第1章-----(1)
最北の町トロル。
そこは一年の大半を雪と氷河と暗雲にとざされた、ひっそりとした港町である。今は幸い、どうにか肌をさらして歩ける程度の季節であったが、いったん日が暮れきってしまうと、太股から這いあがってくるような寒気がある。
トロルでは夏であろうと毛皮を手放せない。万年雪を冠した山脈が間近にあって、その上を通った風が冷風となってやってくるし、またその風が雪をはこんでくることも屡々なのだ。その山脈では、緑がのぞくわずかな期間に種を残そうとする草花が一斉に花を咲かせるので、夏のひとときはちょっとした眺めであった。山間や山麓からのぞむ花畑の素晴らしさは行商人などをかいして伝わり、ついには物好きな貴族が遠方からはるばるやってくる程になった。
もっとも避暑地としてのトロルは発展途上で、そういう上流階級の見物者はまだまだ少なく、彼らの浪費によって麓の町が経済的恩恵を蒙るほどではなかった。しかも今年は比較的、平地の夏が過ごしやすかったせいか、別荘を持つほどの貴族はひとりしか来ていない。だから町の人々もそんな貴族のことなど放っておく。そこに目をつけた若者がいた。
名をメフィストという。
性別、男。生業は術師。そして術師のうちでも最高位の魔法使い。
しかし担当老師の陰謀であるとしか思われない実習旅行のため、彼は術師教育の場としては名門中の名門〈月の島〉を後にした当時とは変わり果てたよそおいに甘んじている。襤褸と化した衣服、それが皮だということを忘れてしまいたくなるようなブーツ、鳥の巣のような頭髪、匂う体、積み重なる過酷な現実に目つきも多少、悪くなっていたかもしれない。
彼は、貴族というものが通常、魔法使いという存在に非常な敬意をはらっていることを知っていたから、早速、くだんの別荘を訪ねていった。景勝地というだけで別荘を建ててしまったものの、娯楽らしい娯楽もないトロルで退屈しきっているだろう貴族の心中は想像がつく。そういう貴族はいつでも彼のような存在を歓迎してくれたものだった。ところが応対に出た庭師は冷ややかで、強引に屋敷内に入ろうとしたら叩きだされた。
「田舎貴族め」
彼は息をのむほど美しいその顔にこれ以上ないというほどに険悪な表情を浮かべ、吐き捨てるように言った。
(あの爺じい、覚えてろ、坊主と魔法使いには親切にしておいて損がないという諺を知らないのか、だから無教養な下賎の民は……)
メフィストはぶつぶつ文句を言いながらも、大人しくもと来た山道を帰る。
けれども考えてみれば、乞食同然のいでたちで魔法使いと名乗るほうが厚かましいというものだ。この時代、大衆の知っている常識的な魔法使いというのは、立派な衣を身に纏った、神殿の奥深くにくらす、大勢の術師らに崇めたてられる権威の権化のごとき存在なのである。しかもメフィストの目的ははじめから無心であった。
「おい――」
トロルの町へ戻り、この後のたつきの手立てを思案していると、すれ違った男がぎょっとした顔でのぞき込んできた。
何か、と答えると、男は急におどおどして去っていった。彼は肩をすくめ思案に戻る。
そのたたずまいは一枚の絵姿にも似ていた。
そうなのだった。メフィストというのは性格はともあれ、きわめて際だった様子をしていたのだった。姿形が隅々にいたるまで美しく整っていることは言うまでもなかったが、彼が発する雰囲気というのがまた尋常ではない。
透明な、吸い込まれそうな涼風があった。彼のまわりだけ空気の種類が明らかに異なり、それが否応なしに周囲から彼を浮きあがらせていた。人々はその範疇にいるだけで良くも悪くも影響を受ける。ある者はわけもなく苛立ち、惹きつけられ、衝撃を受け、涙ぐみ、恋情におぼれる。憎しみや怒りにかられる者もいる。
とうに日は暮れている。
