婚約破棄された令嬢は野原を駆ける仔馬のように自由になりました〜追いかけてきた元婚約者様、私はもう貴方の檻には戻りません〜
「——君との婚約は、今日をもって破棄する」
冷たい声が、煌びやかなシャンデリアの下に響き渡った。
一瞬、会場が静まり返る。次の瞬間、さざ波のようにざわめきが広がっていく。
私——柊木莉央は、目の前の男を見上げた。
銀縁眼鏡の奥で、氷室蒼真の切れ長の瞳が冷ややかに光っている。五年間、婚約者として寄り添ってきた人。私の世界のすべてだと、そう思っていた人。
「蒼真様……?」
震える声が出た。演技ではない。本当に、何が起きているのかわからなかった。
「理由をお聞かせいただけますか」
「理由?」
蒼真様は、まるで愚かな子供に説明するように、ゆっくりと口角を上げた。
「君は退屈なんだよ、莉央」
——退屈。
その一言が、胸に深く突き刺さる。
「従順で、おとなしくて、言われたことには何でも頷いて。まるで籠の中の鳥だ。君といると、息が詰まる」
周囲から、押し殺した笑い声が聞こえた。
華やかなドレスに身を包んだ令嬢たちが、扇で口元を隠しながらこちらを見ている。その目に浮かぶのは、同情ではなく——嘲り。
「可哀想に」
「でも、仕方ないわよね」
「氷室様にはもっとふさわしいお方がいらっしゃるもの」
ひそひそと交わされる声が、針のように肌を刺す。
(……ああ、これは)
公開処刑だ。
蒼真様は最初から、この場で私に恥をかかせるつもりだったのだ。社交界の華やかな舞踏会。名だたる貴族たちが居並ぶ、この晴れ舞台で。
「五年間、僕に尽くしてくれたことには感謝している。だが、君では僕の隣に立つには——力不足だった」
力不足。
退屈。
籠の中の鳥。
一つ一つの言葉が、私という存在を否定していく。
——でも。
不思議だった。
涙が出ない。悲しみで胸が張り裂けそう、というわけでもない。
代わりに、胸の奥深くで、何かが——ぷつり、と音を立てて弾けた。
(ああ、そう)
(私、ずっと——)
(この瞬間を、待っていたのかもしれない)
「……承知いたしました」
私は静かに頭を下げた。
「五年間、お世話になりました。蒼真様のお幸せを、心よりお祈り申し上げます」
顔を上げる。
自分でも驚くほど、穏やかな声が出た。そして——唇が、自然と弧を描いた。
微笑んでいた。
私は、微笑んでいた。
蒼真様の表情が、一瞬だけ歪んだ。
整った眉がかすかに寄せられ、銀縁眼鏡の奥の瞳に、戸惑いの色が走る。
——おかしい、とでも言いたげに。
「……莉央?」
「なんでもございません」
私は深く一礼して、踵を返した。
ざわめく人垣が、モーセの海のように割れていく。哀れみの視線、嘲笑の視線、好奇の視線。すべてが私の背中に突き刺さる。
でも、不思議と足取りは軽かった。
会場を出る直前、ふと立ち止まる。
振り返りはしない。ただ、夜空を見上げた。
満天の星が、瞬いている。
こんなに星が綺麗だったことを、私はいつの間にか忘れていた。
胸の奥で、幼い頃の記憶がよみがえる。
広い野原を、風のように駆けていく一頭の仔馬。その姿に憧れて、私もあんな風に自由になりたいと願った、あの日のこと。
(——やっと)
頬を、夜風が撫でていく。
五年ぶりに感じる、本当の風の匂い。
(私、やっと——檻から出られる)
ポケットの中で、小さなお守りに触れた。
色褪せた布地。仔馬を象った、不格好な刺繍。
幼い頃、幼馴染の男の子がくれた、大切な宝物。
『お前は仔馬みたいだな。いつか絶対、風みたいに走れるようになる』
あの子は今、どうしているだろう。
私は、まだ——走れるだろうか。
夜空を見上げたまま、静かに息を吸い込む。
冷たい空気が肺を満たす。生きている、という実感が全身に広がっていく。
「……帰ろう」
呟いた声は、誰にも届かない。
でも、それでいい。
私の本当の居場所は、この煌びやかな鳥籠の中にはない。
風が吹き抜ける、あの広い野原の中に——きっと、ある。
背後で、蒼真様が私の名を呼んだ気がした。
でも、振り返らなかった。
私は歩き出す。
仔馬が、初めて草原に足を踏み出すように。
これは終わりじゃない。
——始まりだ。
◇ ◇ ◇
『莉央、貴女は何をしているの!』
母の甲高い声が、記憶の中で響く。
——あれは、八歳の夏だった。
私は屋敷を抜け出して、牧場の丘に立っていた。
眼下には、見渡す限りの緑の絨毯。柊木家が代々守り続けてきた、広大な牧場。そこを、一頭の仔馬が駆けていた。
栗毛の艶やかな体。風になびくたてがみ。力強く大地を蹴る四本の脚。
その姿に、私は釘付けになった。
(……綺麗)
心臓がどくどくと高鳴る。目が離せない。
あの仔馬は、なんて自由なんだろう。誰にも縛られず、何にも囚われず、ただ風と一緒に走っている。
「私も」
気づいたら、声に出していた。
「私も、あんな風に——」
『莉央!』
母の声で、魔法が解けた。
振り返ると、和装の母が険しい顔でこちらに向かってくる。その後ろには、慌てた様子の使用人たち。
『まあ、なんて格好なの。泥だらけじゃないの』
母が眉をひそめる。確かに私は、草原を走り回ったせいで膝まで泥に汚れていた。お気に入りのワンピースも、もう台無しだ。
『何度言ったらわかるの? 貴女は柊木家の令嬢なのよ。馬と戯れるなんて、はしたない真似は許しません』
「でも、お母様。あの仔馬、すごく——」
『口答えするんじゃありません』
ぴしゃりと遮られる。
『いい? 貴女はいずれ、どこかの名門に嫁ぐ身なの。淑女らしく、おしとやかに。それが柊木の女としての務めです』
母の言葉は、いつも正しかった。
少なくとも、幼い私にはそう思えた。
俯いて、小さく頷く。
『……はい、お母様』
『よろしい。さ、お屋敷に戻りますよ。すぐにお風呂に入って、その汚れを落としなさい』
手を引かれて歩き出す。
でも、私は何度も振り返った。丘の向こうで、仔馬がまだ走っている。風を切って、どこまでも、どこまでも——。
(いつか私も)
胸の中で、小さな炎が灯った。
(いつか私も、あんな風に——)
◇
それから私は、秘密を持つようになった。
母や使用人たちの目を盗んで、こっそり厩舎に通った。最初は馬を眺めるだけ。でも次第に、馬の世話を手伝うようになり、やがて——。
『お嬢、本当にやるのか?』
牧場の老いた馬番が、心配そうに私を見た。
「やります」
十歳の私は、きっぱりと答えた。
今日こそ、初めて馬に乗る日。心臓がうるさいくらいに鳴っている。
『奥様に見つかったら、わしはクビだぞ』
「大丈夫。絶対に見つからないようにするから」
半ば強引に頼み込んで、私はおとなしい牝馬の背に跨った。
高い。
世界が違って見える。
手綱を握る手が震えている。怖い。でも、それ以上に——わくわくしていた。
