田舎のエレクトロ
初投稿の短編です。
読んでいただけたら嬉しい。
僕の田舎は東京から距離的にはそんなに離れていなかったのだけれどかなり寂れていた。当時、東京までの電車賃は850円ぐらいで往復の1,700円は中学生にはかなりの高額でおいそれとは出せない金額だった。なので、憧れはあったけれど東京、中でも秋葉原は遠くて思うだけの場所だった。もちろん、その頃の東京はアイドルやメイドの秋葉原ではなく電気の街としての秋葉原だ。
そんなわけで僕を含め近所の中学生は家とか近所の公園、あとは駅前のショボい喫茶店と駄菓子屋と一緒になった10円ゲーム機ぐらいしか遊ぶところがなかったのである。もちろん、僕もそんな感じではあったものの、一つだけみんなと違ったことをしていた。近くの丘に登って楽器を練習していたのだ。最初は小学校の鍵盤ハーモニカを丘の上で吹くと気持ちがいいと思ったのがきっかけだったのだが、それを知った叔父が自分が使っていた古いシンセサイザーを譲ってくれたのだ。まあ、シンセサイザーと言っても本格的なものではなく、全鍵発振型のプープーオルガンでちょっと変わった音が出るというだけのものだった。今で言えばファミリーキーボードだろうか。それにはチャカポコ鳴るドラム機能が付いていて、一台でアンサンブルが楽しめるようになっていた。
僕は家でそのシンセで弾き語りをしていたのだが、家族に笑われてからは恥ずかしくなって、それを持ち出して丘の上で弾きたいと思ったのだが、問題が一つあった。これは電池駆動ができないのだ。諦めようかと思っていたところで、知恵をくれてのはこのシンセをくれた叔父だった。このシンセは電源アダプターで動くので9Vを供給してやれば外でも動かせると言われたのだ。
最初は何を言われたのかわからなかったが、叔父は電池ボックスに単3電池を6本入れ、先バラの接続先をシンセの電源のプラグにハンダ付けしてくれた。それから叔父は電気や電子回路について教えてくれるようになり、数百円でできるラジオとか手が痺れるびっくり回路などを買ってきてくれるようになった。この時、僕は電気の方に興味を覚えたが、やはり丘の上で音楽をやりたいと思う気持ちが大きくて、叔父に電気について習うことは、その後少なくなってしまった。今になってみれば、もう少し習っておくんだったととも思うが、同時にあれ以上のめり込んでいたら、音楽にはふれられない人生だったかも知れないので、それなりに納得している。
電池駆動ができるようになったので、シンセを丘の上で弾くことはできるようになったのだが、まだまだ問題はたくさんあった。一つは重さの問題。古い時代のシンセは鉄で出来ていてしょぼい音のくせに10kg近くもあったのだ。シンセには小さなスピーカーが両脇にあったのだが、大きくするとすぐに音が割れてしまい歌いながら弾くには役不足なのも不満だった。
次の問題はスタンドと椅子で、最初は丘の上の小さなベンチに置いたりしたのだが、不安定だし実は平らでもなくガタガタして弾きにくいことこの上ない。それにベンチは休むためのものなので地べたに座ってベンチのキーボードを弾くのはみっともない。一度、友達に丘の上で練習しているところを見つかってしまい、散々囃し立てられたのは困ったものだった。それは、学校でもこそこそ言われたりしてしばらく練習も休みがちになったりもした。
そんな時に助けてくれたのは、やはり叔父さんだった。叔父さんはX脚のスタンドをくれて小さな折りたたみパイプ椅子を丘の上の掃除用具入れの後ろに隠して置けるようにしてくれた。X脚のスタンドなんて当時はなかったからあれは、叔父さんのオリジナルだと思う。今は一般的に売っているので、先見の明がある人だったんだなあと思う。結局、そのスタンドをくれたのが最後になり、叔父さんはどこかに引っ越してしまった。次に叔父さんの消息を聞いた時は、宮崎の田舎で亡くなったという知らせだった。これは、結構堪えた。もっと話をしたいなと思った。
叔父さんが亡くなってしばらく塞ぎ込んでいたが、せっかくくれたスタンドと椅子があったので、丘の上でシンセを弾くのが日課になっていった。確かに10kgは重かったが、スタンドと椅子があったのでシンセだけなら何とか運ぶことができたのだ。最終的にはシンセを背負い、台車でスピーカーを2台運び、丘の上で満足のいく音量で演奏できるようになった。スピーカーは友達の壊れたラジカセをもらったものを利用していて、これをシンセに繋いでステレオ感のある音が作れるようになった。流石に毎日台車を使うのは大変だったので平日はシンセのみ、土曜日はスピーカーを持ち込んでの演奏としていて、この土曜日を僕は1人で『恒例丘の上コンサート』と呼んでいた。
「すごーい」
えっ、えっ、えっ、誰?