メフィストは焼けた雲の残光を仰ぎ、吐息をついた。その今にも消えゆきそうな、それこそ霞を食べて息をしているかのような風情はまことに人間ばなれしていて、往来の人々の目を否応なしに奪う。だが当の本人が考えていたことは、腹がへったが金がない、という単純きわまりない、しかし本人にとっては切実な重みのある現実についてだった。
風は冷たかった。夜にかけてどんどん寒くなる。空腹が飢餓にかわるまでさほどの時間は必要ない。メフィストは歩きはじめた。
はずれかかった看板に〈山兎亭〉とある。見るからにさびれた、町に二軒しかない宿屋兼居酒屋といった店なのだが、こちらのほうがより貧乏くさそうなので気に入った。繁盛してないなら客を選ばないだろう。
けれども店に入り、帳場に肘をついていた、禿頭の親父と目があった瞬間、後悔した。
腫れた瞼にめりこんだような目をした、強面の、お世辞にも愛想のある顔とは言いがたい親父である。体躯のほうも立派で、首から肩にかけての筋肉のもりあがりと、太い二の腕にはしった傷跡を見ただけで素性の危なさがわかるというものだった。宿の親父は旅人を一瞥した。
「なんだ」
凶悪そうな外見に似合った、野太い声だった。
「ああ? えらく場違いなヤツだな――魔道師か……」
限りなく原形をとどめていないにせよ、一目でそれとわかるいでたちの彼にそのように呼びかけたのは、放浪の術師には不釣り合いな若さと美貌ゆえだった。
メフィストはつとめて平静を装って、
「水」
と言い、親父の問いは無視する。親父は鋭い眼光をくれたが、すぐに奥から欠けた茶碗を持ってきた。濁った水がたぷんとはねた。
「泊まりかい」
「もちろん」
メフィストは頷く。
「一泊、二百ランツ。食事が抜きなら百五十――うちは前金しか受付けねぇよ」
親父はメフィストのいでたちを見据えて言う。金がないのを見越しているのだ。
「ああ、わかっている。それで相談なんだけどね、ご亭主。店の隅を商売に借りてもいいかな」
「占いでもしようってのか。いいともよ、ただし場所代に五十を上乗せするぜ」
親父は牙のような歯を剥きだして、にやりとする。その迫力に内心たじたじとなりながらも、メフィストは値段の交渉をはじめる。しかしまもなく交渉は決裂した。親父ははじめからメフィストを泊めるつもりも、店の中で商売をさせるつもりもなかったのである。
親父は唾を吐いた。
「お前が魔法使いだと? 戯言ってのはな、もう少しましなことを言うもんだ。本物だとしたって押しつけはいらんよ。祈祷もまじないもいらん、うちは人手は足りてる、といっても婆ァと俺のふたりだけだがね。さあ、帰った、帰った。この季節ならまだ野宿しても死にはしねえよ」
メフィストの腕をつかみ、外に放り出そうとした時だった。
「ちょっと、ダン!」
厨房から老婆が現れた。大柄の、驚くほど健康そうな老婆で、動作も機敏で、声にも張りがある。彼女は、調理をしていたところなのだろうか、ぐつぐつと煮えたぎる鍋をもっていた。
「手が放せないから奥で大人しく聞いてれば、さっきから、あんたって子はぐちゃぐちゃと! 旅人さんが困ってるんだ、助けてやろうって気にならないのかい」
それからはじめてメフィストに目をやり、あんぐり口をあける。
「なんだい、女の子だったのかい。怖かっただろうねえ、こんないかついろくでなしに相手をさせちまって。ああ、いい子だね、怯えなくていいよ。この婆が来たからにはこんな寒空にあんたみたいな子を外におっぽりだすなんて非道な真似はさせないよ。なに、困った時はお互い様さ」
「おかあちゃんっ」
禿頭の親父は情けない声をあげた。
「やめてくれ、商売のことに口を出すのは。そいつは金を持っていないんだぞ。おまけにそいつは野郎だ」
老婆はじろりと息子を見、鍋を上下に揺さぶった。熱いシチューが親父めがけて飛び散る。
「危ないじゃないか」
老婆の目がちかっと光る。
