第3章-----(1)
ザッ……、ザ、ザ……。
湿り気をふくんだなま温かい風は前方の闇からながれてくる。闇は吸い込まれるほうに深く、昏く、なにやらねっとりした質感をおびていた。リディアは咽喉をひくつかせた。奇声をあげて、今にも逃げ出したい衝動にかられるのだが、じわじわとしみわたる、しかし絶対的な恐怖によって足を動かすことすらできなかった。
ザッ……。
闇から生まれ、現れ、近づいてこようとしているもの、それはゆるやかに実体を型どりはじめていた。
リディアは涙をためた目でメフィストを見た。耐え難いのは、相手が生きた人間でないということをはっきり知覚できることだった。黒衣兵の襲撃などではない。メフィストは頷いた。このまま気配を消してやり過ごせといっているらしい。
風に腐敗した臭気がまじりはじめた。それが闇から現れたものの吐息なのだと知って、リディアは慄然とする。
森は不自然なほどに静かだった。暗がりに慣れた目に樹々のシルエットが亡霊のように浮かんでいる。
音がした。ピタンと落ちるものがある。重さを感じさせる気配、それをひきずる音がし、へし折られた小枝の音が耳に残る。
それは黒く、ぬめっていた。獣のようなシルエット、しかし両脚で巨体をささえた様子は人に似ている。全身がひどく濡れていた。たった今、水から這い出てきたような濡れようで、あたりを水たまりのようにし、しかも下半身がずぶずぶと崩れていた。闇のなかでもわかる。怪物の足下の水の正体は半分以上が怪物自身の体液であり肉であった。怪物が一歩踏み出すごとに嫌な音がした。
リディアの目が裂けるほど見開かれる。かすかな声がもれたと思うと、メフィストがぐいと彼女の肩に指をくいこませてきた。その痛みにはっとなる。
(誰カ、イルノカ)
怪物が振り向いた。目が見えないのか、手探りのようにリディアをさぐる。すると、無理な動きに耐えかねたのか、怪物の二の腕をおおっていた黒い肉がぐしゃっと落ちた。リディアは凍りついた。不意に、足下が抜ける感覚に襲われ、彼女は悲鳴をあげた。
(ソコ、カ……)
声はいやらしく、おぞましかった。怪物はそこにやわらかい暖かな肉があると知って嗤ったようだった。口もとから青紫の舌が出る。舌なめずりをしているのか。
「あ……アア――」
リディアはぶるぶる震える手で細剣を抜くと、怪物に躍りかかった。肉を裂く手ごたえがし、嫌な匂いのするものがリディアの頬に飛び散る。しかしそれで正気を取り戻した。剣で切れる相手であるというのが、彼女の恐慌をやわらげたのだ。
怪物はふらりとしたが、すぐに体勢を立て直し、何事もなかったようにのろのろ腕をのばす。黒くぬめった体のそこで禍々しい光を放つふたつの空洞が歪む。リディアは叫んだ。
「や――やめて、来るな。この、この化け物ッ!」
その声が静寂を破った。刹那、樹々がゆらめき、空気がぶわっと転じる。メフィストはリディアの腕をとった。
「逃げろ、走るんだ」
転げ落ちるように駆け出した。
怪物はスピードこそは遅いが、確実に得物をとらえ、追ってくる。あたりの暗闇からは怪物のまきちらす腐臭となま暖かい空気が流れ来、耳をすませば息づかいが聞こえてくる。それはそこから逃れようとするふたりの人間をいやおうなしに恐怖に突き落とす。
「な、なんなのよ、あれは」
リディアがわめくと、メフィストは怒ったように言った。
「僕に聞くな。お前、どうして我慢できなかったんだ。あのまま動かなければ、やがてあいつは閉じた空間とともにどこかへ行ってくれたんだ、あれは不完全だった!」
「あれは何、あの怪物は。モ、モンスター? 獣人?」
