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蛍侍

作者: 生石


 拙者、侍零と申すもの。


 名護屋の殿にお仕えする侍で、曲がったことが大嫌い。この一本気な性格が災いして(拙者にとっては決して災いではござらん。拙者にしてみれば災いでもなんでもござらんのであるが)勤続30年になろうという今でも平侍。老中どころか、若年寄にもなれずじまい。役職なんてものにとんと縁がない。せいぜいがところ、役と名のつくものといったら、藩の給食当番役が関の山。


 藩の口の悪い連中は、拙者の名前、侍零をひっくり返して、もじって、混ぜっ返して、役職経験零の零侍。いつまで経っても平侍の零侍なんどと陰口を叩きまわっておって……


 しかし、当然のことながら、そんなものはどこ吹く風。そんな陰口、悪口などどこ吹く風で、武士は食わねど高楊枝の拙者。


 拙者、そんな城内出世競争なぞ(品のない言い方にはなるでござるが)へーとも思ってござらん。そんなものは、へーでござって、(ん?あ、へーとは思っておるのでござるな、我ながら)真っ直ぐが大好きで、曲がったことが大嫌いな拙者、なにかを曲げて出世しようなぞとかけらも微塵も考えたことはござらん。なにかを曲げて、ねじって、ひん曲げて、それで若年寄になろう、老中になろうなんて考えの輩、こっちからぺっぺのお断りなのでござって、そんな輩は、拙者の川縁の自宅の敷居をまたがせはしないのでござった。


 曲げて、ねじって、ひん曲げて……なにを曲げるかといえば、きゃつら、武士にとって命より大事な武士道。これを曲げるのでござって、要するにそんな輩は、武士の風上にも置けぬ侍ならぬエセ侍。そんな輩に近づかれては、こちらの鼻がねじ曲がってしまう。そんな奴ばらなのでござった……(おーいやだ)


 もちろん、かよーに口を極めて罵る拙者の頭の中には、あるひとりの要人が具体的に一名思い浮かんでいるのでござるが、その具体的な名前については、今のところ、言わぬが花でござろう。


 拙者の頭の中には、思い出すだけでハラワタが煮えくり返るような大奸物の名が思い浮かんでいるのでござるが、(拙者の頭の中で燦然と輝いているといってもよろしい。もちろん悪い意味、それも最悪の意味ででござるが)それについては、やはり言わぬが花……でござろう。


 自己紹介ついでに語りだしたら拙者、かよーに悪口・非難が止まらぬ大奸物をぜひ具体的に名前を出して紹介したいところでござるが、それもまた今ここでは言わぬが花……なのでござろう。

 

 (後ろ髪ひかれる思いで、大奸物の名前は出さぬままに、話を前に進める拙者)


**************************************



 気ままな一人暮らし。

 

 小さな小川の川縁の掘っ立て小屋に、気ままな一人暮らしの拙者。夏の夜ともなると、少々浮かれてきて、夜の散歩でも楽しもうという気分になってまいる。(特にこの蒸し暑い名護屋の夏の夜はそうでござる。扇子も氷も扇風機もない室内より、風がある外のほうがまだましというのもあるのでござるが……)


 そうして拙者、今夜もまた名護屋城のお堀の周りを少々浮かれ気分で散歩しておったのでござるが……(毎夜名護屋のお城周辺に出没する拙者)


 こうして夜に見る我が勤務先である名護屋城は篝火がたかれ、いわばライトアップされた名護屋のお城は、昼間とはまるで違う、神秘的な雰囲気で……美しくも荘厳に浮かび上がってござった。


 拙者の愛してやまない名護屋のお城。拙者が心から名護屋のお城のためなら一命を賭すと公言して憚らない名護屋のお城。(そしてそれは、拙者の嘘偽りなき気持ち)


 これほど美しき城がまたとござろうか?オメガ帝国広しといえど、これほど美しく荘厳な城は他にござるまい。(とは申せ、他藩に留学経験もなく、参勤交代に馳せ参じたこともない拙者。名護屋のお城以外のお城など一つも見たことないのでござるが)


 そして天守閣に鎮座まします金のしゃちほこ……あ、違った。我が主君、名護屋の殿のためなら、拙者の命は軟便でも投げ出す所存でござる。(とは申せ、ここで性格を期すために少々説明を加え申すと……名護屋の殿が名護屋城天守閣に鎮座ましましておるのは日中のみ。夜になると牛車出自宅に帰られるのでござって、また明日になると牛車で通勤して参られるのでござる。すなわち、今この夜においては、殿はあの美しき名護屋城天守閣にはいまさぬのでござって、殿はとっくに自宅に帰れられたのでござった……)


 と、こうしていつものごとく名護屋城の殿とお城に対するご奉公の念を新たにしておった拙者の目の前に、いつもとは違う、いつもとはまるで違った光景が展開して……


 なんたることか。お堀の一角に、取り残されたように生えた草むらから、一群の姫ホタルがぱっと咲き出て……


 咲き出る。まさしくそういった感じでござった。草むらから咲き出た光の花。まさしくそういった感じでござった。意味深げに、光の尾を引きつつ、お堀を飛び回り、舞い踊る姫ホタルの群れは……まことに幻想的かつ美しくて……拙者不覚にも一瞬で恋に落ちてしまったのでござった。


 その闇に浮かぶ光の線。光の残像で出来た象形文字は、拙者の心を捉えて離さず、拙者はもう、魅入られたように姫ホタルに夢中になってしまったのでござった。


 蒸し暑い夏の夜、ひとりきりの夜の散歩。美しく荘厳にそびえ立つ、篝火に浮かび上がる名護屋のお城。そして、お堀の水辺を舞い踊る姫ホタルの群れ……こういったものどもの組み合わせが、拙者に強烈な印象を与え……


 拙者30年も名護屋のお城に勤務しておりながら、姫ホタルたちに出会ったのは初めてでござり……この奇跡的な出会い、一瞬にして拙者は恋に落ちてしまったのでござった……なんという出会い頭のフォーリンラブ。


 人間のおなごなんぞには決して心動かされはせぬ拙者が、(男一匹、武士道一筋の拙者。軟派なことが大嫌いで、犀の角のごとくひとり自らの道を歩む拙者。おなごなんぞこちらからぺっぺでござる)このとき、姫ホタルたちの純粋な美しさ、あまりにも儚げなその美しさに、思わず恋に落ちてしまったのでござった……(これぞ、拙者の初恋)



 闇夜のお堀の上で、黄緑色に光っては消え、光っては消え……そして儚いひこうき雲のような残像を残す姫ホタルたち。拙者はこれに心を鷲づかみにされ、拙者と姫ホタルたちは、分かちがたく心と心で結ばれたのでござった……(一蓮托生)


 これは拙者にとって、運命的な出会いでござった。武士に二言はなく、約束を決して違えることはない。武士であり、侍である拙者。一度心を与え、心を受け取ったならば……(それが、人間であろうと動物であろうと、たとえ虫一匹であろうと)拙者命をそのもののために投げ出す所存でござる。


 それが侍というもの。


 武士に二言はなく、武士が約束を違えることはない。しからば、このときの姫ホタルたちとの出会いは、宿命的なものでござって……拙者の運命の分岐点となるものなのでござった。


 武士たるもの、一期一会。一瞬ですべてが決まる世界で生きるもの。この夜の散歩道での姫ホタルとの出会いが、拙者のその後の人生を大きく変えることになったのでござった。(それもまた、侍の宿命)



**************************************


 

 ところが、次の日のお昼ごろ、拙者が昨晩同様名護屋城のお堀の周りを散歩してござると……(いつだって散歩というなかれ。暇なんじゃないかというなかれ。さぼってんじゃないかというなかれ。拙者、お弁当のあとはお堀散歩と決めているのでござって……このお堀散歩は昼休憩時間内のことでござって、決して勤務を怠っていたわけではござらぬ)数人の人夫が昨晩の、例の宿命的草むらのあたりでたむろしておって、草むらの一角に何やら木の看板を立ててござった。


 昨日の今日で、この人夫のたむろ、木の看板。うむむむ……何やらけしからぬ匂いがプンプンするでござる。(けしからぬ匂いには敏感な拙者)


 そこで拙者、侍風を大いに吹かせつつ……(こういうときは、侍風を大いに吹かせるに限る)大手を振って、のっしのっしと大威張りで人夫たちの方へ近づいてみると……人夫たちにとってみれば、でかい顔したお侍様が妙に大威張りしながら、向こうから歩み寄ってくるの図。


 看板は、近日中に始まる建設工事の予告でござって、まちなかでよく見る、近隣トラブル予防のための、工事案内の看板。それをフンドシ、ランニングシャツにねじり鉢巻の人夫どもが立ててござった。


 その看板の内容を読んで、拙者、怒髪天を衝いたのでござった!


 あろうことか、近日中に、この草むらを取り除き、(いわゆる除草作業)お堀のこちらがわから向こう側にコンクリート製の橋を渡そうという計画。実に噴飯もの。実にまことにけしからぬ計画なのでござった……


 一応工事の名目、工事目的として、名護屋城との行き来の利便性の向上と書いてござるが、利便もリーベンもござらぬ。これほどのけしからぬ計画、拙者歯ぎしりのあまり、奥歯をすり減らしてしまったほどのけしからぬ計画。(阿修羅面のごとき憤怒の形相を浮かべた拙者に恐れをなし、うろたえる人夫ども)


 そして、この計画のけしからなさに輪をかけて、拍車をかけ、けしからなさを増長しておったのが、工事責任者として、看板最後尾にその名を記された……口にするのも汚らわしい、大家老=毒盛毒蔵。


 おお、これぞまさしく拙者の仇敵。天も知る不倶戴天の敵。拙者が自己紹介の折り、言わぬが花、言わぬが花と口ごもったあの大奸物。腹黒の大悪党。憎んでも憎み足りない、にっくき黒幕大家老なのでござった。


 毒盛毒蔵といえば、名護屋の殿の最側近にして、殿をたぶらかして悪事に悪事を重ねる大奸物の大悪漢の悪大家老。何かにつけ拙者と意見が相違し、ぶつかり合い、角突き合わせて、鍔迫り合いを演じるにっくき男。ケチ臭くて世知辛い、デベソの(見たことはござらぬが、デベソであることは疑いない)大悪漢の大奸物。


 その大家老が、よりによって、姫ホタル住まう草むらのところに、コンクリートの橋を建設しようなどと……しかしそれにしても、この現場調査力の無さ。なにも現場を見ることなく、調査することなく立案された計画であることでござろう!なんという机上の空論であることでござろう!



 間違いなく大家老=毒盛毒蔵は大家老室でふんぞり返って、大威張りで、煙草でもふかしながら(あの毒蔵の吸っているヘビーなタバコの匂いが、また臭くてかなわんのでござるよ)名護屋城お堀の地図(地図奉行でももって参ったのでござろう)に向かってダーツを投げ……ちょうどダーツが刺さったのが、この姫ホタルたちの住まう草むらの上だったという程度でござろう。いや絶対それに違いない!(有名な、大家老の政策決定ダーツ。大家老のダーツは、名護屋の諺にもなってござるくらいでござる)


 そうして毒蔵め、例の大家老然とした、目付きの悪い目つきで

 「ここぢゃ」と言ってから、

 「うへへへ」と気味の悪い笑みを浮かべたに相違ないのでござった……!(なんといういけ好かない大家老!)


 よりによって、この拙者の姫ホタルたちの住まう草むらでなくたって……!名護屋城のお堀は実のところ百里にも渡ってのびておるのだからして、(オメガ帝国きっての長距離お堀)橋なんて、どこに渡したってよいだろが!(憤懣やるかたなしの拙者)


 城との往来の利便性を図ると申すのなら……草むらを避けて、わずか三尺ずらしたとてバチは当たらんだろが!


 どうしたってわざわざ好き好んでこの草むら地点に橋を建設せねばならぬ理由など、いっこうに見当たらず、そんな理由など存在せぬのでござった。それもそのはず、大奸物毒盛毒蔵のくされた頭がう*このようにひり出した(おっと失礼)腐れた思いつきにすぎず、単なるひょいと投げたダーツの刺さった地点に過ぎない。そんなものに理由もへったくれもござらんのでござって、ござるはずがないのでござった……(ござるござる)


 一般的に言って、毒盛毒蔵、あの穀潰し大家老にへったくれはまず存在せぬのでござった。大家老=毒盛毒蔵にへったくれがあった試しはござらん。これはもう、確かにほんの初歩的な現場調査さえ怠ったもの。計画立案段階におけるお堀ひとめぐり、お堀一周さえ怠ったもの。信じがたい怠慢なのでござった。そして、殿を差し置いて、事実上の最高権力者になんなんとしておる名目上の藩ナンバー2=毒盛毒蔵大家老になにも言えぬ実務者たち。建設奉行や、城設備管理奉行たちもまた、情けない限りなのでござった。


 毒盛毒蔵がその腐れた頭でぱっと思いついたくされたアイデアを、誰一人くされたということがないため、毒蔵め、いつまで経っても自分がくされていることを思い知ることなく……いつまで経っても自らのアイデアこそ世界一のアイデア、それ以外にない最高のアイデアぢゃと思い込み……(なんともはや、西洋の寓話=裸の王様と瓜二つではござらんか!)他に代替のきかぬ、一切変更不可の、寸分違わずそのまま実現せねばならぬ計画ぢゃと思い込む。これぞ権力を持つものの悪い癖。(権力を持つものは、えてしてそういう考えに陥りがち。特に周囲に物が言える人間が一人もおらぬときには)


 いったん自分が思いついたことに、一切の反論を許さぬ頑迷性。(自分だって、ただほんの昨日思いついただけ。ほんの思いつきに過ぎぬくせに!)わずかでもケチをつけられようもんなら、へそを曲げ、つむじを曲げ、気分を害しまくって、怒鳴りまくり、怒りまくる。恐るべきまでの幼児性。(自ら思いついた計画に対しては、一切変更の余地を認めぬのだ……毒盛毒蔵という輩は)


 そして最後に、どんなことがあってもいくら状況が変化しても、柔軟に対応することなど一切なく、ただただ無理押し、強行、いつでもどこでもただひたすらゴリ押しのいきあたりばったりの無計画性。(実に毒盛毒蔵の悪口を言うと際限がない、きりがないものでござるな。普段寡黙な拙者に似ず、毒盛の悪口ともなると、ついつい饒舌になってしまうもの)


 毒蔵みたいな(最近流行りの南蛮渡来の蔑称を使うならば)サノバビ*チ大家老にとって、美しくも儚い姫ホタルなど、眼中にないのでござる。押しも押されぬ藩ナンバー2毒盛毒蔵にとって、権力もなければ力もなく、商品価値さえない姫ホタルたちなど、文字通りの虫けらに過ぎないのでござった。(もちろん、姫ホタルたち、虫は虫に違いないのでござるが……ホタルが虫であることに異論はないのでござるが……毒盛なんぞに虫けらとは呼ばれたくないもの!怒りに震える拙者)


 姫ホタルたちの存在は(その寿命も短き、儚く哀れな生命を持つ存在)のっしのっしとブルドーザーのごとく我が道を行く毒盛毒蔵の妨げにはならぬのでござって、毒蔵、わずかも微塵もかけらも一瞬でも姫ホタルたちのことを思い、認識することなく、躊躇なく、ただただこれを踏み潰して、我が道を行くのみ。


 毒蔵のわらじの裏には、踏み潰された姫ホタルたちの死骸がいっぱいに張り付いていて……(なんということでござろうか!)大権力者=名護屋藩大家老=毒盛毒蔵の行く手を阻むものは存在せぬのでござって、ましてや哀れな小さき姫ホタルたちなぞが、毒蔵の妨げになるなんてことは、ありえないありえない、この世の終わりまで待ってもありえないことなのでござった。


 たぶん毒蔵の目には夜闇に光り輝く姫ホタルたちのあの美しく幻想的な光すら見えないのでござろう。


 なんだかその俺俺主義が鼻について鼻について、今回の件に関してはまだなにも毒蔵の口から聞いたわけではなかったのでござったが……これまでの毒盛毒蔵の悪事の数々がぽわわーんと芋づる式に浮かんでくる拙者。


 給食当番役を巡るゴリ押し、横紙破りや、不寝番を巡る横槍や、藩の年越し儀礼費(いわゆる忘年会会費)を巡る横棒と言った、忘れようにも忘れられぬにっくき毒盛毒蔵による数々の悪事(個人的に拙者がこれまで被った被害の数々)も思い出され、これも相まって……拙者もう、義憤に次ぐ義憤。義憤が義憤を呼ぶ臨界点に達したのでござった!