『いいか、最初はゆっくりだ。慌てるんじゃないぞ』
馬番の指示に従って、そっと馬を歩かせる。
ゆらゆらと揺れる感覚。馬の体温が、太ももを通じて伝わってくる。
「……すごい」
思わず声が漏れた。
『才能があるな、お嬢』
馬番が目を丸くしている。
『初めてとは思えん。まるで馬と話をしているみたいだ』
嬉しかった。
生まれて初めて、「淑女らしさ」以外のことで褒められた気がした。
その日から、私の秘密の特訓が始まった。
早朝、誰よりも早く起きて厩舎へ。母が起きる前に屋敷に戻る。淑女の仮面を被りながら、心の中ではいつも馬のことを考えていた。
一年、二年、三年——。
気づけば私は、牧場の誰よりも速く馬を走らせることができるようになっていた。
◇
『お前、また来たのか』
十二歳の夏。
厩舎で馬の世話をしていると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、日焼けした顔の少年が立っている。風に乱れた黒髪、人懐こい笑顔。牧場の獣医の息子——風見颯太。
「颯太」
『毎日毎日、よく飽きないな』
颯太はひょいと柵を越えて、私の隣にしゃがみ込んだ。
「飽きないよ。馬と一緒にいると、自分が自分でいられる気がするの」
『ふーん』
颯太は私の顔をじっと見て、それから破顔した。
『お前、屋敷にいる時と全然顔が違うよな』
「……え?」
『屋敷じゃいつも俯いて、おとなしくしてるだろ。でも、馬といる時のお前は——なんていうか、目がキラキラしてる』
心臓が跳ねた。
見られていた。私の「本当の顔」を、この少年に見られていた。
『俺、そっちのお前のほうが好きだな』
颯太はあっけらかんと言って、ポケットをごそごそと探った。
『そうだ、これ。やるよ』
差し出されたのは、小さな布袋だった。
受け取って開けると、中から不格好な刺繍の施されたお守りが出てくる。
「これ……仔馬?」
『婆ちゃんに教わって作ったんだ。下手くそだろ』
確かに、縫い目は歪んでいるし、仔馬の形も歪だ。でも、一生懸命作ったことが伝わってくる。
『お前さ、仔馬みたいだよな。野原を駆ける仔馬。いつか絶対、風みたいに走れるようになる。俺、知ってるから』
颯太の言葉が、胸の奥深くに染み込んでいく。
「……ありがとう」
声が震えた。泣きそうだった。
『泣くなよ、大げさだな』
「泣いてない」
『泣いてるじゃんか。目、真っ赤だぞ』
「泣いてないったら!」
私は慌てて顔を背けた。颯太の笑い声が、青い空に響く。
◇
——それから、十年以上が経った。
私は「淑女」になった。
母の望む通り、名門・氷室家の跡取りと婚約した。毎日笑顔を浮かべ、おとなしく従い、求められる「完璧な婚約者」を演じ続けた。
乗馬のことは、誰にも言わなかった。
社交界の令嬢が馬と戯れるなんて、はしたない——母の言葉が、いつも頭の片隅にあったから。
蒼真様の隣にいる時、私はいつも「籠の中の鳥」だった。
美しい羽根を持ち、美しい声で歌い、美しい籠の中で飼われる鳥。それが私の役割だと、いつの間にか信じ込んでいた。
でも——。
ポケットの中のお守りに触れる。
十年以上経っても、ずっと持ち続けていた。色褪せた布地。不格好な仔馬の刺繍。
『お前さ、仔馬みたいだよな』
颯太の声が、記憶の中で響く。
「……私は」
本当は、ずっと知っていた。
「私は——鳥じゃない」
唇が、言葉を紡ぐ。
「私は、仔馬だ」
窓の外では、夜が明けようとしている。
東の空が、うっすらと白み始めている。
私は立ち上がった。
スーツケースを引っ張り出して、荷物を詰め始める。
淑女のドレスは、置いていく。
真珠のネックレスも、レースの手袋も、何もかも。
必要なのは、動きやすい服と、丈夫なブーツ。
それから——。
ポケットから、お守りを取り出した。
十年以上の時を経て、すっかり色褪せた仔馬。
「迎えに行くね」
誰に言うでもなく、呟いた。
「本当の私を——迎えに行く」
夜明けの光が、部屋に差し込む。
新しい一日が、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
緑が、どこまでも続いていた。
電車を降りた瞬間、都会とは違う空気が肺を満たした。土の匂い。草の匂い。そして、かすかに混じる馬の匂い。
懐かしい。
五年ぶりの、故郷の匂いだ。
「……帰ってきた」
呟いた声が、風に溶けて消えていく。
柊木牧場。
私の実家であり、国内最大規模を誇る名門牧場。代々受け継がれてきた広大な土地と、数百頭の馬たち。その資産価値は、氷室家など比べものにならないほど——。
でも、蒼真様はそれを知らない。
私が「田舎の牧場主の娘」だということは知っていても、その規模までは調べなかったのだろう。興味がなかったのかもしれない。私自身に、興味がなかったように。
(まあ、どうでもいいけど)
小さく肩をすくめる。
もう、あの人のことは考えたくなかった。
砂利道を歩いていく。
見慣れた白い柵。青々とした牧草地。遠くで、馬の嘶きが聞こえる。
足取りが、自然と速くなった。
◇
「——おかえり、仔馬」
厩舎の前で、その声に出迎えられた。
日焼けした肌。風に乱れた黒髪。作業着の袖をまくり上げた、逞しい腕。
十年前と変わらない、人懐こい笑顔。
「颯太……」
風見颯太は、柵に寄りかかったまま私を見ていた。
子供の頃より背が伸びて、肩幅も広くなっている。でも、目尻に皺を寄せる笑い方は、あの頃のままだ。
「お前、やっと帰ってきたか。遅かったな、五年も」
「……うん」
返事をしようとして、声が詰まった。
おかしい。泣くつもりなんてなかったのに。颯太の顔を見た瞬間、堪えていた何かが溢れ出しそうになった。
「泣くなよ」
颯太は苦笑して、ポケットからハンカチを取り出した。作業で使ったのか、少し汚れている。
「そのハンカチ、汚いでしょ」
「うるせえ。もらえるだけありがたいと思え」
「だから汚いって言ってるのに——」
強がって言い返そうとしたのに、涙が頬を伝った。
一度流れ出すと、もう止まらなかった。五年間、ずっと我慢してきた。笑顔の仮面を被って、従順な婚約者を演じて、自分を殺し続けて。
「颯太、私……私、ずっと——」
「知ってる」
颯太は何も聞かなかった。
ただ、私が泣き止むまで、傍にいてくれた。
◇
「——それで、あの野郎は何て言ったって?」
厩舎の中で、颯太は馬の世話をしながら聞いた。
私は藁の上に座り込んで、ぽつぽつと話した。婚約破棄のこと。「退屈だ」と言われたこと。「籠の中の鳥」と嘲笑われたこと。
話し終わる頃には、颯太の眉間に深い皺が刻まれていた。
「……馬鹿野郎」
低い声で吐き捨てる。
「お前のどこが退屈だって? あいつ、目ン玉ついてんのか?」
「颯太」
「お前は仔馬だろ。野原を駆ける、誰より速い仔馬だ。檻に押し込めといて『退屈』だと? ふざけんな」