いい気になって演奏していた丘の上コンサートに最初のお客さんが来ていたのだ。それは同じクラスの女の子で話したこともない子だった。もっとも僕がクラスの女の子で話す相手なんてほとんどいなかったのだけれど。
「あー、聞いてた?」
「うん、聞いてた。歌とドラムとキーボードで1人3役だよ。すごい。それに、それカトレアの新しい曲でしょ。私、好きなんだあ」
彼女は意外にもとても人懐こく、僕に話しかけてきた。僕の弾いていた曲は当時流行っていたカトレアという3人組のグループで、2ヶ月前に出た曲をコードだけ書いてある歌本を頼りにキーボードアレンジしたものだった。
「隣、空いてる?」
「いや、この椅子はちっちゃすぎるから」
「そっかー、じゃあ、前から見てる」
何のつもりだろう。僕の歌もキーボードも上手くはないのに。それに恥ずかしい。
「いやー、大したことないよ。それにドラムは自動で勝手に演奏してくれるし。えーと、沢田さんだっけ?」
「うん、沢田圭子。クラスでは吉田くんとは話したことないね。音楽が好きならもっとお話しすれば良かった」
そんなことがあって、僕は恒例の丘の上コンサートの観客を1人手に入れたのだが、それは長くは続かなかった。僕の演奏を聴きにきている彼女を見たクラスの誰かが囃し立てて、僕と彼女の間をいろいろと噂にしていて、僕はそれを打ち消そうとしたものの逆にクラスで浮いてしまい、それを申し訳なく思った彼女も丘の上に来なくなってしまったのだった。
僕はそのことにとても意気消沈していたが、そこで決定的なことが起こってしまう。土曜の丘の上コンサートで目を離した隙に近所の悪ガキがシンセに悪戯して、スタンドごと倒れてしまったのだ。
僕が丘の上のシンセを起こしてみたものは、プラスチックが割れ、ラジカセにつなぐプラグが折れて出力できなくなったシンセ。音を出してみたものの、いくつかの鍵盤は浮いて平面を保てず、音が出なくなっているキーもあった。絶望したものの、何とかしなければと思い、シンセをバックに入れ、楽器屋のある近くの町まで電車で出かけたが、店員から聞かされたのは修理不能。もしやるなら、新品を買うほどの値段がするということだった。そして、その金額が18万円と聞き、叔父がそんな高価なものを譲ってくれたこともその時初めて知った。
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私、沢田圭子が吉田くんに会ったのは、中学校の同級生としてだけど、そんなに話はしてなかった。吉田くんはあまり女子とは話をするタイプではなく・・・いえ、彼は男子ともそんなに話しているところを見たことがない。どこか心ここに在らずといった感じで、別に誰かを避けているわけではないけど学校の中には興味を惹くものがなかったんじゃないかな。
だから、私が沢田くんと本当にあったのは、あの小さな丘の上で彼がキーボードを弾いているのを見てからだった。彼は学校ではしたことのない表情でキーボードを弾きながら歌っていた。それはオルガンでもピアノでもなくてちょっと奇妙な音がする楽器で、彼はシンセサイザーだと言っていた。それと、リズムが鳴っているのが凄くて、1人でやっているのに合奏ができているのに感動してしまったの。
ううん、そういう楽器があるのは知っていたわ。エレクトーンとかがそうでしょう?でも、彼が使っていたのはそれは小さな鍵盤楽器であんな小さなものでそんなことができると思っていなかったから、とってもびっくりしたんだと思う。彼は私の好きなカトレアの曲を歌っていたんだけど、優しい歌の多いカトレアをあんなに元気に歌っているのは、彼がよほど好きだったんだろうなと思ったわ。だから、話がしたいと思って声を掛けたんだと思う。