 そうしたらもう、拙者もまた手がつけられぬ。どうにもこうにも頭にカーっと血が上って、自分でももう見境なくなって、周囲が見えなくなって……気づけばそう、工事案内の看板を(人夫どもが杭で地中深く埋めたばかりの)えいやと力の限り引っこ抜き、地面に投げ倒してござった……


 これを見て、一斉に青ざめ、総毛立ち、脂汗を流す人夫ども。工事の立て看板をなぎ倒されただけでなにを大げさなと思われるかもしれぬが、人夫どもの反応も無理はない。それもそのはず、立て看板には、大家老=毒盛毒蔵の、毒盛家の御家紋、あの毒蝮と毒蠍と毒蛇が三位一体をなした、一目でそれとわかる毒盛毒蔵の毒々しい御家紋がしっかと刻まれておったのでござった……(ある意味水戸の御老公の印籠にも勝って、ここ名護屋では強烈なインパクトを与える毒盛毒蔵の御家紋)


 これの持つ意味は甚大で……一気に自体は緊迫の度を増し、まさしく風雲急を告げ……あまりの驚きに、人夫ども全員色を失って、口も聞けず、ピクリとも身動きできない……というのも、毒盛家の御家紋が押された立て看板を引っこ抜いて投げ捨て、毒盛家の御家紋を泥に塗れさせるというこの拙者の行為は……毒盛毒蔵に対する宣戦布告。大権力者=大家老=毒盛毒蔵に楯突くことを意味するのでござった。(それが人夫どもに強烈な恐怖を与え、心胆寒からしめたのでござった)


 それはあまりにも禍々しい、凶兆に満ちた、災いを身に引き寄せる行為でござった……誰もが恐れおののき、なんまいだと念仏を唱えたくなるような行為、すなわちタブーなのでござった。(誰もが怖気を振るう絶対禁止のタブー行為。特に名護屋の住民にとっては)


 この藩の名目上のナンバー2(しかして事実上のナンバー1になんなんとする)毒盛毒蔵の権威たるやものすごく、その威光は目を潰さんばかりに眩く……人夫ども、触らぬ神に祟りなしとばかり、わずか微塵でもこの件に関わり合いになることを恐れ……(拙者が毒盛毒蔵の御家門の入った立て看板を投げ倒した、あるまじき事件。この事件の瞬間その場にいたということだけでも、なにか非常によからぬことが起こりそうな予感がする、怯え抜き、怖気づいた人夫ども)


 この、看板なぎ倒され、毒盛毒蔵の御家紋が泥に塗れるという凄惨な現場に偶然に合わせたことをスクープされでもしたら大変とばかり……人夫ども全員、申し合わせたように、とるものもとりあえず、猛ダッシュで逃げていく。それは本当に、まるで蜘蛛の子を散らすようでござった。


 そうして、ぽつねんとひとり取り残された拙者(と、地面に倒れ伏した工事予告の看板)。拙者の周囲30平米には、祟りを恐れて、誰一人近寄ろうとせぬ。周辺住民どもは、拙者を遠巻きにして、いったいこれからなにが起こることか……ハラハラドキドキして待ってござる。


 天罰あるいは天誅。いずれにせよ、非常によからぬ、禍々しい出来事が起こるに相違ない。毒蔵の看板を投げ捨てるという暴挙を犯した拙者に、なにか非常な災いが降りかかるに相違ないと、固唾をのんで見守ってござる。(要するに野次馬)


 ことここに及んではしかたあるまい。ついに腹をくくり、覚悟を決めた拙者。

 

 昨晩の、姫ホタルたちとの宿命的な出会い。夢幻のような、美しくも儚い姫ホタルたちの光の乱舞。一瞬で恋に落ちた拙者……拙者も侍。ことここに至っては、よーしわかった。姫ホタルたちのために、この命投げ出そう。命を賭けて、毒蔵と戦おうぞ。(誰しもが恐れる、泣く子も黙る名護屋を牛耳る巨悪=毒盛毒蔵)


 倒れた看板の上にドスンと勢いよく腰を下ろし(土煙がばふっ)でんとあぐらをかいて腕組み。拙者ぷーっと鼻から荒い息を吐く。



**************************************



 その頃名護屋の料亭では……昼間からお大尽=毒盛毒蔵が景気よく芸者遊びの真っ最中。


 そこへ、非常に遠慮がちに、伝令が来たことが告げられ……(料亭女将による耳打ち)芸者遊び室内に呼び入れられた伝令は、非常に非常に遠慮がちに、平伏に平伏を重ねつつ、面も上げず、毒蔵に報告を申し上げる。(自らの報告のために、毒盛毒蔵が大好きな芸者遊びの手をストップしているというこの状況を、痛いほどプレッシャーに感じている、まだまだひよっこ伝令)


 「例の、名護屋城のお堀橋渡し工事の件でござりまするが……」

 緊張に緊張を重ねつつも、要領よく手短に報告する伝令。(畳に顔を擦り付けているため、声がくぐもって聞き取りづらいのが唯一の難点だが……彼はこのあと間違いなく出世するだろう)

 この報告を受けて、毒盛毒蔵。

 「またあの馬鹿侍か!」

 あの馬鹿侍にはほとほとうんざりしている大家老。

 「いっつもいっつもわしにたてつき、邪魔ばかりしおって……!」

 これが、大家老側=当局者側から見た侍零像。大家老側の言い分。苦虫を噛み潰したような顔をして、ほんとに奥歯で苦虫をギリギリ噛み潰す毒盛毒蔵。ギリギリと歯ぎしり。

 「今度はなんて言っておるのぢゃ?」

 詳しい報告を求める名護屋藩大家老。これに対し、簡潔かつ要領よく事件の顛末を説明報告する若き伝令役。

 

 「なにいいいい!?姫ホタルの棲家である草むらを避けて橋を渡せだとおおお!?」

 芸者衆もびっくりの、今日一番の毒盛毒蔵の「なにいいい!?」

 しかしそれにしても、毒盛毒蔵の理解の範疇を遥かに超える、毒盛毒蔵のもつ常識の遥か斜め上を行く、侍零の奇行。まさしく奇想天外。


 侍零の奴……今度はなにを言い出すかと思えば!こともあろうに、姫ホタル!あろうことか、姫ホタルの棲家の草むら!

 かーっ!なんたるたわけ。箸にも棒にもかからないどうしようもない馬鹿侍であることだ!(実際、とても正気の沙汰とは思えぬ毒蔵。毒蔵の基準でいけば、これはもう間違いなく即刻病院送りあるいは監獄送り間違い無しの案件だ……)


 姫ホタルの住まう草むらを避けるために、工事計画を見直すなどという考えが一ミリも一ミクロンも存在しない毒盛毒蔵。(そんなことのために、工事計画変更→遅延→予算が嵩むなどということは狂気の沙汰だ。とても現実世界の、大人の世界の出来事とは思えない。ホタルのために過剰に予算を出すなどと……幼稚園児の白昼夢か、メルヘン世界のおとぎ話のような話だ!)


 こんな馬鹿侍の馬鹿げた、おぼこじみた、カマトトな与太話に付き合うつもりは毛頭ない、現実主義のリアリスト=毒盛毒蔵。(彼の目に存在するのは、金と女、そして権力のみ)あまりにも自らの常識と理解の範疇を超える侍零の奇行に、毒蔵は怒りを爆発させる。

 「工事を強行しろ!護衛兵を100人連れて行け!」

 大地を震わすような大声で怒鳴りつけ、命令を下す大家老。そばで正座して聞いている芸者衆は身も心も震え上がっているが……平伏した伝令は、怒鳴り声が頭と背中を通り過ぎて、完全にスルー。毒蔵の怒鳴り声直撃を免れる。(彼は間違いなく、その後出世するタイプ)


 しかしそれにしても、工事強行の上、そこにつく護衛兵100人!毒盛毒蔵の、あまりの本気度が伝わる護衛兵100人!(しかもこれは、例え話や誇大表現のたぐいではない。影の最高権力者=大家老毒盛毒蔵が100人といったら、そっくり100人。過不足なく100人きっかりの護衛兵が迅速に、早急に準備され、今日のうちにも工事現場に派遣されるということを意味していて……完全なるトップダウン方式。毒蔵の独断と偏見で藩の行政は回転し、運営され……たかが橋渡しの工事に100人の護衛役ということに異を唱えるものなどひとりもいない。毒蔵が100人といったら、きっかり100人の護衛兵が現場に急行することになるのだ。恐るべし、毒蔵の絶対権力。大家老による殿を差し置いての専横)に伝令役の若い衆、ビビりまくり、平伏に平伏を重ねつつ、後退りして、そのまま料亭を去る。(すごい格好だ……)


 伝令役が去ったのを確かめると、毒蔵、襖をピタリと閉め、芸者衆を再びそばに呼び寄せて、

 「よいではないか、よいではないか」と、先ほどまでの大好きな芸者遊びの続き。



**************************************



 拙者が、姫ホタルたちの棲家である草むらの脇に、(あぐらをかくのにも飽きて)でんと仁王立ち。腕組みして、大威張りで(武士の大威張りというのは一種の意味深い示威行為)待っておると……来たわ来たわ。いよいよやってまいった。毒蔵の手のもの。毒蔵に首尾よく取り入って、藩の普請工事受注を一手に引き受ける悪徳建設業者の工事関係者数名にプラスして、鎧甲冑の者ども、その数およそ100!


 恐ろしく物々しく隊列を組み、鉄の甲冑がこすれる金属音をこの晴れた名護屋の空に響かせながら、藩の護衛兵が行進してまいった。まるで合戦。すわ名護屋の一大事、天下分け目の決戦かといった趣。伊達や酔狂ではない。本気の護衛兵ども。必要とあらば、容赦なく人を叩き切る、そして、自らの命を投げ出すことも辞さぬ、そうした覚悟を持った藩の精鋭護衛兵ども。

 

 その後衛兵ども(間違いなく毒蔵の息のかかった、毒蔵の指示の下、毒蔵専属ロボット兵のように動く奴らだ……もっとも、藩の中に毒蔵の意に逆らえるものなど一人もおらぬのだが。拙者を除いて)物々しさ、深刻荘重さを一切失うことなく、黙ったまま、拙者をぐるりぐるりと何重にも輪を作って取り囲む。(いわゆる沈黙の軍団)


 いかな毒蔵といえど、まだなにもしていない拙者を(拙者といえど、平侍といえど、れっきとした名護屋藩の正規の侍)いきなり逮捕、投獄するわけにはいかぬ。あるいはいきなり問答無用で叩き切るというわけにもいかぬ。(毒蔵とすればそうしたいのは山々でござろうが)

 そこで毒蔵、ここは一つ、まずは拙者を包囲する作戦。鎧甲冑の護衛兵100人で拙者と何重にも取り囲み、拙者が身動き取れぬようする作戦に出た。鎧甲冑の防壁によって、拙者と外部との接触を断ち、滞りなく橋渡し工事を進めようという作戦でござる。(大胆かつ慎重にことを進める、狡猾かつ老獪な毒蔵らしい戦術)


 そうして拙者の動きを封じておいてから、工事関係の人夫ども、せっせと橋渡し工事の準備を進めてござる。

 工事人夫ども、猫車を押して砂利を運んだり、木材や荒縄、測量用品等、せっせと工事現場に運び入れておる。(拙者のことは護衛兵100人に任せて、工事に集中する人夫ども)


 まずは橋の土台となる橋桁、お堀の中に太い木の杭を何本か打ち込む作業工程。これもまた、どこに何本打ち込むかについては、設計図面によって事細かに精密に指定されてござって……綿密に丁寧に測量した上(測量縄というものがござって、これを駆使しての精確な測量が行われる)確定した位置に、橋全体の土台となる木の杭がお堀の水中に打ち込まれるのでござるが……(名護屋藩の土木建築のレベルはオメガ帝国全体でも、江戸、大坂についでナンバー3とされておる)


 拙者なに食わぬ顔をして、(というより斜め上30度くらい見上げて、ぽかんと口を開け、呆けたような顔をしながら)鎧甲冑のものどもの壁の隙間から、ピンと小石を蹴る。(拙者のとぼけた顔ばかり注視する100人の護衛兵どもは、拙者の足の動きなどまるで見ておらない)

 そのピンとはねた小石が、ちょうど今まさに杭を木槌で打ち込もうとした人夫の小指にあたり、

 「いて」となって、杭を打ちそこねる。打ちそこねた杭が外れて倒れ、縄全体が引っ張られて、みごとにドミノ倒し。全体がもろくも崩れ去って、今までの努力が水の泡となる。(これももちろん、たまたま偶然そうなったのではござらん。拙者、工事の進捗状況をじっくり観察し、その構造を完璧に把握した上で、もっとも脆弱と思われる点を衝いた……建築中の橋の構造上、肝心要と思われる杭を容赦なく衝いたのでござって、その杭が倒れてしまえば、建築中の橋全体がもろくも崩れ去りそれまでの努力が水泡に帰すのも、すべて拙者の計算通り。拙者の計算上、これは当然のことなのでござった)


 これまで建造された部分が一挙に崩れ去り、「あーあ」といった感じになって(怒気を孕んだシラケムード)なにがなんやらわからぬまま、とりあえず、肝心なところで杭打ちに失敗した人夫が、これまたなにがなんやらわからぬまま、(小指には意味不明な痣と痛み)現場監督から大目玉を食らう。単に橋の建設現場で大失敗をやらかした、おっちょこちょいの人夫が現場監督から大目玉を食らうの図。

 

 ところが、性懲りもなしに、というか当然のことながらというか、それで橋建築を諦めるわけがない(というか諦めるわけにはいかない)工事関係者ども。飽きもせず、何度も測量して、杭を打ち、縄を張っては……あと一歩で橋の基礎工事完了というところで、拙者の小石ピン!にあって、

 「いてていてて」と、小指やら頭のてっぺんやら、背中を打たれては、杭を打ちそこね、全部がもろくも崩れ去り、それまでの苦労が水泡に帰する……こういうことを繰り返しておる。そのうち、どこかからなにかが飛んできてあたっているものということだけはわかって、いったいどこからなにが飛んできたものかとキョロキョロしくさって……いい気味でござる。


 拙者の方はと申せば……素知らぬ顔で、地面に棒で、詰将棋でもやってござった。(詰将棋に思わず熱中する監禁中の侍の図)


 しかしこんなことを何度も繰り返しておるうちに、工事関係者どもも、どうやら薄々勘づき始めたらしく……どうもこの拙者、100人護衛隊の鎧甲冑の檻に閉じ込められた、この拙者が怪しいと睨んだらしく……甲冑どもの100人隊隊長のもとへ行って何やら相談する。(拙者にはその相談内容は聞こえぬが)


 しかしその相談の結果、100人の護衛隊、拙者を取り囲む鎧甲冑のものども、その取り囲む輪をぐっと狭め……ぐぐぐっと輪を狭めると同時に、鎧甲冑の者同士の間隔がなくなり、ぎゅうぎゅうにその密度が上がる。びっしり隙間がなくなって、拙者に迫りくる黒甲冑のものども。甲冑同士のこすれる金属音で耳が痛くなるほどでござった。しかし、これでは南無三、甲冑の隙間からピンと小石を蹴り入れる、先ほどまでの作戦は不可能。


 チョコザイな。

 かくなる上は……ことここに至れば、しかたなし。正体を隠し、素知らぬ顔をして工事妨害する作戦はこれまで。ようしなれば……これから派手に立ち回ってくれようか!