颯太は手を止めて、真っ直ぐに私を見た。
「お前は最初から自由だった」
「……え?」
「ただ、自分で檻を作っていただけだ。『こうあるべき』『こうしなきゃいけない』——そういうので、自分をがんじがらめにしてただけだろ」
心臓が、痛いくらいに鳴った。
見透かされている。颯太は昔から、私の心の奥を見抜いてしまう。
「お前は鳥じゃない。仔馬だ。空を飛ぶんじゃなくて、地を駆けるんだ。——お前の翼は、四本の脚だろ」
言葉が出なかった。
代わりに、また涙が溢れた。
「だから泣くなって——」
「うるさい、颯太の馬鹿」
「馬鹿って言うな」
「馬鹿だもん。馬鹿颯太」
子供みたいな言い合いになった。でも、胸の奥がじんわりと温かい。
「……ありがとう」
「何が」
「待っててくれて」
颯太は一瞬だけ目を丸くして、それからふいと顔を背けた。
「……別に、待ってたわけじゃねえし」
「嘘。颯太、嘘下手だもん」
「うるせえな」
照れたように頭を掻く颯太を見て、私は少しだけ笑った。
五年ぶりの、本当の笑顔だった気がする。
◇
「——莉央」
穏やかな声に名前を呼ばれて、振り返った。
母屋の縁側に、祖母が座っていた。白髪交じりの髪を品よくまとめ、和装に身を包んだ姿。柊木雅子——柊木牧場の先代経営者にして、私の大好きなおばあちゃん。
「おばあちゃん」
駆け寄ると、祖母は穏やかに微笑んだ。
「おかえりなさい、莉央。ずいぶん痩せたねぇ」
「……ごめんなさい、急に帰ってきて」
「何を言っているの。ここはあなたの家でしょう」
祖母は私の手を取り、隣に座らせた。
「話は聞いたよ。婚約破棄されたんだってね」
「うん……」
俯く私の頭を、祖母は優しく撫でた。
「目利きのできない男だったねぇ。うちの孫は、勿体なかったよ」
「おばあちゃん……」
「あの子の目は、若い頃の私と同じ——籠の中では死んでしまう目だよ。私にはわかっていたんだ」
祖母は遠くを見つめた。牧草地の向こう、馬たちが草を食んでいる。
「私もね、若い頃は『女らしくしろ』『淑女らしくしろ』と言われ続けたものさ。でも、馬が好きだった。この牧場が好きだった。だから——戦ったんだよ」
「戦った?」
「自分らしくあることを、諦めなかった。それが私の戦いだった」
祖母は私の手を、ぎゅっと握った。
「莉央。あなたはもう十分頑張った。これからは、自分のために走りなさい」
「でも、私……乗馬なんて、ずっと離れてたし——」
「体が覚えているよ。あなたの中の仔馬は、ずっと走りたがっていた」
祖母の言葉が、胸に染み込んでいく。
「来月、隣県で乗馬大会があるんだ。出てみてごらんなさいな」
「乗馬大会……?」
「颯太に手伝ってもらいなさい。あの子、あなたが帰ってくるのをずっと待っていたんだから」
祖母はいたずらっぽく笑った。
「いい男になったでしょう、颯太は」
「お、おばあちゃん!?」
「あらあら、照れちゃって」
「照れてないっ」
慌てて否定する私を見て、祖母は声を上げて笑った。
その笑い声を聞いていると、私も自然と笑顔になった。
◇
夕暮れ。
私は一人で牧草地に立っていた。
広い空。広い大地。風が、草原を渡っていく。
目の前には、一頭の馬がいた。栗毛の牝馬。名前は——「風花」。幼い頃、初めて乗せてもらった馬の娘だと、颯太が教えてくれた。
「……久しぶりだね」
馬に触れると、温かかった。生きている、という感覚が手のひらから伝わってくる。
風花が、ふん、と鼻息を吐いた。私を覚えているのか、親しげに首を擦り寄せてくる。
「乗っても、いい?」
馬に向かって、そっと尋ねる。
返事の代わりに、風花は静かに身を低くした。まるで「早く乗れ」と言っているように。
鐙に足をかけ、鞍に跨る。
——高い。
世界が、変わって見える。
手綱を握る。五年ぶりの感覚。体が覚えている。
「行くよ」
呟いて、馬を歩かせる。
最初はゆっくり。それから、少しずつ速度を上げて——。
風が、頬を撫でた。
髪が、後ろになびく。
心臓が高鳴る。体中の細胞が、歓喜の声を上げている。
「——っ!」
手綱を引き、風花を駆けさせた。
風を切る。草原を駆ける。
八歳の夏に憧れた、あの仔馬のように。
視界がにじんだ。涙か、風か、わからない。
走っている。私は今、走っている。
誰かの期待に応えるためじゃない。誰かの理想を演じるためじゃない。
ただ、走りたいから走っている。
それだけで、こんなにも——幸せだ。
「はは……あはははっ!」
笑い声が、夕焼け空に響いた。
五年ぶりの、心からの笑い声。
牧草地の端で、颯太がこちらを見ていた。腕を組んで、静かに微笑んでいる。
「——颯太!」
馬を走らせながら、叫んだ。
「私、走れる! まだ、走れるよ!」
颯太は大きく手を振った。
「当たり前だろ、仔馬!」
その声を聞いて、また笑った。
夕陽が、草原を黄金色に染め上げていく。
風花のたてがみが、夕日を浴びて輝いている。
私は駆け続けた。
檻を抜け出した仔馬が、初めて知る自由の喜びを噛み締めながら。
ポケットの中の、小さなお守り。
色褪せた仔馬が、心なしか微笑んでいる気がした。
(——ただいま)
心の中で、呟く。
本当の自分に、ようやく帰ってきた。
これから、何が待っているかわからない。
蒼真様が追いかけてくるかもしれない。社交界で何を言われるかもしれない。
でも、もう怖くない。
私には、この風がある。この空がある。
そして——
颯太が、いる。
「よし、風花。もう一周、行こう」
馬の首を撫で、再び駆け出す。
風が笑っている。
草原が歌っている。
空が、どこまでも広がっている。
私は——仔馬は、風になった。
◇ ◇ ◇
朝靄の中を、風花と駆け抜ける。
蹄が大地を蹴る音。風を切る感覚。体中の血が沸き立つような高揚感。
「——っ、はあっ」
息を切らしながら、牧場を一周する。時計を見ると、昨日より三十秒縮まっていた。
「悪くないな」
柵の外で腕を組んでいた颯太が、ストップウォッチを見ながら言った。
「五年のブランクがあったとは思えない。やっぱお前、才能あるよ」
「お世辞?」
「本気。——でも、まだ全然ダメだな」
「どっちなの」
呆れて言い返すと、颯太はにやりと笑った。
「大会に出るなら、もっと仕上げねえとな。特に、コーナリングが甘い」
「……わかってる」
実感はあった。
体は覚えている。でも、五年間のブランクは確実に存在する。筋力も、反射神経も、あの頃より落ちている。
「あと一ヶ月だ。間に合うか?」
颯太の問いに、私は風花の首を撫でながら答えた。
「間に合わせる」
「——そういう目、久しぶりに見たな」
「どういう意味?」
「負けず嫌いの目。お前、昔からそうだったよな。馬に乗れるようになるまで、何度転んでも諦めなかった」
