竜の落とし子
神都と呼ばれるダルマティアの中心。
「龍。どうした? 浮かない顔ーー、いや、死にそうな貌をしている」
三人の軍団指揮官の一人、ヴァン・ヴァースハイムはそう声を掛けた。
ガラスのはまった窓の手前に、龍が影絵のように見えている。天気はあまりよくなく、先ほどから遠雷が聞こえていた。
龍は、虚ろな口調で応じた。
「ともだちを死なせた。--私のせいだ」
ヴァンは少し首をそらせーー、考え込むような仕草をした。よく彼は腕を組んでいるが、今もそうしていた。
そして、--言う。
ヴァンの脳裏にあったのは先日の作戦の成功と、それを立案したのがこの龍だったということだが、口に出した言葉は、それとは別のものだった。
どこか横柄な態度は、いつからか、もう癖のようになっている。
「お前に功名心はないのか。戦場で敵を殺すのは手柄だ」
「・・・・嬉しくないよ、そんな」
龍の声音が、地獄から響いてくるようなものに変わる。
「私は、もうーー」
さきほどヴァンが形容した”死にそう”は、決して比喩ではない。事実、捕らえられた龍の九割は死んだ。
ーー生き残ったのは、よほど楽観的な龍ということだろう。
ヴァンが、龍ーーオーウルを繋ぎ留めている鎖に手をかけたのを、オーウルは不思議そうに見つめた。
「どうするつもり? 私はお前を、噛みころすかもしれない」
龍の言葉に、常に偽りはない。彼らにとって言葉は真実である。--人間とは違う。
ヴァンは淡々と作業を続ける。
「そういうこともあるかもしれないな」
鎖の最後のひとつが外され、床に落ちる。その音の反響が消えるか消えないか。
「--!」
ヴァンは衝撃に衝き飛ばされ、一方で龍は、廊下を抜け、その向こうの窓を破って外へと飛び出した。
それを見送りつつ、痛みに顔をしかめ、軍団長は心中でつぶやいた。
(--腕一本か? 舐められたものだ)
消えた腕の先ほどまでつながっていた場所が、どくどくと血を吐き出している。空へ、龍が小さくなっていく。
「”知恵”は、飼い馴らすべきじゃない・・・・」
こんなことをして、免職だろうか。クビ以前に、命がなくなりそうなのに、そんな心配をする自分に、ヴァンは内心で苦笑していた。
◆
『アルフリート、君は人間だ。だから、人間にならなきゃーー』
なんでヒトっていうのはこう複雑、かつ制御が利かない生き物なんだろう。そのとき、オーウルはそんなことを考えていた。猫に生まれたら猫になるし、ハエに生まれたらハエになる。それは当たり前のことだし、どの種にとっても難しくないことだーー、その時まで、オーウルはそう考えていた。
ヒトが人になるのは、そんなに難しいことなのだろうか?
だが現に、彼が子どもの頃から知っているサルの一種ーー、アルフリートは次のように言っているのである。
「わたしは龍だ! 誰が、あんなーー」
オーウルは、どこか寂しげにそんな様子を見ていた。
やがて、言う。
「・・・・分かった。君の気が済むまでここに居たらいい」
「ああーー」
どこか遠くの”敵”を見つめるように、アルフリートは頷いた。
・・・・・アルフリート。いつか君にも分かる?