 人夫どもが尊き姫ホタルたちの草むらに工事の魔手をのばすたび、拙者ぴょーんと忍者跳びで跳び上がっては(拙者もちろん、忍術の心得もござる)甲冑どもの頭の上から、ピンピンピンと小石を発射する。(忍法石礫)

 人夫ども、

 「いて」

 「いて」

 「いて」と、3発を当てられ、石礫を恐れて、そそくさと退散する。(石礫には弱い人夫ども)


 しかしそうして引き下がってばかりもおれぬ。(何より厳守すべき工期が迫っておる)ひとたび石礫が収まれば、人夫ども再び、工事目当てにそーっとそーっと姫ホタルたちの草むらに近づいてまいるが……そこを再び拙者、ぴょーんとジャンプ一番小石をピンピンピン。

 すると人夫ども、

 「いて」

 「いて」

 「いて」と再びやむなく撤退。


 もはやこうなれば、人夫どもの力ではどうすることも出来ぬ。人夫ども、拙者のジャンプ一番ピンピンピンの石礫を恐れて、もはや姫ホタルたちの草むらに近づこうともせぬ。


 しかしそうなれば、何より大事な名護屋城お堀の橋渡し工事が完成しない。(しかしこの工事、毒盛毒蔵の肝いりで、万が一工事中止・工事不能とでもなった暁には……工事関係者、現場監督の首が文字通りいくつも飛ぶことになるだろう……くわばらくわばら)ここはなんとしても工事を強行せねばならぬところ。

 それはまさにその工事強行のために、工事防衛の任を受けて派遣された護衛兵どもにとっても同じで……


 いくら甲冑の輪を狭め、甲冑と甲冑の隙間をなくしても、(文字通り水も漏らさぬ鎧甲冑の防壁)ぴょーんとジャンプ一番、拙者が真上にジャンプしてしまえばこちらのもの。鎧甲冑の檻などなんのその、拙者自由自在にピンピンピン、石礫を発射できるのでござって……そうなったれば、鎧甲冑の檻も防壁も全く意味を成さないのでござった。(無用の長物と化した百人の護衛隊)


 拙者のジャンプ力に業を煮やした鎧甲冑のものども(業を煮やすとはまさにこのこと)怒り心頭というか、むしゃくしゃが頂点に達して、ぴょーんとジャンプ一番ピンピンピンと拙者を何度かなすすべもなく見逃したあとに……(眼の前で行われるジャンプ一番ピンピンピンに為す術もない百人の護衛隊の図)

 自らの頭上から放たれる石礫によって本来守るべき人夫たちが次から次へと倒れて行くのをなすすべもなく見送ったあと……

 最後のジャンプ一番を終え、すたと着地した拙者を鎧甲冑のものども、申し合わせたように、全員一丸となって襲いかかり、甲冑のいわばおしくらまんじゅう、甲冑まんじゅうによって、拙者を押しつぶさんとするも……(鎧甲冑のものども100人に押しつぶされては、いかな拙者といえどこらえきれぬ)


 そこは拙者、辛くも(昔習い覚えた)忍法土遁の術によって、これを地中に逃れる。どろん。

 そうしたらば、突如として押しつぶすべきターゲットを失った、100人の鎧甲冑のものども、目の前からどろんとターゲットが煙のごとく消え失せた鎧甲冑のものども、拙者を一気に押しつぶさんとしたその勢いそのままに……およよと全員が全員お互いの頭をぶつけ合ってゴチン。ゴチン。ゴチン。


 その勢いや凄まじく、またその頭突きの威力は甚大。100人の護衛兵全員が全員、その場でバタンキュー。ひっくり返って、気絶してしもうた。


 モグラの如き拙者。早くも地中を移動し、鎧甲冑のものどもの輪から遠く離れた場所に、土からぴょこんと顔を出し、(いわば逆土遁の術)この様子を眺めて、からからと大笑するのでござった。

 これぞ、100人の護衛隊と拙者の合戦の顛末。100人の護衛隊の最期なのでござった。

 

 かような鬼神の如き拙者の大活躍ぶり、その忍法のあまりの切れ味を見て、工事関係の人夫ども、這々の体で逃げ去る。(何しろ拙者、たったひとりで藩の精鋭=100人の護衛隊を打ち負かしたのでござるから、こりゃかなわんと見て、蜘蛛の子散らすようにいなくなったのも当然なのでござる)


 護衛兵共も倒れ、工事関係者共も逃げ去り、ようやっと辺りが静かになったと思えば……はや夕暮れ。あたりは、夕闇に包まれてござった。


 夏の生き生きした太陽が山の向こうに落ち、辺りが薄暗くなって参った頃。(西の空だけがまだほの明るい。桃色の光を残してござった)

 薄闇の中で見る名護屋城はまたひときわ美しい。

 蒸し暑い、名護屋の夏の宵の口。(拙者も埃だらけの体に汗をかいておった)

 

 この静かな名護屋の夏の夜に、姫ホタルたちがゆっくりと一匹一匹連れ立って、草むらから飛び出してきて……お堀の水の周りを舞い始めたのでござった……宵闇の中、もう姫ホタルたちの姿(実体)は見えぬ。見えるのは、闇の中で光るその黄緑色の光だけ。

 夜の闇の中で、光の尾を引く姫ホタルたち。(しかも音もなく)

 その光景はまことに美しく、筆舌に尽くしがたいとはまさにこのこと。


 姫ホタルたちは静かに夏のお堀の上を舞い踊り、光の線とその残像で無心になにかを描いておるようでござった。人には理解できぬ、無学な拙者なぞにはとうてい理解できぬ、自然の奥深い知恵に満ちた象形文字。姫ホタルたちの奥深い知恵に満ちた、象徴的メッセージ。残念ながら、死すべき人間の身である拙者には、とうてい理解できぬが、あまりにも深い意味に満ち満ちた……姫ホタルたちが光の尾で描く象徴的メッセージ。(我々人間にはその神秘的な奥深いメッセージが微塵も読み取れない)


 まことその光景は神秘的にして美しい。すっかり心奪われるものでござった……


 昼間の喧騒、毒盛毒蔵の自己中心的な工事強行。自分の意思、矜持などかけらもないサラリーマン的護衛兵100人隊。あの悪臭芬々たる、右を見ても左を見てもいけ好かない奴らだらけの昼間の喧騒(おーいやでござる!)が嘘のように、静けさを取り戻した名護屋城のお堀。お堀で舞い踊る姫ホタルたちの幻想的光景。


 それは、あまりにも美しく、この世のものとは思えなかった……


 昼間の騒ぎを知ってか知らずか……いや、知らないのだ。なにも知らず、無心で輝き、無心で舞い踊るからこそ、これほど美しいのでござる。

 姫ホタルたちの草むらを巡る、人間どもの醜い欲望むき出しの、醜さ極まる、醜い争い。とても人様にはお見せできないような、低レベルにして低俗な、神秘的なところ、高尚なところ、高潔にして崇高なところがなにもない、人間たちの争い。(それはなんの生産性もなく、そこにはなんのクリエイティヴィティもない)

 そんな知らずもがななものを、ほんとに知らぬまま……


 静かなこの夏の夜に、無心に尾を光り輝かせておるからこそ、これほどまでに美しいのでござる。(昨晩に続き、再びすっかり心を奪われる拙者)


 明日をも知れぬ姫ホタルたちの生命。その儚さ。なにも守るものなき、よるべなき姫ホタルたち。そのか弱さ、無防備さ、無力さは、人間の女子供の比ではござらぬ。その女子供にさえ簡単に捕まえられ、捻り潰されかねないほどのか弱さでござって……


 毒蔵のような、武士の風上にも置けぬようなものが、ちょいと顎を動かすだけで(大権力者の下す命令のポーズ)明日には、なんの抵抗もできず、露と消えてしまうような姫ホタルたちの生命。(実際もし今日拙者なかりせば、ここに立ち会わせていなければ、姫ホタルたちは今日の昼には草むらごと消滅させられておったはず……)


 そしてもしそうして人知れず工事現場の陰でそっと消え去ったとしても……誰も木にするもののいないような、そんな儚くも哀れな、姫ホタルたちの生命。実際どれほど多くの姫ホタルたちの生命が、人知れず、道路工事、河川護岸工事、橋渡し工事の陰でそっと消え去って行ったことでござろう……!


 しかしだからこそ、誰かが守らねばならぬのだ。誰も、なんの価値も認めぬような、こんな哀れにして儚い生命だからこそ……そんなもののために、誰かが立ち上がらねばならぬのだ!


 名もなき哀れな姫ホタルたち。儚くもか弱い姫ホタルたち。寄る辺なき、頼るものなき姫ホタルたち。

 だが、侍零これにあり!

 拙者が、姫ホタルたちを守ってみせようぞ!

 侍零がここに立っておるかぎり、姫ホタルたちには、何人たりとも指一本触れさせはせぬ!



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 愛人宅(今日の宅は素人衆町娘の愛人宅)にいる大家老毒盛毒蔵へ、昼間の蛍侍を巡る経緯を、平伏しつつ、恐る恐る述べる使いのもの(彼もまた忍)

 しかし、恐ろしく間は悪く、しかも報告内容がどこをどう改変し粉飾しようとも、どこからどう見ても最悪極まりない内容で……もはや処置なしといった感じの使いのもの。(半分跡は野となれ山となれのやけっぱち)


 この報告を受け、押しも押されぬ大家老にして大奸物の毒盛毒蔵は、大いに自分を抑えつつ、静かにゆっくりと語り始める……(しかしその声にはプッツン切れかねぬほどの怒気が孕まれている)

 「この問題を、明日の朝まで長引かせてはならぬ」

 まず結論。デッドラインを引く毒盛毒蔵。

 「きゃつ、蛍侍奴……どういう風の吹き回しか、なんだか妙に殿に気に入られている節があるゆえ……」

 これまでの経験上、何度も名護屋の殿の横槍、あるいは鶴の一声によって辛くも毒蔵の毒牙を逃れてきた……首の皮一枚で助かってきたきゃつ=蛍侍。なんだか妙に、どういうわけだか名護屋の殿のお気に入りのような節のある蛍侍。殿もまた一風変わった変人を偏愛せずにいられぬ性質。

 「明日の朝、殿の出勤時に」

 夜の間は、名護屋城を退去して自宅に帰られている殿。明日の朝になれば、例の牛車で城に通勤して参られ……

 「その途上できゃつ奴の姿が殿の目にとまるのは……なんとしても避けねばならぬ。姫ホタル一匹のために(む?まあ群れをなし、群生しておるのであろうが……けっ、虫けらめが!)命を投げ出し、頑張っておる姿が殿の目にとまるのはなんとしてもまずい……殿の妙な同情と共感を引かんとも限らぬ」


 名護屋の殿の妙な同情と共感。

 奇妙にも相通ずるところがあるようなないような、殿ときゃつ蛍侍。


 苦虫を噛み潰し、かつハラワタが煮えくり返っているような顔をする毒盛毒蔵。類は友をよぶというか、変人相通ずるというか……殿とかの蛍侍の間に存在しているようないないようなテレパシーあるいはシンパシーに対して、いわれなき怒りを覚える毒盛毒蔵。


 たかが虫けらのために、ひとり立って命がけで戦う侍。その名も……蛍侍!


 このキャッチフレーズが、妙な好みと偏愛をもった名護屋の殿の琴線に響かぬとも限らぬ……


 次第に怒りが押さえきれぬほどの勢いで膨張し、興奮にわなわな体が震えてくる毒盛毒蔵。(これまでの、種々様々な形で逆らい、妨害行為を続けてきたあの蛍侍に対する積年の恨みつらみ、鬱憤が今やマグマのごとく吹き出さんとしていた……!)

 「となれば……」

 となれば……?

 「今夜のうちに決着をつけねばならん」

 これが結論。藩の事実上のトップでありCEO=大家老毒盛毒蔵の下した決断。最終決定。神々といえど、毒盛毒蔵の決定には逆らえぬ。(この名護屋の地に住まう限り……)

 「いや、なんとしても、今夜中に片を付けろ……」 

 もはやわなわな興奮で震える体を抑えきれぬ毒蔵。興奮で声は震え、口角から泡を吹き……(しかしまだよくその激情を抑え、声はくぐもったすごみのある低音に抑えられていて……)

 「蛍侍の首級を上げるのだ……」

 ついにくだされた、暗殺の指令。

 そして、暗殺命令がくだされたからには……必ず成し遂げられねばならない。よく言われることだが(巷でよく見る表現だが)失敗は許されない。

 蛍侍に対する毒盛毒蔵の暗殺命令。これをくだされた側の忍びの者の顔に、恐るべき緊張が走る。忍びの者も、ことの重大さにおののいている。


 「ブリング・ミー・エブリワン(全員招集だ……)」

 囁くように、突如として、遠い異国の言葉。南蛮渡来の言葉で命じる毒盛毒蔵。(あまりに興奮し、興奮の絶頂に達したとき、毒盛毒蔵によく起こる現象)

 ところがこれを忍びの者聞き逃し……というよりあまりに囁くように言われたその声はよく聞き取れず、また何故か突如として異国の言葉で発せられたその命令に頭がついていかず……

 また、その意味するところが全員招集……?もしそうだとすれば、たかが蛍侍ひとりのために藩の全勢力を結集するということになるわけだが……毒盛毒蔵の言葉を文字通り受け取れば、文字通り翻訳するならば……

 ブリング・ミー・エブリワン(全員招集)。


 そこで、聞き返す忍びの者。

 「エ、エブリ……?」

 聞き違えだったのかも?