颯太の言葉が、くすぐったかった。
蒼真様の前では、決して見せなかった目だ。
従順で、おとなしくて、何でも言うことを聞く——そんな「理想の婚約者」でいるために、私はずっと負けず嫌いな自分を封印していた。
「私、変わったかな」
「変わってねえよ。元に戻っただけだ」
「……そっか」
そうかもしれない。
変わったんじゃない。ただ、本当の自分を取り戻しただけ。
「よし、もう一本行く」
「おう」
手綱を引いて、再び風花を走らせた。
◇
昼過ぎ、スマートフォンが鳴った。
画面を見ると、見知らぬ番号からのメッセージ。開いてみると——。
『あら、莉央様。お元気でいらっしゃる? 田舎に引っ込んだって聞いたけど、もう社交界には戻られないのかしら。寂しいわぁ』
嫌味たっぷりの文面。送り主は、おそらく社交界の誰かだろう。
続けて、別のメッセージが届く。
『婚約破棄されたんですって? 可哀想に。でも、仕方ないわよね。あなた、つまらなかったもの』
『氷室様には、もっとふさわしいお方がいらっしゃるのよ。身の程を知るって、大事よね』
次から次へと、悪意に満ちたメッセージが届く。
婚約破棄の噂は、もう社交界中に広まっているらしい。「捨てられた令嬢」「退屈な女」——そんなレッテルを貼られて、笑いものにされているのだろう。
以前の私なら、きっと傷ついていた。
眠れない夜を過ごし、泣いて、自分を責めて——。
でも、今は。
「……ふうん」
私はスマートフォンを伏せて、窓の外を見た。
牧草地では、馬たちが草を食んでいる。風が、さやさやと草を揺らしている。
——こっちの世界の方が、ずっといい。
社交界の虚飾や陰口より、馬の匂いや土の感触の方が、私には心地いい。
『退屈な女』
蒼真様の言葉が、頭をよぎった。
そうね。私は確かに、あなたにとっては退屈だったのでしょう。
でもそれは、私が退屈な人間だからじゃない。
あなたの檻の中にいたから、退屈に見えただけ。
「本当の私を、あなたは知らない」
呟いて、スマートフォンの電源を切った。
◇
「——お嬢、ちょっといいか」
夕方、厩舎で馬の世話をしていると、牧場のスタッフが声をかけてきた。
「なに?」
「さっき、誰かが牧場の入り口で写真撮ってたんだ。お嬢が馬に乗ってるとこ」
「写真……?」
嫌な予感がした。
社交界のゴシップ好きな連中が、嗅ぎ付けてきたのだろうか。
「追い払おうとしたんだが、もう行っちまった。すまねえ」
「いいよ、気にしないで。ありがとう」
スタッフを見送って、私はため息をついた。
——まあ、いいか。
どうせ「没落令嬢の哀れな姿」とか、そんな見出しで記事にされるのだろう。社交界の令嬢が、泥だらけで馬の世話をしている——さぞかし格好の笑いものだ。
「勝手にすれば」
開き直って、馬の世話を続けた。
風花が、慰めるように私の肩に頭を擦り付けてくる。
「ありがとう、風花。あなたはわかってくれるよね」
馬の温かさに癒されながら、私は静かに微笑んだ。
◇
数日後。
「莉央、これ見たか?」
颯太がスマートフォンを差し出してきた。画面には、SNSの投稿が表示されている。
「え、何これ……」
画面をスクロールして、私は絶句した。
写真が拡散されていた。
私が風花に乗って草原を駆けている写真。夕陽を浴びて、髪をなびかせながら馬と一体になっている姿。
——綺麗だった。
自分で言うのもなんだけど、その写真の私は、今まで見たどんな社交界の写真よりも、生き生きとしていた。
コメント欄が、荒れている——というか、盛り上がっている。
『この人誰? めちゃくちゃ乗馬うまくない?』
『馬と一体化してる……すごい』
『最近話題の「捨てられた令嬢」らしいけど、全然可哀想じゃないんだがwww』
『むしろ輝いてるじゃん。解放されて良かったね、って感じ』
『元婚約者、見る目ないな』
「……え?」
予想外の反応だった。
嘲笑されると思っていたのに、むしろ好意的なコメントが多い。
「バズってるぞ、お前」
颯太が面白そうに言った。
「『氷室家に捨てられた令嬢、実は乗馬の天才だった』ってタイトルで記事になってる」
「記事って……誰が書いたの」
「知らねえ。でも、注目されてるのは確かだな」
画面を見つめながら、不思議な気持ちになった。
社交界では「退屈な女」と嘲笑された私が、馬に乗っているだけで、こんなに注目される。
「——やっぱり」
と、颯太が言った。
「お前は、馬に乗ってる時が一番輝いてる」
「……颯太」
「大会、出ろよ。もっとたくさんの人に見せてやれ。本当のお前を」
颯太の言葉が、背中を押してくれた。
「——うん」
私は頷いた。
「出る。絶対に出る」
乗馬大会。
五年ぶりの、真剣勝負の舞台。
そこで、私は証明する。
「籠の中の鳥」なんかじゃない。
私は——野原を駆ける、仔馬だって。
◇ ◇ ◇
「——ですから、氷室様。私、お料理も得意ですし、お茶会の準備だって完璧にこなせますわ」
目の前の令嬢が、媚びるような笑顔で話し続けている。
僕——氷室蒼真は、銀縁眼鏡の奥で密かにため息をついた。
これで何人目だろう。婚約破棄を公表してから、新しい婚約者候補が次々と押し寄せてくる。名門の令嬢たち。完璧な作法、完璧な笑顔、完璧な——退屈さ。
「素晴らしいですね」
適当に相槌を打つ。令嬢は嬉しそうに頬を染めた。
「まあ、氷室様ったら。——それで、私たちの婚約の件ですが」
「検討します」
「えっ、でも——」
「今日はこれで失礼」
席を立つと、令嬢が慌てて追いすがってきた。
「氷室様、お待ちくださいませ! 私、何かお気に召さないことでも——」
「いいえ。ただ、少々疲れているだけです」
無表情で告げて、その場を去った。
◇
自室に戻り、ソファに身を投げ出す。
「……退屈だ」
口をついて出た言葉に、自分で苦笑した。
おかしな話だ。莉央を「退屈」と切り捨てたのは、僕自身じゃないか。なのに今、新しい令嬢たちと会っても、何も感じない。むしろ、もっと退屈だ。
彼女たちは媚びる。僕の機嫌を取ろうと必死になる。「はい」としか言わない。僕の意見に逆らわない。
——莉央も、そうだった。
はずだ。そのはずだった。
でも、ふと思い出す。婚約破棄を告げた夜。あの時、莉央は——
微笑んでいた。
「……なぜ、笑った」
呟いて、眉間を揉んだ。
あの微笑みが、ずっと頭から離れない。棘のように心に刺さって、抜けない。
普通なら、泣くはずだ。取り乱すはずだ。なのに彼女は、まるで——解放されたかのような顔をしていた。
「君のためを思って」「僕が正しい選択をしてあげた」
そう言った僕に、彼女は何の反論もしなかった。ただ静かに頷いて、去っていった。
あの後ろ姿。妙に軽やかだった。
「……何なんだ、あれは」
わからない。
五年間、隣にいたはずなのに。莉央のことを、僕は何も知らなかったのか?