吉田くんとは何回か丘の上で歌っている日にお話をしたんだけど、それがクラスの男子に見つかってしまい私と吉田くんは囃し立てられるようになってしまった。それで、吉田くんはもう来ない方がいいと言ってきた。私はそれでもそんなことを気にしないでカトレアや他の歌の話をしたいと思ったんだけど、クラスメートの女の子の間でも辞めた方がいいと言われて、行かなくなってしまった。
その後、どうしてももう一度だけは話がしたいと思って、土曜日に何回か丘の上に行ってみたけれど、彼が来ることはなかった。人伝に聞くと楽器が壊れてしまったらしいと知ったんだけど、なんかそれが吉田くんとの接点を本当になくしてしまった感じがした。そのまま、噂を気にして彼とは話せずに中学卒業してしまったのは、とても心残りだったの。
彼は優しかったと思う。恥ずかしがり屋でもあったのかな。高校は別れ別れになったけど彼がやりたいことができるといいと思う。
そしていつか会いたいな。
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中学時代の丘の上コンサートは半ば強制的に終わりを告げたあと、高校進学とともに僕は二つのことを目標にしていた。一つはお金を稼ぐこと。もう一つは音楽を辞めないこと。お金を稼ぐのはシンセが壊れてしまった時に買い換えることも直すこともできなかったから、そういうことでやりたいことができないのは嫌だからと思ったからだ。音楽を続けることに関しては高校に入学したときにバンドに入ろうかとも思ったが、僕はピアノを正式にやったこともないので腕に自信がなかったし、勝負するとしたら電子楽器だったが、肝心のシンセがなかった。そこで、まずは叔父さんから習った電気の知識を使ってアルバイトを始めてお金を貯めることにした。
ことの起こりは、家で音楽を聴いているときにだんだんオーディオに興味を持つようになり、そうなるとスピーカーの質やアンプの回路を向上させてもっといい音を聞きたいと思うようになったことだった。ただ、当時オーディオは高価であり、そうそう高音質なものを買えるわけもなかった。それでもオーディオブームはあって、その一つが自作オーディオだったのだった。高校生になった僕は1ヶ月に1回の割合で秋葉原に出かけていた。電車賃は片道850円から1,000円になっていて毎月のお小遣いからすると結構痛いが、それでも都会へ出かけ、小さな部品を変えては小さなワクワクを得られるその時代のオーディオを楽しんでいた。壊してしまう心配もあったのだが、実際はオーディオと言っても丘の上コンサートの壊れたラジカセのアンプ基板を取り出して箱に詰めたものだったので、気楽なものだった。
そんな中で僕はトランスを変えると音が良くなると雑誌で読んでから、この部品を買うことを考えていたのだがこの部品が3,000円もする。これは手が出ないと思ってはいたのだが、調べてみると自作ができるとのこと。まあ、自作したとしても700円はするので賭けではあったが、それでも挑戦することにした。
僕が自作する部品はトロイダルトランスというものだ。これは、ドーナツ型のコアに銅線をぐるぐる巻いて作るトランスだ。このコアはフェライトという樹脂だか金属だかよくわからないものでできているが、割と簡単に手に入る。通販でも買えるのだが、僕は秋葉原まで出かけることにした。実際に現物を見てみたかったのと秋葉原見物がしたかったのがその理由だ。
秋葉原の電気街は何回かきていて、目当ての部品がどこに売っているかは知っていた。ここでの買い物は緊張する。当時の秋葉原の電気屋のおっちゃんは、ぶっきらぼうだったり、ちょっと強面だったりする人もいたからだ。逆に初心者や中高生に親切な人もいるので期待もしている。
