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 あの夜、あの路地で、戸川団は死ぬ筈だった。


 ちょっと太目の縞猫・ピートは、彼の命と引き換えでなければ救う事ができない。そんな因果の成り行きが団には確かに見えていたのだ。


 思い起こせば未だ櫛田と訣別していない、およそ一年前……


 彼は夜間に櫛田ファンドの本社を訪れ、投資に関する相談、ネットワーク・プログラムのチェックをしたと言う。


 そして気紛れでビルの屋上へ上がり、テリトリー・パトロール中の猫を見かけて餌をやろうとした瞬間、異能が発動。足を滑らせ、屋上の端から落ちていく縞猫のヴィジョンが脳裏に浮かんだ。


 後に、それが「プランB」発案のきっかけとなる。


 有紀に屋上へ煮干を置かせれば、その日の夜、通りかかる筈のピートが匂いで近づき、一年前のヴィジョン通り、転落へ至る因果の流れが成立する。


 何せ高いビルだから、放置すれば猫は死ぬしかない。


 即ち、猫好きの団が助けざるを得ない状況を作った上、猛スピードで落ちて来たピートを受け止める。


 衝撃で倒れ、頭を強打。それで即死。


 自殺と言う手段を取らなくても、彼の特殊な能力はこの世から消滅し、未来の悲劇を招く事は無くなる筈だったのだが……






 ニャア。


 寝床へ横たわる団の耳元でピートの鳴き声がし、エアコンが壊れた六畳一間で、彼は目を覚ます。


 額の汗を拭うと、何かと軋む古いベッドの横に、有紀の輝く笑顔があった。


「あ、良かったぁ! 深刻なダメージは無いってお医者さんは言ってたけど、目を覚ますまで十日も寝てたんだよ」


「僕、ここで十日も?」


「初めは救急車で病院へ運ばれたの。でも中々目を覚まさないし、あなた、保険証も無いでしょ。仕方なく友達に力を借りて、ここへ運んでもらった」


「……迷惑、掛けたね」


「それが意外とそうでもない。会社が潰れて暇になったし」


「潰れた!? 櫛田ファンドが?」


 愕然とする団へ、有紀は七日前に発行された夕刊のタブロイド紙を手渡す。


 トップ記事は櫛田ファンドのデータ漏洩事件だ。メールに添付されたファイルのウィルスにより、公的年金の個人情報を含む二千件近くが流出したとある。


「……僕のバックドアが発動したのか」


「下っ端の逆襲よ」


「え?」


「会社であたしの隣に座っていた子、古賀さんって言うんだけどさ。その子、セクハラのターゲットになってて」


「……はぁ?」


「あたしが櫛田に逆らった時、落としたUSBメモリを彼女が拾ったの。で、ロッカーに隠し持っていた。あたしが必死で探す様子を傍で見てたから、訳わかんないなりに応援してくれたんじゃないかな」


「でも、それならメモリは彼女のロッカーに入ったままだろ」


「櫛田の悪癖のお陰ね」


「はぁ!?」


「アイツね、目障りな社員がいるとプライバシーなんて気にせず、勝手にロッカーを開けちゃうのよ。誰一人文句を付けられなかったんだけど、あの日、いつもの調子で古賀さんの……」