◇
翌日。
「蒼真様、ご覧になりました?」
秘書が、タブレットを差し出してきた。画面には、SNSの投稿が表示されている。
「何だ、これは」
「柊木莉央様の記事です。最近、話題になっているようで」
眉を寄せて、画面を見た。
——息を呑んだ。
写真の中の莉央は、馬に乗っていた。
夕陽を浴びて、草原を駆けている。髪が風になびき、瞳は真っ直ぐ前を見つめている。
見たことがない、顔だった。
五年間の婚約生活で、一度も見たことがない。輝くような、生き生きとした表情。
「この女性が、本当に莉央なのか?」
思わず声が漏れた。
「はい、間違いなく柊木様です。実家の牧場で乗馬をされているそうで」
「牧場……?」
「ご存知ありませんでした? 柊木家は、国内最大規模の牧場を経営されています」
「国内最大——?」
秘書が、淡々と資料を読み上げた。
「柊木牧場。創業百二十年。所有面積は約三千ヘクタール。競走馬の育成でも名高く、過去にダービー馬を複数輩出。推定資産は——」
数字を聞いて、僕は絶句した。
「……それは、氷室家の何倍だ」
「概算で、三倍ほどかと」
目の前が、暗くなった。
知らなかった。何も知らなかった。
莉央の実家が、これほどの資産家だったことを。彼女が乗馬の才能を持っていたことを。僕の前で見せていた「従順な令嬢」が、ほんの一部でしかなかったことを。
「馬鹿な……」
自分の声が、遠くに聞こえた。
僕は、何を見ていたんだ?
五年間、莉央の何を見ていたんだ?
「氷室様? 大丈夫ですか」
「あ……ああ」
我に返って、秘書を見た。
「莉央は、今どこにいる」
「ご実家の牧場に滞在されているそうです。来月の乗馬大会に出場予定だとか」
「乗馬大会……」
僕は、画面の中の莉央を見つめた。
この輝き。この生命力。
僕の隣にいた時には、決して見せなかった姿。
——もったいないことをした。
ようやく、気づいた。
遅すぎた。
「……会いに行く」
「は?」
「莉央に会いに行く。車を用意しろ」
秘書が目を丸くしたが、僕は構わずに立ち上がった。
まだ間に合うはずだ。まだ取り返せるはずだ。
——そう、思いたかった。
◇ ◇ ◇
「——もう一回、コーナー行くぞ」
颯太の声に導かれて、風花を旋回させる。
蹄が砂を蹴り上げる。体を傾けて、遠心力に逆らいながらカーブを曲がる。
「遅い! もっと腰を落とせ!」
「わかってる!」
叫び返しながら、もう一度挑戦する。
何度も、何度も。日が傾いても、練習は続いた。
◇
「——今日はここまでだな」
颯太が手を叩いて、練習の終わりを告げた。
私は風花から降りて、その場にへたり込んだ。全身が汗でびっしょりだ。
「はあ……はあ……」
「大丈夫か?」
「大丈夫……じゃ、ないかも」
正直に言うと、颯太は苦笑して水筒を差し出してきた。
「無理するなよ。本番まで、まだ三週間ある」
「三週間しかない、でしょ」
水を飲みながら言い返す。颯太は肩をすくめた。
「——お前、昔からそうだよな」
「何が」
「一度決めたら、絶対に曲げない。馬に乗れるようになるまで、毎日厩舎に通ってたこと、覚えてるよ」
「颯太もでしょ。獣医になるって決めてから、死ぬほど勉強してたじゃない」
「まあな」
二人で並んで、牧草地を眺めた。夕陽が、空をオレンジ色に染めている。
「——なあ、莉央」
「ん?」
「なんで婚約者にしたんだ、あの男」
唐突な質問に、少し驚いた。
「……なんで、って言われても」
「だってお前、馬が好きだろ。社交界とか、そういうのが好きなタイプじゃないだろ」
「まあ、そうだけど……」
答えに詰まった。
正直、自分でもよくわからない。
「母に勧められて……氷室家は名門だったし……私が断ったら、柊木家の評判に傷がつくって……」
「それ、お前の意思じゃないだろ」
颯太の言葉が、胸に刺さった。
「……うん」
「五年間、辛かったろ」
「……うん」
認めた瞬間、涙が溢れそうになった。
辛かった。本当に、辛かった。
毎日、自分を殺して生きていた。「こうあるべき」「こうしなければならない」——そんな言葉に縛られて、本当の自分を押し込めて。
「泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるじゃんか」
「泣いてないっ」
強がって言い返すと、颯太は小さく笑った。
「——お前は、最初から自由だった」
前にも聞いた言葉。でも、今はその意味が、少しだけわかる気がする。
「ただ、自分で檻を作っていただけだ。『淑女らしく』『言うことを聞かなきゃ』『迷惑をかけちゃいけない』——そういうので、自分を縛ってた」
「……うん」
「でも、檻の鍵は、ずっとお前が持ってたんだ。いつでも出られた。——出ようとしなかっただけで」
颯太の言葉が、胸の奥に染み込んでいく。
「俺は——」
と、颯太が言いかけて、口を噤んだ。
「颯太?」
「……いや、なんでもない」
夕陽を見つめる颯太の横顔が、少しだけ寂しそうに見えた。
「俺は、ずっと見てた。お前が檻に閉じ込められてるのを。——何もできなかった」
「颯太……」
「でも、お前が帰ってきた時、嬉しかったんだ。やっと檻から出てきてくれた、って」
風が、草原を渡っていく。
私の髪と、颯太の髪を、同じ風が撫でていく。
「颯太」
「ん」
「ありがとう」
「何が」
「待っててくれて」
颯太は答えなかった。ただ、少しだけ口元を緩めて、空を見上げた。
「——俺がお前の味方だ。これからも、ずっと」
「……うん」
胸が、じんわりと温かくなった。
この人の隣にいると、自分が自分でいられる。
飾らなくていい。演じなくていい。ただ、私のままでいい。
蒼真様の隣にいた時とは、全然違う。
「——颯太」
「なに」
「練習、付き合ってくれてありがとう。大会、絶対に勝つから」
「当たり前だろ」
颯太が、にやりと笑った。
「仔馬が負けるわけねえ」
その言葉が、私の背中を押してくれた。
夕陽が、地平線に沈んでいく。
明日も練習だ。明後日も。大会の日まで、ずっと。
私は走る。
本当の自分を取り戻すために。
そして——颯太の言葉に、応えるために。
◇ ◇ ◇
「——莉央」
その声を聞いた瞬間、背筋が凍った。
厩舎で風花の世話をしていた私は、ゆっくりと振り返った。
逆光の中に、見覚えのあるシルエットが立っている。
銀縁眼鏡。隙のないスーツ。冷たい美貌。
「蒼真……様」
自分の声が、妙に平坦に聞こえた。
氷室蒼真は、まるで当然のように厩舎に足を踏み入れてきた。革靴が藁を踏む音が、やけに大きく響く。