店につくと僕は早速部品を注文した。トロイダル・コアというものと銅線である。失敗もあるだろうし、逆にうまくいったら今後も使えるということで、3個分を買った。まとめて買ったので2,000円だった。この店のおっちゃんは中高生に親切だった。トロイダルに挑戦するというと心配して、巻線の方法と感電しないための注意点を教えてくれたりした。
僕は家に帰ってから、早速トロイダル・コアに銅線を巻き付けて、トロイダル・トランスを作った。最初の一個は失敗で、二個目は不恰好ながらもきちんと動作した。三個目は自分としては割と上手くできて、それをラジカセ基板につないで澄んだ綺麗な音が出た時はちょっと感動した。
高校ともなるとそんなオーディオに興味があるやつも何人かはいて、その話をすると自分もやってみたいと言っていた。自宅に呼んで様子を見せるとため息を吐いて言った。
「こんな面倒なこと、よくできるな。こんなに巻いていくなんてできないよ。諦めるよ、俺は」
「まあ、そうかなあ。でも2個目はダメだけど、3個目は割りとうまくいってるだろ?3個でうまくいくなら練習しがいもあるじゃないか」
「いや、俺はこの2個目でも十分だけど、そこまでやり続ける気が起きないな」
それから音出しをして、普通のトランスとトロイダルトランスの違いを聞いた友人は、2個目の出来が悪い方でいいからと1,000円を払って持って行った。僕は2,000円の半分が返ってきたので、大助かりだったのと他のアンプにも応用したいという気持ちが高まってしまい、お年玉の残りの7,000円をこれに注ぎ込むことにした。
翌週の土曜に僕は秋葉原のトロイダル・コアを売ってくれた電気街のお店を訪ねた。7,000円から往復の電車賃を引いた5,000円をトロイダル・コアと銅線につぎ込むのだ。
「すいません。トロイダル・コアと銅線をください。5,000円で20Wの電源が作れる分だけ欲しいんですが」
「そんなに作ってどうするんだ・・・あっ、お前さん、この前もトロイダルコアを買ってなかったか?」
僕は前にトロイダルコアを使ってトランスを作って、友達とアンプの聴き比べをして感動したことを電気街のおっちゃんに言った。それとその時に作った3個目のトランスを見せた。
「ふむ。まあ、一応、できているな。だが、ここをこうして・・・」
おっちゃんは、さらにアドバイスをくれて、それから翌週にもう一度トロイダルトランスを作って持ってこいと言った。僕は往復の電車賃が臨時に2,000円も飛んでしまうので痛いとも思っていたが、何かあるのかと思い、もう一度、翌週にこの店にトランスを作って持っていくことを約束した。
翌週、僕は7つの自作トロイダル・トランスを持っていくと、おっちゃんは2人になっていた。いつものおっちゃんともう1人、メガネをかけた小太りのおっちゃんだった。
「どれ。見せてみろ」
「はい。」
「ほう、言われたことをちゃんと守ってるじゃないか。元太さん、どうだい?」
「あー、問題ないですね。これならウチを通して使えます」
2人は、トロイダル・トランスをあちこちからみて、満足そうな顔をしていた。
「おい、坊主。これどれくらい作れる?ひと月に20個ぐらい作れないか?」
「えー、それくらいなら作れますけど、どういう?」
「これでバイトしてみないか。材料費を別にして1個800円出そう。材料費込みなら1,300円だ。坊主にとってはその方が得かもな。約束はひと月に最低20個、最大は50個でそれを超えそうな時は、連絡してくれれば買い取るかどうか決める。」
