サイレンより早く
消防服というのは、複雑な造りになっている。耐熱性・防水性に優れた特殊な繊維。
目の前のアラミド繊維の塊も、大変な労力と研究の成果なのだ。手に取ると、カシャカシャと衣服とは思えぬ音が手の中でなる。
分厚く、重く、着るのにもコツがいる。慣れるまでは素早く装着するだけでも一苦労だった。
「この前は、現場に行くのが遅れてすいませんでした」
村田が謝る。まだ前のことを気に病んでいるのか。
「もういい……次に活かせ」
『火事です!助けてください』
通信機からの叫びに、身が引き締まる。何度目でも、この瞬間の緊張は変わらない。
仕事の始まりだ。
すぐに村田に車を回すように合図する。
『場所はどこですか?』
『青崎市北区琴吹町1-8の倉橋ビルです!もう熱くて……!』
慌ててパソコンに打ち込むと、すぐに地図や画像が表示される。
良かった、という不謹慎な感想が浮かぶ。いまは昼休憩の時間だし、元々人は少ないはずだ。オフィスばかりだし、マニュアルもしっかりしてると思われる。いずれもすぐに避難行動に移るはず。
これが学校のような場所ではたまらない。まず、避難が遅れがちだ。我々にとっても、活動しにくい。
「倉橋ビル……そこまで十分で行けるな」
村田が運転席に乗り込み、すぐにエンジンをかける。車が勢いよく発進する。
『延焼の可能性は?』
『隣のビルとの距離は近いですが、防火壁があるので……』
そこまで聞いて、村田の表情が少し緩む。規模としてはそれほど大きくなさそうだ。しかし、それでも油断は禁物だった。煙が広がれば、それだけで人の命を脅かす。当然我々の命も。
現場が近づくにつれ、焦げた臭いが鼻を突く。ビルの前には避難した数人の会社員が立ち尽くしている。空を見上げると、三階付近から薄い煙が流れているのが見えた。窓が破裂する音が響いた。熱気が肌を刺す。
車を現場から少し離れた、人気のないところに止める。後継の消防車の邪魔になってはいけないし、燃えてもいけない。車を降りると、ヘルメットをかぶり直し、現場の人達に声をかける。
「第一隊、到着しました。これより状況確認に入ります」
ヘルメットの中で声が反響する。
怯えた中年の男が反応する。
「これから向かいますが、中に逃げ遅れた人はいますか?」
「いないかと……うちの社員はこれで全員のはずです」
「貴方が管理職ですか?隅々まで調べなくてはいけません。鍵はどちらにありますか?」
「わたしのデスク……最奥の机の上かっら二番目の引き出しに!」
「ありがとうございます。落ち着いてください」
こういうとき、落ち着けと言われて落ち着く人間はいない。それは知っている。だが、言う。それが消防士の仕事だろう。
煙が濃くなり、ビルの入り口が熱気を帯びている。呼吸を整え、手袋を締め直す。村田と目が合った。
「行くぞ」
そのとき、ビルの奥からかすかに声が聞こえた。
「誰か……助けて……!」
全員が息をのむ。煙の中から、か細い声が確かに響いた。
「逃げ遅れがいる!」
中年の男が叫ぶ。
即座に判断し、村田と目を合わせる。彼もすぐに頷いた。
「ばかな……なんであそこに、まだ残って……」
俺は酸素マスクを確認し、火の回りを予測しながらエントランスへ駆け込む。
三階までの階段は、すでに煙が立ち込めていた。呼吸を整えながら進むと、奥の部屋からかすかな人影が見えた。
倒れ込むように壁にもたれ、意識が朦朧としている若い女性。頬に火傷を負っているようだ。指でそっと触れた瞬間、わずかに身じろぎし、ゆっくりと目を開ける。
その瞳は、火よりも俺たちの姿を映し、濡れたような輝きを帯びた。
「大丈夫か!」
肩を揺さぶると、彼女はか細い声でつぶやいた。片手には、黒いナイロン製の鞄が握られている。彼女は力なくそれを抱え込むようにしていた。
「……助け……」
「今助ける」
