第2章-----(1)
澄んだ空気は冷たかったが、日差しは思いのほか強かった。少し早足で歩いただけで脇に汗がにじんでくる。段平をかかげた敵に追いかけられ、森中を疾走すれば全身から汗が吹きだす。
リディアは肩で息をしながら振り向いた。追手の気配が途絶えたことを確かめると、細剣を鞘におさめた。
「大丈夫?」
問いは同行者に向けられたものである。倒れ込むように膝をつき、首からさげたネックレスやら護符やらを重そうに地面に垂らしたメフィストは、切れ切れの声で言った。
「てめ……」
「ん」
「ふざけるなよ、僕はお前の依頼を承諾はしたけれど、それはあくまで魔道向きの仕事についてだけのことだ。僕はお前を護衛するつもりはないし、それはあのアンリとかいう大男も納得したはずだ。お前のいう、その結界とやらを解けばいいんだろ、解けば。なのに、どうしていっしょに追いかけまわされなきゃならないんだ」
黒衣兵の襲来は規則正しかった。正午を過ぎた頃まず一回目の攻撃があり、何かの合図で敵がすっと消えたかと思うと、まもなく二回目の攻撃がはじまった。小休止の後、三回目がはじまる。三回目は他の二回より多勢だった。黒衣兵はもちろんメフィストをリディアの仲間と認識した。だからいっしょに逃げることになる。
メフィストは息をつく暇があるたびに文句を言った。リディアはいい加減うんざりしながら、しかし騙しうちのようにしてギルドに登録させられたのであろうメフィストの心境も想像がついていたので、言わせるままにしていた。
「細かいことは気にしないほうがいいって。でもいろいろ術で援護してくれて助かってるよ」
「仕方なく、だ」
「強調しないでよ。まあ、あんたが魔道師――あわわ、魔法使いでよかったよ」
リディアは素早く訂正して嘆息する。
それにしても、と思う。
目の前の若者は本当に魔法使いなのだろうか。術師というものは所属ギルドに関係なく、様々な契約にしばられているものだから、身分や名前を偽ることは滅多にない。詐称は最も悪しき言霊とされ、それによって自分が裁かれると信じられているからだ。
だから本人が魔法使いと名乗った以上、周囲の人々はそれを信じるしかないのだが、リディアは今朝〈山兎亭〉にメフィストを訪ねていった時を思い起こして首を振る。その時のメフィストのいでたちというのがひどいものだった。昨夜あびるほど酒を飲んだとかで酒臭く、二日酔いなのか、どこもかしこもぼーっとしていた。おまけに彼はリディアを一瞥するなり、実に嫌そうな顔をした。
「で、どういう術を使ったの。すごいじゃない」
気を取り直してリディアは言った。それに幻術を使う者として興味もあった。
逃げ慣れている彼女は囲まれる前に逃げるけれども、反応の鈍いメフィストはいつも敵のただなかに取り残されてしまう。けれどもメフィストが呪文をとなえると、黒衣兵らの動きが止まった。その隙をついて窮地を脱したのだ。
「敵への呪法と守りの呪法」
息をととのえながらメフィストが言うと、リディアは口笛をふいた。
どちらも魔道の初歩の技である。敵への呪法とは、まじないによって敵の剣をなまくらにしたり、敵の気勢をそぐ技である。守りの呪法は水の力で身を守るというものだ。
戦場におけるもっともポピュラーな技といってもよく、これを用いるのに特別な術師の才能はいらない。自分の使う剣の切っ先に魔道文字を刻みつけるだけで呪法は完成するのだから、いくつかの決め事を知っていれば子供にでもできる。ただその効果と速度が問題だった。
一般に、術師のもちいる呪文というのは言葉で構成されており、その抑揚、単語、アクセントなどで魔力をつちかってゆく。けれども言葉はいったん口から出されてしまえば消えてしまうものなので、一定時間を要する呪術には不向きである。また、戦場の入り乱れた状態でひとりの術師が敵味方の戦士それぞれにみあった呪法をほどこすのは不可能である。
そこで術師は即効性の口述呪文とは別に戦士たちに魔道文字を刻印した武器を持たせ、護符を身につけさせる。魔道文字を刻印された武器はそれだけでも魔力が宿るが、正しい呪文をつかうことによって魔力はさらに高められる。
メフィストは魔力の媒体となる石をいくつかもっていたが、魔道の知識があるリディアにはそれが単なる護符であることがわかっていた。それに魔術全盛であった古代ならともかく、現在では大地のそなえる魔力全般の力そのものが落ちている。呪法にしても実は気休めの域を脱しないものが多い。リディアはこれらの初歩的な技をもちいて本当に敵の動きを、しかも瞬時に止めることができた者などはじめて見た。
「凄いね」
素直に感想をのべたのだが、すっかり不信感を抱いてしまっているらしいメフィストはにこりともしない。リディアは注意深く目をそらしながら、下腹にしずかにたまる鬱憤を感じていた。
