第1章-----(2)
「ふざけるなよ」
威勢よく言ってから、リディアはあたりを睨めつけた。怒鳴りつけているので彼女の声はつぶれている。こういう声は喧嘩をする時によい。気魄を充分にこめられるので気持ちが優位に立てる。
「番犬どもめ、ルーダンの犬、腐ったジェルドの手先ども! ほうら、見ろ。ラタシアのリディアはここにいるよ。どこからでもかかってこい」
野次馬たちが喝采する。彼らは庶民の本能として貴族を畏れていたが、その相手をたったひとりで翻弄するこの命知らずな娘を意気に感じていたのである。
毛皮のマントがひらりと揺れる。リディアはきりりと顔をひきしめて、いさましく細剣をかかげた。
「今夜はすごい、濡れたような月夜じゃないか、リディア姉さんの舞台にぴったりだ。踊り子リディアのとっておきの舞いは見たくないのかい、見ないとしたらそいつは馬鹿だ――だけど見物料は高くつくよ。お前たちの血と命であがなってもらうのさ!」
彼女は彼女を取り囲む黒衣の兵たちとはげしく切り結ぶ。けれどもリディアはこれが見かけ倒しであることを知っていた。黒衣兵たちは彼女を追いつめるが致命傷は与えない。いたぶっているのだ。
(チ……ッ)
これまでリディアが何とか逃げおおせているのは、生捕りにせよというルーダンの命令もあるのだろうが、黒衣兵たち自身が故意に手を抜いているからでもあった。数の上でも、力量の上でも、彼らは絶対的優位を確信していて、だから弄ぶ余裕がある。せっかく与えられた生きのよい得物をあっさりしとめてしまったらつまらないといったところなのだろう。
それをさも互角に見せているのは幻術のせいだった。踊り子であるリディアは香草に詳しい。催眠効果のある香草を彼女の体にすりこんで踊ることによって、見物客は白昼夢にいざなわれる。それがこの闘いにも生かされていた。
「思い上がるな、小娘」
黒衣のひとりが吠えた。燃えるような赤髪の、目つきの鋭い男前である。
名は何と言ったか。なにぶん敵方のことだし、ルーダンの勘気をこうむる以前にはそんな下級兵士の存在など毛ほども気にかけなかったから、正式な名前などリディアが知るはずもない。しかし仲間に、マルクだとかマーウィックなどといった響きで呼ばれていたのは覚えている。
(ちょっと好みなのよね、兄さんほど男前じゃないけれど……)
リディアは赤髪の男に熱い眼差しを送っておいて、身をひるがえして駆けだした。相手が遊び半分でもこちらは真剣だ。引き際は心得ている。彼女は、彼女の前方に立ちふさがった黒衣兵めがけてふりかぶった。黒衣兵が踏み込む。と、リディアは待ちかまえていたように、ひらりと避ける。驚愕する相手の顔に、唾を吐き捨ててやるのも忘れない。
「いいぞォ」
野次馬たちは喜んだ。彼らはこれを、何かのショーと勘違いしているふしがある。人々にすれば、はじめ山の上の貴族ジェルディスタ伯爵ルーダンと連れだってトロルへやって来たリディアは、いわゆる、あちら側の人間だった。それがどうした理由か逃げ出した。ルーダンは兵をくりだしてリディアを捕らえようとし、リディアは大方の予想を覆して逃げ続けている。もとがルーダンに雇われた踊り子であるというだけに、こうした追いかけっこが傍目からはうちわの喧嘩に見えてしまうのは仕方がないことで、ゆえに、見物人たちはいたって暢気である。
暢気にかまえていられないのはリディアだった。勿論、彼女は長々とトロルにとどまるつもりなど毛頭なかった。売り言葉に買い言葉でルーダンの別荘を飛びだした時、彼女は実は逃亡用の馬も、山道を歩くための案内人も手配済みだったのだ。
けれども馬は目を離した隙に逃げ、来るはずだった案内人は現れなかった。そうこうするうにち翻意をもとめるルーダンの使者があらわれたが、リディアが頑としてはねつけると、次は殺し屋がやってきた。ルーダンが身辺警護のために都から連れてきた黒衣兵である。
(やることが極端なのよ、あいつは! あのデブは、あの子豚はッ)
