act:07-comes a hero
ナナシには自分が一体何者なのかが分からなかった。
記憶の残滓が告げるのは、無があったということだけ。ただ暗闇の中を、ポツンと自分独りだけが存在していた。そうしてその場に魂のように漂っているだけでは、退屈極まりなかった。というよりも、何だか怖かった。
何故なら、自分が生きているのか、死んでいるのかも分からない。そう感じていたからだ。ふわふわと中空を浮かぶ実体のない幽霊のようだった。ただそこにいるだけの存在で、あまりに希薄で、存在意義のないもののようだった。
だが、ある時、濃霧のような闇夜しか広がっていなかった自分の世界に、一条の光が差し込んできた。
それは眩しくて、一体どんなものなのか分からなかった。
だけどその光線は暖かかった。光の先に飛び出してみるのもアリだと思った。
そして、気がついたら《RAG》の幻想世界にいた。
茫然自失となっていた時に、ゾンビの群れに強襲されていたあの時、銃を片手に助けてくれる人間がいた。地獄の釜で絶望していたナナシに垂れたのは、蜘蛛の糸のようなそんな代物。掴まって、切れてしまうのが怖かった。他人を信じることなんて躊躇した。
「……だけど、」
いつの間にか無理やり引っ張られていた。救われていた。こちらの気持ちなんて完全に無視して、変な格好をしたその男に、手をさし伸ばされていた。
それからずっと光に満ちた道を歩んでいた。だがそれは、ヘルヴァンという少年がいる時だけだった。彼はいつもどこかへ行ってしまう。ずっとこの世界にいる訳ではない。しばらくこの世界に滞在したあと、必ず帰るべき場所に帰ってしまう。
「それが、寂しいんだ……」
だから、少しだけ意地を張ってしまった。もう少しだけ構って欲しかった。傍にいて欲しかった。心配して欲しかった。
でも、ヘルヴァンはナナシを置いて先へと進んでいってしまった。足先が階段へと続く道に向けられていた時に、本当は追いかけて謝罪したかった。
「でも、」
素直になれなかった。
自分の心にいきなり浮上してきた戸惑っていた。大海に漂っていた心の中から、いきなり姿を現した。それが、どんなものであろうが、暗い、光の届かない深海に沈めておきたかった。
ナナシは本当に臆病者だった。
ほんとうは手放したくなどなかった。手に掴んだ太陽をその手に収めておきたかった。だけど、もしもそれを拒まれてしまったらと思うと足が竦んだ。だから、服の裾を掴むことなく、そのまま見送ってしまった。
「……怖い」
本当に怖い、暗闇の中。
いつの間にか、ヘルヴァンという光がなければ一人で歩くことも適わなかった。いついかなる場所でゾンビが現れるかも分からないこの幻想世界。未熟な銃の腕しか持っていないナナシにとって、ここは死と隣り合わせだった。
あんなにも、あんなにもヘルヴァンが横にいたときは安心だったのに。軽妙な口を囁き交わしたというのに。
今は、ぞわりと不安と恐怖で塗りつぶされた脆弱な心のままでいた。
「――――ッ!!」
背後に感じた気配に瞬時に反応して振り返ると、銃を向ける。そこにはやはり、というかゾンビが蠢いていた。だが、いつもと違っていたのは、それが大人のゾンビではなかったということだった。
子どもだった。
あー、あー、と腐った口から吐き出されるのは、狂気を駆り立てるような闇を這いずる声。着ている服までもが泥のようにもなっているが、かろうじて入院患者の服であるということが黙認できた。
飛び出ている眼球には、血のような亀裂が入っていて、健在といっていいのか、もう一つの濁りきった眼球はこちらを眺めている。
――ケ――
「…………?」
ナナシは、首を傾げる。
何か眼前の子どものゾンビが、言語を発したような気がしたからだ。だが、ゾンビが声を発することなどありえない。ナナシはちょっと距離を置きながらも、ゾンビが何かを言ってくるのかと身構えたが、やはり幻聴のようだった。何も言ってこない。