「ロッカーを開け、メモリを見つけたのか!」


「そうみたい」


「そして、個室へ備え付けの……データベースへ直結する専用端末でメモリを調べようとした結果、中のバックドアが起動したんだね」


 有紀は苦笑し、頷いた。


 要するに自滅だ。その後を報じる新聞の生地へ目を通す団に、有紀はふと物憂げな眼差しを向けた。


「櫛田は失踪、櫛田ファンドは自主廃業。派遣会社も大混乱みたいで、あたし達は次の派遣先が見つかるまで自宅待機になった」


「メデタシ、メデタシ」


「とは、言うものの……やっぱ、アレ? あたしの元上司はその内、東京湾のドザエモンに……」


 団は新聞の上に掌を置いたまま、目を閉じ、しばらく何も言わなかった。異能で因果のチェックをしていたのだろう。


 三十秒後に有紀を見て、「その心配は無さそうだ」と吹っ切れた口調で言う。


「情報漏洩のタイミングが狂い、その時差により、死に至る因果は消滅した……と思う。櫛田の奴、裏街道を逃げ回った挙句、かなり酷い目に会うだろうが」


「その辺はいくら酷くても同情しません」


「ま、死にはしないよ、多分」


 ホッと胸をなでおろす有紀を見、団も又、これで良かったのだ、と思う。一時の憎悪や復讐心に走っていたら、自分の心にも深い傷を負っていたに違いない。


 その傍らへ歩み寄ってくるピートは、足に包帯を巻いていた。


「あ、ピートも怪我を?」


「うん、足を挫いたみたいで、ここへ連れてきちゃった。ホントはここ、猫もオトコも連れ込みNGなんだけど」


「変だな。見極めた因果の流れに依ると、僕が死ぬだけで、ピートは無事の筈なのに」


「……やっぱり、あなた、自殺するつもりだったのね」


 取り敢えず笑って誤魔化し、無造作に伸ばした団の手へ一瞬、怒りを露わにしたピートの爪が飛ぶ。


「あ、痛っ!」


 傷ついた手の甲から血が滴った。


「……何でだろ? ピート、あなたにすっかり懐いてたでしょ」


「良いんだ。僕はこいつに、どれほど引っかかれても文句を言えない理由がある」


 溜息をつき、もう一度、傷つく覚悟で団はそっと手を伸ばす。


 でも、今度のピートは素直に頭を撫でさせてくれ、拭った血の跡をペロリと嘗めた。


 転落死に導きかねない僕の罪を、ピートは本能的に悟り、抗議したのかな? 自分勝手な解釈は、それこそ人の思い上がりなんだろうけど……


 姿勢を正し、猫に土下座する団の姿に有紀は驚き、目を丸くする。






 何はともあれ、因果の流れは大きく変わった。


 変化の主な原因は、おそらく路地裏を出る寸前、有紀に抱きしめられた数秒間のタイムラグだろう。


 櫛田が生き残った件と同様、バタフライ・エフェクトにおいて、僅かな時差の発生が結果に大きな影響を及ぼす。


 かくして当初の計画は失敗。それでも一応、団の目的は果たされた。頭の傷が癒えるのと並行して、因果律を読む能力が失われていったのだ。


 ピートの転落時、頭を打ったショックが原因らしい。


 目を覚ました三日後には、何を見ても、触れても、特別な感覚は一切得られなくなっていた。


 これでもう誰にも利用はされない。だが、同時に途方に暮れた。

 

 異能を失くして、現在、無能。


 この狭く、やたら暑苦しいおんぼろアパートに住む貧乏OLと怪我した猫へどう恩返しをしたら良いものやら。


 訊ねると、有紀は笑って答えた。


「恩返しはノーサンキューっすよ。あなた、出来過ぎたハッピーエンドは嫌いって言ったじゃない」


「……え?」


「この部屋には今、男と女、それに一匹の猫もいる」


「……うん」


「エンゲル係数は上がりっぱなしで、貯金はちょびっと。そりゃ先行き怪しいけどさ、他に必要な物ってある?」


 団に反論の余地は無い。


 とは言え、この部屋で、彼が迎える筈の無かった新たな季節「夏」を過ごすのだとしたら……


 自分の、いや二人と一匹の人生を立て直す為、まずエアコンを修理しなきゃ、と戸川団は切実に思った。


読んで頂き、ありがとうございます。


今回も何とか完結させることができました。

当初の構想通りの展開なのですが、書きながら、櫛田が独自の異能で反撃する展開も書いてみたいと思うようになりました。

いずれ改訂版にもトライしてみたいと思っています。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  年末?にいち度拝読したのですが、感想を書いていなかったので再読しました。  異能というファンタジーでありながら、現実とリンクさせることで、リアルな世界観を感じました。より身近な本当にあ…
[一言] 面白かったです。 次の展開はどうなるのだろうとドキドキしながら読ませて頂きました。 収まるべきところに収まり、そしてプラスアルファの幸福が有紀の元に残ってよかったです。 団が普通の人間に戻り…
[良い点] 一気に読みました。 リアリティとファンタジーのバランスが良く、キャラが立っており、オチの伏線にも納得感があり、最後までとても楽しく読めました。
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