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歴史・あやかし

空舞う蝶の香りに誘われ

作者: 采火

☆序☆


 怨霊跋扈 魑魅魍魎 都の闇に夢があり

 怨敵退散 万魔拱服 鄙の光に現ある


 賀茂の子 人の子 妖しの子

 稀代の呪術 言葉をのせて 地を渡る

 宇治の子 人の子 妖しの子

 偽りの蝶 羽を舞わせて 空辿る


 至宝の護り 内外隔て 神すら住まず 上のみ住む

 聞けども 見えども 境を越ゆるべからず


 越えて臨むは 都の闇なり


☆上☆


 都で最近、畏れられているモノがいる。あの稀代の陰陽師と評される賀茂の後継でさえ返り討ちになったという噂の大妖のようで、人々は夜はもちろん昼間でさえも外出を控える者が増えていた。

 そんな中でも賑やかな場所はあるもので、噂を畏れながらも足繁く人々が通う邸が都の外京のさらに外れにあった。都は大きく四つに区分され、内裏、右京、左京、外京と言うのだが、外京と言えば地方から上がってきた成り上がりの、悪く言えば柄の悪い貴族の住まいが多くて人を寄せ付けないのだが、噂が噂を呼び、昨今では人の足が絶えない場所となっている。

 その噂の中心にいる宇治葛羽(うじのくずは)は今年で十六となる。地方武士の父を持つ葛羽はつい先日、上京して来たばかりで先立つ物も殆ど無くて困っていた。どうにかして邸と幾つかの調度品を整えることができたものの、晴れて滝口の武士になった父の収入だけでは何とも生活し難くて、葛羽は得意の芸で人々の目を楽しませては少なからず生活の足しにしていた。

 市が立つ日に会わせて葛羽は露天を開く。主立った商品は香で、客寄せの為に芸をし、客にはその術の見世物代を含めて香を買って貰う。これは故郷から持ってきた分を全て売り払ってしまえば収入源も無くなってしまうからと、少しでも香を高く売ろうという寸法で始めた商売だ。その時の芸が噂となって広まり、今では邸にまで来て見物する者が来るようになってしまったのである。

 葛羽の恰好は春の新芽のような色合いの狩衣に、長い髪を高い位置で括っているというもの。女子が男装をしているようにも、中性的な面立ちの男子であるようにも見えるこの恰好は、芸の特異性を引き出すためである。葛羽の父がことあるごとに大反対している姿でもあるが。

 今日は市の日であったので、葛羽は市へと朝早くから出向き、いつものように日が傾く前に市から出た。それでも邸に戻るのは日が沈みきった頃になるので遅いくらいだ。

 外京は左京の北に位置する。外京から時間をかけて歩いて行き、左京にある東の市の隅っこでこぢんまりと店を開くのだ。今日はその市の日だったので店を開くついでに必要な物を買ってきた。家路につく葛羽の荷物は行きよりも少しだけ増えていた。

 逢魔が時。

 人ならざるモノ達が起き始める時間。

 葛羽は急いで帰ろうとする。面倒ごとに巻き込まれるのはごめん葬りたいからだが、そんな事は葛羽の事情である。そんなにうまく、世の中は回らない。


「おぉーい、お姫ー! お姫ー! オレらと遊んでおくれー」

「蝶々のお姫ー! 遊んでおくれよー」

 外京の辻に入った途端、わらわらとあちこちの邸の前栽から小さきモノ達が顔を覗かせた。一つ目の小鬼や鞠のような鬼、鳥の羽が生えた狗や足のない蜘蛛。これらは皆、雑鬼と呼ばれる悪戯程度の力しかない(あやかし)だ。

 都は人と妖が共存する。

 葛羽も含め、都人のほとんどが妖を見ることができる。妖は生活の一部でさえあるのだ。地方は見える人の方が珍しく、妖がここまで人と親しくできると知らなかった葛羽にとってこの光景はかなり目新しい。

 前栽の妖達は遊んで遊んでと主張している。いくら人と妖が共存しているといっても、こうも一方的に妖に好かれるということは滅多にないと思う。

 でも彼らも一応は葛羽の常連だ。いつもなら邸での芸を見に梁や天井にこっそりとやって来るのだが、さすがに真っ昼間の市に出没するわけにはいかないようで、ここで待ち伏せしていたようだ。


「うるさいなー。今日はもう呪具がないし、太陽も沈みそうだから駄目」


 無視すればよいものの、人の良い葛羽はわざわざ足を止めて彼らの言葉に耳を傾ける。本人は気づいていないだろうが、普通の都人は妖を見ることはできても言葉を交わすことはできない。それは都の仕組みに関わることなのだが、都の造営にまで遡るので割愛。

