第29回:厄介者のいない日
「まず生クリームを電子レンジで加熱して。一分半くらい」
冴香がチョコ作りの手順を説明してくれている。冴香は甘ったるいものは苦手とか言っているくせしてお菓子作りも上手だ。
今日は土曜。バレンタインの前日。私は習慣だった宇留間先輩と二人だけの練習には行かず、かねてからの計画通り冴香と小春と一緒に、ここ、私、小林千歳の家でチョコ作りをしている。両親は朝早くにせわしなく仕事に向かったので家には三人きりだ。
だが、私はぼうっとしていて、冴香の注意も耳に入ってなかった。
「ちょっと、千歳。ちゃんと聞いてるの?」
「あ、ごめん。聞いてなかった」
「もぅ。なんだか今日の千歳おかしいよ?」
「ごめんごめん」
冴香の指摘は正しい。というのも、今の私は突然お兄ちゃんがいなくなったことで思考が混乱していた。そう、朝目覚めると、良彦お兄ちゃんは私のそばからいなくなっていた。
まるで、初めからいなかったかのようになんの痕跡も残さずに。
全ては私の願望が見せた幻だったのか。白昼夢か。なにかの間違いだったのか。家中、ゴミ箱の中から書棚の裏、冷蔵庫の下まで探したけどお兄ちゃんは見つからず、お兄ちゃんは本当にいないことを知った。私は床の上に座り、二年前に戻ってしまったかのような感覚を味わっていた。二度目の喪失だった。
「本当、ごめん。ちょっと休むね」
私は二人に謝ると居間に行った。私が死ぬということも、ただの悪夢だと済ませられたら、私は自分は前向きな人間と断言できることだろう。でも、そう単純な楽観は出来ないし、なにより頭に薄雲がかかるような大きな虚脱感が私を包んでいて、私はそれどころではない状態なのだった。
冴香が細かく刻んだビターチョコレートを加熱した生クリームに混ぜて溶かしていく。小春は後で中に混ぜる麦チョコをつまみ食いし、冴香に見咎められた。いつもながらの友達同士の楽しい雰囲気に、私は浸れる気分ではなかった。
昼頃にはチョコ作りも終わり、さながら打ち上げのように私達はお菓子を広げた。結局ほとんどの作業は冴香に任せてしまったけれど、こういったものは心を込めるのが重要なのだと自分に言い聞かせておくことにする。いつまでもふさぎ込んでいてもニ人を心配させるし私は空元気にしても明るく振舞うことにした。
「……そういえば、千歳ぇ。そのチョコは誰にあげるのかな〜」
冴香がプリッツサラダ味を食べながらにやりと笑いかけてくる。
「だ、誰にって」
「小春も〜聞いてみたいな〜」
小春も尻馬に乗ってきたので私は「自分で食べるの!」と言う。あ、でも父にはもうしばらくあげた事はないから、最後くらいあげてもいいかも知れない。
ぶーぶーと、ブーイングをする二人に対し「そういう二人は誰にあげるのよ」と切り返した。冴香と小春は顔を見合わせて口を開く。
「あたしは誰っていうか……特にいないけど」
「小春は〜、お父さんと〜、お隣のケンタくんと〜……あれ? そういえば、冴ちゃんて、弟くんいなかった? あげないの?」
「あんなクソ生意気なエロがきにくれてやるものなんてない」
「……仲悪いの?」
私は苦笑して相槌を打った。それがきっかけになってしまったようで、冴香の弟さんへの不満は怒涛の勢いで噴出した。買ってきたアイス(ハーゲンダッツ)やラーメン(グータ)を勝手に食べるとか、着替えや入浴をのぞくとか、間違えようのない簡単な録画予約を間違えるとか、そんな話がいくつも続き、私は笑いながらところどころ相槌を打った。小春はにこにこしながらお菓子を食べ続けていた。
話を聞くうちに、私はふとお兄ちゃんのことを思い出した。話の中の弟さんの輪郭にはどことなくお兄ちゃんの面影が感じられた。さすがに、セクハラ度合いはお兄ちゃんの方が上だったけど、結構みんな同じようなことで苦労しているんだな、なんて思ったりして。
(私にとって良彦お兄ちゃんは、本当に私のお兄ちゃんだったのかな)
感傷にふけってみた。