「えーと……」
深呼吸をして、メフィストの前にかがみこむ。
「歩ける? もうそろそろ立ったほうがいいよ。夕方まで、あと三回くらい攻撃してくるから」
「だから、なんで、こっちまでいっしょに逃げなくちゃいけないんだ。勝手に行けよ。僕は後から行く。心配しなくたって逃げないさ、どうせこっちは金で雇われている身だし、かってにトロルに帰ったってあのアンリっていうオッサンが待ちかまえてるんだろ。それに術師にとって誓いとか契約というのはけっこう重みがあるんだ」
リディアは耐えた。眉間に皺をよせ、唇を一文字にひき結び、頬をひきつらせながらも、ようやくめぐりあえた術師を逃がしたくないという一心で、強ばった笑みを浮かべようとする。
「それはわかる……あたしも幻術かじっているから」
魔法使いがまたその努力を台無しにするようなことを言う。
「ばか。お前のはでたらめ幻術だろう」
リディアの眉がぴくっと跳ねる。
「一目見てわかったさ。昨日の夜だって、あんな際に何をふりまいているんだ、ありゃ媚薬じゃないか。月の島から出てきてははじめにわかったことだけど、外の世界にはお前みたいないかさま師がいかに多いかということだ。だから正真正銘の術師が苦労するんだ、そんなに立派な幻術おさめているなら、結界くらい自分で解いてみせ――」
皆まで言わせなかった。気づいたら、リディアはメフィストを殴りつけていた。不意打ちだったのだろう、メフィストは横面をはられた勢いのまま無様に倒れこんだ。
「調子に乗るんじゃないよ」
彼女はわざと快闊に言った。口が悪いのはお互いさまだが、リディアは酒場や盛り場でいつも鬼瓦のような無頼どもを相手にしてきたからだろうか、綺麗な男には綺麗な言葉を喋ってもらいたいという願望を抱いている。
「あたしは、どーせ、いかさま師よ。そんなこと自分がいちばんよくわかってるわよッ、あんたに迷惑かけて悪いと思ってるから、あんたの減らず口にも我慢してきた。けどね、結界のことは、言わせておけない。結界くらい――そうね、お偉い魔法使い様にとってはそうなのかもね。だけどあたしにとっちゃそうじゃないのよ! あたしがあの結界にどれだけ苦しめられているか知りもしないくせに、あの結界のせいで、あたしを助けてくれようとしたせいで、死なせなくていい命をいくつも死なせてしまったのに、ギルドの請負人、目の前で次々に殺されていってあたしが何も感じてないと思っているの? 何も知らないあんたに軽々しく口にして欲しくないねッ――言っておくけどね、あたしは耐えたんだよ」
彼女はたくましく、メフィストの胸ぐらをつかんでひっぱりあげた。
「本当にそろそろやつら来るわよ」
一人で行け、と魔法使いは口に手をあてながら言う。殴り返さないだけの理性はあるようだったが、怒っていることは確かだ。リディアは、フンと鼻を鳴らした。火のような目でメフィストを睨みつけたが、彼女のほうは意外にも冷静だった。
「わかった、強制はしない。でも覚えておきな。あんたは、もうあたしの仲間だって立派に思われてるってことよ。さっきのでわかったと思うけど、奴ら、あたしには加減するけどギルドの請負人には容赦ないから。あたしといっしょに行動しておいたほうが生き延びる確立があるわよ。夕方まであと三回は攻撃してくるよ」
言い放つなり、ぱんと頬を叩くと、振り返りもせずに歩き出す。メフィストもそれで頭が冷えたのか、やがて後について歩きはじめた。
森は深く、どこまでも続いていた。もっともトロルそのものはちいさな町だったし、問題の結界というのはトロルを含むごく狭い地域に張られていたので、実際は広大な森のうちのごく短い距離を歩けばよいだけだった。
結界線まで辿り着かないのは、寸暇なくやってくる敵襲のためだ。ルーダンの黒衣兵はどこからとなく現れて襲ってくる。まるでリディアとメフィストの行く先を見越しているような現れ方で、そのたびに針路の変更を余儀なくされる。その結果、同じあたりをぐるぐると、とてつもない距離を走っているような気分になるのである。
リディアの剣さばきは、そうやって逃げ続けているうちに上達したのだろうか、まったくの素人から出発したのだとすれば奇跡的な腕前と言わなければならなかった。もしかすると踊り子より素質があったかもしれない。しかし先にも述べたように、訓練も積んでない彼女が、女の非力で本業の戦士に叶うわけはない。それゆえ彼女の剣は相手をはぐらかすための剣、より体力を温存して逃げるための剣に他ならなかった。
