで届くんです。実験した本人が証明して見せました。中東だろうがアフリカだろうが笑いは届く。生まれてから一度も笑うことなく死んでいく赤ん坊にも笑いを与えられる。その方が得たすばらしい結論です」

「つまり… 我々のやっていることは実はボランティアみたいなものだと?」

「あっしがそう言ったからそう思われるだけです。構いやしないでしょう。ご自分の笑いが役に立ってても」

「それはそうだが…」

「いったい笑いがどれだけ重要なもんかお分かりですか? この世界に、もし悲しみと怒りしかなかったらどうなるとお思いで? 笑いというのは無条件にそれらを受け止めてくれる唯一のものです。そりゃあ笑ったからっていってそれでなんかが劇的に変わるわけじゃございませんよ。でもねえ、あなた、救われる人もいるかもしれませんぜ。我々が日々何気なく消費しちまってるこの『笑い』を、どうして泣きながら死んでいく人たちに分けちゃいけねえって法がありますか!」

男は熱弁を振るったが、正直よく分からなくなってしまってね。笑うことに意味があるのかそんなに深く考えてみたこともないし。もらい泣きと一緒でもらい笑いってのもあるから、笑いが伝染することはなんとなく納得できたが。ただ、そこで話はまだ終わっていないことを思い出したのだ。

「笑いの重要性は理解した。会の真の目的がすばらしいものだということも。…で、その主催者は笑えなくなったと言ったな。なぜだ」

とたんに男の顔色がサッと青ざめた… ように私には見えた。うってかわって彼は小さい声で話し始めたのだ。

「石油資源とおんなじで」

「うん?」

「四〇年前には四〇年後に世界の石油はすっからかんになるってみんな言ってたのをご存知でしょう。でも実際石油はいまだに掘られ続けている。しかし、ですぜ? いつかは無くなるんでさあ。笑いもそれと同じことです。あはは、つまりですね、普通に生きてりゃ無くなることなんて考えないし、無くなることもない。でも無くなるときにはホントに無くなっちまう。それが笑いってやつなんでして」

「では、どうすれば笑いは無くなるのかね」

「先ほど申しました高純度の笑い。あれを追求していけばいずれ笑いは枯渇しまさあ。当会の主催者は以前実験で日本にいながらブラジルで熱病に侵された少女とその家族に笑いを伝染させようと恐ろしいまでに混じり気のない笑いをなさったところ、次の日にはもう笑えなくなっちまいました。その方は今やもっぱら彫像のように動かぬ顔で過ごしてらっしゃいます。笑いが無くなりゃ泣くことも怒ることも意味が無くなっちまう。ですからその方が会に参加なさっても無駄だと申し上げたんで」

「その人にはもう笑いは伝染しないのか」

「しませんや。だって当然でしょう。笑うための燃料がすっからかんなんですから」

「おい待て、それでは… 我々もいずれ笑いを…」

「将来はそうなりましょう。ですが、あなた方はこのことを知らずに毎回笑ってらっしゃいます(あなたは知ってしまいましたが)。高純度とは言ってもそこまで質の高いものではないでしょう。ですから、すぐに笑いを失うということはないでしょうし、あっても十年単位で先の話でさあ」

「どうすれば、どうすれば笑いの消滅を先延ばしにできる」

「人の笑いは通常一生かかっても消費しきれないほど莫大です。が、それを多量に頻繁に消費すれば枯渇するのは自明の理。馬鹿みたいに意味なく笑いなさいますな。あとは、あっしが今話したことは忘れるように努めるんですな。アフリカの難民を笑わせようとして笑いの資源を掘りつくしていしまっても責任とれませんので。へへっ」

「きみが教えたんだろうが!」

「教えろといったのはあなたでして」

「馬鹿な… 忘れろと言われて忘れられるものか! より鮮明に思い出すに決まっている! 笑いを失うことの恐ろしさはいまきみが言ったばかりだろう!」

「それはあなたさまの問題でして。だいたい、これは『秘密組織』だと申し上げたはず。組織の秘密を知っちまった者には相応の責任がのしかかります。それに、笑えない人々が世界中にたくさんいると申したはずで。なのに無為に笑いを消費する消費者が悪いのです」

めちゃくちゃだ。何かがおかしい。実はすっかり騙されているのではないか。すべて嘘なのではないか。そんな思いが頭の中を駆け巡った。寒い寒い真夜中のはずなのに、頭も体もカーッと熱くてたまらなかった。

「前兆は… 笑いを失う前兆みたいなものはあるのか…」

「人それぞれでごぜえます。当会主催者のように一夜にして突然失うパターンもあれば、笑いの残滓は残るもののだんだん笑えなくなっていくパターンもごぜえます。発作のように短くしか笑えなくなってしまうんですな」

「くそ… なんて組織だ。あんな会に二度と行くものか」

突然、男が凄まじく大きな声で笑い始めた。

「あはははははっははははっはははっはははっははははははひーひっひひひひひひひわはははははははははっははは…」

間違いなく隣近所の住人が目を覚ましただろうね。時間にしてたった数秒の笑いだったがそれほど真に迫った、迫力のある笑いを私は見たことが無かった。例会であれほど純真に笑い、またそれを見てきた私でも、だ。怒りを込めて私は聞いた。

「何が、おかしい」

しかし、それに対する返答は凍りつくような無感情の声だった。冬の夜の寒さなぞまるっきり相手にならなかった。眉ひとつ動かさずに男は語った。

「ああ、人間の醜さここに極まれり、だと思いまして。ええ、自分たちの快楽のためだと思ってやっていたことが実は他人のためで、自分たちには害を与えかねないものだと知ったとたん手の平を返す。実に人間らしい。それを悪いことだと咎めはしません。ですがね、あなた。あなたはもう大いなる笑いの悦楽ってもんを知ってるんですよ。賭けてもいい。あなた、またあの会にお行きになる。哀れにも快楽を知ってしまった人間がそこから抜け出すってのは至難のわざですぜ。ええ、それも含めてあっしは人間の醜さ、笑いの偉大さを痛感させてもらったんでさあ。あっしには大うけです。だから最後に大いに笑わせてもらったわけで」

「お前に分かるものか」

「分かりますとも。ですが、ここいらであっしはお暇いたします。どうやら嫌われちまったみたいだし、潮時でしょう。じゃ、お元気で」

あのニコニコ顔はどこへ行ったのやら無表情な顔で男はさっさと去って行った。あとに残されたのは阿呆みたいに口を開けて呆然とする私だけ。昨晩はまさしくわたしにとって悪夢だった。



さて? どうかね今の話は。うん、信じられない、と。あはは、まあそうだろう。話の入りからして馬鹿げている。秘密組織だからな。うーむ、しかし、どうすれば信じてもらえたものか。証拠があればいいんだが… おっ、そういえば、きみ、結構きれいな声をしてるな。どうだい今度…


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