 しかし、この忍びの者の鈍い反応が、毒盛毒蔵の怒りに火を付ける。あるいは毒盛毒蔵の怒りの火に油を注ぐ。あるいはこれが呼び水となって……ついにブチ切れ、癇癪を爆発させる毒盛毒蔵。

 ものすごい顔と、ものすごい巻き舌で……

 「エ・ブ・リ・ワンヌ!!!」

 忍びの者、圧倒され尽くし、恐縮しきって、平伏に平伏を重ね、そのまま後退りして、町娘の家を退出する……(もはやそれ以外に、彼にできることはなにもない)


 こうして激情を爆発させ、暗殺命令を下し終わったあと、毒盛毒蔵(大奸物の大家老)、忍びの者が立ち去ったことをしっかり確認すると、障子をするするピタリと閉め、このくだりの間ずっと大人しく待っていた愛人の町娘の帯をひっぱって、大好きな「あ~れ〜」の続き。



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 暗闇が、凄まじいまでの殺気を孕んでござった……名護屋の夜は更け、名護屋城のライトアップも終わり、姫ホタルたちの光の乱舞も終わった頃。

 

 姫ホタルたちは寝床(草むら)に帰り、誰も彼もが寝静まり、静まり返ったこの丑三つ時、深夜の中の深夜。夜の中の夜のこの時間。


 闇が、まるで生き物のように禍々しい殺気を孕んでござった。手に取れるような、物理的にそこに存在しておるような殺気……殺気で明らかに空気は電流を帯びておって……たまたま通りかかった野良猫なぞは全身毛を逆立てながら気が触れたような鳴き声を出しておる。


 それほどの凄まじい殺気でござった。(合戦の直前でもこれほどの殺気が空気中に充満することはござらんというほどの)

 

 この生命、今晩までかも知れぬ。

 今起ころうとしていることを、鋭く予感する拙者。この殺気が意味するもの……

 大軍勢が周囲の闇に潜み、息を殺して、その時を待っている。(拙者には、それが肌でビリビリ感じるようにわかる)

 そして、その大軍勢は、今ジリジリと、ゆっくり音もなくその包囲の輪を狭めつつある。すべてのレーダー網をかいくぐり、一切物音を立てることのない、沈黙の軍団。完璧なステルス性能を備えた軍団でござっても、その殺気だけは消すことが出来ぬ。


 凄まじい殺気。これまで拙者が種々様々な修羅場で感じてきたどの殺気より凄まじい殺気。

 大家老直属の精鋭部隊。プロフェッショナル中のプロフェッショナルだ。


 これほどの精鋭が、これほどの数で……さすがの拙者も、明日の朝は迎えられぬかも知れぬ……


 すらりと愛剣を抜く拙者。

 

 蒸し暑い夏の夜でありながら、この場所には、冷気のようなものが漂ってござった。凄まじいまでの殺気によって、凍らされ、冷却せられた空気。


 夜がなお一層深まり、(息詰まるほどの凄まじい殺気)すべては最後の合図を待ち、ダムの壁はもはや決壊寸前にまで膨れ上がり……

 そして、姫ホタルの群れの最後の一匹が、尾の光を灯し終えたのがその合図、最後のきっかけでござった。


 姫ホタル消灯とともに、三方から容赦なく放たれた手裏剣。プロフェッショナルな忍者が放った手裏剣は決してむなしくなることはなく、獲物を捉えないということがない。

 その三方から放たれた手裏剣は、3本が3本とも容赦なく拙者の3点の急所を完璧に狙ってござって……(3本中1本でも刺さればそれで一巻の終わり。容赦なき殺人手裏剣。プロフェッショナル中のプロフェッショナルの手筋だ)

 その三方から飛んでまいった3本の手裏剣を、拙者剣を翻し、秘伝三角打ちによって、みごと3本を3本とも打ち返す。しかも絶妙に入射角反射角を計算し、入ってきた通りの角度で来たままの軌道をまっすぐ弾き返した……

 

 かちんかちんかちん。


 鉄と鉄の弾き返される音が闇夜に響く。この深い名護屋城の闇夜においては、もはや視覚なぞなんの役にも立たぬ。聞こえるのは、剣と手裏剣がぶつかり合う音のみ。

 そして、その3本の手裏剣が来た通りの軌道をまっすぐ帰って(まるで南蛮渡来のヨーヨーのように)はなった忍者のおでこに


 ぽすぽすぽす。


 と刺さった鈍い音。(鉄が肉と骨に突き刺さるときの独特の音)

 忍者ども、放ったときの手の形のまま、おでこを射抜かれて、ばさばさばさと木の上から落ちてまいった。

 これにて、まず3人を片付けた。

 忍者どもの殺人手裏剣を、さらに上回る拙者の秘剣三角打ち。拙者のほうがきゃつ奴らより、なお一枚上手でござったというわけ。


 しかしなお精鋭忍者どもの攻撃は、容赦なく続く。ある種の人海戦術に出た大家老毒盛毒蔵の精鋭部隊=泣く子も黙るプロフェッショナル忍者アサシン軍団でござる。


 拙者を前後から挟んで、挟みうちにしようと企む卑怯千万、忍者の風上にも置けぬパートナー忍者ども二人ずつ。(そういうフォーメーションなのだ。誰がこの精鋭部隊を実際陣頭指揮しておるのか存ぜぬが……二人ずつフォーメーションで押しまくるこの超攻撃的忍者戦法。超攻撃的現場監督と見た)


 剣で挟み撃ち。前後から斬りかかってくる弱虫かつ卑怯千万な忍者パートナーズ。大きく振りかぶり

 「えいや!」と拙者に斬りかかった瞬間……拙者得意の大ジャンプによって上方へ、二人の目の前から忽然と消え失せる。突如として目の前からターゲット=拙者が消え失せた忍者パートナーズは……

 「あれれ」

 「およよ」

 と、その勢い止みがたく、斬りつけようとしたその剣をもはやどうしようもなく……何もかもがしようがなく、そのままバッサリお互いを袈裟斬り。向かい合ったまま、ばったり倒れ伏す二人の忍者。(これにてまた二人を片付けた)


 再び三度続く二人ずつニンジャ・アサシンパートナーズによるフォーメーション攻撃。(決して引くことを知らぬ、押し一辺倒のゴリ押し戦法。こういうところがかの大家老毒盛毒蔵の息のかかった精鋭部隊らしいといえばらしいところ)


 二人向かい合い、拙者を挟んで

 「えいや」と棒で突いて来る忍者アサシンパートナーズに対しては……拙者、秘伝大車輪の術によって横にごろり。二人の忍者の前から二度三度、忽然と姿を消す拙者。(これまたド派手な大技を繰り出す拙者)


 そうしたれば、忍者どもやっぱり

 「ありゃりゃ」

 「おりょりょ」

 と勢い止みがたく、踏み込んで全力で突き出した棒の勢いをもはやどうすることも出来ず、棒が前へ前へ突き進むのをどうしようもなく……何もかもがどうしようもなくしようがなく、お互いの急所をドオンと棒で突き(その棒は寸分違わず拙者の急所を狙っておったのだ……くわばらくわばら)、泡を吹いてばったり仰向けに倒れる。


 さらに二人片付いた。しかもたった一回の大車輪の術で同時に二人!恐るべきレベルのコストパフォーマンス=費用対効果の拙者。


 これにてこれまで全部で7人の敵忍者を片付けた計算。しかしこれもまた焼け石に水。大海の一滴に過ぎず……まだまだくさるほど、うんざりするほど精鋭プロフェッショナル・アサシン忍者軍団はあとに控えてござって……片付けても片付けても、後から後から雨後の筍の如く次から次へと登場してまいる敵忍者ども。


 さらになお飽きもせず続く忍者パートナーズによる挟み撃ち攻撃。(これ以外の攻撃方法を知らんのでござろうか?)

 

 拙者を前後から挟んで忍者専用超強力鎖網を放って拙者を捉えん、拙者の動きを封じようとする忍者パートナーズに対しては……(一度絡まったら二度とほどくことが出来ぬ恐るべきネズミ捕り方式の忍者鎖網。これに捉えられたものの末路たるや……!)拙者、水遁の術。(もはやこうなったれば、拙者も半分やけっぱち。秘伝に次ぐ秘伝のオンパレード。拙者の習い覚えた術のすべてを披露してみせようぞという気分だったのでござった)いきなり、水中に没して忽然と姿を消し、竹筒を使って呼吸をする。

 秘伝の水遁の術によって忍者二人の目の前から忽然と姿を消しおおせた拙者。こうなったれば、もはや忍者アサシン二人、もうどうしようもなく、放った鎖網を引っ込めようにも引っ込めようがなく、放った鎖網は自然忍者どもお互いの頭からバッサリと覆いかぶさって……

 「あわわ」

 「およよ」

 と抜け出そうとすればするほどなお一層鎖網が絡まるばかりの、そういうふうに出来ている恐怖の殺人忍者鎖網。もはや逃げ出そうとすればするほど固結びにつぐ固結び。どうしようもなく絡まり、息もできないくらいに縛り上げられていくばかり……きゅーと目をむき、小さくなってしまう忍者アサシン二人。

 拙者に味わわせようとした運命。拙者を罠にかけようとして、自分たちがまんまとその罠にかかった形。(人を呪わば穴2つというやつ……まさに網2つ!)


 こうして拙者が倒した忍者アサシンは計9人!

 しかしそれでもこんなものは、忍者アサシン軍団の氷山の一角に過ぎぬ。後から後から湧いて出てくる忍者アサシンどもに……(それにしても本当によくもまあ飽きもせず、こんなに湧いて出てくるものでござる)


 拙者あるときは秘伝中の秘伝=火遁の術。口から吹いた大火炎によって、敵忍者どもを包み込み……またあるときは、どろんぱっと巨大アマガエルに大变化して……その長い長いべろをぴょーんと伸ばしては、次から次へ敵忍者をぱっくんぱくんと飲み込んでいく。(これぞ秘伝中の秘伝=巨大アマガエル大变化の術。この術を使うためには必ずやある巻物が必要となり、この巻物を口でくわえることによってしかこの術を使うことは出来ないのでござった……)


 これにはさしもの敵忍者どもも度肝を抜かれた様子で……なすすべもなく放心状態の敵忍者ども。抵抗するすべもなく、大人しく拙者の大变化した巨大アマガエル煮ぱっくんぱくん、次から次へと飲み込まれていくばかり。

 大变化アマガエルに飲み込まれていった数多くの忍者ども、その行末やいかに?それは言わぬが花。あまりもおぞましき最期。ちょっとそういう最期だけは迎えたくないというような最期でござることだ……


 またあるときは拙者(まこと秘術のオンパレード)風呂敷をぷかり広げてモモンガのごとく夜空を飛び、敵忍者どもを煙に巻く。呆然とし、あっけにとられ、口をぽかんと開けて空を飛ぶ拙者に見惚れるばかりの忍者ども。(だからどうしたと言われると、拙者も返答に窮するのでござるが……)

 しかしこれぞ、秘伝=モモンガの術。


 またあるときは、ぼよおんと地蔵に大变化して敵忍者どもの目をくらます。

 「およ、蛍侍、どこへ行った?」

 突如として姿を消した拙者を探して、キョロキョロし、右往左往する敵忍者ども。こんな名護屋城のお堀のすぐそばに地蔵が一体ぽつねんと立っていることに何ら不審を感ぜず、不自然にも思わぬというところがまだまだ修行が足らぬ、未熟なところでござる。

 拙者の化けた石地蔵の目の前で、右往左往、キョロキョロしくさって、まこといい気味なのでござった。ひとりほくそ笑む石地蔵=拙者。


 それにしても、倒しても倒してもまこと雨後の筍の如く後から後から次から次へと湧いて出てくる敵忍者であることよ……倒されても倒されても、飽きることなく、心折れることなく、(そういった意味ではたいしたものでござる)ある意味ショッカーのごとく次から次へと襲ってくる敵忍者の群れに、拙者も少々辟易してまいった。(もう飽きたと言ってもよろしかろう)


 そして確かに精鋭忍者アサシン軍団と言えば、ある種のショッカー軍団のようなものでござって……これはもう、出てこなくなるということがない。最後のひとりというものが存在しない。ある意味エンドレスなこの戦い……


 あんまりにも辟易し、飽き飽きし、かつ疲れてまいると……拙者たまに秘伝でもなんでもない、どちらかというと初心者向けの変化の術を使って、どろんぱっと敵忍者の姿になって……(これはもう、変化というよりむしろ変装に近いもの)敵忍者の中にまんまと紛れ込む。

 いわば拙者の小休憩。

 大技、秘術の連続、大立ち回りの連続に少々お疲れモードの拙者が、ほんのいっとき骨休めしようとすると……(敵忍者の群れの中で敵忍者と化して)

 「およ?蛍侍め、どこへ行った?」と敵忍者ども、煙のごとく消え失せた拙者を探して、右往左往、キョロキョロあちこち拙者を探し回る……まではいいのでござるが(拙者もまた敵忍者のフリして、蛍侍をいっしょに探したり)その後必ず

 「じゃーお言葉に甘えて」と言わんばかり。

 「蛍侍のおらぬこの隙きに……」とばかり。踵を返して、姫ホタルたちの草むらに向かい……(姫ホタルたちは今は棲家に帰ってスヤスヤ寝入っているはずの)草むらを除草せんとその魔手をのばすので……(これぞ大家老毒盛毒蔵よりくだされた最終指令)こりゃいかんとばかり、すわ緊急事態とばかり、拙者即座に変装をかなぐり捨てて

 「蛍侍これにあり!」と叫び、姿を現して敵忍者どもに襲いかからねばならぬため、(さもなければ姫ホタルたちの草むらが無惨にも除草されてしまい……それだとまさしく本末転倒。拙者の所期の目的が達成できぬのでござる)かえってなんだか疲れてしまうのでござった……


 というわけで、かような感じに延々と続く深夜の大立ち回りにさすがのタフガイ=拙者も疲労困憊。もはや倒した敵忍者の数など数えておる余裕もなく……ただもうひたすらに機械的に事務的に敵忍者を倒し続けておったにすぎぬのでござった。半分夢遊病のようになりつつ、敵忍者を屠っていく拙者。(半分南蛮渡来のオートマトン仕掛け人形のような拙者)


 拙者の着込んだ鎖帷子はすでに方方破れ、ちぎれ、被った頭巾もすでに先っぽが破れ、履いてた草履はとうに失われて裸足だし、何より……そう、何より如何ともしようがなかったのが……あまりの秘術連発、秘伝のオンパレードのため、忍法を使うとき巻物をくわえすぎて、歯が浮いて浮いてしかたないのでござった。(歯が欠けてしまえば巻物くわえることもままならず……そうなればさすがの拙者も一巻の終わり)


 これはもう、疲労困憊の極み。

 刀折れ、矢尽きとはこのことか……万事休す。それでもまだ、わずかでも減少した様子を見せない敵忍者の大群。(倒しても倒してもいっこうに減る様子がない、まさしく埒が明かない敵忍者の群れ)


 疲労困憊の極み。歯が浮いて浮いてしかたない拙者に対して、なお元気ハツラツとした敵忍者どもが新規投入されて、拙者に襲いかかってまいる!(まったく、絶望的な状況でござった)

 もはやこれまでか……!

 さしもの拙者ももう身動き一つできぬ。右腕一本どころか指一本上がらぬ。


 襲いかかってくる敵忍者に対して、自分の身を守ることさえ出来ぬほどの体たらく。いやはや、さしもの拙者もこれまでか。しかし姫ホタルたちに申し訳が立たぬ。蛍侍これにあり、姫ホタルたちには指一本触れさせぬとあれほど大見得を切ったのに……!