「こんなところにいたのか。探したよ」
「なぜ、ここに」
「君に会いに来た。——話がある」
蒼真様は、私の前で足を止めた。
整った顔に、見慣れない表情が浮かんでいる。困惑? 焦り? ——いや、違う。これは——
「復縁してくれないか」
「……は?」
耳を疑った。
「婚約破棄は、僕の間違いだった。君の本当の価値がわかった」
蒼真様の目が、妙にぎらついている。
「柊木家の資産のことも、君の乗馬の才能のことも——何も知らなかった。愚かだったと認める」
「だから、何だって言うんですか」
「だから、やり直そう。僕と君なら、最高のパートナーになれる」
蒼真様が一歩、距離を詰めてきた。
反射的に後ずさる。背中が、風花の体にぶつかった。風花が不安そうに嘶く。
「君のためを思って——」
「やめてください」
私は、はっきりと言った。
「その言葉、もう聞きたくありません」
「莉央?」
「『君のためを思って』『僕が正しい選択をしてあげた』——ずっと聞いてきました。五年間、ずっと」
声が震えた。でも、目は逸らさない。
「でも、それは私のためじゃなかった。全部、蒼真様のためだった」
「何を言って——」
「私の価値は」
言葉を遮って、真っ直ぐに見つめた。
「私の価値は、貴方に決められるものではありません」
蒼真様の顔が、歪んだ。
「……莉央、君は——」
「実家の資産も、乗馬の才能も、関係ない。貴方が見ていたのは、結局そういうものだったんですね」
「違う、僕は——」
「違いません。貴方は今でも、私を『所有物』としてしか見ていない。籠の中の鳥。自分の檻に閉じ込めておきたい存在」
一歩、前に出た。蒼真様が、わずかに後ずさる。
「でも、私はもう——貴方の檻には戻りません」
蒼真様の表情が、驚愕に変わった。
五年間、一度も逆らわなかった莉央。何を言っても頷いていた莉央。
その莉央が、初めて「否」を突きつけた。
「莉央、待て。話を——」
「話は終わりです。お引き取りください」
「——っ」
蒼真様の目が、危険に光った。
「後悔するぞ」
低い声で言った。まるで脅すように。
「僕を振ったこと、必ず後悔させてやる」
「——させませんよ」
別の声が、割り込んできた。
振り返ると、颯太が厩舎の入り口に立っていた。腕を組んで、蒼真様を睨みつけている。
「誰だ、お前は」
「俺はここの獣医だ。——そして、莉央の幼馴染」
颯太はゆっくりと近づいてきて、私と蒼真様の間に立った。
「お帰りください、氷室さん。莉央は、もうあんたの婚約者じゃない」
「これは僕と莉央の問題だ。部外者は引っ込んでいろ」
「部外者じゃねえよ」
颯太の声に、静かな怒りが滲んでいた。
「五年間、莉央が苦しんでるのを見てきた。あんたの檻で、少しずつ壊れていくのを見てきた。——俺は、もう黙ってない」
「颯太……」
「帰ってくれ。これ以上、莉央に近づくな」
二人の視線がぶつかり合う。
長い沈黙の後、蒼真様が冷たく笑った。
「いいだろう。今日のところは引き下がる。——だが、覚えておけ」
蒼真様は私を見た。その目に、ぞっとするような執念が宿っている。
「君は、僕のものだ。どこに逃げても、必ず連れ戻す」
「……私は、誰のものでもありません」
静かに、しかしはっきりと答えた。
「私は私自身のものです。——さようなら、氷室様」
蒼真様は何か言いたげに口を開いたが、颯太に睨まれて、舌打ちして踵を返した。
足音が遠ざかっていく。
車のエンジン音が響き、やがて消えた。
「……行ったか」
颯太がほっと息をついた。
「大丈夫か、莉央」
「……うん」
嘘だった。足が、まだ震えている。
颯太はそれに気づいたのか、そっと私の肩に手を置いた。
「俺がいる。大丈夫だ」
その言葉に、張り詰めていた糸が切れた。
「颯太……私、怖かった」
「当たり前だろ。あんな奴、誰だって怖い」
「でも、言えた。初めて、はっきり言えた」
「——ああ、格好よかったぞ」
颯太が、少しだけ笑った。
「『私の価値は貴方に決められるものではない』——最高だったじゃんか」
「……やめてよ、恥ずかしい」
「恥ずかしがるなよ、せっかくの名台詞」
颯太のからかいに、少しだけ笑えた。
——でも、まだ終わっていない。
蒼真様の最後の言葉が、頭にこびりついている。
『どこに逃げても、必ず連れ戻す』
あの人は、本気だ。
きっと、何か仕掛けてくる。
「颯太」
「ん」
「大会、絶対に出る。何があっても」
「——当たり前だろ」
颯太は、力強く頷いた。
「俺がお前の味方だ。どんな邪魔が入っても、絶対に守る」
その言葉が、どれだけ心強かったか。
私は風花の首に腕を回して、深呼吸した。
嵐が来る。
でも、私はもう逃げない。
野原を駆ける仔馬は、風に立ち向かって走る。
◇ ◇ ◇
大会前日の朝。
「——何だと?」
颯太の声が、厩舎に響いた。
スマートフォンを握りしめた颯太が、険しい顔で画面を見ている。
「どうしたの?」
「……大会事務局から連絡があった」
嫌な予感がした。
「莉央のエントリーが、取り消されたって」
「え?」
血の気が引いた。
「なんで——ちゃんと手続きしたでしょ?」
「それが——」
颯太は、苦々しげに言った。
「スポンサーから圧力がかかったらしい。『柊木莉央の出場を認めるなら、協賛を降りる』ってな」
「スポンサー……」
「氷室グループだ」
蒼真様の顔が、脳裏に浮かんだ。
『どこに逃げても、必ず連れ戻す』
あの言葉は、脅しじゃなかった。本気で、私の邪魔をしに来ている。
「そんな……」
膝から力が抜けそうになった。風花が心配そうに、私の肩に頭を擦り付ける。
せっかく、ここまで練習してきたのに。
本当の自分を見せる舞台を、奪われるなんて。
「——諦めるなよ」
颯太の声が、私を引き戻した。
顔を上げると、颯太は既にスマートフォンを操作している。
「颯太?」
「別のルートを探す。氷室がスポンサーじゃない大会とか、他の枠とか——」
「でも、もう前日だよ? 無理じゃ——」
「諦めるな」
颯太が、真剣な目で私を見た。
「お前が諦めたら、あの野郎の思う壺だろ。——俺に任せろ」
◇
一時間後。
「——見つけた」
颯太が、会心の笑みを浮かべた。
「何を見つけたの?」
「大会には、オープン枠ってのがある。スポンサー推薦じゃなくて、主催者が直接招待する枠だ」
「そんなのあるの?」
「普通は使われない。でも、今回は——」
颯太がスマートフォンを見せてきた。画面には、SNSの投稿が表示されている。