寝耳に水の話だった。材料費込みで1個1,300円は美味しい。このバイトを始めるなら材料費は仕入れ価格でもらえるので実際は原価が400円ぐらいになるし、失敗して引かれたとしても原価が安いので問題はない。多分、家で暇な時間をこれに使ったとしてもひと月50個は作れるだろう。1個の利益が900円で50個。月に45,000円になる。
僕はこの話を受けた。最初は3,000円で売ってるトランスの買取が1,300円では安いと思ったのだが、それを元太さんのところに納入して一つ一つ検査をして、秋葉原のおっちゃんのところとか、ラベルをつけて有名メーカーに卸すという話を聞いたので、驚いてしまった。僕は納得してこの仕事を美味しい高校生バイトとして始めたのだった。
翌週、とりあえず最初の納入テストとして10個分を持って行ったのだが、そこでさらに嬉しいことが待っていた。一つ目は、最初の7個のトランスが既に値札が付けられて売られていたことだった。ラベルに仕様が記載され、元太さんの会社のマークが入っている。自分の作ったものが商品として並ぶのは本当に嬉しかったのだった。もう一つ、次からひと月に一回、トランスの納入に秋葉原に来るのに、往復の電車賃を出してもらえることになったことだ。これは本当に嬉しくて、毎月の秋葉原に来る電車賃が浮くということは、さらに他に回せるお金が増えることだった。
ここで僕は大人の社会というものも少し知るようになり、時々納入の際に店のおっちゃんと元太さんに食事を奢ってもらったり、業界の話やいい部品の見分け方や電気や電子部品にも流行り廃りがあることなどを学ぶことができた。もちろん、失敗もあった。夏休みにサボってしまいひと月の納入がギリギリの20個となり、検査の結果ボツが一つ出て約束の最低数を満たせなかった時はかなりこっぴどく怒られた。何とか許してもらってからは、納入数に余裕を持たせるようにするようになった。すると
「吉田くん。もう少し、今月出せるかなあ。出せるだろう」
「いやあ、50個最大じゃないですかあ、これ以上ありませんよー」
「いやいやー、作れてるだろー」
「えー、しょーがないなー、予備がないと翌月怖いんですよー。」
「もう、吉田くんが出せないなんてことはないから大丈夫だよ」
少しは信頼を得ていたのかもしれない。
それから、僕は60個から最大80個のトランスを納入することもあった。一度風邪を引いてしまい、納入できないかも知れないと焦って電話をした時は、納入は0でもいいから休めと言ってくれた。なんか真面目に働くということを身にしみて知ったような気がした。真面目に働くと色々と答えてくれる人がいるのだ。
順風万歩に思えたこのバイトは突然終焉を迎えた。高校3年の時に元太さんの会社が倒産したのだ。オーディオブームは長くは続かず、高級部品であるトロイダルトランスは需要がパッタリなくなったのだった。まあ、元太さんの会社におけるトランスの売り上げは微々たるものだったけれど、高級部品を中心に扱う元太さんの会社は、不況を直に受けてしまい業態を転換する余裕もなくあっさりと潰れてしまった。
大学に進むときは、電気関係に進もうかとも思ったが辞めた。トランスのバイトだけで電気が得意なんてない烏滸がましいと思ったし、実際のところ物理の成績はそんなに良くなかった。ふらふらと文系の大学に進学し、通学が面倒だからと東京に下宿することにした。やはり、行き慣れたと言っても東京に対する気持ちは相変わらず大きかったので、田舎ではなくこちらで暮らしたいと思っていたのだった。
大学時代はとてもまともに勉強したとは言えなかった。音楽は続けたい希望は持っていたので軽音部に入ってバンドをやっていたが、これも学祭と新歓以外は真面目にはやってなくて、飲み仲間と連む目的のスタジオ練習といった感じだった。学部としては経済学部だったが、時代の波に乗ってないなどと嘯いていたので、卒業後は全く関係のないコンピュータ関連の会社に入りプログラマになった。当時はまだITなんて言葉はなかったほんの黎明期だったから。