できることならルーダンを憎みたくない。ルーダンは苦心して探しあてた兄のパトロンだった。ルーダンは、大抵の人々が冷笑する魔石について真剣に考えていて、なおかつ、リディアの兄にかけられた呪いについて知ると心から悔やみをのべた。それで客観的評価が甘くなった。彼女は兄への情に引きずられ、誘われるままに屋敷へ出入りし、ついにはその研究につきあうようにまでなってしまった。それがいけなかったのだと今ならわかる。
ルーダンは彼女に執着している。
理由はわからなかったが、ある時から、ルーダンの彼女を見る目にねっとりした光がおびはじめた。リディアは、彼女がこうまで執拗に追われるのは、別れ話のどさくさにルーダンの宝石をいっさいがっさい持ち出したからだと思いたい。が、ルーダンは他ならぬ彼女自身に最大の興味を見出しているようにも見える。
溜息がもれた。
トロルの人々にはショーだとしても、当事者にとっては問題は深刻だった。逃げたくても逃げられない。ルーダンは魔道の結界を張り、その結界でもってリディアをトロル周辺に封じ込めているのだ。その上で黒衣兵を放ってくる。今はまだ外を逃げ回れるからいいが、季節が変わればそれはすぐに死と直結する。
助けが欲しい、と思う。
旅をすれば様々なことがある。兄の呪いを解くために衝動のようにラタシアを飛び出してきてから三年、彼女はたくましく成長していた。兄をかき抱いて泣いた子供はもういない。
けれども今、自分自身ではどうしようもできない力に絡めとられようとしていた。トロルから離れることができない。逃げる足が、町をはずれたある一線からどうしようもなく萎えてしまうことを彼女は知っていた。幻術をつかうといっても彼女はそれは踊り子稼業のための付け焼き刃で本来の魔道ではない。だから技術をつんだルーダンの結界には太刀打ちできないのだ。
リディアは広場を駆けゆこうとして、ふと、目をとめた。
(あの人――)
野次馬のなかにひとりの若者がいた。呆れるほど綺麗な顔をした若者で、こうした際でなければしげしげ拝んでいたいほどだ。しかし彼女が注目したのは若者のよくできた顔ではなく、腰にまかれた術師のベルトと首からさげられた護符の数々だった。
血が逆流した。
この半月あまり待ち続けていたものが、そこにいるのだ。
「そこの魔道師ッ」
叫んでいた。若者はわずかに秀麗なおもてをくもらせただけだった。確かに目があったはずなのに、肯とも否とも合図せず、寒そうに背中をまるめ人影にまぎれてゆこうとする。リディアは激しく頭脳を回転させた。あの若者の興味を一番こちらへ向かせる言葉はなんだろう。
「こら、無視するな。貧乏人、銀流し、この女男、男娼みたいな顔してるオマエだよ、聞こえないのかおかま野郎!」
お世辞にもきれいな言葉ではなかったが、効果はあった。相手はぎろりと振り向いた。リディアは瞬時にとろけるような笑顔をつくり、手を振った。
とはいえそこは修羅場の真っ最中だった。
リディアが若者に駆け寄ろうとしたまさにその時を狙ったように、黒衣兵は反撃を開始した。若者――メフィストは、またぷいと去ってゆく。
「あ、待ちやがれ!」
リディアは追いかけようとしたが、さすがに思いとどまって、切り込んできた黒衣兵と剣をまじえる。細剣は無理な圧力にしなり、今にも折れそうになる。リディアは隙をついて、追手のうすい暗い道へ突進する。まずは目先の安全を確保することが先決だった。
頬をぷっと膨らませてしばらく待ち、次に口を大きくあけて、ほうっと吐き出す。するとさして寒くなくとも、息が白くけむる。リディアはその白い息を吐くと、ここが北の果てなのだと実感する。
生まれたラタシアは南国だった。一年中、穏やかな陽がふり注ぐ、楽園のような村だった。人々は夜明けとともに起き出して、川辺に魚を拾いにいったり、篭を編んだり、水没したところに舟を浮かべて木の果をとったりして働くが、昼過ぎにはそのどれもが終わってしまう。長い午後は木陰にはいって空を眺めるか、のんびり昼寝をする。男も女も生涯ラタシアから出ない。
リディアの兄はそうした暮らしが物足りなかったのだろう。彼は外の世界へ飛びだした。村の長老が祭りで語った物語が真実であるかどうか、村の若者と言い争いになったのがきっかけだった。
「絶対、証明してやる」