「お前が話題になったSNSの投稿、大会の関係者も見てたらしい。『あの乗馬の映像の女性、ぜひ出場してほしい』って声が、たくさん上がってるんだ」
「えっ……」
「さっき、大会の主催者に直接連絡した。事情を説明したら——」
颯太が、にやりと笑った。
「オープン枠で、莉央の出場が認められた」
「本当に!?」
「ああ。氷室がスポンサーを降りると言っても、主催者側が直接招待する分には問題ないらしい」
信じられなかった。
駄目だと思った。もう終わりだと思った。でも、颯太は諦めなかった。私のために、道を切り開いてくれた。
「颯太……」
「礼はいらねえ。——その代わり、明日は勝て」
「……うん」
涙が滲んできた。でも、今度は悲しみじゃない。
「絶対に、勝つ」
颯太は満足そうに頷いて、それから照れたように頭を掻いた。
「——あと、もう一つ言っとく」
「なに?」
「俺がお前の味方だ。今日も、明日も、その先も、ずっと」
不器用な言い方。でも、その言葉が、胸の奥に深く染み込んでいく。
「颯太」
「なんだよ」
「——ありがとう」
「だから礼はいいって——」
「違うの」
私は、颯太の目を真っ直ぐに見た。
「待っててくれて、ありがとう。諦めないでくれて、ありがとう。私を……信じてくれて、ありがとう」
颯太は、一瞬だけ目を見開いた。それから、ふいと顔を背けた。
「……馬鹿」
「馬鹿って言わないで」
「馬鹿だから馬鹿って言ってんだ。——明日に備えて、早く寝ろ」
「颯太こそ」
「うるせえ」
ぶっきらぼうな返事。でも、耳が赤くなっているのが見えた。
◇
夜。
私は一人で牧草地に立っていた。
明日がくる。大会がくる。五年間、封印していた「本当の自分」を見せる日がくる。
ポケットから、お守りを取り出した。
色褪せた布地。不格好な仔馬の刺繍。
『お前さ、仔馬みたいだよな。いつか絶対、風みたいに走れるようになる』
十年前の颯太の言葉が、胸に蘇る。
「——明日、風になるよ」
呟いて、お守りを握りしめた。
蒼真様が、きっと明日も何か仕掛けてくる。
社交界の令嬢たちも、私を嘲笑うために見に来るかもしれない。
でも、怖くない。
私には、颯太がいる。おばあちゃんがいる。風花がいる。
私を信じてくれる人たちがいる。
「——私は、仔馬だ」
星空に向かって、宣言する。
「誰かの檻で飼われる鳥じゃない。野原を駆ける、仔馬だ」
風が、草原を渡っていく。
まるで、背中を押してくれるように。
明日。
私は、風になる。
◇ ◇ ◇
——会場に着いた瞬間、空気が変わった。
観客席からの視線。ざわめき。
「あれが、SNSで話題の……」「婚約破棄された令嬢……」「本当に出るの……?」
ひそひそと交わされる声が、耳に入ってくる。
以前の私なら、きっと俯いていた。視線に怯えて、縮こまっていた。
でも、今は。
「——いい天気だね、風花」
馬の首を撫でながら、空を見上げた。雲一つない、青い空。絶好の乗馬日和だ。
「莉央」
颯太が、傍に来た。
「準備はいいか」
「うん」
「緊張してるか」
「少しだけ」
「嘘だな。お前、目がキラキラしてる」
颯太に見透かされて、少しだけ笑った。
緊張よりも、わくわくしている。ようやく、本当の自分を見せられる。ずっと待っていた、この瞬間を。
「——行ってこい、仔馬」
颯太が、私の背中を叩いた。
「お前なら、勝てる」
「……うん」
ポケットの中のお守りを、ぎゅっと握りしめた。
◇
出場者の控室から、観客席が見えた。
その中に——蒼真様の姿があった。
一瞬、目が合った。
蒼真様は、複雑な表情でこちらを見ている。軽蔑? 嘲笑? ——いや、違う。あれは——
(どうでもいい)
視線を外して、風花に跨った。
今、考えるべきは蒼真様のことじゃない。
目の前にあるコースのこと。風のこと。風花のこと。
「行くよ、風花」
馬の首を撫でると、風花が応えるように嘶いた。
◇
「——出場者、柊木莉央!」
名前がコールされた。
観客席がざわめく。好奇の目、嘲笑の目、期待の目——さまざまな視線が、私に注がれる。
深呼吸。
手綱を握り直す。お守りの感触が、手のひらに伝わる。
『お前さ、仔馬みたいだよな。いつか絶対、風みたいに走れるようになる』
——今日、なるよ。
スタートの合図が鳴った。
◇
——走る。
風を切る。草を蹴る。
体が、自然に動いた。
五年間のブランクなんて、嘘みたいに。
コーナーを曲がる。障害を飛び越える。
風花と一体になる。馬の心臓の鼓動が、自分の鼓動のように感じられる。
「——っ!」
最後の直線。
前を行く馬が、見えた。現在トップの選手。追いつかなければ。
「風花、行くよ!」
手綱を引き、馬を加速させる。
風が、うなりを上げる。
視界の端で、観客席が流れていく。
追いついた。
並んだ。
——抜いた。
「——ゴォォォルッッ!!」
歓声が、爆発した。
◇
一位。
電光掲示板に、私の名前が表示されていた。
「柊木莉央——優勝」
信じられなかった。
五年間、馬に乗れなかった。社交界で「退屈な女」と嘲笑された。「籠の中の鳥」と罵られた。
でも、今——
「やった……」
声が震えた。涙が溢れてきた。
「やった……!」
風花の首に抱きついた。馬の体温が、温かい。
観客席から、拍手が響いてきた。最初は疎らだった拍手が、次第に大きくなっていく。
「すごい……」
「あの乗馬、プロ顔負けじゃない?」
「SNSで見た通りだ……いや、それ以上だ」
「婚約破棄されて正解だったんじゃない?」
ざわめきが、変わっていく。嘲笑から、驚嘆へ。軽蔑から、称賛へ。
「莉央!」
颯太が、走ってきた。
「やったじゃんか、仔馬! 一位だぞ!」
「颯太……私、勝った……!」
「ああ、見てた。——最高だったぞ」
颯太が、満面の笑みを浮かべていた。その笑顔を見たら、また涙が溢れてきた。
「泣くなよ」
「泣いてない……」
「泣いてるじゃんか」
「嬉し涙だもん……」
颯太は呆れたように笑って、ポケットからハンカチを取り出した。今度は、綺麗なやつ。
「ほら、拭けよ」
「……ありがとう」
ハンカチを受け取りながら、観客席を見た。
蒼真様が、呆然とした顔でこちらを見ていた。
初めて見る、彼の顔だった。
五年間、一度も見たことがない——言葉を失った、蒼真様の顔。
(あなたは、知らなかった)
心の中で呟いた。
(私の本当の姿を、何も知らなかった)
視線を外して、風花の首を撫でた。
「ありがとう、風花。一緒に走ってくれて」
馬が、満足そうに嘶いた。
表彰式が、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