でも、就職後の僕は仕事をうまく進められなかった。
「これ、明日までにテスト完了は無理ですよ。おそらくバグが出ますから、その直しと再テストではリスク高いですよ。」
「だめだ。この納品を逃して3回続けて納期を守っている俺のメンツが潰す気か」
「それより、バグがあった方が会社の信用落としますよ」
「それは、後から言い訳を考えておけば良い」
「そんなことできません」
「・・・・取り合う気はない。明日、納品だ」
上司はとにかく納期を守れと言ってきて、テストが終わっていなくても終わったことにして終了のハンコを押して明日納入しろという。
徹夜仕事は仕方なかったが、とにかくバグの出そうなテストから先にやり、ソースの直しが終わったのが午前1時。それから再テストをするのだが、全てのテストをする時間はやはり取れなかった。すでに終わっているテストについては泣く泣く見送り、未実行のテストのみを実行してテスト結果を記入。終わったのは午前6時。それでも気になったので、ソースコードで確認して、エンバグしていないかを確認して上司が9時に出勤するのを待った。
結局、このプログラムは問題がなく手柄は上司のものになった。とにかく口八丁手八丁で仕事を取ってくるのは良いが、無茶な納期で僕らプログラマは皆大嫌いだった。
それがわかったのだろうか、この上司は僕らの苦労を栄転の土産にして他社に移って行った。後釜は僕が担当することになった。ところが、この上司に散々こき使われたことに嫌気がさした同僚が何人も抜けてしまい僕のチーム発足はプログラマが足りない状態でのスタートになった。社長は増員を約束してくれたが、時代は技術者の売り手市場であったため募集は難航した。優秀な入社希望者は少なく、面接に来たものは技術不足または9to5以外は仕事しませんという当時のプログラマとしては、まずNGとするタイプばかりだった。
ところがある日、社長はいった。
「採用人員、決まったから。あとは、OJTでよろしく」
「待ってくださいよ。面接では採用レベルに達していた人いなかったじゃないですか」
「ああ、だからOJTで。このあと打ち合わせあるから。」
そんな感じで採用メンバーの履歴書を見ると・・・これは不採用に決定したものばかり3人だった。
技術面は叩き込むにしても、面接の時にやる気も向上心も見えないのが、とにかく気がかりだった。
そして、実務に入ると彼らは馬脚を表した。
「それじゃ、ダメでしょー。真面目にやらないと」
「そんなこと言ってたら終わらないじゃないですか。」
「これだけのテストが全部必要なんだよ。全機能の保証ができないだろ」
「同じことの繰り返しが多くて嫌なんですよ。もう少し、クリエイティブな仕事がしたいです」
その仕事の大半のテストは結局、僕がやることになり彼には設計をやらせたのだが、最終的には僕には合わないと放り出してしまった。
その自称クリエイティブ志向の新人は2ヶ月で退社したので、社長は僕の手腕をその後認めることはなかった。
僕は真面目にやっても報われないことを知ったが、何か引っかかっていることに気づいたのはそんな時だった。
僕は前の上司とは違って客に受けは良くなかったが、地道にやっていたので信頼はされていた。でも、社内の事情が悪化していたので苦労が絶えなかったのだ。こうして、会社での立場が少し上がっても社長とぶつかり、後輩ともぶつかり、そのうちに技術の波に押し流されて、ついていけなくなってしまった。
僕はもうどうしようもなくなり退職したが、20年もコンピュータ関連の業界にいたと気づいた時は、もう転職先のあてがなかった。そして、それ以上にこの業界に残る気持ちがなくなっていた。