ヒトは、ううん、人だけじゃなくて、存在は皆。定められた通りにしか、在れないっていうこと。
◆
ーー”今”のオーウルは、その記憶を、どうしようもなく悲しい気持ちで眺めている。
人間がどうしてあれほど、嘘をよくつくのか、今なら、分かる気がした。
悲しい結末を避けるためならば、いくらでも。
風が、それを捕らえた翼を揚げて流れていく。
◆
その日アルシオは、そのメモを眺めていた。貴重な本の隅に、本の文章とは関係なく綴られた文字。
文字は丁寧な筆跡で書かれていたけれど、それが彼自身に向けたものなのか、それとも誰かに宛てるつもりだったものなのかは、それだけでは判らなかった。
『自分で何かを選べるなんて、幻想だ。
絹を選んでも木綿を選んでも、服を纏わなければならないことは、”決められている”。自分ではなく、大勢の他者に。
そうしたくないなら、そうしなくても構わない。だけど、生涯を、さすらって暮らすことになる。それがイヤなら、ーー”服を纏え”』
『僕たちは本当は何ひとつ、選ぶことなんかできないんだ。
呼吸する気体の種類を選ぶことも、目が知覚する光線を選り分けることも、その爪をつくる原子を選ぶことすら。
それを嘆き続けるのが”若者”。それを受け入れるのが大人だ』
アルシオは突然、それらのページを、破りとって握りつぶしたい衝動に駆られる。
ーーが、代わりにしたことは、机を殴りつけることだった。
文字の中のアルフリートは言う。
『ヒトとして生きることは、ままならない。ままならない現実を受け入れる時期を、ヒトはたぶん、自分で決めるんだ。』
「--墓の下で、か?」
アルシオが皮肉げにつぶやいたところで、マリエルが入ってきた。黒い服を着ている。
「ここにいたのね。準備ができたそうよ」
「--すぐに行く」
「それでね、考えたんだけどーー」
「?」
怪訝な顔をするアルシオの前で、マリエルは言う。
「エリシエラの鱗も黒く塗ったほうがいい?」
「馬鹿者」
その頭を軽く叩いたところ、次のようなコメントが返ってきた。
「《ぼうりょく》よ。《ぎゃくたい》だわ」
「エレニア語を学ぶのはいいが、そんな言葉ばかり選んで覚えるな」
マリエルは小さく舌を出し、それから、軽やかに走り去った。
アルシオは軽く息を吐き出す。
「儘ならないものをどうにかしようとすることの代わりに、儘なるものをどうにかすることを覚える、んじゃないの?」
白黒の珍獣みたいに塗り分けられた龍が、窓から顔を出す。
どうやら、マリエルは考えるのみならず実践してみた途中だったらしい。
頭の上のほうから黒の顔料がぽたぽたと垂れていて、エリシエラは何度も瞬きをしてーーいや、龍にまぶたはない。顔を洗う猫みたいに、アルシオの三倍は体積のありそうな龍は、手で顔をこすっている。--付いた顔料は、落ちるだろうか。
「読めるのか? 古代エレンディアの言葉が」
「マリエルが読んでくれたんだよ。そのページの形には見覚えがあるから、そういう意味かなぁって」
「・・・・ふん」
エリシエラはタワシを探しに行った。
上空を、一匹の龍が飛んでいく。
「・・・・・オーウルだ」
エリシエラのつぶやきに、マリエルが尋ねる。
「知っている龍?」
「うん・・・・。変わり者って、有名なんだ」
龍は、二度、城の上空で旋回し、それから、北のほうへ飛び去っていった。
黒い龍が、蒼天へと消える。
後日、ダルマティアの軍団が、一匹の龍によって甚大な被害をこうむったとも言われるが、それはまた別の話だ。
◆
「わたしは、龍だ」
黒鱗の龍は、そう言った青年を思い出す。その言葉に、ひどく困惑したことも。
「アルフリート、きみは人間だ。人間にならなきゃーー」
オーウルが言うと、彼は、龍ではなく、空気を睨んで言葉を吐き出した。
「誰が、あんな・・・・ッ、自らと、意思のない虫の区別もつかないような」
「アルフリート」
龍が静かに止める。
「人間になるべきだ。ヒトは、群れて暮らす生き物なんだよ。--龍とは、違う」
「・・・・」
アルフリートは、深く考え込んでいるようだった。そして、言った。
「なら、わたしは龍になる。オーウル・・・・」
それを聞いたときのオーウルは、柄にもなく、嬉しそうに見えた。
けれど青年は還っていった。人間の社会に。
ひとりに戻った龍は、何年も何ヶ月も、それまでとーーアルフリートが来る以前と同じように暮らしていたけれど、ある日、その生活は終わりを告げた。
再び、人間が分け入ってきたのだ。
それはダルマティア軍の兵士たちで、千人にもなる大規模な集団だった。
他の龍ならばおとなしく、人間に見られないうちに退散したのだろうけど、オーウルは、龍のみんなにも言われているように”変わり者"だった。