 つまりは葛羽は少々特殊で、雑鬼となら井戸端会議に付き合ってやるくらいには仲がよいのである。

 芸を見せることができないと言ってもなかなか解散しなさそうな雑鬼達に、葛羽はため息をついた。がさごそと何かないか狩衣の袖や袂を念のため漁ってみる。


「ん?」


 袂を見たとき、一枚の紙が引っかかっているのに気付いた。等しい四辺の真っ白な和紙。さらさらと散りばめられていた粉が散っている。

 葛羽はぺらりとそれを取り出すと、太陽を確認した。もうだいぶ沈んではいるが、燃えるような夕日はまだ存在している。これなら、できる。


「一枚だけならできるよ」


 ぴらっとその紙を見せてやると、雑鬼から歓声が上がる。葛羽はくすりと笑って荷物から小刀を取り出した。


「何がいい?」

「蝶ー!」「犬ー!」「蝶ー!」「鳥ー!」「虫ー!」

「じゃあ蝶ね」


 そう言って、紙を太陽へと掲げる。

 掲げた体勢では少々難しいが、手慣れた手つきで小刀を操り蝶の形を切り抜いた。端切れと小刀を懐にしまって、切り抜いた蝶を手のひらに乗せる。

 雑鬼がその手のひらに注目している中、蝶はふるふると小刻みに震え、ついに独りでにふわりと舞い上がった。


「わーい!」

「追いかけろー!」


 くるくると空中を大きく旋回している紙の蝶を、雑鬼達はきゃいきゃいはしゃぎながら追いかける。見ていると、姿形は違うものの、幼い子が駆け回っている様子を連想させてくれるので葛羽は微笑んだ。

 自分の周りを駆け回っている雑鬼を目で追いかけていると、列になっていた雑鬼達の最後尾にいたのが不意にぴたりと止まった。キョロキョロと辺りを見渡し、ついには前栽の中へと戻っていく。

 葛羽がきょとんとしていると、他の雑鬼もそれに気付いたようで顔を見合わせている。そしてこそこそと話し合い始めて、やがて鞠のような小鬼が前に進み出た。


「お姫、今日は帰れ。やばいのが来るぞ」

「やばいの?」

「やばいのはやばいのだ。もうそこまで来てるー!」


 きゃー、と雑鬼達は出てきた時と同様にわらわらと前栽の中や屋根の向こうへと避難していく。

 ぽつん、と。

 たった一人、紙の蝶だけ残して取り残された葛羽は急に寂しくなった。紙の蝶が慰めるかのように葛羽の頭の上で羽を休める。

 仕方なしに帰ろうと踵を返す。雑鬼もやばいやつが来るとか言っていたし、ろくでもないことが起きる前に退散することにする。妙なことに巻き込まれたくないと思うのは世の常なのだ。

 帰路に戻ろうと一つ目の辻に出た瞬間、左から何かが突っ込んできた。


「きゃぁっ」


 突然の出来事に出遅れたが、何とかぶつかることは避けられた。その代わりに尻餅をつくという醜態を晒すことになってしまったが、人通りは殆ど無いので良しとする。

 葛羽はもうもうと土煙を上げて止まったモノを見ようと視線をあげ、その次にはしまったと本能が警鐘を鳴らした。

 四本の毛深く長い手足を持つ大きな猿のような妖怪───狒狒(ひひ)だ。

 狒狒はゆっくりとこちらへと振り向き、ひたと葛羽を見据える。口から唾液を垂れ流して、じっと見つめてくる。こいつこそがきっと、最近都を騒がしている奴の正体に違いなかった。


「なんで……」


 怖さで声がかすれる。

 狒狒は山の妖怪だ。山で年老いた猿が笑いながら生き続けたモノだという。それがどうして都に入ってきているのか。どうしてそんな飢えた目で見てくるのか。

 動け動け動け。

 今すぐ背を向けがむしゃらに走れ。

 そうじゃないと、たちどころに……


「食べられ、る……!」


 ぱっと身を起こして、狒狒がやって来た方へと駆け出す。反転するには道幅いっぱいのあの図体ではきっと難しいはずだから、少しぐらい時間を稼げるはず。

 一目散に駆ける。一つ目の辻で左に曲がって西へ戻っていく。内裏前まで逃げれば、衛士が気付いてくれるかもしれない。

 必死に足を動かしていると顔の近くでちらちらと飛んでいるモノがあった。───葛羽が作った紙の蝶。

 葛羽ははっとして蝶を指先に止めた。息を切らせながらもたどたどしく命じる。


「人を、連れて、来てっ」


 命じて天高く放り投げるようにして飛び出させる。紙の蝶は鳥のように滑らかに滑空して飛んで行く。

 取り敢えず、あの紙の蝶が妖怪慣れしている人を連れてくることだけを祈る。間違ってもひ弱そうな貴族なぞを連れてくるなよ、と心の中だけで付け足しておく。軽口を思えるくらいにはまだ余裕があることを自覚して、葛羽は気を引き締める。