勢い込んで兄は言った。リディアは、はじめこそ兄が村の外へ出ることに仰天し、やさしい兄が二度と帰ってこないのではないかという恐れを抱いたが、次第に、兄が冒険から帰ってくるたびに大人の男になってゆく様を見ているうちに、なんだかひどくうらやましくなっていった。
「外には何でもあるのさ」
兄はよく言った。リディアは、兄が語る刺激に満ちた外の世界について思いをめぐらした。兄は何でもよく知っていて、まるで翼をもった人のように自由で、ラタシアの狭い世界しか知らぬ自分とは違っていて、もうとても同じ親から生まれた兄妹であるようには思えなかった。そう言ったら、兄は笑って、
「この青の島には本当に翼が生えた一族というのもあるんだよ」
と教えてくれた。
「獣人、というんだ。でも獣じゃない。モンスターでもない、彼らはとても賢くて言葉だって喋れるんだ、でも最近は人里にはあまり出てこないみたいだけどね」
「へえ」
「知っているか、世界は広い。すごいところなんだ、やろうと思ったら何でもできる。いいか、魔法だってあるんだぞ。魔法の石の話は聞いたことあるだろう」
「うん」
「そうだ、七魔石って知っているか、青翠の石、黄金の石、緑石、橙色の石、銀の石、月の石、緋の石。それから――真紅の石だ。こいつらは本当にあるのさ、物語じゃない。どんなことだって叶う、本当に空だって飛べるんだぞ。俺の夢はな、リディア、世界中から魔石を集めることなんだよ、冒険者の永遠の夢だ」
兄はやさしかった。けれども母と兄の言い争いを聞いたことがある。母は父が亡くなった後、女手ひとつでふたりの子供を育てあげた。その矜持があったのだろう、母は兄が冒険家などという不確かな職業についてしまったことに腹を立てていた。やがて兄はあまり村へ帰らなくなった。
そして、
(兄さん――)
リディアは屋根の上で寝そべっていた。腕まくらをし、見るともなしにあたりに目を向けている。斜面を無理矢理に切り崩したトロルの地形はいつ見ても変わっていた。誰が、どんな目的でこのような形の町にしたのかは不明だったが、かなりの労力と時間が費やされたのは間違えない。町は勾配をほぼ直角に切り開かれているのだが、町の中心をはしった十字型の舗装路を境にしてさらに上下左右にずれているのである。段差は膝丈くらいから大人の身長ほどもあり、だから、そのプレートでは二階建ての家であっても、十字路を挟んだ向こう側のプレートから見れば地面に埋没しているふうであることも珍しくない。そして町から海岸の間には急激で人工的な段差がある。
リディアはぼんやりトロルを見渡した。家々の煙突からはうっすら煙がたちのぼり、道端でころげまわる子供たちの声がする。奇妙な構造を別とすれば、当たり前の町の風情だった。そして日当たりのよい屋根はひとりでいたい時、考え事をしたい時、また襲撃のないとわかっている午前のひとときの休息にはもってこいの場所だった。
彼女はラタシアの家で眠り続ける兄の寝顔を思った。兄をよみがえらせたいと思う。兄は眠っているだけなのだ。死んではいない。
旅の目的は明快だった。この世のどこかにあるという魔石――〈真紅の石〉を探しあて兄を目覚めさせること、それだけだ。リディアは顔をあげた。立ち上がり、脚を肩幅に開き、胸をはって、ぱんと頬を叩く。決断をせまられた時の彼女の儀式だ。
「よし、出発」
腹に力をこめる。
母は四年前に頓死した。兄の帰りを待ちわびて、村はずれの祠にその祈願へゆく途中、雨上がりの岩場から転落したのだ。父は、彼女が本当に幼い頃に亡くなったので顔もおぼえていない。村には従姉妹も親戚もいたが、風来坊の兄を認めぬ彼らとは喧嘩ばかりしていた。だから家族と呼べるのは兄しかいない。
強い光を宿したリディアの両眼は眼下の宿屋、〈山兎亭〉のはずれかかった看板に向けられていた。彼女は昨夜の若い魔道師を覚えていた。総合ギルドの事務長の好意に甘え、ギルドへの依頼札も引き続いて出しておいたが、自分で直接ルーダンの結界を解いてもらうよう魔道師と交渉するのにこしたことはない。リディアは、昨夜、黒衣兵と切りむすびながら、しっかりと若者がその宿屋へ戻るのを見届けていたのだ。
果たして、〈山兎亭〉にメフィストはいた。