第30回:頼ってばかりいる自分
午後四時にはみんな用事もあるということでお開きになった。静まり返った部屋は私一人には無闇に広く、私はなにをすべきかいつも見失う。せっかく帰ってきたお兄ちゃんもまたいなくなった。私は明日死んじゃうらしい。こんな状況で、私は床の上で膝を抱き寄せ座っているばかりで、無気力だ。誰かに助けて欲しい、なんて都合の良いことを考えてしまう、自分が嫌だ。
自分がどうするかなんて自分で決めるべきなのに、誰かの意見を求めている。誰かの助けを期待している。自分に課せられた悩みを直視しようとしない。私は弱い。どうしようもなく弱くて、情けない。
(……お兄ちゃん)
子供の頃、つまらないことで私がふさぎこんでいると、必ずお兄ちゃんは駆けつけてきてくれた。父や母は仕事でそばにいない。代わりに、お兄ちゃんが精一杯私を笑わせてくれた。おどけてふざけて、元気出せよって励ましてくれた。甘えられる存在だったんだ。私は、お兄ちゃんに依存していたのかもしれない。
不意に包丁が頭に浮かんだ。私が死ぬ日は明日と決まっているのだとしたら、今日死んでしまうことは運命へと抗うことになるのだろうか、決められたレールから逃れるためなら、いっそ……。
……それは現状放棄でしかない。目の前の現実から逃げているだけだ。
もし私がここで逃げたら、お兄ちゃんはどう思うだろう。許してくれるだろうだろうか、叱るだろうか。それとも、何も言わないだろうか。
どれもあり得る。お兄ちゃんは優しいから、いつも私のことを想ってくれる。
……いや、これ以上甘えちゃダメだ。死んでからもお兄ちゃんを頼っちゃいけない。私は、強くならなきゃ。もうあまり時間も残っていないのだから。
携帯電話がテーブルの上で振動する。電話は冴香からだった。私は一泊置いて通話ボタンを押した。
『あ、千歳。元気? って、さっき会ってたんだけどさ』
冴香の用件は特になかった。あたりさわりのない話などして、どうやら、今日私の元気がなかったのを心配してくれたらしかった。
「わざわざありがとうね。でも、本当なんでもないから」
『そう。あ、でも、なんか悩みができたらすぐに言いなよ。あたしら友達なんだから』
「ありがとー。冴香、なんか今日はいつになく優しいね」
『あたしはいつでも優しいって。ていうか、あんたを助けた分はちゃんと後で返してもらうから気にしないでいいよ』
「うぇ。なに、友達でしょ?」
『友達関係はギヴ&テイク。ちゃんと返しもらうから』
冴香との軽口を交えた会話が私の気持ちを一時でも晴れさせる。私は普段通りなにも問題などないかのように冴香に別れを告げた。
感づかせてはいけないと思った。特別な別れなどしてしまったら、冴香の心を余計に苦しませるんじゃないかと怖れた。私は自分が彼女にとって大事な存在であるなどと思い上がる気持ちはないが、あれでいて冴香は他人をとても大事にするところがある。私はなにごともなく逝くのが一番だと思う。
自分がいつ死ぬかなんて知らなければ、こんな気配りなんてしなくて良かったのに。
(ごめんね。冴香。悪いけど、返せそうにないや。嘘も一つついていくね。でも、絶対、意地悪でするんじゃないから。許してね)
私は携帯電話の電源を切った。
その後は特に何事もなく過ぎた。いつも通り英語の宿題をして、弓道の構えを練習して、適当にテレビ番組を流して、お風呂を沸かして……。
もしかしたら明日は私の命日になるかもしれないっていうのに、私の前夜は自分でも驚くほどいつも通りだった。突然思い立って海に行って叫んだり、ビルの屋上で「私なんて死んでやるぅ」ゴッコしたり、近所を裸足でうろついたりする衝動はこなかった。そりゃあ、ここから海まで何十キロも離れている上に交通手段自転車しかないし、この辺にはせいぜい二階程度の高さの建物しかないし、外は寒いしと、色々乗り気にならない理由はあったけれど、一番はそうしても自分の気が晴れないことがわかりきっていたからだろう。
どんなにがむしゃらになっても手に入らないものはある。私はとっくにそのことを思い知らされていたから。
そして、あっさり私の人生最期の日予定日はやってきた。