「うるさい、この子は術師さまなんだろ、ダン! いいじゃないか、こんな辺境に住んでいりゃ、ありがたい賢者さまになんて滅多にお目にかかれないんだから。さあさあ、おいで、お嬢ちゃん――いや、坊やだったか、それにしてもひどい格好だね。古着をあげるよ。なに、お代は気にしないでいい。馬鹿息子はあんなふうに言ってるがね、どうせこっちは貧乏宿屋だ、これ以上貧乏になったってちっともかまわねえ」
「くそ婆ァ、この店潰す気か」
親父はがなったが、老婆はびくともしない。
言い争いは老婆の勝利で終わった。老婆は嬉々として厨房に戻り、苦りきった顔のダンはメフィストを部屋に通した。すぐにノックがあって老婆がお湯のはいったたらいと、ダンの子供時代の古着をもってきてくれた。そうして身なりをととのえたメフィストが戻ってくると、店内はちょっとしたざわめきにつつまれた。
店内に客はまばらだったが、まず女客の顔つきが変わる。続いてそれをかぎとった男客が嫉妬を向けてくる。そういう好悪のいりまじった視線のなかで、メフィストは悠々と商売道具を広げはじめた。
聖別した小瓶、水、若木の枝、白い粉、黒い粉、魔道文字が刻まれた石、把手のついた鍋……。そのいかにも術師の持ち物らしい、一見したところ何のための道具であるか判別がつかない小物類を並べおわる頃には、噂を聞きつけた近所の主婦らが押しかけていた。
しかしトロルは貧しい町だった。山の上の別荘群の貴族を除けば旅行者などほとんどおらず、裕福な者も滅多におらず、地元の女たちの財布は堅い。実際、メフィストにもちかけられたのは五ランツの辻占ばかりだった。彼女たちは、若木の枝の束から好みの一本をひきぬき、その先に刻まれた魔道文字によってその日の運勢を占うといった、いちばん廉価で単純な占いにしか興味を示さなかったのである。それもそのはずで彼女たちは占いそのものよりも、魔法使いの興味をひき、その美貌をじっと見つめることに目的を置いていたのだ。
メフィストは途方にくれた。五ランツ占いでは、どれだけ数をとってもたかが知れている。十人、客をとってようやく食事代といったところだ。
「くたびれ儲けだろう」
夕食時の混雑がひと段落し、メフィストが夕食を終えた頃、宿の親父がのっそり現れた。
「ほらよ」
酒壷を出す。
「サービスだ、うちの婆ァから」
メフィストは有り難く頂戴する。
「ちょっと相談したいことがあるんだけどいいかな。実はサリアスまで行きたいんだけどね、次の船はいつ出るかな」
親父は口もとをひん曲げ、黙って隣りのテーブルから椅子をもってきた。メフィストが同じ質問を繰り返すと、
「あのな……」
呆れ顔になった。
「おめえ、まさか、本気でこのトロルから船で行こうってんじゃねえだろうな」
「そのつもりだが」
「なんだって、おまえ――……」
ダンは言おうか言うまいか迷っていたようだが、やがて低い声で呟いた。
「船は無理だ。命が惜しかったらやめときな」
「どうして。僕は今朝トロルに着いたばかりで事情はいっさい知らないんだ。この地方で船が出るのはここしかないとわざわざ聞いてきたんだ」
「じゃ、帰りも山脈を迂回すればいい」
親父は太い指を三本つきだした。
「いっか、よおく聞け。無知なあんたに教えておいてやる。海が駄目な理由は三つある。ひとつ、今年は風が悪い。ふたつ、海流がおかしくなってウルゾンが大量にまわってきている。ウルゾンはご承知のとおりでっかい肉食の魚だよ。釣り人にとっては神様みたいな魚だが、肉はとんでもなく拙いし、狂暴だしで、この夏もさっそく釣り人が舟ごとひっくり返されて、こいつに足を喰われた。みっつ――――なんと今年のトロルの海には船幽霊が出るのさ。たまげたか。本当だぜ、こいつは」