「知るか。だが魔道によって呼び出された化け物には違いないだろう、結界が魔法陣を形成した、罠がはってあったんだ、誰かがあの結界をいじったら、ああやってどこかの次元から化け物が召喚されるように」
「じ、次元?」
「お前は知らなくていいことだ」
彼は立ち止まり、苦しそうに身を折った。
「くそ。これじゃ敵の術中にはまるばかりだ、やつが来るぞ」
「トロルまで走って逃げるわけにはゆかないの?」
「それで町を怪物の餌食にするのか」
メフィストは息を整えながら言う。
「まあ、いいだろう。あいつの波動には覚えがある、幸いさっきの探査の同調がまだ完全には切れてないし、こうなったらこっちも古代の魔法陣を利用してやる。おい、リディア、荒療治だがおまえに責任をとってもらうぞ」
え、と聞き返したリディアに、メフィストは「来たぞ」と告げる。彼は素早く呪文にはいった。地面が、どくんと脈打ったかと思うと、リディアの体が浮いた。
同時にあたりが転じた。
「覚悟ッ」
切っ先をふりかざして現れたのは、黒衣の兵だった。リディアはすんでのところで飛び退いたが、状況を全く把握できない。
「な、なんで」
驚いていると、新手が現れる。燃えるような赤髪の、リディアがひそかに気をかける例の黒衣兵だ。リディアはつんのめってかわしながら、さらに仰天した。そこは暗闇の森ではなく、真昼のトロルだった。潮のにおい、白茶けた石造りの家々、午後のしろく反射した陽、気づいた途端に雑踏の音が広がった。
(ここ、は――……)
いや、トロルではない。もっと別の大きな町だ。と、視界がぐにゃりとなった。
「よそ見をするな!」
声は魔法使いのものだった。リディアは森にいた。
「この、化け物め」
ルーダンの黒衣兵のひとりが叫んだ。リディアは、その罵声が自分に向けられているものだとは、はじめわからなかった。彼女を見上げる黒衣兵たちの形相が強ばっているのが恐怖ゆえだと気づいたのは、しばらくたってからだった。
赤髪の黒衣兵が荒々しく吐き捨てる。
「切っても切っても生えてくるなてとんでもねえ奴だ。気色悪い真似しやがって、おい、怪物ッ、人間様の手をまぎらわせるんじゃない。地獄の生き物は地獄で寝ていろ、いつもの道を通ってきたのになんでこんなモンとはち合わせしなくちゃならねえんだ、俺はおりた、もう逃げるぜッ」
「しかしマルス」
「うるせぇ、こんな化け物の相手をせにゃならねえなんて聞いてないぜ。なんなんだ、この森は」
リディアは訝しく思った。彼女は何もしていない。男たちはいったい誰と――いや、何と、戦っているのだろう。彼女は目を凝らして魔法使いの姿を探そうとした。しかし何も見えない。複数の人間が彼女をとり囲んでいるのはわかるのだが、あたりはどこまでも暗く、ついにその輪郭を見いだせなかった。
「オラーッ!」
黒衣兵が決死に切り込んできた。彼女はやられたと思った。見えない視界に何かが飛ぶ。
それが自分の右腕だと知った時には、赤髪の男に胸を突かれていた。血が噴き出す。リディアはその血が氷のように冷たく、砂粒のような細かい粒子でできていることにぎょっとする。
リディアは恐怖にかられてメフィストの姿を探した。冷酷な魔法使いは、彼女ひとりに戦わせて手を貸そうともしない。彼女は吠えた。それから貫かれた胸を無事なほうな腕で押さえようとして愕然とする。
腕が、ない。
剛毛におおわれたそれは付け根からもぎ取られていた。
(な――)
(何、これは……)
体が急激に重くなったような気がした。足を踏み出すごとに、底なし沼にとらわれるようだった。
リディアは急に悲しくなった。ぐずぐずと崩れる体をひきずり、放っておいてもまもなく死ぬというのに、どうして進まなければならないのか。答えは瞬時に浮かびあがった。得物たちが逃げるからだ。
得物ガ逃ゲル?