術師であるメフィストも逃げの一手である。無理矢理かりだされたという意識のあるメフィストには、当然ながら、はじめから剣をかまえる気魄もない。黒衣兵のほうがメフィストを殺そうとしてくるので、仕方なく応戦しているという格好だった。ただ、魔法使いの戦い方は少し変わっていた。彼は〈敵への呪法〉を駆使して、敵兵を混乱させ、同士討ちに持ち込もうとした。
襲撃は、リディアが予言したとおり休息後からきっかり三回あり、刺客たちは姿を消した。既に夕方だった。日中も冷たかった風はさらに冷たくなり、ほてった体の熱を容赦なく奪う。森はとうに暗闇で、枝の切れた視界の向こうにトロルと寒い色の海がかすんで見えた。
リディアが一二時間は襲来はないと宣言したので焚き火をし、簡単な食事をとる。そうしながらメフィストはリディアの細剣に魔法文字を刻んでいた。作業が終わると、鞘ごと放り投げた。
リディアは切っ先を炎にすかして、頷いた。
「さすが」
メフィストは黙って首を振る。彼は相変わらず無愛想だったけれども、その態度はいくぶん軟化していた。リディアの忠告のとおり黒衣兵が間違えなく本気で自分を殺そうとしてきていることを実感し、またリディアと協力しなければその切っ先をかわせないということがわかったのだろう。それにリディアが娘ながらに、自分のことは自分でするという徹底した姿勢を貫いているのを目の当たりにして感じるところもあったのだろう。不平不満は今はその表情だけにとどめている。
「疲れた?」
「いや」
メフィストはリディアからうけとった水筒の水を口にふくんで、むっつりと言う。彼ははじめて前向きな言葉を発した。
「そのジェルディスタ伯ルーダンというのはどこのギルドに所属する魔道師なんだ」
リディアは驚いたように眉を開いた。
「魔道師としてはまずまずの腕前なんじゃない? 貴族だから独学だって言っていたけど」
メフィストは本当にイヤそうな顔をした。
「疫病神め、思ったとおりだ。そういうわけのわからない結界にかかわりたくないんだ。――毎日、こんなことをしてるのか」
「ま、ね」
「よくもつな」
「いつもはこんな無茶しないんだけどね、適当に町中にいるからもう少しラク」
メフィストは少しだけ興味をもったように聞く。
「トロルの連中がいっしょに闘ってくれるのか」
「まさか」
彼女は息をついた。相手が心を開きかけてくれたというだけで気分が明るくなるから不思議だ。
「そーんな度胸、あいつらにあるわけないじゃん。ま、何人かは骨のある奴だっているわよ。ここの奴らはガタイがいいし、喧嘩っ早いのも多いからね。だけど駄目。皆、ルーダンが……っていうより貴族が怖いのよね。トロルでの味方はアンリだけ。アンリがついていてくれてるから、トロルの連中だって内心嫌がりながらも、こっそり食糧や水をわけてくれるのよ。本当は誰にも迷惑かけたくなかったから、ギルドに依頼札だすつもりなんてなかった。トロルに長くいるつもりもなかったし。だけど結局、ルーダンの掌のなかでいいように弄ばれていてさ。毎日、追っかけられて、ぼろぼろよ。はじめの頃は襲撃の要領がわからなかったから傷だらけ。あんなに規則正しくなくて、遊び半分じゃなけりゃ、とっくにお陀仏」
当初、アンリはトロルを留守にしていたのだが、トロルに戻って事情を知るやいなや、リディアが隠れ家にしている廃屋まで訪ねてきてくれた。そして総合ギルドへの依頼を強く薦めてくれた。彼女はちいさく笑った。
「あの時は嬉しかったなァ。いい男だ、あれは。兄さんの次あたりかな。アンリがもう少し若くて、まだ結婚してなけりゃ、あたし、くどいたかもね。――請負人たちがあんなことになって本当はあたし、依頼をとりさげるつもりだったんだ。ルーダンのところへ戻ろうかとも思った。だけどアンリだけは諦めないでいてくれて、それじゃ、これで最後にするけど、今度はギルドで術師を探して、そいつに結界を解かせようと言ってくれたのよ」
「じゃ、あいつは仇だな」
メフィストは水筒の水を掌にたらして、呪文をつむいだ。その水を足に塗る。リディアは興味深そうに膝をかかえてのぞき込む。
「本当はね、あんたが結界を嫌うのもわかるんだ。悪いと思っている、術師が他人の結界に触れるのは気持ちのいいことじゃないっていうから。それ何」
「見てわかるだろ」
「うん。癒しの呪法でしょ、だけどちょっと違うのね。あたしにもできるかな。傷がたえないのよねえ」
独り言のようにいって、関節を鳴らす。
「さてと。復活」
彼女は背を伸ばした。
「じゃ、結界に案内する。頃合だろうから」
「お前」
メフィストが不思議そうにリディアを見ていた。
「変なやつだな」
リディアはきょとんとする。
「さっきあんなに怒っていた奴にむかって、どうしてそうあけすけになれるんだ。それにくわせ者だ、魔法について知っている」
「魔道じゃなくて魔法? それは光栄だわ」