表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

サイレンより早く

作者: 千島夜

 消防服というのは、複雑な造りになっている。耐熱性・防水性に優れた特殊な繊維。


 目の前のアラミド繊維の塊も、大変な労力と研究の成果なのだ。手に取ると、カシャカシャと衣服とは思えぬ音が手の中でなる。


 分厚く、重く、着るのにもコツがいる。慣れるまでは素早く装着するだけでも一苦労だった。


「この前は、現場に行くのが遅れてすいませんでした」


 村田が謝る。まだ前のことを気に病んでいるのか。


「もういい……次に活かせ」


『火事です!助けてください』


 通信機からの叫びに、身が引き締まる。何度目でも、この瞬間の緊張は変わらない。


 仕事の始まりだ。


 すぐに村田に車を回すように合図する。


『場所はどこですか?』


『青崎市北区琴吹町1-8の倉橋ビルです!もう熱くて……!』


 慌ててパソコンに打ち込むと、すぐに地図や画像が表示される。


 良かった、という不謹慎な感想が浮かぶ。いまは昼休憩の時間だし、元々人は少ないはずだ。オフィスばかりだし、マニュアルもしっかりしてると思われる。いずれもすぐに避難行動に移るはず。


 これが学校のような場所ではたまらない。まず、避難が遅れがちだ。我々にとっても、活動しにくい。


「倉橋ビル……そこまで十分で行けるな」

 

 村田が運転席に乗り込み、すぐにエンジンをかける。車が勢いよく発進する。


『延焼の可能性は?』


『隣のビルとの距離は近いですが、防火壁があるので……』


 そこまで聞いて、村田の表情が少し緩む。規模としてはそれほど大きくなさそうだ。しかし、それでも油断は禁物だった。煙が広がれば、それだけで人の命を脅かす。当然我々の命も。


 現場が近づくにつれ、焦げた臭いが鼻を突く。ビルの前には避難した数人の会社員が立ち尽くしている。空を見上げると、三階付近から薄い煙が流れているのが見えた。窓が破裂する音が響いた。熱気が肌を刺す。


 車を現場から少し離れた、人気のないところに止める。後継の消防車の邪魔になってはいけないし、燃えてもいけない。車を降りると、ヘルメットをかぶり直し、現場の人達に声をかける。