肩を支え、彼女を背負う。少し油のような匂いがした。背後で爆ぜるような音がした。振り返ると、火の手が勢いを増し、天井が崩れ始めていた。
「村田!彼女を頼む!意識はなさそうだが……」
そう後ろにいるのかすら把握できない村田に声をかける。俺は先ほどの男の言っていたデスクへ向かう。火と埃で視界が悪い中、鍵を見つける。
次々に扉の鍵を開け、残っているものがないか確認する。
「残っていない、全然だ!」
「本当ですか?無駄足でしたね。なら早く!」
村田の声が壁に反響する。
炎が足に生き物のように絡みつくのを、振り解く。悪態をつきながら、机を蹴り倒す。
「くそっ!早く逃げるぞ!」
サイレンがけたたましく鳴り響き、消防車が現場に着く。
彼らに鉢合わせないように、ビルの裏口から抜け出し、助けた女を路上に寝かせる。
燻る煙が空へと昇っている。現場には消防隊が作業を進め、ホースの放水が火の残骸を叩いていた。
「あの、助けていただきありがとうございます」
「わたしは運がよかったです。あなたたちのような素敵な男性に助けていただいて」
「ああ、俺たちはこれで」
「近くの病院まで送っていただけないでしょうか」
仕方あるまいと、村田に目配せをする。これも消防士の仕事だろう。
後部座席で女は黙って携帯を見つめていた。バックミラーに映る表情が、どこか冷ややかだ。携帯をどこにしまおうかと一瞬迷い、手に持ったままにした。
「……鞄は?」
思わず口にすると、彼女は一瞬、表情を固くしたが、すぐに弱々しく笑う。
「……火の中に落としちゃったみたいです」
そう言って、視線をそらす。
交差点を曲がった瞬間、遠くからサイレンが響く。
それは、俺たちの耳に馴染んだ消防のものではない。低く、鋭く、追い詰めるような警察のサイレンだった。
* *
喫茶店で女がコーヒーを飲んでいる。その手にはいまどき珍しくも、週刊誌がある。
週刊ウェドネスデイ
火事場泥棒、逮捕!
鹿川県青崎市を中心とし、火災現場での窃盗行為を繰り返していたとして、鹿川県警は今日未明二人の無職の男を逮捕しました。
調べに対し、男たちは「燃えるのは、勿体無いと思った。これは物品と金銭の救助だ」などと、容疑を認めている。
驚くべき手口
鹿川県青崎市などで、火災現場における窃盗行為を繰り返してた、通称『火事場泥棒』。
彼らはどうやって火災現場を知っていたか?なんと、市内の電話を傍受していたのだ。「火事」という単語を聞けば、男たちは「仕事を始めた」そうだ。これに対し、消防センターの丸山氐は、次のように語る。(中略)
男たちの部屋からは、自作の消防服が発見された。消防士に変装し、「救助に来ました」と言って、侵入していたようだ。これについて丸山氏は「顔を見られないのも良かったんでしょうね」「素人の作ったものとは思えない」などと(中略)
このように、男たちの犯罪の手口は、驚くべきものであった。一方で、「捕まった現場では一円も取っていない」「現金専門で、書類は取らない」などと一部犯行を否認している。
警察は、犯行の状況をより詳しく調べている。
女はその記事の最後の部分に満足げにうなずく。誰も、火災の発端が彼女だとは気付いていない。
自分で火事を起こし、人がいなくなった後に盗む。通信傍受なんてしなくても、これが一番簡単なのに。
火事場で意識を失ったのは、ドジを踏んだように思ったが、それすらも幸運に変わった。
意識を取り戻して目に入ったのは、偽物の消防服。ああ、同類だと、そう思った。
倉橋ビルに隠しておいた、革のバッグは今腕の中にある。焦げ跡をめくると煤が指につく。
頬の火傷の跡に、その煤をつけるようにゆっくりとなぞる。
「素敵な男性、ね」
火事場から助けてくれ、罪をかぶってくれ、これ以上素敵な男などいるはずもない。
一万円札で会計を済ませ、彼女は夜の街へと消えていった。
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