 幾つかの辻を過ぎて、遠くの方に衛士らしき人影を見たとき、葛羽はほっとした。もうすぐ助かる。どれくらい突き放したかと思ってちらりと振り向くと、後ろに狒狒はいなかった。

 狒狒が葛羽を見逃したのだろうか。いや、そんなはずがない。狒狒は人間の女の肉を好む。恰好をいくら変えていたって、狒狒には関係なく葛羽が女子であることが分かるはずだ。あんなに飢えた目をしてたのに、見逃しはしまい。

 じゃあ何処に。

 余所見から視線を戻そうとした時、空が陰った。


「上!?」


 そんなまさか、と思って視線を上げるとどうだ。夕日を正面から浴びて、狒狒が邸の屋根を飛び移っている。

 今、狒狒は葛羽の直ぐ隣の邸の屋根に飛び移った。そして、葛羽目掛けて飛びかかる。

 葛羽はぱっと自分から身を前へ投げた。潰されたくは、ない。

 着地の衝撃で少し飛ばされる。たった少しの衝撃だったのに、心構えの差で受け身を取り損ねた。左肩から思い切り打ち付けられる。


「っ!」


 今ので内裏に向かう小路から反れてしまった。この距離、衛士が気付いてくれるだろうか。

 まだここは外京のはずだ。外京に邸宅を持っている者は少ない。ここら数件も確か空き家のはずだから、この状況に気付く者はいない。

 軋む体にむち打つように立ち上がる。逃げなければ、と言うことだけを考える。次の辻をもう一度左に曲がれば……。

 痛む体に動け動けと念じながら、もつれそうになる足を必死に動かす。

 辻までたどり着こうとしたとき、ひらひらと白いものが飛んできた。

 葛羽の蝶。

 思ったよりも早かった。それは救いのような目映い光を発しているように見えた。

 ちょっと気を反らしただけで足がもつれ転びそうになる、が。

 誰かがそっと葛羽を前から受け止めた。


「オン・ビシビシカラカラシバリソワカ・ナウマクサンマンダバサラダ・センダマカロシャダソワタヤウン・タラタカンマン!」


 よく透き通る低い声で真言の旋律が流れる。何の起伏もないはずの音は、縛印無しで紡がれた。

 不動明王金縛りの呪。

 狒狒の動きがぴたりと止まる。

 ぐぐぐ……と無理に動こうと狒狒は術に構わずぎしぎしと身を軋ませる。

 葛羽は見た。狒狒の体に青白く可視化された霊力が鎖のように絡みついているのを。

 更に術者は別な呪文を唱え、葛羽を抱えていないもう一方の腕で刀印を振り下ろす。


「天に在す神鳴り給え──招雷!」


 カッ、と。

 空に一閃、地に落撃。

 白い稲妻が空高くから迸り、見事に狒狒を貫いた。

 つんざく悲鳴をあげ、狒狒は燃え尽き灰となる。

 灰と共に場に広がろうとする穢れに対して、術者は葛羽を抱えたままで柏手を打つ。


「祓い給え清め給え」


 空気を一新、澄んだ風が澱んだ穢れを吹き払う。

 術者はふぅと一息着いた。


「ったく、見かけねーと思ったらこんなとこに居やがったか。くそったれっ、行動範囲が広過ぎんだよ!!」


 がしがしと豪快に頭の裏を掻いている。しかも何だかめんどくさそうだ。

 まじまじと葛羽は助けてくれた術者を見つめる。

 術者は深藍の狩衣に烏帽子を被っているれっきとした男だ。体格も成人男性特有のもので、葛羽を支える腕も力強い。日差しいっぱい取り込んだ深緑の瞳で、烏帽子との境の髪が夕日に照らされ黄金に輝いている。黒髪のようだからその黄金色が少し不自然に見えた。