トロル近海で、奇妙な出来事が認識されるようになったのは今年になってからである。その頃、トロルは春を迎えたばかりで、厚い氷が音を立てながら海へ沈んでゆくということを繰り返している季節だった。人々は雪に押しつぶされそうな家々からようやく這い出てきて、氷をくりぬいて小魚を釣ったり、海岸にあらわれた海豹をしとめたりしていた。だがある日、ひとりの若者が漁に出たきり消えてしまった。次に海岸を歩いていた漁師たちが氷塊のうかぶ海にひきずりこまれるという事件が起こった。やがて海上に不審な影を目撃するようになった。
「影?」
メフィストが剣呑な顔つきで言うと、ダンは目をぎらつかせた。
「おうよ、信じてねぇだろ。しかしな忠告しておいてやる。海がうねる夜が危ない。船が漂着したのさ、その船はひどい有様でかろうじて浮かんでいるといった具体だったが、そこには人がひとりもいなかった。死体もなかった。きれいさっぱり消えていた」
「そのウルゾンという魚にやられたんじゃないのか」
「まさか。そこまでできるかよ、ウルゾンは不吉のしるしだがつまりただの魚さ。皆はその影――船幽霊にやられたんだと噂している。今、船を出そうなんてバカはいねえよ。あんたはこの噂を聞いてこなかったのかい」
メフィストは首を横に振る。ダンはふと視線をずらし、酒臭い息を吐いた。
「それでも最近は、まあ、船幽霊の旦那を見たっていう噂は途絶えていたし、もしかしたら奇特な奴も出てくるかもしれねえな。そうじゃなければ、海賊船か、何も知らないどっかの船がのこのこやってくるのを待つしかない」
それはあまり見込みがない話に聞こえた。メフィストの知る限りにおいても、トロルに寄港する外洋船というのは少ないはずだった。海賊船は論外だ。
「船乗りは迷信深いんだ。悪く思わないでくれよ。ここの海は豊かだから岬から釣り糸をたらすだけで食糧くらいは確保できるから助かってるがね。ところでな、これからが本題なんだが、こっちからも話があるんだ」
今夜の宿代のことだとメフィストは直感する。案の定、親父は奇妙な形につぶれた鼻をすすりあげて言った。
「これは提案なんだがね、そっちのそういう事情を聞いたからには話しやすいや。あんた、金が必要だろ。うちの払いもそうだろうが、この先無一文じゃ旅なんて続けられねえぞ。このあたりは皆、食うや食わずで手一杯だからな、旅人をもてなそうなんて気持ちはからっきしだ。乗り込む船があったとしたって、こんな年だからな、さぞかしふんだくられるだろうよ、だからな」
一枚の紙片を置く。メフィストはそれに目を通す。
「契約書だよ。総合ギルド、知ってるだろ」
総合ギルドとは、町々に設置されるいわゆる何でも屋だ。自警団と有志の市民から構成され、家庭のもめ事から人生相談、モンスターの退治からペットの世話、冠婚葬祭の世話役など、人々が暮らしてゆくうえでのあらゆる依頼に応じる。依頼の資格はない。礼金の制限もない。人々はできる範囲で金を払えばよいのだ。ただ、それが妥当な依頼と認められなければ依頼札を提出した段階で跳ね返される場合もある。正義の判断はすべて各事務長の良識にかかっており、それゆえ、事務長の方針によっては総合ギルドは盗賊まがいの集団にもなるし、反対に住民の力強い味方ともなり得るのである。
ダンは腕を組み直し、さりげなく続けた。
「ギルドは慢性的に人手不足だ。ことさら術師ってやつにはな。うちはこんな商売だろ、だから術師と名のつく客が泊まったら、かたっぱしから声をかけてほしいと頼まれているのさ。なあ、アンタ、メフィストさん。この紙に名前を書いて、臨時請負人になってくれねえかね。心配しなくたってここのギルドはそんなに悪くねぇよ。あんたにとっても悪い話じゃないだろ、まがりなりにも魔法使いと名乗るからには、たかが宿代を稼ぐために、広場で手品を披露したりして大道芸人の真似事するほど落ちぶれたくないはずだ。それよりギルドに登録して、向こうからくる仕事を片づけていったほうがスマートさ。辺境に術師は少ない。ギルドに登録すれば依頼はある、必ずな」
「あんた、ギルドの職員なのか」
メフィストが慎重に聞くと、ダンはとんでもない、と両手を広げた。
