第3章-----(2)
ラタシアの民話によれば、朝は人の子と善神の世界、夜は汚れと妖魔の世界、黄昏時はふたつの世界をつなぐまやかしの世界ということであったが、これはこの時代の共通の観念でもあり、夜は大抵、不気味なものが徘徊する時刻として恐れられていた。
リディアは幾多の不安な夜をすごしてきたが、この時ほど夜明けを待ち望んだことはない。闇は原始の本能をかきたてる。想像力は無限であり、それらが恐怖とあいまって、人里はなれた山奥であるとか、三日も歩かなければ次の町へ行き着かぬ街道というのは、それだけでモンスターの出没する名所として恐れられる。理性や常識では考えにくい出来事がおこるのもそのような地域である。よしんばそれが盗賊や山賊の仕業であるとしても、どちらも同じ脅威であることに間違えはない。
各地を旅していれば、当然、そうしたものの噂は耳にはいってくるのだけれども、誇張が多いのか、人々が臆病なのか、リディアは実際にモンスターと呼ばれる生き物に遭遇したことはなかった。だからこの日の出来事は相当に衝撃的なものだった。
怪物は消えてしまった。メフィストが魔法の風をおさめた後にあったのはただの森でしかなかった。あたり一面の血溜まりと怪物の残した肉塊らしい黒いものが散乱したさまが、そこで凄絶な闘いが繰り広げられたことを物語っていたが、やがてそれも地面に吸いとられるようにして消えていった。リディアはぼんやり呟いた。
「幻――だったのかしら」
「いや、あれは本物」
メフィストが肩の傷にありあわせの布を巻きながら言う。目の前には明々と燃える焚き火がある。空は蒼黒く高い。リディアは森を抜けて隠れ家の廃屋へ行くか、トロルの町へ戻るかのどちらかをしたかったのだが、メフィストがそれを止めた。夜が明けぬうちに、魔に汚染された森から動くことは危険だというのだ。
「どのみちすぐに朝になる」
その通りであった。彼らは結果的に、ほとんど一晩中、怪物に追い立てられていたのだ。
「あせって逃げて、どこかであの愉快な黒衣の兵士たちとはちあわせになったら困るだろう」
リディアはまだ少し震えの残る体を押さえた。
「あいつら、ここにいるの? 確かにときどき、出てきたような気もしたけど」
「いたのさ」
魔法使いも寒そうに腕をこする。明け方のトロルの森は底冷えがした。彼は拾い集めてきた小枝をへし折って炎にくべた。リディアが注意深くメフィストを見る。
「あれは何だったの、いったい何が起こったっていうの。教えて……わかってるんでしょ。あの怪物はどうして――」
怪物は最期の瞬間に「真紅の石」と叫んだのだ。その言葉を聞き違えるはずはない。
うん、と魔法使いは頷いた。
「あの怪物には念がとりついていたんだ。いや、念そのものが怪物を形づくっていたといってもいい。その念を呼び集めたのが真紅の石」
リディアはぽかんとした。
「ジェルディスタ伯という魔道師は真紅の石をかなり熱心に探していたんじゃないかな」
「ええ、そうよ。だけど」
「理由はそれで充分なのさ」
魔法使いは肩をすくめようとして、顔をしかめた。
「真紅の石は、簡単に言えば、もともとは人間のなかの負のエネルギーが凝縮したものなんだ。そしてあれは自分自身で成長する生きた魔石で、この時代には強すぎる。だから僕たち〈月の島〉に忠誠を誓った、善神アルガに仕える者たちはそれを調整してゆかなければならないんだ。僕たちは歴史を左右するほどのことは出来ないけれど、真紅の石のような魔石を放置するわけにもゆかない。だから世界中に砕け散った真紅の石のかけらを回収している」
「つまり、あんたも真紅の石を探しているって……こと?」
「そうだ」
「魔法使いが? ひとりで?」
あんまりリディアが目を丸くして訊ねたので、メフィストは気を悪くしたようだった。
「何かおかしなことでも」
「だって」
と言い置いてから、彼女は続けた。
「名の通ったギルドの賢者――魔法使いが、自分で直接、魔石を探してるなんて聞いたことがないもの。それに魔法使いってもっと偉いもんじゃないの。自分であちこち探し回ったりしないで、手下とか、弟子とかがたくさんいて、自分は都の神殿の奥のほうでふんぞりかえっていて、そういう人たちの報告を聞いていればいいだけじゃないの、普通は」
「普通じゃないもんでね」
メフィストは刺々しく言う。しかしその次の言葉にリディアはさらに仰天させられた。
「実習旅行の課題なんだよ」
実習ゥ? とリディアが聞き返すと、メフィストはむっつりと言う。