 ぱちりと術者と目が合う。

 葛羽はぱたぱたと手足を動かして解放してくれと主張した。


「すまんすまん」

「ああああありがとうございました!」


 ぺこりとお辞儀をして、葛羽は駆けだした。

 至近距離での一瞬の邂逅は葛羽の幼い感情をかき乱すには十分だった。何あれすごく美人さんじゃないの男のくせに! と本人の前で叫ぶ前に一目散に駆け出す。

 流石にお礼の言葉一つだけではいけないだろうから、また今度会ったときにお礼をしようと思う。あんな不思議な色の瞳を持っているのだ。きっと少し聞き込みさえすればすぐにでも会えるかもしれない。

 葛羽は己の術をかけた蝶を回収することも忘れ、燃える夕日が沈みきった頃、やっと自分の邸へと戻ることができた。


☆下☆


 葛羽はぎょっとした。

 ちょっと散歩をと思い外へと出たら何やら牛車が止まっていて、その御者がさあさあと言わんばかりに葛羽の背中を押してその牛車に乗り込ませたのだ。何が起きたのか理解する間もなく拉致誘拐。どこぞの邸へと連れ込まれてしまった。

 牛車が止まった様子を機にそっと外を覗こうとすると、外からにゅっと腕が伸びてきて掴まれた。思わずびくぅっ! と肩を跳ね上げると、手の主が顔を見せる。


「あれぇ……?」


 逆光だからか、目の前の人物の髪が星のようにちかちかと瞬いて見える。男のようだが髷も結わず烏帽子も被らずで、色々となっていない。それを言うなら女子のくせに男の格好をしている葛羽も似たようなものではあるが。


「おー、当たった当たった。たまの占も当たるもんだな。こいつでいい。部屋に通してやってくれ」

「若様、そのお姿のままで人前に出るのも大概になさりませ」

「あ。すまんすまん」


 男は外からかかった声に答えると、葛羽の手を離して顔を引っ込めた。その後暫くして、この邸の女房らしき女性が顔を覗かせて葛羽に降りるように指示した。

 邸に上げられ、案内される。この間ずっと葛羽の頭の中は何がどうなってこうなってしまったのかと考えるのに必死だった。

 部屋の一つに通されると、部屋の主はすでにいた。


「よっ。座れ座れ」


 昨日の男だ。新芽の瞳に目鼻がすっきりとした顔立ちの好青年。


 男は手招きして葛羽を呼んだ。

 葛羽は訳が分からないまま男の前に座る。そこでふと昨日のお礼になるような物なんて何にも持ってきてないのにどうしようと妙な焦りを募らせた。でもまさかきっと、昨日の謝礼を強制されることはあるまいと自分に言い聞かせる。


「さっきはすまなかったな。何せ明朝早くから牛飼い童を待機させて置いたから、あいつらもさっさと帰ってきたかったんだよ」

「は、はぁ……」

「若君、それよりも先ほどの失態を謝る方が先でしょう。何が悲しゅうてあんなお姿で人前に出てしまうんです」

「ハイハイ。まったく若菜は口うるさくて適わん」


 ギロリと葛羽を案内した女房に睨まれ、男は視線を逸らす。


「あー、なんだ。さっきの格好のこともすまん。ちょっとはしゃぎすぎて最低限度の礼儀も忘れてしまった」

「あの、いえ、その、お構いなく」


 そこでふと葛羽は首を傾げる。さっき会った?


「あれ、私って貴方と会うの今日は初めてのはずなんですけど」

「ん? 牛車の中で会ってるじゃないか」


 確か牛車の中で会ったのは星の瞬きの色を持つ髪の男だったはずだ。葛羽はますます首を傾げる。

 その様子を見て、男は察したようでにやりと笑った。


「髪を染めてるんだよ。今の髪色は黒だが、さっきはもっと色が抜けていた」


 なるほど。

 そこで何だか違和感を感じたが、何に対しての違和感かよく分からないので保留しておく。どうせそんな重要なことではないだろうから。

 また、未だどうにも分からないことがあって。


「あの。貴方の名前は何ですか。そして何で私を連れてきたんですか」


 どうどう目を見据えて話しかける。

 男はますます口角を上げて笑った。


「俺の名前は賀茂実胤(かものさねつぐ)という。宮廷陰陽師の一人だ」


 明かされる男の身分に葛羽は愕然とする。そうだ、思い出した。

 賀茂実胤。先祖返りの美貌を持つ賀茂家の後継。何でまたそんな人が一度きりの縁しか無いような葛羽を呼び出した?