表彰式が終わった後。
控室に戻ろうとした私の前に、蒼真様が立ちはだかった。
「——莉央」
周囲の視線が、一斉にこちらに集まる。「氷室家の跡取り」と「婚約破棄された令嬢」。格好のゴシップネタだ。
「氷室様」
私は、静かに名前を呼んだ。
蒼真様の顔は、蒼白だった。いつもの余裕はどこにもない。
「君は——」
蒼真様が、一歩近づいてきた。
「君は、こんな顔で笑えたのか。こんな風に、輝けたのか」
「……はい」
「なぜ——なぜ、僕には見せなかった」
「見せられなかったんです」
私は、真っ直ぐに蒼真様を見た。
「貴方の隣では、本当の私でいられなかった。貴方が求めていたのは、『従順な婚約者』であって、『私』じゃなかったから」
蒼真様の表情が、歪んだ。
「違う。僕は——」
「違いません」
遮って、言った。
「貴方は、私が言うことを聞くから好きだった。私が逆らわないから、都合が良かった。——でも、それは『私を愛している』とは言いません」
周囲がざわめく。でも、気にしない。
今、言わなければならないことがある。
「婚約破棄された時、私は微笑みました。覚えていますか」
「……ああ」
「あの時、私は——解放されたんです。貴方の檻から、やっと出られたんです」
蒼真様の顔が、苦悶に歪んだ。
「莉央、僕は——」
「やり直せません」
はっきりと、告げた。
「貴方がどれだけ懇願しても、私は貴方の元には戻りません。——もう、誰かの檻で飼われる鳥には戻れないんです」
「ならば、僕が変わる。君の望む男に——」
「遅いです」
蒼真様が、跪いた。
観客たちが、息を呑む。
「頼む、莉央。もう一度、僕に機会を——」
「——莉央」
別の声が、割り込んできた。
振り返ると、颯太が立っていた。
「颯太……」
颯太は、真っ直ぐに私を見ていた。
「お前の答えは、決まってるだろ」
「……うん」
私は頷いて、颯太の手を取った。
日焼けした、温かい手。飾り気のない、正直な手。
蒼真様を振り返る。跪いたままの、彼を見下ろす。
「氷室様」
静かに、しかし明確に告げた。
「私はもう、誰かの檻で飼われる鳥じゃありません」
颯太の手を、ぎゅっと握った。
「この人と、空の下を走っていきます」
蒼真様の目が、大きく見開かれた。
絶望と、悔恨と、そして——初めて見る、本当の感情。
「君は……」
「さようなら、氷室様」
私は、深く一礼した。
「どうか、お幸せに」
颯太の手を握ったまま、歩き出す。
今度は、振り返らない。
背後で、蒼真様が何か叫んでいる。でも、もう聞こえない。
◇
会場を出ると、青い空が広がっていた。
「——終わった」
呟くと、全身から力が抜けた。
「大丈夫か?」
颯太が、私を支えてくれた。
「うん……大丈夫。やっと、終わった」
「……格好よかったぞ」
「颯太も」
「俺は何もしてねえだろ」
「してくれた。そばにいてくれた」
颯太は、照れたように頭を掻いた。
「——なあ、莉央」
「なに?」
「さっき言ったこと、本気か?」
「どれのこと?」
「『この人と、空の下を走っていく』ってやつ」
私は、少しだけ笑った。
「本気に決まってるでしょ」
「……そっか」
颯太が、私の手を握り直した。
「じゃあ、一緒に走るか」
「うん」
空を見上げる。どこまでも続く、青い空。
これからは、この空の下で生きていく。
誰かの檻じゃなく、自分の脚で。
自由に、思いのままに。
「——行こう、颯太」
「ああ」
二人で、歩き出した。
風が、背中を押していた。
◇ ◇ ◇
——一年後。
朝靄の中を、二頭の馬が駆けていく。
一頭は風花。もう一頭は、颯太の愛馬・疾風。
「——負けないから!」
私は笑いながら、手綱を引いた。風花が応えて、加速する。
「上等だ!」
颯太の声が、風に乗って聞こえてくる。
二頭の馬が、並んで駆ける。
朝日を浴びて、草原を渡っていく。
「——っ、はぁっ」
先にゴールに辿り着いたのは、私だった。
「また負けた」
颯太が、肩を竦めながら追いついてきた。
「まだ俺より速いな」
「当たり前でしょう?」
私は得意げに笑った。
「私は生まれながらの仔馬ですから」
颯太が、呆れたように笑う。
「生意気な仔馬だな」
「颯太が育てたんでしょ」
「……まあ、な」
二人で並んで、朝日を眺めた。
柊木牧場は、今は私と颯太が共同で経営している。祖母は引退して、のんびりと隠居生活。母は——最初は反対していたけれど、大会での私の姿を見て、何かが変わったらしい。今では時々、牧場に顔を出してくれる。
「——なあ、莉央」
「なに?」
「あのお守り、まだ持ってるか」
「え? ああ、これ?」
ポケットから、色褪せたお守りを取り出した。十年以上前に、颯太がくれたもの。不格好な仔馬の刺繍。
「ずっと持っていてくれたんだな」
「当たり前でしょ。大切なものだもん」
颯太が、少しだけ目を細めた。
「——俺さ」
「うん」
「あの頃から、ずっとお前のこと——」
「知ってる」
「……は?」
「だから、知ってるって。颯太、わかりやすいもん」
「お、お前な——」
颯太が、真っ赤になった。
私は笑いながら、風花から降りた。
「ねえ、颯太」
「……なんだよ」
「私も、ずっと——」
言いかけて、やめた。
代わりに、颯太の頬に、そっとキスをした。
「——っ!?」
颯太が固まった。
「言葉にしなきゃダメ?」
「い、いや、今のでわかった。わかったから——」
「じゃあ、よかった」
私は再び風花に跨って、颯太を見下ろした。
「もう一周、競争しよ」
「……お前、卑怯だぞ」
「知らない」
笑いながら、風花を走らせた。
背後から、颯太の慌てた声が聞こえる。
「待てって、莉央! ずるいだろ!」
「ずるくない! 先に走った方が勝ち!」
風が、頬を撫でていく。
草原が、歌っている。
空が、どこまでも広がっている。
私は笑った。
心の底から、幸せだった。
——一年前、私は檻から飛び出した。
「退屈な女」と嘲笑され、「籠の中の鳥」と罵られ、婚約破棄された夜。
あの夜、私は初めて、自分の脚で走り出した。
今、私は自由だ。
誰の檻にも縛られない。
誰かの期待を演じる必要もない。
ただ、風を感じて走る。
愛する人と、愛する馬と、愛する場所で。
「——颯太! 遅い!」
「うるせえ! 今追いつく!」
野原を駆ける、二頭の馬。
朝日を浴びて、どこまでも走っていく。
これが、私の選んだ人生。
檻を抜け出した仔馬が、風になって駆けていく物語。
——私は、二度と振り返らなかった。
【完】




