甲子園が教えるものは、本当に礼儀なのか? ~ある有名野球人の報道を見て~
昨晩、ある有名野球人の報道を見て、私は学校スポーツの苛烈な上下関係を思い出した。
高校野球などのスポーツは、よく「礼儀を学ぶ場所」だと言われる。
大きな声であいさつをする。
監督の話を黙って聞く。
先輩を立てる。
たしかに、外から見れば美しい。
土にまみれたユニフォーム。
涙をこらえる球児。
最後の夏に散っていく三年生。
その姿に胸を打たれる人は多いだろう。
だが、高校野球が教えているものは、本当に礼儀なのだろうか。
礼儀とは、本来、相手を尊重するためのものだ。
立場が上でも威張らない。
立場が下でも人間として軽んじられない。
強い者が弱い者を踏みつけない。
そういう関係を作るために、礼儀はあるはずだ。
ところが、強豪校の野球部で重んじられがちなものは、少し違うと思う。
監督には逆らわない。
上級生には逆らわない。
疑問を飲み込む。
理不尽でも耐え、黙って従う。
それは礼儀というより、強い側に逆らわない「単なる処世術」ではないだろうか。
三年間まじめに練習してきた三年生より、才能ある一年生が試合に出る。
競技として見れば当然だ。勝つためには、最も能力のある選手を使う。
興行として見ても、その方が分かりやすい。
若きスターは観客を呼び、学校名も売れる。
……ならば、最初からそう言えばよい。
甲子園は、勝利のみを競う場所です。
才能ある者のみが出ます。
結果を出せる者が、唯一選ばれます。
……つまり、そういう世界です、と。
それなら筋は通る。
だが、高校野球はしばしば「教育」の看板を掲げる。
礼儀を学ぶ。努力を学ぶ。仲間を学ぶ。人間形成の場である。
そう説明される。
ここに最近、どうにも居心地の悪さがある。
勝つ時は興行になる。
批判される時は教育になる。
才能ある一年生を使う時は実力主義になる。
一度もベンチにさえ入れない万年補欠の三年生は美談になる。
連投し故障し、将来を失った投手は根性になる。
しばしば問題になる厳しい上下関係は伝統になる。
監督の強権は名将の指導になる。
あまりに都合がよすぎないか (。´・ω・)?
本当に教育なら、試合に出る選手だけでなく、出られなかった選手の時間も大切にするべきだ。
勝った選手だけでなく、負けた選手のその後も考えるべきだ。
エースの肩や肘、栄光の陰に隠れた卒業後の人生まで守るべきだ。
そして何より、上に立つ者が下にいる者を支配しすぎない仕組みを作るべきだ。
しかし、現実には逆のものが教え込まれていないか。
上の人間が強い。
下の人間は黙る。
強い者が決める。
弱い者は従う。
疑問を口にすれば、空気を乱す者になる。
これを長く続ければ、人は礼儀正しくなるのではない。
強い側の顔色を読むのがうまくなるだけだ。
その処世術は、社会に出てからも残る。
上司の無理な命令に逆らえない。
理不尽な組織の空気を壊せない。
おかしいと思っても黙る。
強い立場になれば、今度は自分が下へ同じことをする。
それは本当に、心を鍛えた結果なのか (。´・ω・)?
私は違うと思う。
心を鍛えるとは、ただ耐えることではない。
大声で返事をすることでもない。
上級生にひたすら頭を下げることでもない。
本当に心を鍛えるなら、必要なのは別の力だ。
怒りを抑える力。
弱い立場の相手を守る力。
上に立っても威張らない力。
おかしいことへ、おかしいと言える力。
自分より弱い者へ手を上げない力。
そういうものこそを育てて初めて、心を鍛えたと言えるのではないか。
高校野球には、人の胸を打つ瞬間がある。
それは否定しない。
けれど、その美しさの裏で、子どもたちへ「礼儀」や「教育」という名の服従を教えているなら、私たちはもう少し疑うべきだ。
強い側へ逆らわない処世術を礼儀扱いする日本の土壌は、時に世界に冠たる技術企業でさえ、誤りを止める声を奪い、静かに沈めていく…… ( ˘ω˘ )
報道の詳細を断定する意図はありません。
ただ、それをきっかけに、学校スポーツや日本型組織に残る上下関係について考えました。




