√(ルート)
流夏は毎日、数字と向き合っていた。企画書の予算計算、売上のグラフ、締め切りのスケジュール。学生時代、数学が得意だったのが今の仕事に活きているかと問われれば、正直よくわからない。ただ、あの頃、数学がきっかけで生まれた関係があったことすら、今の彼女はほとんど思い出していなかった。
「結婚はまだなの?」
母親からの電話に、いつものように適当に相槌を打って切る。仕事に追われる日々の中で、恋愛なんてとうに置き去りにしていた。
そんなある日、流夏は偶然、昔好きだった人と再会する。
「……もしかして、流夏?」
駅前のカフェで、席を探していた流夏は、不意にその声に振り向いた。
そこにいたのは、高校時代に密かに想いを寄せていた翔だった。相変わらずの快活な笑顔。けれど、スーツ姿はあの頃よりもずっと大人びていた。
「久しぶり!」
言葉を交わすうちに、次第に高校時代の記憶が蘇る。
数学が苦手だった翔は、よく流夏に勉強を教えてもらいに来ていた。公式が覚えられないと頭を抱える翔に、流夏は根気よく説明をした。その時間が、心地よくてたまらなかった。
「数学ってさ、なんでこんなにややこしいんだろうな。特にこのルートとかいうやつ。こんなのいつ使うんだよ。」
「そんなに嫌わなくても、ルートは意外と簡単に解けるよ」
そんな何気ない会話の中で、流夏は次第に翔に惹かれていった。
そんな日々を過ごしていたが結局、気持ちを伝えることはないまま卒業を迎えた。あれから何年も経ち、すっかり忘れていたはずなのに。目の前の彼と話していると、あの頃の気持ちが胸の奥からじんわりと蘇ってくる。
「懐かしいな。あの時、流夏に教えてもらったおかげで、なんとか赤点は回避できたんだよな」
翔は笑いながら、ふとこう続けた。
「でもさ、今思えば、俺はただ数学を教えてもらいたかったわけじゃなかったのかもな」
流夏の心が、わずかに揺れた。
そのとき、翔の隣から女性がそっと歩み寄ってきた。指には婚約指輪が光っている。
「あ、ごめん。紹介するよ。婚約者の真奈美」
流夏は一瞬、言葉を失った。隣に立つ女性は穏やかな笑顔を浮かべ、翔の腕を優しく取る。彼女はなんとか微笑みを作りながら、礼儀正しく挨拶を交わした。
「近々、結婚式なんだ。色々準備が大変でさ」
翔が照れくさそうに話すのを聞きながら、流夏の胸の奥に、切なさがじわりと広がっていく。
──もし、あの時、私が勇気を出して告白していたら。
翔の隣に立つのは、私だったのかもしれない。
窓の外を見ると、街のネオンがぼんやりとにじんで見える。あの頃の思いが、再び形を持ち始めるようだった。
翔と別れ、帰りの電車に揺られながら、流夏はスマホを開いた。検索窓に、何気なく「√」と打ち込む。
「ルート──道筋」
心の中で、そっと呟く。
高校時代、翔のもとへ向かった道。今、再び交差した道。そして、もう二度と交わることのない道。
彼女は小さく息を吐き、涙ぐみながらも微笑んだ。
──√(ルート)。