だが、パクパクと、壊れたおもちゃのように口が開閉しているのが視える。なんなのだろうかと、ナナシは凝視した。一体、何をしているのかと観察し
「――――――――!!」
ナナシは病院中に木霊するかのような絶叫をした。読唇術とまではいかないが、口の動きから言葉のようなものを読み取った。読み取ってしまった。
――タスケテ――
喉の奥から声のならない悲鳴を搾り出すと、頭を振る。
違う、違う、そんな訳ない。ゾンビに意思なんてあるはずがない。もしも、あるのだとしたら、一体自分がどれだけのことをしてきたのかということを、思い出さなければならないのか。どれだけの罪を背負わなければならないのか計り知れない。
銃を所構わず乱射する。
被弾しているのか、していないのかも認知しないまま、撃ち続ける。撃っている間だけは、頭が真っ白の状態のままで入れる。空白の時間が流れるままでいられる。
カチッ、カチッと虚しい音が鼓膜を響かせていた。
ガクリと両膝をつく。
力なくぶらりと腕を床にこすらせる。
目元からは涙が溢れていた。止処なく流れ出した涙は頬を伝い、顎のラインを沿うようにして、やがては闇へと消える。
今までずっと殺してきた。意思のある、形のある生物を。
だが、そこでスッと正気に戻ったかのように、もうひとりのナナシが胸中で囁く。
――そんなの、どうだっていいじゃない、と。
仮にゾンビに意思があるからといって、だからといってどうしてこんなにも取り乱さなくてもいい。また知らぬ存ぜぬを貫き通してこのゲームを続けていればいい。そうすれば、ずっと太陽のそばに入れる。
そう思った。
確かにそうだよ、って主人格じみたナナシが納得したように心の中を響かせる。でも、だけど、と思う。もしも、目の前の子どものゾンビを否定してしまったらナナシは一体どうなるのだろうか。
自分が何者なのかも分からない。そんな人間は、眼前の死体と同じなのではないか。
ずっとヘルヴァンを騙していた。
同じ人間であるかのように振舞っていた。いや、自分ですらずっとそう思い込んでいた。あまりにも幸せすぎて、何も見えなくなっていた。
だけど、本当はヘルヴァンの傍に嘘つきはいてはいけないのかもしれない。裏切り者は、隣にいてはいけないのかもしれない。
「だから、受け入れないと……ダメ……だよね」
ありのままに、ゾンビの存在を、そして今まで自分のやってきたこと全てを。そうすれば、またヘルヴァンとともに笑い合うことができると思う、思った。だから――
子どものゾンビが、ナナシの肩口に噛み付いてきた。
グチュグチュと貪るようにして肉を喰らっていく。歓喜を帯びたような声が、ゾンビから漏れている。抑えきれない食欲が、人間の肉を喰らう衝動へと繋がるのだろうか。とにかく咀嚼していく動作は停止することはなかった。
HPバーが急激に損なわれていく。あまりレベルを上げていないためだろう。なんの引っかかりもなく、視界まで赤くなっていく。
死に直面して、削がれていく意識の中。
ヘルヴァンに教わった銃の撃ち方が浮かんでいた。初めて会った時から、自分は何も成長していない。そして、きっと何も変わらな
「ヒーローの最低条件は、女の子のピンチを嗅ぎつけられることだ」
ゾンビの肉片がそこらに飛び散る。
怒涛の銃撃音。
そして二度目の死を迎えたゾンビは、固い床に体を叩きつけた。ナナシは、零れる涙を手で拭き取ると、
「……まったく――」
夜闇の中を漂うようにいたナナシの瞳に映ったのは、温かな光だった。どんなどん底にいようとも、必ず凍ったような心を溶かしてくれるような笑顔を見せるヘルヴァン。それを見ていると、どんな葛藤もバカバカしくなってしまう。
「……ほんとに、何も変わらないですね」