第12回:過去の陰は明るみに潜む
彼だと認識した途端、私の意識が一瞬にして冷えた。
またあの暗い瞳が脳裏をよぎる。恐怖で身が縮む思いだった。
だけど、宇留間先輩は何も言わず、驚いた顔から仏頂面に戻ると身を翻して去っていった。
何も言わなかった。正直、拍子抜けした。でも、ほっとした自分もいる。
でも、後ろからでは見えないあの瞳はやっぱりあの、なんだかとても怖い目をしているのだろうか。
人を心底憎むような暗澹とした瞳……。
それからの練習は身が入らず、朝練は失敗だったかな、と思えてきた。
めげずに次の日も行くとやっぱり宇留間先輩は来た。ガラッと勢い良く開けてまたすぐに閉めたからあんまり良く見えなかったけど、あれは宇留間先輩に違いない。……コントじゃないんだから。鍵が開いている時点で中に人がいることに気付きそうなものだけど。
もしかして明日も来るのだろうか。で、私がいるのを確認した途端にどっか行ってしまうのだろうか。
(……なにをしに来てるんだろう、宇留間先輩は)
変な疑問が浮かんだ。
(……実は道場に住みついているとか……はないね)
私は特別好奇心旺盛な方でもないけれど、その日ふと空いた時間に、同じ組の児島さんに話しかけてみた。この頃は冴香ともあまり話したことがなく児島さんと呼んでいたのだ。児島さんは宇留間先輩と同じ中学出身らしいってことだった。
「……あぁ、宇留間先輩ね。知ってる。なんでもあの人、父子家庭らしいよ」
「父子家庭?」
「そう、小さい頃に母親が家を出てったって。うちの中学じゃ結構有名な話。あの人の荒れっぷりと一緒にね」
児島さんの話では宇留間先輩の中学時代は、それはもうすごいものだったらしい。徒党を組んで器物損壊、暴力沙汰は日常茶飯事、本人もしょっちゅう生傷つけて停学処分も何度も受けたとか。
でもその話の割には今の宇留間先輩は大人しすぎる気がした。それは児島さんも同じだったらしい。
「この高校入学するまで宇留間先輩と一緒だなんて知らなくてさ、すごくびっくりしたんだけど……今は先輩、やってもせいぜい授業サボるくらいらしくて、なんか変な感じ」
別に騒動を期待しているわけじゃないんだけどね、と付け加える児島さんの目は、明らかにつまらなそうだった。
「……で?」
急に児島さんの目が輝く。おもちゃを見つけた子供のような表情を向けてきて、私はなぜだかぎくりとした。
「急になんでまた宇留間先輩のことを聞きたくなったの? 小林さん。先輩に興味があるのかな?」
「……そ、そういうわけでもないんだけど……」
「じゃぁ、どんな理由かな〜? 今まであまり小林さんと話したことなかったけど、いい機会だから聞きたいな〜イ・ロ・イ・ロ・と♪」
(ひえぇぇ)
本当にそんなんじゃないのにぃ、と私は怯えて後ずさる。
「いや、ちょっと聞いてみただけだから……」
「それだけの理由で話しかけてこないでしょ。ほら、誰にも言わないから、教えてみてよ」
児島さん、猫みたいだ、と私は思った。児島さんが言うようにまだあまり話したことがなかったから、彼女がこんなに他人の色恋沙汰を聞きたがるとは思ってもみなかった。
……色恋沙汰?
違うって! 私はそんなんじゃない。
一ヵ月前の光景を思い出せ。あの人はホモだ。
「宇留間先輩とは同じ弓道部だから。だから、本当にそれだけだよ。深い意味なんてないの」
「……ふ〜ん、そう」
児島さんはつまらなそうに一言つぶやくと尻切れトンボのように勢いがなくなってしまった。私は彼女に礼を言い、席に戻って次の授業の支度を始めた。と言っても、教科書とノートを入れ替えるだけだけど。
予鈴が鳴る前に、後ろの席の網澤さんが話しかけてきた。
「ねぇねぇ、小林さん、児島さんと仲が良いの?」
「え、普通だと思うけど、なんで?」
「だってさぁ、なんか児島さんて近寄りがたいって言うか、あまり人と馴れ合わないって言うか、そんな感じじゃん? 小林さんもそう思わない?」
「う〜ん、そうかなぁ」
と言っている間に授業開始の鈴がなり、同時に『ターミネーター』太田先生がやってきた。この先生はいつも時間を違えることがない。数学教師なのだが、某カリフォルニア州知事のようにマッチョだ。
私は号令をかけながら、網澤さんの言葉を考えていた。
近寄りがたい。馴れ合わない。
そういうところ、別に殊更指摘するまでもないことじゃないだろうか。人間十五年も生きていればそういう部分が出てきてもおかしくないと思う。
むしろ、必要以上に擦り寄ってくる人のほうが、信用が置けないし。
掛け値なしに人と付き合える人のほうが貴重だ。
と、そこで私の脳裏に、教室の隅で幸せそうに眠りこけている小春と……お兄ちゃんの顔が浮かんだ。最後に別れた朝の。
(……そういえば、そんなの、いたっけ……)
……その日の残りの授業は、なんだかくだらなかった。