 ギリギリ歯ぎしりする拙者。

 

 しかし泣いても笑っても怒っても悔しがっても、このままなんの抵抗もできず、敵忍者どもに嬲り殺しになる他ない拙者。その後は、姫ホタルたちの草むらも根こそぎ引っこ抜かれてしまうに相違なく……もはや完全に絶望的状況。如何ともしようがない、どん詰まりの状況でギリギリ歯ぎしりする、歯ぎしりするだけしか出来ない拙者。


 と、ちょうどその時でござった……

 最も暗かった、最暗黒の闇の底に沈んでおった東の空が、白白と明け初めたのでござった。

 曙光。

 まことの、希望の光。


 もはやこれまでの、絶望のどん底にあった拙者の目の端に飛び込んでまいったまばゆいばかりの曙光。明け初めの太陽。朝日が、東の空にその姿を現したのでござった……

 そして、その朝日がすごい勢いで(まさしく旭日の勢い)ぐんぐん昇ってまいると、それに反比例して敵忍者どもはどんどん萎れ、しなびてまいる。(そのコントラストはまことに歴然、はっきりしておって……)


 きゃつめら、なんといっても夜を得意とする夜行生物なのでござる。(忍者というものの属性)

 夜闇の中ではあれほど銀色に輝き、いぶし銀に光り輝いておった敵忍者ども。しかし忍者たるもの夜闇に紛れてこその忍者。(文字通りの忍びの者)夜闇に紛れておらぬ忍者と申すもの、どこかしら何かしらしらけてしまうのでござった……


 白白と明け初めた空の下で見る忍者は、どこかしら古ぼけ、色あせ、生気を失い、しらけてしまうのでござった……(どこか鋭さ、シャープさを失い、鈍く、丸くなってしまった精鋭忍者ども)


 早朝というこの健全極まりない時間帯に見る忍者どもは、どこかしら場違い感、その場にそぐわない感がものすごく、なんともはやとぼけた、なんちゃって感が漂ってしまっておった。

 

 頭巾のほつれや、足袋の汚れも目立ち、よく見ると中にはメタボじみた忍者なんてのも散見され……闇夜におけるあの凄み、凄まじいまでのプロフェッショナルオーラなどもすでに完全に消え失せ、早朝の爽やかな空気の中に雲散霧消しておった。(見るに堪えない早朝の忍者ども)


 雨後の筍のごとく、次から次へと現れては拙者を悩ませ続けた、あの真夜中の勢いはどこへやら、朝焼けの中の忍者どもは、急に意気地がなくなって……(何やら急に忍者としての誇りや矜持といったものまで忘れ果て、捨て去ってしまったものらしく)

 「おまえいけ」

 「いやおまえがいけ」と、お互い譲り合って、向こうの方の茂みの中で尻込みするばかり。(積極性を欠く忍者ども。こういう姿もまためったに見られない珍しいもの)


 拙者は拙者でこれまた疲労困憊の極み。身動き一つ出来ぬほど、疲れ果てた身。こちらから攻撃に出ようにも出るどころではない状態。

 こうして、拙者と大家老の手のものたちの間の激しい合戦は、早朝を迎えて一種の膠着状態に陥ったのでござった。(お互い決定打に欠ける、打つ手なしといった状況)


 そうこうしているうちに、名護屋の殿の出勤時間とあいなって……(これこそ、大奸物毒盛毒蔵が何より恐れ、これだけは避けんとした状況)


 名護屋の殿が、最高級牛車に揺られ、しずしずと進んでまいられる。(その牛車は、殿特別仕様で、見間違えようのないもの)

 そして、遠く御簾越しに拙者と忍者どもの様子、死者累々と横たわる昨夜の陰惨な合戦の跡等ご覧になり、不審に覚えたものでござろう。(名護屋城のお堀の周りに累々と横たわる忍者の死体の山)

 もったいなくも御簾越しに使者(小童)を立てられ、この名護屋城のお堀騒動の顛末についてお尋ねになられる。

 その小童、殿の牛車のところからこちら拙者の方へてってと走ってまいって、

 「殿がなにごとぢゃと尋ねておられまする」

 決して直接は下々の者と言葉をかわされることのない、必ずや小童を間に立てて離される、これぞ名護屋の殿家に伝わる鉄の掟。拙者はもとより、大家老毒盛毒蔵その人といえど、御簾の中の殿の玉顔を拝んだことはござらぬのでござった……

 

 して、そう問う小童の声を聞きつけて、向こうの茂みの中の忍者ども、遠くからわいわいがやがや、やいのやいのと申すが、拙者これを一喝したあと……かくかくしかじかと事の顛末を、傾聴の構えを見せる小童に簡潔かつ要領よく述べる。(これぞ世にいう、名護屋城お堀周りの合戦)


 小童、拙者の言葉を賢く聞き取り、理解し、記憶すると、ペコリと一礼(賢くも礼儀正しき小童であることだ!)くるりとこちらに背を向け、てってと走って牛車の殿のもとへ。

 そして再び御簾越しに、もったいなくも名護屋の殿と言葉を交わし申し上げると……二度三度、テッテとこちらへ走ってまいって、

 「殿が、くるしうない、くるしうない。すておけ、すておけ。草むらはそのまま残して、橋を三尺ほどずらせばよいではないか、よいではないか……と申しておられまする」と、これにて決着。大英断の大岡裁き。こじれにこじれ、もつれにもつれた名護屋城お堀橋渡し問題が、名護屋の殿の鶴の一声で一刀両断。みごと即時解決とあいなったのでござった。(これぞまさしく鶴の一声。誰もが黙ってははーっとひれ伏し、圧倒され、飲み込む他ない大岡裁き)


 忍者どもももはやこれまで。名護屋の殿の大英断に対して、否やのありようがなく、ほぼ放心状態となって、深く深く名護屋の殿の牛車に向かって頭をたれてござった。


 こうして、すべてはみごと解決したのでござった。(名護屋城お堀合戦の結末)


 これを見届けたあと、再びしずしずと歩み始める殿の最高級牛車。その御簾の中の殿に向かって、拙者、折れた刀を杖にして立ち上がると、最後の力(文字通り、この身体に残された最後の力)を振り絞り仁王立ち。大音声で呼ばわる。


 「拙者と姫ホタル一同は……殿に、心より感謝いたしまする!!」


 そして、バタンキュー。そのまま真っすぐばったりと倒れ伏した拙者。完全に前後不覚となって、深い深い底しれぬ眠りへと落ちていったのでござった……(いわゆるCOMA)



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 あとにわかったことでござるが、この大家老毒盛毒蔵の手のものとの合戦(世にいう名護屋城お堀の夏の夜合戦)によって拙者の被った被害は、片目、指4本、全身大やけど(これは拙者自身の大火炎の術によるもの)、水ぶくれ、火膨れ、10本の歯を失い(これは例の巻物くわえすぎによるもの)、そしてあろうことか、左足までも1本失っておった。それにくわえるに全部合わせて4000針のものすごい刀傷。


 拙者あの合戦でよく最後まで立っていたな……というほどの激烈な満身創痍だったのでござる。(歴史に残る満身創痍)


 不覚にも合戦後ただちに完全な前後不覚(いわゆるCOMA)に陥った拙者を、どこのどなたか存ぜぬが、親切なお方が我が家(と申しても川沿いのあばら家でござるが)にまで運んでくださったのだろう。(そのあたりの経緯は、当然のことながらまったく覚えておらぬ拙者)

 拙者が一度目を覚ますと、懐かしき我が家の天井。そして、懐かしき我が布団。仰向けに寝かされた拙者。

 しかしこうして目覚めてみても……まったく身体は動かせぬ。文字通り指一本動かせぬ。ピクリとも身動きできない。あまりといえばあんまりにも悲惨な状態。


 満身創痍の拙者は、全身完全なる虚脱状態に陥っており、力を入れようにも力の入れようがわからない。全身の伝達神経がすべて遮断されたかのような完全な無感覚状態にあって……文字通りの廃人となりさがっておった。


 泣きたい気持ちをぐっと堪え、(なにせ拙者も武士の端くれ、人前では決して泣かぬと誓いを立ててござる)これからの人生、行く末、前途に多大な不安を覚えつつ……(いわゆる蛍廃人と成り果てた拙者。この身体では二度と殿のお役にも立てまい)その重苦しい不安な夢と妄想の思考の中で……再びこんこんと深い深い底しれぬ眠りに落ちていったのでござった……(さらに危険な第二のCOMA)



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 その夜、名護屋城天守閣にて。


 まだ電灯もLEDもないこの時代。ほのかに灯る行灯の火にゆらゆら照らされる薄暗闇の天守閣。名護屋の殿の居室。(いわば社長室)

 御簾越しに名護屋の殿と向かい合っているのは……誰あろう、大奸物にして大家老=毒盛毒蔵。


 大奸物毒蔵が、ギンギラの悪代官風裃を身にまとい、その顔には内部から滲み出す邪悪な笑みを浮かべつつ……殿の前に平伏していた。大家老のギンギラの悪代官風裃に行灯の火がゆらゆらと反射し……

 

 何やらけったいかつけしからぬ空気が漂っていた。なにか非常に良からぬ雰囲気が、この名護屋城天守閣に充満していた。(大家老毒盛毒蔵の身体から自ずとにじみ出るけしからぬ、良からぬオーラ。いわゆる「そちも悪よのう」オーラ)


 その毒蔵が、ひとしきり平伏し終わると、顔を上げ、何やらけしからぬ折り箱を懐から取り出すと(その顔には邪悪な笑みが張り付いている)、その折り箱を殿の方に向けて差し出す。(その間ずっと毒蔵の顔から邪悪な笑みが消えることはない。いや、毒蔵の顔から邪悪な笑みが消えることは未来永劫ない……)

 

 いかな大奸物にして大家老、押しも押されぬ藩のナンバー2、事実上のナンバー1である毒盛毒蔵といえど、これ以上に殿のそばに近寄ることは出来ない。その距離ちょうど1尺。名護屋城の鉄の掟である1尺ルール。


 殿の傍に控え、隠れ潜んでいた小童が(彼小童がいったいなに者で、どこから来たものか?どうして彼小童だけがこうして殿のそばに控えることを許されておるのか誰も知らない……)てってと走ってまいり、毒蔵の差し出した何やらけしからぬ折り箱を受け取ると、てってと戻っていって、御簾越しに(というより御簾の下から)殿に折り箱を差し入れる。


 そして、殿は御簾越しに小童に一言二言言葉をかけられたようだ。(1尺の距離を取って控える毒蔵の耳には届かない)

 

 小童、てってと走って毒蔵の方へ戻ってきて……夜にふさわしく、またこのけしからぬ、良からぬ雰囲気にふさわしい囁き声で、

 「殿が、これはなんぢゃと尋ねておられまする」

 

 毒蔵、その邪悪な笑顔をぴくとも崩さずに(まるでそういう表情に彫られた彫像のようだ)

 「開けてくだされい」

 まるで殿その人に声をかけるかのように、小童にそう申し上げる。


 小童、これを聞いて、再びてってと殿のもとへと参り、御簾越しに殿に申し上げて……殿はこれになにか答えられたようだ。(その声は決して誰の耳にも届かない。小童以外、誰も聞いたことのない名護屋の殿の声)


 そして二度三度、小童、毒蔵(こちらは片時も、その邪悪な笑顔を崩すことがない)の方へ戻ってまいって、

 「殿が、なんぢゃただの白いおまんじゅうではないかと申しておられまする」と、少々殿のものまねに寄せつつ、毒蔵に申し上げる。また、この小童の報告によって、御簾の中の殿が折り箱の蓋を開けたことが確認される。殿は折り箱の蓋を開け、中に入っていたのがただの白いおまんじゅうであったことに驚きあそばされたのだ……(これほど禍々しい、けしからぬ雰囲気がぷんぷんの折り箱の中に入っていたのがただの白いおまんじゅうだなんて……!少々肩透かしを食らった格好の殿……というのも御簾越しの、こちらの想像に過ぎないのだが)


 これに答えて毒蔵。

 「その下をご覧下されい」

 その邪悪な笑顔は、こころなしか邪悪さを二割増し、三割増ししているようで……


 小童、毒蔵の答えを得て、また再びてってと走って戻って、御簾越しに殿にその旨を伝え申し上げる。

 

 しばしのとき、御簾の中で何やらごそごそという音がして、

 「きゃ」とか

 「わわ」とか少々驚愕したような声が漏れたかと思うと……


 小童、てってと毒蔵のもとへもどってまいって、

 「殿が、ややこれは金子ではないかと申しておられまする」


 この小童の報告によって、御簾の中で殿が白いおまんじゅうの折り箱の二重底を開け、折り箱の下に敷き詰められたブラッドマネー(汚れた金貨)に気づいたことが知られる。


 これぞまさしく賄賂。毒盛毒蔵のし掛けた寝技。得意中の得意。大家老のお家芸である賄賂政治。特に、名護屋の殿が白いおまんじゅうの下に隠された大量の金子が大好物であることを見越しての、殿の心理を知り尽くした大奸物大家老ならではの賄賂作戦。(これがまた、名護屋の殿には一番効くのだ)


 そしてここぞとばかり、毒盛毒蔵(その邪悪な笑顔はMAXに達し、これ以上の邪悪な笑顔は人間存在には不可能というレベルに達して……)、

 「蛍侍の切腹の件、よろしくお願いいたしまする」

 

 まさにこの夜、ここへ毒蔵がまいったその用件。その目的をはっきりと口にする毒盛毒蔵。(他でもない、そのために毒蔵はこの夜、この名護屋城天守閣に来たのだ。けしからぬ白いおまんじゅうの折り箱を懐に入れて)


 恐るべき悪だくみ。神をも畏れぬ悪だくみであることだ!


 小童、再びてってと走って、殿のもとへ参ると、この毒蔵の邪悪極まりない悪だくみを御簾越しに殿に伝え申し上げる。

 殿は、これに対して、御簾越しに小童に何事か伝えられたご様子。


 小童、てってと毒蔵の方へ戻ってまいって、

 「殿が、そちも悪よのうと、申しておられまする」

 

 出た。この界隈における頻出ワード。 

 「そちも悪よのう」

 「そちも悪よのう」オーラと邪悪な雰囲気に満ち満ちたこの空間で頻出する沸騰ワード。


 これに対する毒蔵の答えは(もちろん)

 「いやいや。殿ほどでは」と、これはもうほとんど形式化され、様式化されたこういう折の定型文。


 小童、これを承ると、再び三度四度五度、てってと走って御簾の中の殿のもとへ。そしてこの悪い奴らの定型文的セリフを、御簾越しに殿にお伝え申し上げたのであろう。


 その後、小童、てってと毒蔵の方へまいって申し上げる。

 「殿が、うへへへと笑っておられまする」


 これを聞いて毒盛毒蔵、思わずどす黒い腹の底から湧き上がってくるかのような邪悪な笑いを漏らさずにおれない。

 「うへへへ……」

 ところがこの毒盛毒蔵の邪悪な笑いに感化され、この邪悪なものどもの笑いに呼応するかのようにして、

 「うへへへ……」

 小童までもが、邪悪な笑いを漏らし始める始末。


 なんて悪い奴ら!



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 真夜中の最も深い時刻。

 真夜中の中の真夜中。

 夜の最も暗い時刻に……すっと障子が音もなく開くのと、拙者がパチっと目を開けるのと同時。


 拙者寝るときは枕元に常備しておる小刀を静かにたもとに引き寄せる。


 拙者の身に危険が迫っておることは百も承知。拙者の立場が非常に悪く、周りは敵だらけ。窮地に立たされておって、事態は悪化の一途をたどり、風雲急を告げておることは百も承知でござった。(なにがおきても不思議ではない。非常に危険な状況)


 最悪を想定して(この深い夜の底では、まことになにが起こってもおかしくはない)たもとに護身用の小刀を手繰り寄せる拙者。


 しかし、それにしてもそれにしても、障子をすっと開けたものというのが……誰あろう、事もあろうに、よりにもよってマレーバク! 