「何をしているんだい、人間? こんな荒野に、何かあるのかい?」
それは、夜で、火の番をしていた兵士は、ひどく驚いたようだった。のそりと火の明かりに現れた、仔象ほどの生き物に怯えた視線を投げ、何事かをわめいた。
龍は知っている限りの言語で話しかけてみたけれど、そのうちのひとつが、どうやら通じたらしい。
ともかく、兵士は大慌てで幕小屋に駆け込んで、責任者らしい、立派な身なりの人物と、他の数人を連れて戻ってきた。
長らしい一人が、言う。
「ふむーー、龍か? 実物は初めてだ。わたしはヴァン。この軍団の、三人の責任者のひとりだ」
相手の差し出した手に、どうしていいか判らず、--龍はおどけた一礼を返した。ーーまさか友好の証に、”食物"を差し出しているわけではないだろうから。
「それはどうも。僕はオーウルーーって、呼ばれているよ。ねえ、《この言葉は、大分、動詞の使い分けが難しいね。十六も語尾の形を変えるなんて》ーー、あのね、アルフリートって知っている?」
途中にエレニア語のつぶやきを交えて、龍が尋ねると、兵士たちは互いに顔を見合わせた。
ヴァンと名乗った男が返す。
「知らないな。おそらく、カナーラント人の名だろう」
「きみたちは、カナーラント人じゃないの?」
隊長の背後の、兵士たちの間で、小馬鹿にしたような笑い声が起こる。
「我々は神聖なるダルマティア王の臣民だ」
「へえ」
それきり龍は興味を失ったらしく、のそのそと歩いて、宿営から離れていった。
兵士たちは互いに顔を見合わせ、しばらく、今のできごとを様々に噂し合っていた。
「やあ。きみは確か、あの軍団っていうのにいた偉そうなヒトだね。使役竜も一緒だーー。何の用?」
それから三ヶ月も経ったろうか。
鼻歌ーーアルフリートに教えてもらった何かの歌ーーを歌いながら庭の草木に水を遣っているところへ、ヴァンと、三人の兵士がやってきた。
「あまり芳しくない報せだ、龍よ」
オーウルは奇妙に人間らしい仕草で首をひねった。
「ふうん?」
じょうろを置いて、黒龍は洞窟のほうへ歩きかけた。
「お茶でも飲んでいきなよ。きみたちの口に合うかどうか分からないけど」
ヴァンが返す。
「いや、けっこうだ」
そして、背後の二人の兵士に合図した。
「悪いが、捕らえさせてもらう。我が王が、荒野の珍しい生き物の話を聞いて、一目見たいと仰せでな」
「・・・・」
少しの間を置いて、龍は吹き出してわらった。
「にんげんっていうのは、面白いことを考えるねえ。ぼくみたいな大きな生き物を、どうやって運ぼうっていうの?」
二人の兵士は槍の穂先を向け、残る一人は火器を向けた。
龍は肩をーーたぶん、肩をーーすくめた。
「そんなことをしなくてもついていくよ。人間の暮らしっていうのには、昔から興味があったんだ」
鼻歌さえ歌って旅支度を始めた龍を、背後から呆れるような視線でヴァンが見ていたのはここだけの秘密である。
だから、というわけでもないが、あとで、旅路の途中に、こっそりと尋ねた。
「龍。どういうことか分かっているのか? 我々はそなたを、知恵ある生き物としては扱わぬぞ?
ーーこの使役竜がそうであるようにな。
人間は自分に都合の良いものしか好まぬ」
「わかっているよ」
そう答えた龍を、ヴァンはうろんげに見つめた。
「何もかもが人間に属していて、月や星さえも、人間が手入れをしてやらなきゃって思っているんだ」
言葉に続けて、龍はエレニアの古い歌をうたいだす。やれやれと、ヴァンは首を左右に振った。
もとより人間社会とは、個人の力ではどうにもならないレベルで動いている。
がたごとと、龍を載せた荷車は進んでいった。
王は一目見たきり、龍への関心を失ったらしい。それはそのまま、王の他の収集物を同じように、王宮の隅の小部屋に詰め込まれておくこととなった。
オーウルは、初めのうちこそ物珍しさにわくわくしていたけれど、しばらくすると、退屈で死にそうになりはじめた。
部屋から出ようとでもしようものなら、槍を持った二人の兵士に止められる。
窓から外を眺めてみては、通りがかった女中に悲鳴を上げられる。--龍とは、元より、万人に好感を与えるような容姿の生き物ではないーー残念ながらというべきか、幸運にもというべきか。
女中が慌てて取り落としていったために芝生の上に取り残された真白な洗濯物をながめ、龍はため息をついた。
毎日、頬杖をついては、部屋の中をーー石壁のかけ具合とか、その表面の感じとかーー 一心に観察してみたり、部屋の中を、時計回りに三十周まわって、それから逆回りに同じだけ歩いてみたりしたーー別に、何の意味もない。あとはただ、窓の外のうつりゆく景色を眺めていた。
毎日運ばれてくる黒いパンは、硬くてぱさぱさしていた。
ある日、窓の外にヴァンを見つけたので呼んでみた。