「ただね、うちの婆ァがねアンリに、おっと、こいつがギルド事務長の名前なんだが、こいつにちっとばかり借りがあるのさ。賭博で敗けがこんでてね、婆ァも必死さ。だから婆ァはこの話に特典をつけた。あんたが婆ァの顔をたててくれりゃ、その間のトロルの滞在費、つまりうちの宿代だがね、半額でいいってほざいてる。しかも今、サインしてくれたら今夜の宿代は後払いでいいだと、ケッ、追いつめられてるだろ。こんな商売にもならねえ商売させやがって、親じゃなかったらブチ殺してるところだ。で、どうするよ。俺はどっちでもいいんだ。おっと、それから約束どおり、古着の金はいらねえとよ」
「それはどうも」
老婆の親切はそういう理由だったのだ。メフィストが思案していると、老婆が酒の追加をもってきた。そのつもりで観察すると、彼女なりに必死なのがその表情からも声からもわかる。メフィストはダンに言った。
「ギルドはその土地の治安の要だ。だから普通はその請負人になるにも試験があるはずだ。それに住民の推薦も必要だったよな。いいのか、こんな行きずりの誰ともわからないような若造を、そんなに簡単に推薦したりして」
「アンリは細かいことは気にしねえよ。それに臨時だ、枠は甘くなっている」
それでつい納得してしまった。どちらにせよサリアスへ海路で南下するならばトロルにはしばらく滞在しなければならない。メフィストは紙片をとりあげると、名前と出身地、それから所属術師ギルドとその階位を書きつけた。
と、唐突に往来が騒がしくなった。何かが割れる音と、金属がぶつかりあう鈍い音。悲鳴。胴間声。はやしたてる声、混乱した幾人もの声、それを怒鳴りつける女の――女性として格別に低い、独特の声が聞こえてきた。
店の客がいっせいに色めきたつ。
「あいつだなッ」
「よし、賭けるか」
メフィストは上体をまわして後ろの席の男に訊ねた。
「何が起きたんだ」
「踊り子が山の上の貴族のひとりを怒らせたのさ。体面をつぶされた貴族は怒り、娘は逃げまわっている。毎日毎日、一日中、町のどっかしらで追いかけっこをしていてな、ちょっとした名物さ」
「悪りィなぁ……」
ダンがこれみよがしの溜息をつく。契約書は既にテーブルの上にない。濡れたインクをかわかしながら、老婆がものすごい勢いで奪い取っていったのだった。
「俺はあんたが術師と知って、一応、はじめに逃がそうとしてやったんだよ。だがあんたが店先で粘るもんだから、婆ァに見つかっちまった。あの鬼婆は自分が助かるためなら、坊やだろうが爺さまだろうがおかまいなしなのさ。俺はよ、やさしいからな。みすみす犠牲にするとわかってて、まだ若い奴をこんなことに引き込むのは良心が咎めたってわけよ」
メフィストは耳ざとく聞きつけた。
「ちょっと待て。犠牲って――」
「いやな、そりゃ、あんたが殺られちまうとは決まってないさ、まだな。しかし仕事の内容が内容だからなァ。あんまり気の毒だから教えてやる。本当は依頼札みせる前に教えるのは違反なんだがね。あんたの仕事の依頼主はアレだよ、今、表で騒いでる踊り子なのよ」
「娘を逃がせ、と?」
「言ってみればそうだな、そうとも言える。簡単な仕事だと思うかい、まあ内容は単純さ。しかしギルドってとこの、報酬が多い仕事、つまり危険の度合いの多い仕事を最優先で片づけるっていう鉄則も知ってるよな。これまで五人の男があの娘の依頼を受けたんだが、娘は相変わらず貴族の手下どもとチャンバラ三昧だ。意味がわかるか」
過去の請負人たちは始末されたということなのか。メフィストは相貌をひくつかせた。
「冗談だろ」
「ああ、冗談だ。忘れちまいな。まあ、飲めや。しかし言っとくが、うちはしっかりアンリに頼まれちまっているんだ。契約書も見せたよな。逃げるなよ、小僧」
ダンは低く笑う。メフィストは生唾をのみ、
「酒の追加だ。もちろんサービスなんだろう」
と言った。