表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/40

第31回:最後の日はとうとうと過ぎ行く

 朝方から、父はゴルフに出かける準備をしていた。また、会社の役員と接待らしい。彼には会社と切り離される日は一日とてない。母は、休日はここぞとばかりに習い事に向かう。昼までは家でゆっくりしているのだが、その後お茶会、生け花、エアロビ、エステと夜まで帰らない。母は、こと自分を磨くことに関しては余念がない。

 今日は部活の後に集まりがあることを告げて一足先に家を出ようとした。母は「あまり遅くならないようにね」と言ったが、母より遅くなることはまずない。最後かもしれない会話も大して実りがなかった。

 いや、そう諦めてしまうのは私の悪い癖だ。本当に、本当に最後かもしれないのに。私は一度出た玄関に引き返し、台所でそれぞれ思い思いに過ごしている父と母に向き合った。父は迎えの車が遅れているのか足を揺らしながら新聞を読んでいて、母はその対角にある席で広告とファッション誌を交互に見比べている。

「ん、行ったんじゃなかったのか」

 父が新聞越しにちらりとこちらに目を向けて、すぐに視線を落とす。私は念のためか用意しておいたチョコレートをテーブルの上に置いた。関心を示さない二人に私は言った。

「今日はバレンタインだから」

「……?」

「二人に私からプレゼント。美味しくできたと思うから食べてみてね」

 本当はほとんど冴香がつくったんだけど。

 私は怪訝そうな表情の二人(もしくは呆気にとられたような)に笑いかけ、家を出た。

 もっと早く行動を起こしていればもっと違う今があったのだろうか。私と両親との関係はこうではなかったりしたのだろうか。二人は私が死んだら悲しんでくれるのだろうか。

 考えても結果のでない問いを繰り返しながら私は学校に向かった。


 やっぱり時刻も早いから道場にはほとんど誰も来ていなかった。ただ一人、宇留間先輩を除いては。宇留間先輩はもうすでに袴に着替えて矢を射っていた。

 今日は、白井先輩が今期最後に高校を去りオーストリアに留学するということで、お別れ会をすることになっていた。そう、白石先輩は学外で行っていたピアノの活動が認められて音楽留学に推薦されたのである。私では思いもつかないような展開が白井先輩には用意されていたのだ。本当、白井先輩ってすごい。

 一ヶ月ほど前に白井先輩の留学が決まったことを聞いた時、私はドラマの展開でも聞いた気になって、才能のある人は違うなぁって、思った。不思議と私の弓道に対する想いは変化せず私は練習に励み続けた。いつのまにか、私が弓道をする動機は白井先輩ではなくなっていたらしかった。

「先輩、早いですね」

 と、声をかけても宇留間先輩は見向きもせず、まるで聞こえていないように振舞う。最初の頃の、あの目つきはしないようになったから、それだけはましになったのかも知れない。私は女子部室で袴に着替えて道場に舞い戻る。手早く着替えたから、まだ他に人は来ていなかった。

 先に一立(いったち)してしまおうと二的に入る。二本射ってともにハズレ。私は動揺を顔に出さないように射続ける。

「……口割(くちわり)。狙いつけろ」

 宇留間先輩の叱責。口割とは水平にした矢の高さを口の高さに合わせるということ。私は「はい」と答えて集中して矢を放つ。矢は的を逸れて安土に突き刺さった。

「会が短い」

 またも飛ぶ宇留間先輩の叱責。私は最後の矢をつがえ、ゆっくりと動作を行う。口割を意識して大きくのびするように弦を引き、狙いをつけると数拍待つ。背後から宇留間先輩の視線を感じる。なんだか顔が熱い。

「肩の力を抜け」

 言われるがままに左肩に入っていた力を抜こうと試みる。でも、弓を支える腕の力は緩めてはいけない。この加減が難しい。上手い具合に私の身体は動いてはくれない。それに、今の私は自分の身体がどんな状態なのか頭に感覚が伝わってこない。風邪でも引いているような気がした。

 長い時間経ったような気がする。けれどそんなに長くはなかったのだろう。私はこの時間が苦ではなく、むしろもっと続いて欲しいとさえ思った。

「離れ」

 唐突な宇留間先輩の言葉に、私は反射的に矢を放った。私は的をずっと見つめていて、矢はビデオ画像のようにスローモーションで飛んでいく。まるでそうなることが前から決まっていたみたいに、矢は的に吸い込まれていって、タン、と音をたてた。

 当たった。

 初めて、矢が的に当たった。

「……当たりましたよ。先輩」

「正射必中。ちゃんとやりゃ、当たるんだよ」

 宇留間先輩は他人事のように言う。ように、と言うか他人事なんだけど、私はそれどころじゃない。

(当たったんだ、矢が。初めて当たったんだ)

 私の心臓は早鐘のように脈打って、ずっとドキドキが止まらなかった。嬉しさが後から後からこみ上げてきて、いつまでたっても顔がにやけるのを止められなかった。

 その後はずっと、みんなが集まって部活内の白井先輩お別れ杯弓道大会が終わってからも、私が二度目の命中をすることはなかった。気分が浮ついていたからだろうか。当たったときの感覚もよくは覚えていなくて、それは残念だったけれど、私は始終上機嫌だった。他人から見れば些細なことなのかもしれないし、宇留間先輩はもう当たるのが普通で、大した事ではないのだろう。でも私にとってはとてつもなく嬉しく、幸せなことなのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