 あまりにも想像を絶することに、拙者の家の縁側にマレーバクが一匹立っておったのでござった……(あの白と黒のコントラストがユーモラスかつ美しい、長い鼻がチャーミングな巨大な生き物)

 拙者の家の縁側に、今拙者の家の障子を開けたばかりのマレーバクが一匹、月光に照らされつつ立ってござった。


 「信じがたい光景でござる……」

 拙者思わず、誰ともなくつぶやく。

 まるで夢のつづきのような光景でござった。第一のCOMAに引き続き第二のCOMAの間中ずっと見続けておった悪夢の延長のような光景でござった。まさしく夢現。現実のこととは思えぬこの目の前の光景。

 それはまことに信じがたい光景でござった……


 ところが拙者、ただ思わず誰ともなく呟いたにすぎぬのに、決してマレーバクに話しかけたわけではござらんのに。

 マレーバク、長い鼻の下から、

 「殿が、蛍侍殿に切腹をお命じになられました」

 流暢に、ごくごく自然かつ当然なことのように、ペラペラと喋り、重要事項を拙者に伝える。なおかつ

 「追手が迫っております」

 拙者に警告を与えるマレーバク。


 しかしこのとき、拙者あまりにも想像を絶する不可思議な光景に常識感覚コモンセンスが麻痺しかつ崩壊しておったのと、もう一つはマレーバクがあまりに自然に喋るのとで……この異常な状況に何ら疑問を持つことなく、ただ普通にマレーバクに答えてしまったのでござった。

 「そうか。覚悟はできておった」


 名護屋の殿が、拙者に切腹をお命じになられた。

 さもありなん。

 その命令を誰から聞こうと、マレーバクから聞こうと、それはどうでもいい些末なこと。殿が切腹をお命じになられたのなら……拙者覚悟は出来てござる。

 マレーバクによる報告だろうとなんだろうと、拙者も武士。武士に二言はなく、武士は言い訳などせぬ。ただただ殿の命令に従って、腹を切るのみ。


 拙者、否も応もない。マレーバクも介錯人もない。さっそく命じられるがまま、たもとの小刀で切腹つかまつろうとしたその手を、マレーバクが、あの貴婦人のような美しくも小さいお上品な手(前足)でそっと止める。(その感触たるや……この世のものとは思えぬほど柔らかく、優しい)

 「いけません。蛍侍殿の大切な生命を失ってはなりません」


 拙者いつの間にか、動物たちの間では蛍侍と呼ばれるようになってござって……


 「しかし殿に弓を引くわけにはいかぬ」

 殿の切腹命令を拒否して、殿に歯向かい、殿に弓を引こうなどというのは言語道断の暴挙でござって、ありとあらゆる意味で侍にあるまじき行為。侍である限り殿に弓を引くということは……これ絶対にありえないことなのでござった。そのことは動物であるマレーバクも重々承知。はじめから拙者の答えはわかっていたらしく……

 「逃げるのです」


 切腹でもなく、反逆でもない、第三の道を提案する賢明なマレーバク。

 逃亡。

 しかしこの案には一つ重大な懸案、あるいは欠陥がござって……

 「殿の切腹命令を拒否すれば、必ずや藩の秘密警察が動き出す」

 

 藩の最凶最強の秘密警察。それは毒蔵の手の者たち(あの、拙者が昼間戦った忍者精鋭部隊)よりも遥かに残忍凶悪かつプロフェッショナルな……手段を選ばぬ暗黒アサシン集団。秘密警察の手を逃れたものはかつてなく、秘密警察の姿をその目で見て、生き延びたものもひとりもいない。したがって、生きているもので秘密警察を見たことのあるものは存在せず、半ば都市伝説、半ばお化けばなしのような存在と化している藩の秘密警察。(しかしその凶悪かつ邪悪な者どもは間違いなく存在するのだ。夢や幻想、魑魅魍魎のたぐいではない)


 その最もやばい奴らが動き出すとすれば……

 「いやもうすでに動いておるのかも知れぬ。藩の秘密警察の手から逃れることは不可能。ましてこの体だ。逃げようにも逃げられぬ……逃げるったってどこへ!?」

 ついマレーバクに詰め寄ってしまう拙者。(マレーバクの胸ぐらを掴まんばかり)

 「隣の国へお連れします」

 非常に落ち着いた様子のマレーバク。人間の中にも、あるいは武士の中にも、この緊急事態にあってこれほどの落ち着きを見せるものはそうはおらぬ。


 隣の国。すなわち、隣の藩へ。我が藩とは長年に渡る敵対関係にある隣の藩まで、もし本当に逃げおおせることが出来たなら……我が藩に強制的に連れ戻されたり、引き渡し要求に応じたりすることはなかろうが。もし隣の藩まで本当に無事たどり着くことが出来たらの話。(そしてそれは、十中八九不可能な話)


 暗澹たる思い。絶望的な思いにとらわれる拙者に、マレーバク。

 「私たちが責任をもってお連れします」

 非常に力強くそういう。私たちが責任をもって。マレーバクたちが。動物たちが。責任をもって。


 その声には、その言葉には、芯から来る非常に強い力がこもっていて。


 「急いで。追手が迫っております」

 くんくん。あの長い鼻を空中に差し伸べ、アンテナのようにぐるぐる回転させるマレーバク。(非常に鼻がきくのだ)


 追手。早くも動き出した。マレーバクの嗅覚による可能探知距離が一里四方だとしても、追手はもうすぐそこまで迫ってきている。


 「お察しの通り、藩の秘密警察。容赦なき暗殺者どもです。蛍侍殿、早く」


 ついに動き出した藩秘密警察。泣く子も黙る、毒蔵の精鋭部隊さえ、その足元にも及ばぬとされる地上最凶最強の暗殺部隊。最悪の案件、藩の基礎を揺るがすような重大事件にのみ秘密裏に投入され……そして秘密裏に重大事件を解決する。

 しかしてその解決法は、常に死。常に暗殺。


 暗殺のみをこととする暗殺以外なんの解決手段も持たない、プロフェッショナル中のプロフェッショナル。藩の最終兵器にして、最終手段。


 狙った獲物は決して逃さぬ。秘密警察に追われて生き延びたものはかつてひとりもおらぬ、地上最強のハンターたち。


 その秘密警察が、ついに拙者をターゲットとして動き出した。さすがの拙者も、背筋に冷たいものが走るのを感じたのでござった。戦慄を禁じえない拙者。

 戦慄を禁じえず、硬直状態の拙者の背中を何やら柔らかくも気品あるものが押していて……これがマレーバクのあの貴婦人のような手(前足)!

 早く早くとせっつくマレーバク。いつの間にか部屋の中に上がって、拙者の背中をうんしょうんしょと押してござった。


 うむむ。拙者もしかし、満身創痍で、動くのもままならぬ身体。立ち上がることも出来ぬ。しかたなく拙者、マレーバクに押されるがまま、畳の上をゴロゴロ横に転がって、うんしょうんしょとやっとのことで縁側に出る。

 縁側にでてみると、拙者宅の小さな庭には、古ぼけ錆びついた乳母車が待っていて……

 「こ、これは!」

 月光に照らされた、古び錆びついた乳母車。その存在感は一種異様で、場違い感たるやものすごく……マレーバク、廃人同様の侍である拙者、そして錆びた乳母車と、月光の下、ある種のシュールリアリズムを感じさせる組み合わせのものどもが集結した形となったのでござった。


 拙者、あまりといえばあまりなことに、思わず傍白的に、

 「子連れ狼が大五郎を乗せておった木製乳母車!マレーバク殿は、拙者にこれに乗れと申すか?なんか気乗りせんのう」

 少々ぼやき気味になってしまう拙者。どうも気乗りしない拙者。


 こんなものに乗っておると、なにかの拍子に、例えばジャンプして着地した瞬間等に

 「ちゃーん!」とか言ってしまいそうでござる。(思わず、自然に、ことの成り行きで)ん?それはイクラちゃんでござったか?


 そしてつい、武士らしくもなく、マレーバクの前でグチグチぼやいてしまう拙者。

 「なにかもちっとましな乗り物はなかったでござるかのう……大八車とか猫車とか?」

 マレーバクの前で大人気ないないものねだりをしてしまう拙者。(しかし確かに大八車に仰向けに横たわった図のほうが、まだ武士の体面は保てそうでござるが……)


 「さ、早く」

 そのような拙者の揺れる心情を知ってか知らずか(揺れる侍魂)、拙者のぐちを聞いてか聞かずか、聞いて聞こえぬふりをしてか(おそらくこれでござろう)、マレーバク、ひたすら拙者の背中を貴婦人のような手(前足)で押す。


 しかし、こう見えて乳母車、その底面には最新式の機関銃が仕込んであって(仕込み機関銃)、いざというとき機関銃の一斉掃射とかそういう企図かも知れぬ。(マレーバクの底しれぬ知恵。人間には図り知れぬ、動物たちの本能的に備わった深い知恵)

 うむむ。他に手段があるわけでなし。ここはマレーバクの用意した乳母車に大人しく乗っておくでござる。


 マレーバクにうんしょうんしょと手伝ってもらいつつ……(縁側から庭に降りることもままならぬ拙者)乳母車を縁側のヘリまでもってきてもらって、その中に転がり込むように収まる拙者。(マレーバクの方は、乳母車で拙者をすくい取るような格好)


 上下逆となって乳母車の底に頭を付けた形の拙者を、うんしょうんしょとひっくり返すのがまた一苦労で……ようやくなんとか体勢が整い、乳母車の中に拙者、体育座りで収まった……と思った次の瞬間でござった。

 さっそくどこからともなく、矢が飛んできて乳母車の縁に刺さる。

 ぽす。

 一本目の矢。宣戦布告。容赦なき殺戮の開始。

 

 拙者たちは、モタモタしすぎたのだ。遅れを取ってしまったのでござる。(愚痴を言ったり、ぼやいたりしている場合ではござらんかったのでござる)

 容赦なき暗殺者たちは、いつの間にか直ぐ側まできていて、すでに拙者たちは秘密警察の射程内に入ってしまっておったのでござる。


 そして、二本目の矢は、容赦なく拙者の頭を狙ってござって……慌てて頭を引っ込め、これをかろうじて避ける拙者。

 

 もはや一刻の猶予もない。四の五の言っている暇はない。マレーバクが、いつものあの優雅で貴婦人的な動きに似ず、思い切り乱暴に(それは獣的といってもいいほどだ)拙者の乗った乳母車をどんと押すと(車同士の衝突事故並みの衝撃)乳母車を一気に川の中へ突き落とす。(拙宅が川縁のあばら家であることは先刻ご承知)

 そして、マレーバクももろともにざんぶと川の中に飛び込むと……

 「う、乳母車なのにいきなり川の中でござるか!?」

 大いなる疑念をもって叫ぶ拙者。しかし拙者の大いなる疑念の叫びを無視してマレーバク、得意の泳ぎで、川の急流をじゃぶじゃぶ上流に上り始める。(そう、あまり知られてはおらぬ事実かもしれぬが、マレーバクは泳ぎが得意中の得意)


 周りを見ると、拙者らの周囲を取り囲むようにして、数頭のマレーバクが拙者のマレーバク同様じゃぶじゃぶ泳いでござる。(乳母車内からそっと頭を上げ、周囲の様子をキョロキョロ伺う拙者)


 一種異様な光景。名護屋の川の急流を遡って上流へ泳ぐ、泳ぎの達者なマレーバクが多数。(無数というほどでなく、また大群とも呼べない、数頭のマレーバクひとかたまりで)

 まずこの名護屋の地で、これほどの数の野生のマレーバクを見ることは他にあるまい。それはまことに信じがたい光景でござった。


 月光に照らされた名護屋の川を泳ぐマレーバクの群れ。その水面に現れた濡れたマレーバクの体は、月光を浴びてまことに美しく輝いてござった。(この世のものとは思えぬ、美しい光景でござる)


 しかし、秘密警察の手のものの殺気が、川岸に満ちてござった。名護屋の川の川岸は秘密警察の殺気で充満してござった。

 この夜は彼らのもの。(THIS NIGHT IS THEIRS)


反逆者を地の果てまでも追い詰めるプロフェッショナル集団。どれほど百戦錬磨の逃亡のプロをもいとも簡単に追い詰める、追跡と捕獲のプロフェッショナル。彼らの手を逃れたものはかつて一人もおらぬ。百発百中。狙った獲物は決して逃さぬハンター中のハンター。


 マレーバクの手に命を委ねた拙者。(身動き一つ出来ぬ乳母車の中にしゃがみこんで、マレーバクたちの達者な泳ぎにすべてを委ねる……)

 川の中、どんぶらこと浮かぶ拙者の乳母車の舵を取り、推進力となっておるのは、そう、マレーバクたちの達者な泳ぎ……それのみ。


 どう考えても、常識的に考えて、拙者がこの先、秘密警察の手を逃れ、生き延びる可能性は万に一つもない。

 乳母車はプカプカ川を浮き、拙者にできることはなにもない。ただひたすら乳母車の中で体育座りをしてマレーバクたちの達者な泳ぎに身を委ねるのみ。マレーバクたちがいくら泳ぎが得意とはいえ、急流を遡るハンデ、拙者と乳母車を押しつつ泳がなければならぬハンデ、さらには韋駄天揃いの韋駄天集団である秘密警察の手の者たち。この速度では、秘密警察の手を逃れることは出来ない。すぐに追いつかれてしまうだろう。


 川岸を不気味に、まったく沈黙のうちに移動する秘密警察。この速度で、川を上るマレーバクの群れ(そしてその中心にある拙者の乳母車)は、秘密警察にとって格好の標的。彼らにとっては、マレーバクの泳ぎなど、止まって見える。あくびが出るような、極めて簡単な標的だ。 


 秘密警察のトレードマークである、非常に使い勝手が良く、かつ非常に殺傷能力が高いことで有名な短弓を引き絞る(あの独特の)きゅりきゅりいう音が、闇夜に響く。

 秘密警察の手のものが、その韋駄天をかっ飛ばしながら、短弓を引き絞る。


 丸腰の拙者に対して、(明らかに奴らのターゲットは拙者)引き絞られた無数の短弓。思い切り引き絞られた無数の短弓は、次の瞬間無数の必殺の矢を吐き出すこととなり……次の瞬間、必殺の矢が雨あられと降り注ぐことになるだろう。


 万事休す。拙者もはやこれまで。そして、急流を遡りつつある乳母車の中で、拙者にできることはなにもない。


 そして、

 びゅんびゅんびゅんびゅん!

 音が変わって、拙者の運命が決せられる。(運命の瞬間)拙者に向かって放たれた無数の矢! 


 もはやこれまでと思いきや……

 突如として、周囲のマレーバクが次から次へと躍り上がる。驚くべきことに、拙者の周囲のマレーバクが、次から次へと川の中から躍り上がって……

 その美しい巨大な体で、拙者に向けて放たれた矢を受け止める!

 ぽすぽすぽすぽす。

 

 月光の中、水しぶきを上げながら躍り上がって、自らの身体で矢を受け止めるマレーバクたち。拙者の代わりに、無数の矢が剣山のごとくマレーバクの巨体に突き刺さり……拙者呆然として、魂が抜けたようになり……目の前で起こっていることを理解することが出来ぬ。(いったいこれはなんなのか?いったいこれはなにが起こっているのか?)


 秘密警察が放った必殺の矢は、すべてマレーバクたちが受け止め、拙者にはただの一本も刺さることがない。(一本でも刺さればその衝撃で死んでしまうとされる必殺の矢だ)


 拙者の盾となったマレーバクたち。(それは、信じがたい恐るべき光景だ……)


 マレーバクたちが、その白と黒の美しい体に無数の矢を突き立てながら……なおもいっしょに川を遡っていく。なんという凄まじい光景だ……人間などより遥かに耐久力のあるマレーバクたち。(秘密警察の放った短弓の矢が一本刺さるだけで人間にとっては致命傷となりうるのだ。それを無数に受けてなお川を泳ぐことができる、恐るべき耐久力をもったマレーバクたち)


 しかしもちろん、耐久力にも限界がある。耐久力を備えたマレーバクとはいえ、その耐久力にも限界がある。無数の矢を突き立てつつ泳ぎ、なおも秘密警察が短弓の矢を放てば、躍り上がって拙者の盾となり、矢を受けるマレーバク。

 やがて臨界点に達すると、マレーバクは物言わず、静かにゆっくりと、一頭で川の底に沈んでいく……(暴れることも騒ぐこともござらん)

 長い鼻を揺らめかせながら、ゆっくり静かに川底に沈んでいくマレーバクたち。


 多くのマレーバクが沈んでいった。拙者の乳母車を取り囲んで、拙者のう乳母車を押してくれた多くのマレーバクが今や川底に沈んでしまった。(川面にプカプカ浮くにはあまりに重い、マレーバクの巨体)


 しかし、次から次へと脱落し、川底に静かに沈んでいくマレーバクたちを……拙者はどうすることも出来ぬ。拙者にできることは今、なに一つとしてない。


 先頭で拙者の乳母車を引いてくれておるマレーバク(最初の拙宅の障子を開け、ファーストコンタクトをとったあのマレーバクでござる)に拙者、大音声で呼ばわる。

 「マレーバク殿。これはいったい……!?」

 万感の思いを込めた疑問符。 

 いったいこれはなんなのか?