「第一隊、到着しました。これより状況確認に入ります」


 ヘルメットの中で声が反響する。


 怯えた中年の男が反応する。


「これから向かいますが、中に逃げ遅れた人はいますか?」


「いないかと……うちの社員はこれで全員のはずです」


「貴方が管理職ですか?隅々まで調べなくてはいけません。鍵はどちらにありますか?」


「わたしのデスク……最奥の机の上かっら二番目の引き出しに!」


「ありがとうございます。落ち着いてください」


 こういうとき、落ち着けと言われて落ち着く人間はいない。それは知っている。だが、言う。それが消防士の仕事だろう。


 煙が濃くなり、ビルの入り口が熱気を帯びている。呼吸を整え、手袋を締め直す。村田と目が合った。


「行くぞ」


 そのとき、ビルの奥からかすかに声が聞こえた。


「誰か……助けて……!」 


 全員が息をのむ。煙の中から、か細い声が確かに響いた。


「逃げ遅れがいる!」


 中年の男が叫ぶ。


 即座に判断し、村田と目を合わせる。彼もすぐに頷いた。


「ばかな……なんであそこに、まだ残って……」


 俺は酸素マスクを確認し、火の回りを予測しながらエントランスへ駆け込む。


 三階までの階段は、すでに煙が立ち込めていた。呼吸を整えながら進むと、奥の部屋からかすかな人影が見えた。


 倒れ込むように壁にもたれ、意識が朦朧としている若い女性。頬に火傷を負っているようだ。指でそっと触れた瞬間、わずかに身じろぎし、ゆっくりと目を開ける。


 その瞳は、火よりも俺たちの姿を映し、濡れたような輝きを帯びた。


「大丈夫か!」


 肩を揺さぶると、彼女はか細い声でつぶやいた。片手には、黒いナイロン製の鞄が握られている。彼女は力なくそれを抱え込むようにしていた。


「……助け……」


「今助ける」


 肩を支え、彼女を背負う。少し油のような匂いがした。背後で爆ぜるような音がした。振り返ると、火の手が勢いを増し、天井が崩れ始めていた。


「村田!彼女を頼む!意識はなさそうだが……」


 そう後ろにいるのかすら把握できない村田に声をかける。俺は先ほどの男の言っていたデスクへ向かう。火と埃で視界が悪い中、鍵を見つける。


 次々に扉の鍵を開け、残っているものがないか確認する。


「残っていない、全然だ!」


「本当ですか?無駄足でしたね。なら早く!」


 村田の声が壁に反響する。


 炎が足に生き物のように絡みつくのを、振り解く。悪態をつきながら、机を蹴り倒す。


「くそっ!早く逃げるぞ!」


 サイレンがけたたましく鳴り響き、消防車が現場に着く。


 彼らに鉢合わせないように、ビルの裏口から抜け出し、助けた女を路上に寝かせる。


 燻る煙が空へと昇っている。現場には消防隊が作業を進め、ホースの放水が火の残骸を叩いていた。


「あの、助けていただきありがとうございます」


「わたしは運がよかったです。あなたたちのような素敵な男性に助けていただいて」


「ああ、俺たちはこれで」


「近くの病院まで送っていただけないでしょうか」


 仕方あるまいと、村田に目配せをする。これも消防士の仕事だろう。


 後部座席で女は黙って携帯を見つめていた。バックミラーに映る表情が、どこか冷ややかだ。携帯をどこにしまおうかと一瞬迷い、手に持ったままにした。


「……鞄は?」


 思わず口にすると、彼女は一瞬、表情を固くしたが、すぐに弱々しく笑う。


「……火の中に落としちゃったみたいです」


 そう言って、視線をそらす。


 交差点を曲がった瞬間、遠くからサイレンが響く。


 それは、俺たちの耳に馴染んだ消防のものではない。低く、鋭く、追い詰めるような警察のサイレンだった。

 


* *



 喫茶店で女がコーヒーを飲んでいる。その手にはいまどき珍しくも、週刊誌がある。


週刊ウェドネスデイ


 火事場泥棒、逮捕!


 鹿川県青崎市を中心とし、火災現場での窃盗行為を繰り返していたとして、鹿川県警は今日未明二人の無職の男を逮捕しました。


 調べに対し、男たちは「燃えるのは、勿体無いと思った。これは物品と金銭の救助だ」などと、容疑を認めている。


 驚くべき手口


 鹿川県青崎市などで、火災現場における窃盗行為を繰り返してた、通称『火事場泥棒』。


 彼らはどうやって火災現場を知っていたか?なんと、市内の電話を傍受していたのだ。「火事」という単語を聞けば、男たちは「仕事を始めた」そうだ。これに対し、消防センターの丸山氐は、次のように語る。(中略)


 男たちの部屋からは、自作の消防服が発見された。消防士に変装し、「救助に来ました」と言って、侵入していたようだ。これについて丸山氏は「顔を見られないのも良かったんでしょうね」「素人の作ったものとは思えない」などと(中略)


 このように、男たちの犯罪の手口は、驚くべきものであった。一方で、「捕まった現場では一円も取っていない」「現金専門で、書類は取らない」などと一部犯行を否認している。


 警察は、犯行の状況をより詳しく調べている。


 女はその記事の最後の部分に満足げにうなずく。誰も、火災の発端が彼女だとは気付いていない。


 自分で火事を起こし、人がいなくなった後に盗む。通信傍受なんてしなくても、これが一番簡単なのに。

 

 火事場で意識を失ったのは、ドジを踏んだように思ったが、それすらも幸運に変わった。


 意識を取り戻して目に入ったのは、偽物の消防服。ああ、同類だと、そう思った。

 

 倉橋ビルに隠しておいた、革のバッグは今腕の中にある。焦げ跡をめくると煤が指につく。


 頬の火傷の跡に、その煤をつけるようにゆっくりとなぞる。


「素敵な男性、ね」


 火事場から助けてくれ、罪をかぶってくれ、これ以上素敵な男などいるはずもない。


 一万円札で会計を済ませ、彼女は夜の街へと消えていった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


評価・リアクション・感想・アドバイス等を頂けると、とても嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