「僕は鼻が利くのさ」
「――なんだか複雑そうね」
「至極単純さ。それに慣れてしまえば外の暮らしも悪くない。旅は何より自由だ」
「自由ね」
これ以上、この話題に触れてほしくないというメフィストの様子を嗅ぎとったリディアは話をそらす。魔法使いの身の上に興味はあったが、せっかくうちとけてきた相手のへそを曲げさせてまで知る必要はない。
「うん、兄さんも多分はじめはそんな理由で冒険に憧れたんだろうな」
「束縛されていたのか。そんな田舎に月の島のような規律があったとは思えないけどね」
「ラタシアは、そりゃ、このうえなく自由だったわよ、物やお金はなかったけれど、皆のんびりしてた。飢えることもなくて。でも村は狭かったから」
彼女は焚き火に小枝をほうり込んだ。そうしながら、兄が村を飛びだした本当の理由は母親にあったのかもしれないと思っていた。母はおおらかな人だったが、兄についてとなると、ひどく神経質になるところがあった。彼女の愛情は、時として過度の束縛となり、息子の成長と自由をさまたげるものでもあったのだ。
兄が真紅の石を探す冒険に夢中になりだした頃になると、母はさらに頑なになった。彼女は冒険家などという職業を認めなかったし、兄が苦心して得た報酬も受け取らなかった。兄が出かけている間は、兄の安全を祈って村はずれの祠へ毎日苦労して日参していたくせに、兄がようやく帰ってくると、年を重ねるごとに悪化する放浪癖をなじるばかりだった。
リディアには母のそんな行動が不思議に見えたが、今なら少しだけ気持ちがわかる。冒険のつどにたくましく成長した兄の姿はリディアにとっては憧れの的だったが、母にすれば自分を見捨ててゆく息子でしかなかったのかもしれない。それでも母は兄を愛していた。自分とひきくらべたリディアが寂しさを感じるほどに。
「おい」
気が付くとメフィストが火の始末をしていた。
「町へ戻るぞ。寒くて風邪をひきそうだ」
見ると、空が白みはじめてきていた。
トロルへ戻り、〈山兎亭〉の入り口を叩くと、既に起きていたらしいダンがぬっと現れた。メフィストの姿を見るとぎょっとした顔をする。
「生きていたのか……」
「ご挨拶だな、早速だけど何か食べさせてくれ」
メフィストは顎をしゃくってリディアをうながし、ダンのかたわらをすり抜けようとした。
「おい待て、そっちの嬢ちゃんは――」
「午前中は襲撃はないそうだから、彼女がいるからといって今すぐこの場で乱闘がはじまる心配はないさ」
「くそ餓鬼が。まだ早いからな、昨日の残り物しかねえぜ」
舌打ちすると、ダンはのっそり厨房へはいってゆく。リディアはメフィストの袖を引っ張った。
「いいの? あたし、トロルの人たちに迷惑かけたくないよ。食べ物のことなら、こっそりわけてもらったり、魚を釣ったりしてどうにかしているから、この店に後で迷惑がかかるようなことは」
「殊勝なんだな」
「そんなんじゃない。でも人が殺されてるのは本当だから」
「ほらよ」
ダンが清潔な布と軟膏のはいった貝殻を投げでよこしてきた。メフィストがそちらを向くと、
「敢闘賞」
と、牙のような歯を剥きだした。
「必需品だろ、サービスだ。一応、お前の使った部屋はそのままにしてあるが、そっちの嬢ちゃんは食事だけで勘弁してくれよ」
「だ、そうだ。どうやら僕の荷物はこの薬に化けてしまったらしい。これはお前にやるよ」
メフィストはその貝殻をリディアに差し出した。
「メシ食ったら、あんたの兄貴のもとパトロンのところへ乗り込むぞ」
しばらくすると店内にはよい匂いがただよってきた。テーブルについている客は彼らふたりだけだった。トロルを出発してどこかへ行こうという旅人は日が昇る直前には街道へはいってしまうし、そもそもそういう客は席について朝食などとらない。今日一日をゆっくり過ごすつもりの泊まり客はまだ眠っている時間である。だから店のなかは暗く、しんとしていた。
リディアはダンや老婆の非好意的な視線を気にして、またこういう逃げ場のない場所に長時間居続けるストレスにそわそわしていたが、やがて腹をくくって、細剣を椅子にかけた。
ダンはとろみのきいたスープを温めて持ってきてくれた。それに堅いパンをひたして食べるのだが、リディアはメフィストの食欲に感心した。
「あんなモノ見た後でよく食べられるわね」
「食べられる時に食べておくのが信条なんだ」
メフィストは手と口を同時に動かしながら言う。リディアはパンをひとかけら口にふくんで、声を低くした。
