act:04-empty family
ヘルヴァンは自身の本名すら忘れていた。
長時間どっぷりとVRMMOの世界に浸かっているがために、ヘルヴァンという人格が魂にまで根付いている。そのぐらい、《RAG》は現実的で中毒性がある。
そしてもう一つ。
日常生活を送っている内に、名前を呼称されることがないからだ。学校では同級生はおろか先生にまで、幽霊扱いされている。いつも机に突っ伏して、時間が無為に経過するのをただ待っているだけだった。
そして、この自分の家ですら、ヘルヴァンの名を声に発する人間などいない。
「お前、何やってんの?」
そうそう。お前だとか、おい、だとかモノ扱いだ。
人権というものがヘルヴァンには存在しない。
「邪魔だっーつぅーの!」
「ぶっ!」
階段で思索に耽っていたヘルヴァンの尻を、容赦なく蹴り上げたのは姉。
ゴロゴロと開脚前転して、ゴキっと首が折れそうになりながら、視界は回転する。腰を強打して、肺は潰れそう。
生まれたての小鹿のように足をガクガクさせながら、なんとか立ち上がる。あば、あばばば、と口の中で転がすと、
「殺す気か!?」
「え? そうだけど」
「あっさり認めんな!!」
「ほう。この私に命令口調とはいい度胸だな」
「すいません。ほんと、アイアンクローだけは勘弁してください」
メキメキッと、握力だけで林檎を握りつぶすことのできる姉に、今だけは謝罪しておく。後後仕返しをしてやるつもりだが、今だけは許してやろう。
復讐の手段を頭の中で巡らせていると、いつの間にかヘルヴァンの顔が歪んでいた。
「ニヤニヤすんな。気っ――持ち悪いな。このドМやろう」
「…………」
「うわっ、黙んな。キメェな」
「……悪くないな」
「死ね!」
肩をいからせながら、ズシンズシンと象のように足音を立たせる。矮小なる存在であるヘルヴァンは、蜘蛛の子を散らすように、一目散に逃げる。触らぬ神に祟りなしだ。少しばかりユニーク混じりにふざけただけだというのに。
ヘルヴァンには分からなかった。
姉とどうやって接するのが一番最適なのかということが。
だから、いつだってふざけることしかできなかった。姉は怒ることが趣味であるかのように、家ではストレス発散をしていた。だから、ヘルヴァンにできることといえば、その捌け口になるということ。
だから、敢えて叱られるような行動ばかりとるようにしている。蔑まれるように、見下されるように、道化を演じる。
そうすることでしか、コミュニケーションの取り方を知らなかった。
「また……か」
逃げた先にあった、いつも食事をとるテーブルに置いてあったのはコンビニ弁当だった。側には『あたためてください』と書かれていた置き手紙。そんな、それだけの素っ気ないただの文字。気持ちの入っていないのが伝わってくる。
それも当然。
以前話したのはいつぐらいだっただろうかとか、どんな会話をしたのだろうかということも、ヘルヴァンの記憶にはない。
父親はもういない。
母親は二人の子どもを養うために仕事をしている。仮に言葉を交わしたとしても、つまらない口喧嘩をするだけだ。だったら、最初から交流の一切をしなければいい。
友達。
家族。
絆。
そんなものは、ヘルヴァンにとってはちっぽけだ。空虚なものだ。それこそ、二次元のように実体のないように思える。
ヘルヴァンにとって、現実とは《RAG》であり、幻想とはこちらの世界のことだった。