 今まさになにが起こっているのか?


 すべての文章に疑問符を込めて、拙者が叫ぶ。するとマレーバク、

 「動物は、一度受けた恩を決して忘れませぬ。蛍侍殿」と、実に意味深な謎めいた答え。にわかには理解し難い、マレーバクならではの謎めいた、意味深な答え。(このとき拙者は確かにこのマレーバクの答えの意味を悟らなかったのでござった……)

 

 そして、そう答えた先頭のマレーバクの頭にもすでに数本の矢!

 

 動物は、一度受けた恩を決して忘れませぬ……


 姿の見えぬ追手(川岸の茂みあるいは林家盛に巧妙に姿を隠し潜む秘密警察の手のもの)。一方こちらは月光に照らされた川の真ん中を泳ぐ(しかも急流に逆らい、流れに棹さして)丸見えでがら空きの拙者とマレーバク。(明らかに格好の標的。ほとんど射的の的と化した拙者たち)


 もはや頼れるものといったら、マレーバクたちのその巨体と尋常ならざる耐久力のみでござって……まるで的となるために、盾となるために、拙者のために集まってくれたかのようでござった。これほど多数のマレーバクが、ただひたすら秘密警察の短弓の矢の的となるために、拙者を必殺の矢=致命的死の矢から守るために盾となって川底に沈むために集まってくれたかのようでござった……これほど多数のマレーバク。


 そして、あの白と黒の模様が美しい、この世のものとは思えぬほど気品のあるマレーバクたちは、全身矢を突き立てて、次々と川底へ沈んでいった。物言わず、静かにゆっくりと、目を閉じて。


 拙者としてはなすすべなく、(乳母車の中にしゃがみこんで)ただ呆然とこれを見守るのみ。


 秘密警察の放つ矢の勢いはいっこうに衰える気配がなく、着実にマレーバクたちを射抜き、仕留め、川底に沈めていく。(決して焦ることなく、ゆっくり着実に目的達成に近づいていく秘密警察)


 秘密警察は、決して焦ってはいない。夜はまだまだ始まったばかり。この夜は奴らのもの。マレーバクたちの泳ぎに合わせて、川岸をゆっくり移動し、最適のタイミングで最適量の矢を放つと、着実にマレーバクたちを仕留め、こちらの耐久力、防御力を奪っていく。(プロフェッショナル中のプロフェッショナル。人間を狩りたてることに慣れた本物のハンター集団)


 姿を決して見せぬ秘密警察が、いったい何人いるのか、どれくらいの勢力で拙者を追っているのか、それさえ見当もつかない……この闇の中では。また、それを決して気取らせることがない、姿を隠し、機密を保持することに長けた秘密警察。その矢の勢いはいっこうに衰えることがない。


 そしてある地点まで到達すると、おもむろに一気に勢いをつけて陸に上がるマレーバク。(拙者の乳母車をも陸に引っ張り上げる)

 ざばあ。

 マレーバクの身体からも、乳母車からも大量の水が溢れ出て……初めて乳母車の揺れが収まり、拙者久々に川の中ではなく陸の上に身を置いたことを感じる。(ずっと急流の中を揺れに揺れ続けていた拙者は、久々に揺れることのない地上に立って、逆にものすごい違和感を感じるのでござった。逆に船酔いしているように感じる拙者)

 乳母車の中から頭を出してあたりを見回すと、あろうことか、周囲のマレーバクは先頭の一頭を除いて全滅。一頭たりとも生き残っておらなかった……みんな川底に沈んでしまっておった。

 

 なんというなんという立派な者たちだ……!これほど立派な者たちを、拙者は人間の中でも、あるいは武士の中でも他に知らぬ。


 「蛍侍殿。ここから先はこの者どもがご案内いたします」

 マレーバクが苦しげにそう言いながら、拙者の乳母車をその長い鼻で押しやった先には……

 ギンギツネ。月光に照らされて、マレーバク以上に美しく光る立派なギンギツネが、すっくと四足で立って、拙者を待ち受けてござった。

 「ギンギツネでギンギツネ」

 ギンギツネの自己紹介らしかったが……がしかしそれにしても!

 「語尾でござるか?その、でギンギツネの部分は!?」 

 そこが気になる拙者。いや、気になってしようがない拙者。それにつけても……ギンギツネの喋る語尾が「でギンギツネ」とはこれいかに!これはいったい?


 安直といえばあまりに安直。当たり前といえば当たり前……いや、当たり前ではないでござろう!人間である拙者の語尾が、

 「拙者、蛍侍で人間」であるようなもの。いやいやとうてい当たり前ではござりますまい。(語尾問題)


 ところがこれに答えてギンギツネ。

 「そうでギンギツネ。他のギンギツネとこのギンギツネを区別するギンギツネでギンギツネ。ギンギツネでなければ他のギンギツネとこのギンギツネを区別することはでギンギツネ。ギンギツネによってこのギンギツネと他のギンギツネを区別するギンギツネでギンギツネ」と、滔々とよく喋るギンギツネ。(その知性は、動物界一とされる。いわば動物界の論理哲学者=動物界のヴィトゲンシュタイン)


 ただし拙者には今ギンギツネが言ったことはほとんど理解できず、使用語彙の中で、明らかにギンギツネ率が高すぎるのでござった!


 そこで拙者呟いて曰く。(半分ボヤキ)

 「いざというときのコミュニケーションに支障をきたしそうな、いざというとき大混乱を巻き起こしそうな語尾でござるな……」

 これが拙者の正直な感想。

 と、この拙者のつぶやきを受けて、

 「なら、やめよう」と、わりとあっさりと、聞き分けの良いギンギツネ。(対人適応力が極めて高い動物)

 「あ、やめられるんでござるな」

 本能的に組み込まれたものかと思いこんでおった拙者、やめようと思えばやめられるものであったことに少々驚きを隠せぬ……しかしまあ、それ以上の追及はせぬ。

 

 「急ぎましょう」

 最後まで矢の盾となってくれておった、最後のマレーバクが最後の矢を受けて、ばったり倒れ伏すと……(やはりマレーバクは最後まで物言わず、黙ったまま倒れ伏す。深い深い、人間界では見ることが出来ぬほどの、あるいは聞くことが出来ないほどの沈黙を保ったまま)その背中には無数の矢。そのままじっと黙って目をつむり、深い川底に沈んでゆく……

 あのとき拙宅の障子を、その貴婦人のような手(前足)でそっと開けて……

 「蛍侍殿、お迎えに参りました」

 あのときすでに、マレーバクは覚悟を決めて……拙者をここまで送り届け、ギンギツネにあとを託すまで責任をもって……

 あのときすでにマレーバクは、自分のなすべきことを逆算して……

 あのときすでにマレーバクは、こうなることが全てわかっていて……


 それでいて……


 なんというなんという気高さ。

 なんという気高き魂であることだ。


 拙者は魂が引っこ抜かれたような状態に陥り、そして長い間、そのままの状態でござった。(一度引っこ抜かれた魂は、そうたやすく帰ってまいらぬ)


 ギンギツネに引っ張られるまま、乳母車が今度は陸上を走る!

 乳母車は基本陸上を走るためのものとはいえ、小さな車輪4つでこの舗装されておらぬ森の中の道なき道をデコボコ跳ね回りつつ、全力疾走するというのは……いかんせん無茶であって無理無体。

 拙者身体ごと飛び跳ね、ぶつけ、ひっくり返り……もはや半分ミキサーの中でかき回されておるような気分。喋れば間違いなく舌を噛む。それほどのデコボコ獣道でござったのでござった。


 この古び、錆びついた乳母車でギンギツネの全力疾走というのは……キイキイ乳母車は軋み、全体の蝶番が今にも外れてバラバラになりそうでござった。(恐るべき負荷がかかる乳母車。乳母車は決してこのような用途のために設計されてござらぬ。乳母車は決してオフロードラリーには適してござらぬのだ……!)


 まだしも川をプカプカ浮いている方が乳母車移動は快適だったのではないか知らんと拙者思うほどに、この乳母車陸上移送は、重傷かつ重体の拙者にとって辛いものがあったのでござった。(ほとんど廃人同様、絶対安静、全治十年の拙者)


 しかもその上、秘密警察の矢は相変わらず容赦なく雨あられと降り注いでござって……いっこうにこの雨あられは止む気配がござらぬ。(やまない雨はないと申すが)


 森の中を我が庭を駆け巡るがごとく、風のように疾走するギンギツネ。風のようとはまさにこのこと。複雑に入り組み、進路を塞ぐ無数の森の木、木の枝、蔦の絡まり、切り株、落とし穴、アナグマの巣等々をみごとにすり抜け、飛び越えて……(わずか一瞬も立ち止まることなく、減速することさえない)

 トップスピードの全力疾走で、ありとあらゆる障害をすり抜けて行くそのさまは……まこと風のよう。疾風のように、ギンギツネは森の中を駆け抜けるのでござった。(おそらくこの世で最も美しい生き物でござろう、風のように走るギンギツネ)


 そして、拙者の乳母車の周囲を見ると(拙者、矢の雨あられの中で、首を上げるのも怖かったのでござるが……でこぼこ道に跳ね上げられて、容赦なく体半分乳母車から跳び上がってしまう)拙者たちに並走して、数頭のギンギツネがやはり全力疾走しているのでござった。美しき森を走るギンギツネの集団。


 この神のごとく美しいギンギツネの集団の中で……拙者と乳母車だけが醜い、古ぼけた、さもしい卑しいもののように思われた。みすぼらしい、ボロボロの廃人同様の拙者と、廃棄寸前の乳母車。


 風のように走るギンギツネではあったが、秘密警察から逃げ切るのに十分な速度ではござらぬ。(もっとも、拙者と乳母車というハンデがなかったら、ギンギツネたちは大いに秘密警察たちに水を開けたでござろうが)

 秘密警察の圧迫感たるやものすごく、森全体がまるで秘密警察の監視下に置かれておるかのよう。どこにもかしこにも秘密警察の邪悪な目が感じられ……(いわゆるイーブルアイ)森の中をどれだけ走っても、秘密警察の息詰まるような圧迫感からは決して逃れられないのでござった。


 そして、秘密警察の手のものどもは、相変わらず決して焦ってはござらんかった。彼らは優秀なハンターであり、焦ってことを仕損じるような真似は決してせぬ。

 じわりじわりとその差を詰めてまいる秘密警察。そのにじり寄り方は(彼らの目線で言えば)絶妙で、(追われる立場からすると)実にいやらしく、勘弁してくれと言いたくなるもの。


 つかず離れず、絶妙な距離をにじり寄ってくる秘密警察の嫌な存在感はますます増大し、次第に圧迫をくわえ、こちらの精神を参らせる……

 すべては計算ずく、すべてが計算されつくされたハンターのやり口なのでござった。(とことんまで獲物を追い詰めるプロフェッショナル中のプロフェッショナル)


 次第ににじり寄ってくる秘密警察の気配。森の中のすべてのものが、秘密警察の木霊であり、秘密警察の息がかかっている……そんな妄想に囚われ、恐怖で息もできなくなる拙者。

 秘密警察のいや増す存在感は、拙者の恐怖中枢を直撃し、乳母車の中で拙者、いても立ってもいられぬような気分に襲われまくり……あまりの神経的恐怖に拙者思わず大声を上げそうになり……もはや追手がすぐ背後まで迫ったその瞬間(拙者の恐怖の絶頂)

 疾走する並走するギンギツネの群れの中の一頭が、(風のように全力疾走するギンギツネの群れ。群れ全体が一つの風のようだ……その中からちぎれるようにして)体をひらりと翻し、なにも言わず、背後の秘密警察のものどもの中へ……自ら身を投じる!


 背後で歓声が上がる。

 あまりにも醜い、人間のいやらしさ、ドス黒さ、薄汚さ、醜さが露骨に現れた野卑な歓声でござった。(それは、野蛮で獣的な歓声)そして、身を投じたギンギツネを残虐にも嬲り殺す音。残虐にもギンギツネは秘密警察の手によって殺戮され、皮を剥がされ、鞣される。


 超高級なギンギツネの皮。このあまりにも美しい、光り輝くシルバーの毛皮は、人間どもの間で最高級品とされ、ギンギツネの皮一枚で城が一個傾くとさえ言われてござるのだ……秘密警察とて人の子。これほどのお宝が目の前に飛び込んできたとあっては、任務などそっちのけでお宝に飛びつかずにおれないのだ。飛び込んできたお宝の誘惑には勝てないのでござった。

 

 追手たちが一瞬立ち止まり、ギンギツネを殺戮して皮を剥ぐまでわずかの時間が稼がれる。追手たちが一瞬拙者たちのことを忘れ、拙者たちを逃げるがままにしてしまう!

 ほんの一瞬ではござったが、その間に拙者たちは距離を稼ぎ、時間を稼ぎ、なんとか破局を先延ばしにすることができる。


 拙者あまりのことに、天を仰いで……

 「ギンギツネ殿。あれは、拙者たちが逃げる時間を稼ぐため……(自ら)?」

 拙者その答えはもちろんすでに知っているが、なお聞かざるを得ぬ。

 これに答えて、先頭をひた走るギンギツネ(はっはっ)、息を切らしながら……(はっはっ)

 「我々動物は狩られ慣れている。心配ない。皮も剥がれ慣れている」と、なんとも凄まじい答え。一切の甘えのない、むき出しの答え。


 動物たちの世界。一切の甘えが許されぬ、セーフティネット皆無の、頼るもののない動物界ならではの、凄まじい答えでござった。甘ったれ、甘やかされた人間たちには遠く及びもつかぬ、本当の厳しさを秘めた答え。聳え立つ峻厳なキリマンジャロのような、身の毛もよだつ、恐るべき答えでござった。


 ギンギツネの畏怖すべき答え。

 それを、ギンギツネは眉一つ動かさず、表情一つ変えず言い切ってみせる。


 凄まじいこと、恐るべきことだ……!

 しかも、たったひとり、拙者のために……!


 なんという動物たち。なんというものどもだ……拙者、人間界の中でも(というか人間界の中では)これほどの者たちを見たことがない。


 我々動物たちは狩られ慣れている。

 心配ない。

 皮も剥がれ慣れている。


 これほどの戦慄すべきセリフを言ってのける者たち。これをごく平然と、眉一つ動かさず言ってのける者たち。その魂の強靭さ、峻厳さは……人間たちなどには遠く及びもつかない。(魂の最高峰)

 まるでギンギツネの心のなかには、鉄の風が吹いておるかのようでござった。(拙者ただただそう感じた)


 全力疾走のギンギツネ群。


 秘密警察どもも、一瞬足を止めたとはいえ、それはほんの一瞬。すぐに再び体勢を整え、執拗な追跡にかかる。再び、じわりじわりとにじり寄ってくる藩秘密警察。その圧迫感は再びじわりじわりと高まってきて……その緊張が絶頂に高まり、拙者の乳母車に秘密警察のものの手が今にもかかりそうになった刹那。一頭また一頭と群の中のギンギツネが、美しく光り輝く毛皮をもつギンギツネが身を翻し、野卑で野蛮な敵秘密警察の雑多な群の中へ身を投じることによって……時間を稼ぐのでござった。


 それは、美しきギンギツネが無惨にも殺戮され、皮を剥がれゆくということを意味してござった……


 拙者はもはやいうべき言葉を失った。

 拙者にはもうこの光景を見て、なにもいうことが出来なかった。


 気高くも美しき者たち。


 「しかしギンギツネ殿」

 先頭をひた走るギンギツネに拙者呼ばわる。(その声は激しく震え、戦慄を覚えており)

 「何故に戦わぬのでござるか?その鋭き知恵と、鋭き牙と爪を持ってすれば、あれら人間どもを返り討ちすることだってできように?」


 動物界一の知恵と、高い戦闘力を誇るギンギツネの種族。決して狩られておるばかりの種族ではござらんはず。あれしきの秘密警察、やろうと思えばいくらでも返り討ちにすることができように?