彼女は雷にうたれた気がした。ぞろり、と蠢く気配がある。
(殺セ)
暗い、思念だった。
(殺セ、コロセ、コロセ……――)
リディアは闇の淵をのぞいていた。そこはどろりとした黒い水に満たされており、時折、雨がおちた時のようなちいさな波紋が現れては消える。彼女は、その単調なリズムのうちに、無数の〈声〉が聞こえるのを感じていた。
その声は、殺せと命じた。お前のを邪魔をするもの、お前を認めぬもの、お前の財産を奪うものは殺せ、殺せ、皆殺しにしろ、すべて食べてしまえと命じた。だから彼女は力任せになぎ倒す。牙を剥くと、ちっぽけな人間どもはいつだってだらしのない悲鳴をあげた。黒衣兵が逃げる。彼女をこれまで兎のように追い回した男たちが、失禁したのにも気づかず、泥まみれの惨めな姿で這いまわる。心地よかった。
「リディア!」
名を呼ばれ、彼女はまどろみから目を醒ました。再度、呼ばれ、瞼を開ける。そこには怪物と対峙したメフィストがいた。
「ようやくお戻りか」
ふっと何かが抜ける。
「え――あたし……」
リディアはあたりを見回し、次の瞬間、体をさぐる。右腕があることを確認し、胸を押さえる。
「いったい、今のは……」
「黙っていろ」
魔法使いは唇を噛んだ。その背中が不自然に揺らぐのを見て、彼女は彼が傷をおっているのだと気が付いた。
「その肩」
暗がりで定かではなかったが、ずたずたに引き裂かれた衣服が記憶の断片にひっかかった。
「まさかそれって」
言いかけて、青ざめる。手に粘ついた感触があり、それが大量の血液であるとわかったからだ。
「……ヒッ」
感覚が再現された。
指先が生々しい欲望を覚えている。爪でえぐった生きた人間の肉はやわらかく、蠱惑的だった。怪物となった彼女はメフィストまでもを傷つけてしまったのだ。
「あたし……」
「考えるな! また同調したいのか」
魔法使いは険しく言い、両手を合わせるようにした。掌の間に光の珠がうかびあがり、それは彼の唇からつむがれる呪文によってさらに輝きを増した。リディアは身震いした。普段の呪文とは異なる、低く、高く流れる詠唱は、独特の響きでもって大地を震わせはじめた。メフィストは今、大地のエネルギー源に触れようとしている。契約と祈りによって大地の精霊そのものに許しを請い、その最大級の魔法を執り行おうとしているのだ。
風が立つ。
リディアはぎゅっと腕をつかんだ。指先からつたわるいまわしい感触、全身を痺れさせる喰人の欲求に恐怖と吐き気をもよおしながら、眼前で展開される光景から目を離すことができなかった。
彼女は生涯、忘れないだろう。風が立ち、空が金色にのびた。そこは森であったはずだし、リディアの理性も確かにそこが鬱蒼とした樹々が茂る土のある場所であることを告げていたが、もうひとつ別の感覚ではそこが似て非なるものとなったことを理解していた。
風が高くまきあがり、天空が黄金色に輝いた。メフィストはその真昼のような空の下、地上のすべてのものを吹き飛ばしてしまいそうな旋風の中心に佇んでいた。そう、そのようにしか見えなかった。
怪物が吠えた。そしてそれまでの重々しい様子からは想像もできないような敏捷さでもって、風の渦に飛び込んだ。怪物が渾身の力でもってメフィストに牙を剥く。
「危ないッ」
叫びは旋風にかき消されていた。リディアが見たのは、メフィストのまわりをとりまく風に刻まれた魔法文字と、怪物の裂けた口からたちのぼった白煙だった。
(真紅――ノ、石……!)
怪物は断末魔の叫びをあげた。