 あれか、何かの陰謀を企んでいるのだろうか。

 次に何を言われるのかさっぱり見当が付かないので葛羽が身構えていると、男は狩衣の袷からかさりと紙を取り出した。

 葛羽の蝶。

 昨日放ったそれは、もうすでに効果は途絶えており、ぴくりとも動かない。


「これ、お前のだろ」

「そうですけど……」


 葛羽は小首を傾げる。こんな使い捨ての蝶が何なのだろう。


「これの作り方を教えて欲しい」


 葛羽はきょとんとした。


「失礼ですが実胤様。実胤様は陰陽師ですよね。こんな地方で廃れた術などよりも余程素晴らしい術をお知りだと思うのですが」


 純粋な疑問から言うと、今の発言のどこかに実胤の機嫌を損なう何かがあったのか、実胤は眉間に皺を寄せて渋い顔をした。


「都の術師……陰陽師など、今ではただの名誉職になりつつある。術が行使できる者はほんの数人で、昨日のお前みたいに妖に襲われている奴がいても直ぐに助けてやれる状況ではないんだ」


 それがどうして葛羽の蝶と繋がるのか。

 こんな見世物程度の術など、使い方は限られている。


「この式を伝令に使えるようになれば、その少ない人数でも確実に人を回せるようになるからな」


 葛羽はちょっと目を丸くする。

 葛羽のこの術は故郷に残してきた母から教わったものだ。人の目を楽しませる以外に使い道の無かったこの術が人の役に立つのならば、どうしてその技術を提供しない者がいるのだろうか。


「分かりました。実胤様は私の命の恩人ですから、この程度の事ならお請けいたします」


 深々と頭を下げて承諾の意を示すと、実胤はふっと笑った。


「助かる。宮中には俺以上の陰陽師はお師匠しかいない。そんな程度の低い奴らの相手をすることになるだろうが良いか?」

「ええ、構いませんとも。立派な方々にお教えするのはかえって気後れしますから」

「よし。ならば早速だが内裏に行こうか」


 そう言って立ち上がる実胤に葛羽ははたと止まる。

 何だろう、すごく大事なことが伝わっていないような……。


「何している。童だからと遠慮したのか? 俺の選んだ講師として呼ぶのだから元服が済んでいなくとも内裏には入れるぞ」


 元服?


「……あぁ」


 分かった違和感。

 実胤は葛羽の事を完全に男だと思っている。

 確かに狩衣姿で烏帽子を被っていなければ童に見えるだろうが、話し方や物腰はそこまで男々しくないはずである。

 葛羽の根は乙女だ。いくら現在進行形で父と二人暮らしが続いていると言っても、男なのは格好だけで、邸では大人しく雑鬼とお喋りしたり楽器を嗜んだり食事の用意をしたりと実に女子らしいことをしている。

 確かに実胤と出会って間もない。だが、しかし、かといって、全く気付く様子を見せないとはどういう事だろうか。

 こほん、と少し大袈裟な咳払いが聞こえた。若菜と呼ばれていたあの怖そうな女房だ。(きざはし)に控えていたらしく、何か言いたげにこちらに視線を向けてきた。


「何だ若菜」

「失礼ですが若君、まだ相手の方のお名前を伺っていらっしゃらないようですが」


 ぱちりとまばたきして、実胤は思い出したように手を打った。


「そういえばこちらだけ名乗っただけだったな。お前、名は何という」


 やっと問われた問いに、葛羽は実胤の目をひたと見据えて答える。


「宇治葛羽と言います」


 言い切ってから、誤魔化すようににへらと笑ってやった。

 今度は実胤が首を傾げる番だ。


「うじのくずは?」

「はい」

「……幾つだ」

「数えで十七になります」


 実胤がまじまじと葛羽の顔を見つめていると、部屋に入ってきた若菜がその桂の袖で葛羽の顔を隠した。


「年頃の女の顔をじろじろ見るなんて礼儀がなっておりませぬ」

「……お、んな?」


 実胤が一瞬、理解できなかったかのように反復する。

 そして、


「女あああああああ!?」


 力一杯絶叫した。


☆幕☆


 これより後、巷にて一人の式紙使いの噂が瞬く間に広がる。

 陰陽師と共に民の安寧を夜の住人から守るその術師は大変重宝され、様々の人に一目置かれる存在となった。

 目を奪うほどに美しい白き蝶の大群は夜の住人をも惑わして、都の平安に貢献する。

 この術はやがて紙胡蝶飛と呼ばれ、術を操る葛羽が香売りであったことから、術師は香具師とも呼ばれるようになる。

 代々宇治氏が師範となって、廃れ始めた陰陽師にこの術を伝える仕組みができたのもまさにこの時である。


 賀茂の陰陽師・実胤。

 宇治の香具師・葛羽。


 これは歴史に謳われない二人の物語である。



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