 狩られ、皮を剥がされておるばかりの種族ではござらんであろうに?ギンギツネというこの誇り高き種族。風のように疾走し、決して人間などには捕まらぬ種族でござろうに?


 しかし、この拙者のいわば実に人間的な質問に答えて……

 はっはと息せき切って先頭をひた走るギンギツネ、後ろを振り返りもせずに……(その声だけが風にのって拙者の耳に飛び込んでまいる)

 「神がそれを禁じている」

 またもや深い含蓄を秘めた答え。マレーバクにせよギンギツネにせよ、動物たちの語る言葉は、人間には及びもつかぬほど深遠で……かつ奥深いもの。それはもう、江戸の朱子学者や陽明学者でさえとてもとても及びがつかないものでござった。

 動物たちの言葉は、底しれぬ深淵からこんこんと湧き溢れてまいるようで、汲めども尽きせぬその泉は……決して人間どもに極めることが出来ぬ。


 神が禁じられたこと。それは……

 「食べるため(ということは生きるため)のほかに、動物を殺すことは」


 ガツンと頭を殴られたような思いがする拙者。ギンギツネはその優美な本性にしたがって、決して名指しはせぬ。直接の言及を避けてはござるが……人間だけが、その掟を破っておる。人間だけが、自然界に厳しく課された神の掟を破っておるのでござった……

 平気で食べるため(すなわち生きるため)のほかに動物を殺す人間たち。(時には人間同士、平気で殺し合う人間たち)

 平然と厳格な神の掟を破り捨てる人間たち。そして、そんな事を平気でやるのは、この地上で人間たちだけなのでござった。


 恐るべき、戦慄すべき事実。

 それを、ギンギツネに(暗黙のうちに)突きつけられる拙者。人間たちが平気で破り捨て踏みにじった神の掟を……動物たちは峻厳に、なにがあろうと厳格に守っておるのでござった。(それこそ、自らの生命を捨ててまでも、この世の終わりまで、世界が終わっても守り続ける動物たち)


 「その掟を破るものは……?」

 あえて聞く拙者。聞かずにおれぬ。ギンギツネのあまりにも優美な沈黙に、かえってやましさと焦燥感に駆られ……あえてそう質問せざるを得ぬ拙者。

 

 しかしこの拙者の軟弱な質問には答えることなく、まっすぐ前を見たままひたすらに走り続けるギンギツネ。その横顔は知性に満ちていて気高くも美しい。これほど気高くも美しい横顔を拙者は人間界では決して見たことがござらん。

 かのギリシアの哲人たちでさえ、これほど美しい知恵に満ちた横顔をしてござらんかった……


 そして決して拙者の質問に答えることがござらんかった。その沈黙は何より優しく、そして悲しいもの。それは慈悲深いと言ってもよいほどのものでござった……


 まこと拙者はこれほど力強くかつ優美なものを見たことがござらんかった。また二度と永久に見ることはござらんでござろう。(これほどの力強さと優美さが一緒になり、渾然一体となったものを拙者は他に存ぜぬ)


 「着いた」

 魂を抜かれたようにただただ乳母車に乗っておっただけの拙者に飛び込んでまいったギンギツネの言葉。


 「俺たちの案内はここまでだ」

 森の端。森の極まった場所。森の終点。森の終わり。


 そういうと、(というよりそう言い残すと)ギンギツネ(最後の一頭)がひらりと体を返して、野獣のように目をランランと光らせた秘密警察の群の中に、その月光に照らされて美しく輝く身体ごと踊り込んでいく。

 湧き上がる醜い歓声。下品で野卑な、まるで市議会、町議会のヤジのような下品な歓声が上がって……

 ガキ

 バリ

 ボリ

 殺戮と、皮が剥がされる音。聞くに堪えない音が、森の中に響いて……しばし足止めを食う秘密警察。


 かたじけない……ギンギツネ殿。


 森の終点。そこから先はだだっ広い荒れ地。そしてその荒れ地を抜けた先には隣国=隣の藩!


 最後の一頭のギンギツネとあまりにも凄まじい別れを告げ、森の果てにほっぽりだされた格好の拙者の乳母車。(よくここまで過酷なラリーを持ちこたえた。もはやボロボロで全体が軋み悲鳴を上げておる乳母車。期待してた機関銃掃射はなかった……)


 俺たちの案内はここまでだ。


 我々が責任をもって隣国へお連れいたします。マレーバクの言葉。


 しかし、引き渡し、受け渡しの不備か連絡ミスか、だだっ広い荒れ地にひとりほっぽりだされた格好の拙者と乳母車。辺りに次の道案内をしてくれそうな動物は見当たらず……不安に駆られ、キョロキョロ見回す拙者の視界にずいぶんと下の方から飛び込んでまいったのは……拙者の乳母車をずいぶん下の方で引っ張ろうとしているのは、ずいぶんとこれまた小さきもので……ずいぶん小さな動物が拙者の乳母車をよっこらせと引っ張り始めておって……(最初勢いがついて転がりだすまでが一苦労)


 あの、月光に照らされてぬらぬら光る後ろ頭は……カワウソ!


 「文句あっか!」

 ひげをいからせて威嚇する、妙に短気なカワウソ。(別に拙者、声に出してなにかを言ったわけではござらんかったが)


 しかし、走り出してからは速い。速い速い!今までで一番速い!俊足を飛ばす、韋駄天カワウソ。

 見ると、やはり周囲を大量のカワウソが、カワウソの大群が走っておる。てててててというよりも……どどどどど!

 速い速い。全員一丸となって突っ走る黒いカワウソの大群はまるで地上をひた走る一頭の鯨。あるいは対地上迎撃ミサイルのようでござった。


 月光に照らされててらてら黒光りするカワウソたちの身体。今度はもう、疾風ではなくて巨大な弾丸。まっすぐ荒れ地を突っ走るレックレスな一個の弾丸でござった。(その中心には拙者の乳母車)

 ものすごい速さで我が藩と隣の藩の境界の荒れ地を駆け抜けるカワウソ群。(ここはいわゆる非武装緩衝地帯)

 そのスピードたるや……韋駄天アキレスでさえ舌を巻こうかというもの。全員一丸となって……その相乗効果で天井知らずの最高速度を突っ走るカワウソの群。それはもう、秘密警察などお呼びでなく、秘密警察がいくら全力で走っても到底及びがつかない。(秘密警察は秘密警察で、人間の中では韋駄天揃いなのでござったが……しかし動物の持つ能力というのは到底人間の及ぶところではござらん)


 トップスピードでひた走るカワウソ群の真ん中にあって拙者の乳母車、跳ねたり飛んだり、てんやわんやではござったが……それでも森の中の獣道よりは安定度は高くまだまし。

 うーむ。快適なドライブとはいかないまでも、どうやらこのまま(マレーバク殿が最初約束してくれたように)無事隣の藩までたどり着けるものか……と少々楽観的な思いが頭の中をかすめ始め……

 後ろを見ても、そこに秘密警察の姿は影も形もなく、ついに秘密警察を振り切った……どうやら大きく水を開けたようでござって……(なにせ隠れるところのないだだっ広い大平原=荒れ地。身を隠そうにも隠しようがござらん)

 さすがの拙者もこいつは首尾よく藩脱出に成功しそうなもんでござると、楽観に頭が傾きつつあったその時でござった……!


 あと一息で隣国という最後の最後で、最大の試練が待ってござった! 


 今回の脱出行。我が逃走劇における最後にして最大の難関。

 突っ走るカワウソ群(+拙者の乳母車)の目の前に見えてまいったのは、隣藩と我藩の間の長年に渡る激戦の跡。(いわゆる戦跡)

 見渡す限り砲弾による穴だらけ。そこら中塹壕、落とし穴だらけ。マシンガン設置後の穴、排泄用の穴、手榴弾の穴、誤射の穴、穴、穴、穴……激しい戦闘行為によってえぐられ、開けられた穴がそこら中足の踏み場もないくらいぽこぽこ開いてござった。


 この光景を見て、天を仰ぐ拙者。

 これはもう、カワウソたちがあの短い足で走るのもままならぬ。ましてや、ああ、この乳母車では……!

 このときほど拙者、拙者が乗っておるのが乳母車であることを恨んだことはござらん。この乳母車というチョイスが重大なミスだったのではござらんかと激しく疑念を抱いたことはござらん。

 乳母車が、この小さな車輪でこの穴ぼこだらけの戦跡を行くことは到底不可能。しかし、だからといって……背後からはひたひたと秘密警察のものどもの放つ鋭き殺気が迫ってまいっておって……


 隣藩と我藩の境界線上。ここは、彼ら秘密警察にとっても最後のチャンス。(ラストチャンス)ここを逃せば、拙者はもう隣藩に逃れ、秘密警察といえど手は出せぬ。となると、彼奴らにしても必死。なんとしてもここで拙者を仕留めにかかる。この期に及んでは秘密警察のものどもも、なりふり構わず手段を選ぶまい。


 呆然として、生きた心地もせぬ拙者を尻目に、呆然とするどころか棒立ちにもならず、カワウソたち全力疾走。その上がり続けるトップスピードをいっこうに緩めようともせず……(アクセルベタ踏みの踏みっぱなし)まるで目の前に広がる穴ぼこだらけの陰惨な黒い大地など目に入らぬかのように、トップスピードのまま一切躊躇することなく砲弾跡だらけの古戦場に突っ込んでいくカワウソの群。

 「わわわ!」


 ところが、なんということだ。

 あろうことか、数匹のカワウソが身を躍らせて穴の中に飛び込み、数匹単位でギュウギュウに詰まって穴を塞ぐ!(狭い穴の中にギュウギュウ詰めになりたいというのは小動物の本性ではござるが……だがしかし)


 カワウソたちの犠牲により平らに均された大地の上を(ある種、カワウソの身体により舗装された平坦な道)乳母車は前よりいっそう速度を上げて走る!(なんてことだ……)


 恐るべき舗装、畏怖すべき平らな道。乳母車は唸りを上げながら、F1カーを超えるトップスピードで古戦場を駆け抜ける!


 しかし拙者、乳母車の中で、乳母車の底で、車輪の下のすぐ尻の下のカワウソたちの押しつぶされていく身体を直に尻で感じる……(体育座りでうつむいた拙者)

 尻で感じるというより、直に心で感じてしまう。


 残酷にも、無惨にも拙者と乳母車の全体重がのしかかって、潰れ砕けゆくカワウソたちの身体。しかし、カワウソたちはわともぎゃともぴーとも言わず、ただただ黙って押しつぶされ、死んでいく。


 それを、直に尻で心で感じてしまう拙者。


 「カワウソ殿……」

 乳母車の中から拙者、極めて情けない声で……

 「なんだ!」

 妙に短気なカワウソ。

 「拙者、心が張り裂けそうだ……」

 「うっせー!」

 拙者の泣き言なんかに一切耳を貸さないカワウソ。(そういうタイプ)全力疾走を緩めることなくひた走る!


 しかし、まったく跳ねたり踊ったりすることなく、今までで一番快適なドライブとなった乳母車の車内で(それは新幹線並みの揺れのない快適さでござった)拙者が考えることといったら……

 「拙者、動物殿たちにここまでしてもらうに値しない……あんなにも気高く尊い動物殿たちの犠牲に全然値しないよ……」

 切々と、心情の吐露。(あるいは泣き言/弱音)


 マレーバク

 ギンギツネ

 カワウソ


 そしてこれが、拙者の本音。あれほどまでに尊く、美しい魂を持った動物たちの犠牲。それに拙者は全然値しない。(いや、あれほどまでの動物たちの犠牲に値する人間なんてこの世にはおらぬのかも知れぬ)


 拙者なんかのために、あれ程の犠牲を払って……

 拙者はもう、心が張り裂けそうでござった。とても持ちこたえられそうになかった。


 先頭を行くカワウソ。今度はしばし黙ったあと、おもむろに口を開いて……

 「いや、俺が思うに……あんた今まで見た中で一番立派な人間だよ」

 その答えに対してなにか言いかけた拙者に(その答えに物申さずにおれようか?)

 「黙ってろ。舌噛むぞ」

 相変わらず、カリカリした妙に短気なカワウソ。


 カワウソたちが身をもって(文字通り身をもって)砲弾跡を埋めてくれたおかげで、拙者と乳母車は信じがたいスピードで、F1カーレース場のF1レーサー並、あるいはそれを超えるスピードで、古戦場を駆け抜けたのでござった。

 目にも留まらぬスピードとはこのこと。拙者もう周囲の後ろに飛び去っていく光景はほとんど目に入らず、乳母車の中で、なにも見ておらなんだ。


 秘密警察の手の者どもは最後の追い上げを図るも(ラストスパートをかける秘密警察。彼らとしてもここで獲物を逃がすわけにはいかぬ。沽券に関わる事態)やはり砲弾跡に四苦八苦。足を取られ手を取られ、頭まで取られるものまでおる始末。どうにもこうにも前に進めない秘密警察。


 かなり引き離した。


 「着いたぞ。国境だ」

 いつの間にか乳母車はストップしておって……拙者はっと我に返って、乳母車から久しぶりに顔をのぞかせると……国境。念願の……あのときマレーバクが確かに固く約束したところの。


 我々動物が、隣藩まで責任をもってお連れします。


 しかしカワウソの大群が、ついに最後の一匹になっている。

 

 拙者、ずっとここまで遥か長い距離を乳母車の中に体育座りしっぱなしでござった……久方ぶりに腰を伸ばし、伸びをして、体を伸ばすと、乳母車から出て、地上に降り立つ。

 降り立ってみると、ずいぶん体も良くなっておる。あれほど弱り果て、身体中傷んでないところはないというくらいの満身創痍。ほぼ完全に廃人でござった拙者が、(再起不能と思われたのに)いつの間にか立って歩けるまでに回復してござった。(それはもう、奇跡のよう。動物たちに引かれてここまで長い長い乳母車の旅を続けてまいるうちに……それは決して快適な絶対安静な旅ではござらんかったけども、不思議なことに、拙者の身体は回復してござったのだ)


 拙者、それでもまだふらつく身体を乳母車の取手で支えつつ……

 「一つ聞いていいかな?」

 カワウソに、最後一匹だけ残ったカワウソに聞く。

 カワウソ、なんだか気取ってひげをピンと伸ばし、

 「どうぞ」のポーズ。


 「なんできみたちは拙者にこれほどのことをしてくれたんだ。拙者はきみたちになんもしてないのに」

 一番聞きたかったこと。道中ずっとずっと聞きたかったこと。


 そして今度は短気を起こさず、まっすぐ答えてくれるカワウソ。

 「いや、あんたが名もなき哀れな姫ホタルたちにしてくれたことって、まさにこういうことなんだよ」


 夜は過ぎ、今まさに朝日が昇りつつある。


 その力強い朝日に真正面から照らされて、(まばゆいばかりに光り輝くカワウソの顔)ピンと背筋を伸ばし、ビシッと敬礼して……

 「動物たちと姫ホタル一同は、蛍侍殿に心から感謝する」

 そう言って、さっと身を翻し、風のように立ち去るカワウソ。


 あとにひとり残された拙者、まばゆい真っ白な朝の光の中で……あとからあとから涙が溢れて止まらない。 

 

  


 

 


 

 

 

  

 

 

 

 


 


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