「それでさっきの話だけど」
「何」
「ルーダンのところへ乗り込むって話よ。あんた、本気で言ってるの、ちょっと、ねえ、いい加減食べ過ぎじゃない?」
メフィストはパンの追加を頼んだところだった。彼は指についた汁をきれいに舐めとり、
「お前、僕の話を全然きいていなかったな」
落ち着きはらって言った。
「実は僕は昨日――いや、もう一昨日か、そのジェルディスタ伯のところを訪ねて行ったんだよ。その時は別荘の持ち主の名前なんて気にもとめなかったけれど、本当はそれは偶然じゃなかったってことだ」
一拍おいて、リディアは、え、と聞き返す。
「どうして」
「だから路銀を、いや、真紅の石を強く求める彼の邪念が無意識のうちに僕を呼んだのさ。そして僕は真紅の石を回収しなければならない」
「……」
「言っただろう、鼻が利くって。僕はどういうわけか真紅の石のある場所がわかるのさ、運命が僕を導いているというのかな、真紅の石にまつわる人間、土地、怪奇現象、ありとあらゆるものが向こうから僕めがけてやってくる。お前が僕と出会えたということは、それだけで、冒険者としてはなかなかいい線いってるということなのさ。もっともあんたはそれ程、あの魔石に憑かれているようじゃないけどな」
リディアは口をぱくぱくあけた。魔法使いの言葉はとても額面通りに信じられるものではなかったが、くそ真面目な顔で言われると信憑性があるように思えてしまうから不思議だ。
「まさか――あんた、魔法使い、あんた自身が真紅の石、発見器ってこと? なんて便利な……」
「厄災さ。こっちは面倒な事件をやっとひとつ片づけて、その報告と、今後の軍資金を出させるために、一気にサリアスの支部まで戻るつもりでトロルへ来たんだ。なのに、それさえもあの呪われた魔石に呼び寄せられたからだなんて考えたくもない。なーにが適材適所だ、あのクソ老師め。今度会ったら絞め殺してやる」
言いながらもメフィストはどんどんパンとスープをたいらげてゆく。彼はふとリディアを見た。
「お前、信じてないだろ」
「うん」
真紅の石がそうそう簡単に発見できるはずはない。それにリディアにはその嘘を確信する決定的な理由があった。
「ジェルドのルーダンは真紅の石なんてもってないわよ」
ルーダン自身は、魔道を駆使した実験を繰り返し、ついに魔法の宝石〈真紅の石〉の原料を抽出する前段階までにいたったと豪語したものだが、リディアはそれが資金集めのための口実であることを知っていた。
「かもな。しかしそれは問題じゃないんだ」
メフィストはしかし少しもへこたれた様子がない。
「そいつが強い念でもって真紅の石を求めている、真紅の石の魔力にとりこまれているっていうだけでも僕の課題には充分なのさ」
「それはどーゆう……」
言いかけたリディアを制して、メフィストが怪我をしてないほうの手をさしのべてきた。
「お前、いっしょにジェルディスタ伯の別荘へ来てくれ」
「へ」
「伯の念を浄化してやるよ」
ダンがパンをもって現れると、メフィストは手をひっこめる。ダンが遠ざかるのを待って、リディアは声をひそめた。
「あたしの立場、わかってる?」
「どうせ暇だろ。あんな結界、絶対解けないからな。あ、でも危ない橋をわたったんだ、ギルドへの報酬は全額要求するぞ。ケチるなよ」
うちとけてきたのはいいけれど、メフィストの態度にはふてぶてしさが加わった気がする。
「そういう問題じゃなくて……あたしは、ルーダンが気持ち悪くて、あいつに我慢がならなくなったから出てきたんだよ」
「憑きものが落ちれば、すっきりするさ」
メフィストはうけあった。
「本当は僕ひとりでもいいんだけどね、ほら、僕は一昨日、追い返されているだろう、庭師に。のこのこ行っても会ってもらえるとは限らないんだ。しかも昨日、ジェルディスタ伯の怪物を倒してしまったから、いっそう向こうは警戒してくると思うんだ。それに僕は黒衣の兵士たちに顔を知られてしまっている。怪我をした無力な僕がやつらに囲まれたらどうなる? だからあんたといっしょに行ったら、向こうも安心すると思うんだ」
ようやく満腹したらしい腹をさする。
「なーにが、無力。あんなすごい魔法つかえるくせに」
リディアが顔をひくつかせると、メフィストはもっともらしく首を横に振った。
「浄化の魔法では生身の人間は攻撃できないのさ。それに大きな魔法には媒体があったほうがラクだ」
「つまり、あたしを、保険にしようってんの」
「ご明察」
リディアはスープの汁がこびりついた椀を投げつけた。