他の大勢の兵士が整列していて、その前に立っていた三人のうちひとりが彼がだったのだが、--龍の呼び方がよほどおかしかったのだろう。兵士たちがくすくすと笑い始めた。
仕方なし、ヴァンは龍のほうへと歩いてきたーー自分の名など教えるのではなかったと少しばかり後悔しながら。
「龍。今わたしは仕事中だ。待っていてくれるか?」
龍が素直に頷いたので、その場はそれで終いとなった。
それから陽も傾いた頃、宝物庫に隣接した一画ーー龍の隣には、雪豹が飼われていたり、赤と黄と緑と青の、派手な羽毛を持った大きな鳥が飼われていたりするのだがーーをヴァンは訪れた。顔は苦虫を噛み潰したようで、手には、先ほどまで被っていた、赤い羽飾りのついた鉄の兜を抱えたまま。
そわそわと、正気をなくした人間みたいに歩き回る龍を、ヴァンは入り口に立ったまま、冷たい目で見ていた。
「始めに言っておくべきだったな。逃がしてくれなどといわれても、取り合ういわれはない」
「本だよ!」
「・・・・・・・は?」
龍が突然口にした単語の意味を急には取りかねて、ヴァンは目を丸くした。ーー部下が見ていなくて幸いだった。
「パンはいらないから本が読みたい。辞典でも古典でも、絵本でも何でもいいんだ」
「・・・・わ、わかった」
気づけば、勢いにつられるようにして頷いてしまっていた。
「それから、植物。何かを育てるのって、とても良いことだとぼくは思う」
ヴァンが尚も、狂気を見るようにしているので、オーウルは訊いた。
「ぼくってそんなに可笑しいかな? 龍の仲間にも会うといわれるんだよ。きみは変わってるねって。
変わってるのってそんなに悪いことかな? 他のみんなとまったく同じなら、ぼくがいる必要はないよね。
ぼくはぼくだからここにいるんだ。ねぇ、どう思う?」
「・・・・う、うん。」
ヴァンはうめいたきり、言葉をなくしてしまった。
その隙に、オーウルは色んな角度からこの兵士を眺めてみて、言った。
「ぴかぴかの鎧。これ、どうやって作るの?」
「・・・・・なんでも、根掘り葉掘り訊くものじゃない」
言ってしまってから、まるで子どもにでも言うようだとヴァンは思った。慌てて背を返す。
「・・・・とにかく。本と、植物だな。他にはあるか?」
最後の問いに、龍はにやりとーーといっても、ヴァンには分からなかったがーー楽しそうに笑い、今のとこないよ、と答えた。
◆
本の余白に、書き続けられた文字は言う。
『人として生きること。「人」になること。わたしは”ヒト”なのだ、と何千回も自らに言い聞かせた。
誰かの望むわたしを演じること。人が望む水準から逸脱しないこと。自らの望みを捨て、ヒトの望む「人」になること。
わたしはただの人なのだ。
それは時に、自らを失わせるような強い苦痛と、暗闇の中を歩いているような不安を思わせた。
”わたしはどこへ行くのだろう?” ”誰になるのだろう?” それとも、何者にもなれないまま、どこかへ消えていくのか。』
アルフリートの書いたメモの大半には、日付がない。しかし、これには数字が添えてあった。”神聖樹の年10024年 実りの月”。
◆
『アルフリート。きみは「人」なんだ』
懐かしい声が脳裏でよみがえる。
(・・・・ちがう、オーウル。わたしは・・・・)
龍になりたいと望んだ生き物は、むなしく頭を振った。
これほど派手な色彩が、自分の皮膚の下にあったなんて、どうして今まで知らずにいたんだろう。ーーぼんやりと彼の頭は考える。腕までが心臓になったみたいに、どくどくと鳴っているーー体の中で。
(何かを選べるなんて幻想だ)
吐き捨てるように、脳の中の何かがしゃべる。まさか小人が住んでいるのでもあるまいに。
「・・・・選べ、なかった・・・・。初めから人だったんだよ、オーウル」
大地が空と逆さまになったようで、まともに立っていられない。体がそれ以上落ちない場所が”大地”だと気づいて、なぜだか妙に安堵した。
(何故、わたしはそれに気づけなかった? どうして、龍になれるなんて考えたんだ)
急に、強い眠気が、頭を支配する。
(運命の女神の手のひらの上で、踊っていただけ。オレはーーオレたちは、どこへも”行く”ことなんてできやしない。)
「わたしはーー」
全てが無意味で、全てが無色に思える瞬間。
「もう、夢なんか見ない」
辺りは不思議なくらい静かで、--もう何も聞こえなくなった。
◆
「わたしは、龍だ」
・・・・そうだね、アルフリート。
「龍たることを、選び取る」
きみは確かに、そう言ったんだ。
まどろみの中、オーウルという名の龍はかすかに思い出す。
読んで下さった方、ありがとうございます。
ふたつ、別々に書いていたファイルを一緒にまとめたので、前半の文章が多少重複してます・・・。