そんな時に長谷部という大学時代のバンド仲間が声をかけてきた。それは偶然にも同じ田舎出身の奴で、東京から引き上げて地元で商売をするらしい。
「お前も一緒にやらないか?」
「俺は、半端にコンピュータしかやってなかったから何にもできないよ」
僕は断るつもりだった。
「いや、大丈夫だよ。スタジオやるんだよ。スタジオ」
「スタジオ?レコーディング」
「バーカ、あんな田舎でレコーディングスタジオなんて経営できねーよ。学生相手の貸スタジオさ」
「需要あんのか?」
「ある。あの近辺、高校が4つもあって新設高もできるのに、貸スタジオが先月潰れて空白状態なんだよ」
なんか、うまい話に見えるが、多分ダメだろう。初期費用とか回収できないはずだ。
「ゼロだよ。」
「へ?」
「ゼロ。機材は潰れたところから全部せしめた。貸スタジオの建物は飯塚先輩から格安で借りれる。
期限は20年もある」
飯塚先輩は大学時代の軽音部の先輩で、実家は金持ちなのと少々変わり者だ。
実家のマンションの一階をスタジオにしたのは良かったが、こだわりすぎて誰とも合わずに塩漬けにしていたらしい。
それに飛びついた音楽もよく知らない業者が経営した貸スタジオが潰れたというのが、この話の出どころらしい。
「先輩が言うには、自分の音楽はできなかったが、この地域の音楽環境を支えるのが『俺の使命』何だと。
それで、貸スタジオの経営に失敗した業者に腹を立てて、その後何とかしようとして俺に声をかけてきたんだ。」
「すでに失敗しているんじゃ、ダメなんじゃないか?採算取れないとか」
「それがな。どう考えても黒字になるのよ」
「はあああ?」
事情を聞くと何ともバカバカしい話だった。飯塚先輩はやたらこだわって音楽をやっていたが、正直下手くそだった。
ただ、金持ちだったのでスタジオ機材は超一流だったのである。あとから入った業者はその機材をそのまま使い、追加の機材も同様のグレードにしたもんだから維持費も採算分岐点もとんでもないことになっていたのだった。
「だから、機材全部売った。」
「はあああ、中古で売ってまた新品買ったらグレード下がるだけで儲けなんて出ないだろ?」
「いや、それがな」
これがまた、とんでもない話だった。学生相手の貸スタジオやるのに一流の機材を中古で売って、新品の量産品グレードを買うのは一応わかる。貸スタジオはとにかくモノが壊れる。痛む。その度に修理費がかかるのだから一流の機材の修理費がかかっていたのでは、採算が合うはずがない。しかし、話はそれだけでは終わらなかった。持っていた一流の機材はなんと東浜EMCスタジオで買い取ってくれたそうだ。その時のツテで、東奥音楽大学の現役教授にして、ミュージシャンの田中ヤスオミと知り合ったそうだ。
この貸スタジオの経営モデルはその田中氏のものらしい。田中氏は関東近郊の貸スタジオの余剰機材と新規購入をシステム化する構想を持っていて、楽器会社とのパイプを維持し新規購入を進めつつ、中古機材のやり取りをネットワーク化して地域ごとの採算分岐点を弾き出したのだ。長谷部の始めるスタジオはそのモデルケースになるらしく、とりあえず、5年は継続される。損失が出たとしても調査費用として補填されるため、5年間はスタジオとして黒字経営が可能なのだそうだ。
「なあ、やるだろ?」
「まあ、潰れないのはありがたいが、深夜シフトとか入れないぞ。もう若くないし」
「そんなの、俺だって入れないよ。一応、アドバイザー兼経理兼経営者枠で」
「出勤は週4定時で、週2はオンラインで構わん」
結果として、僕はこの話に乗った。
東京の下宿を引き払って、田舎に戻ってきた。
経営は順調で、地元の高校生と大学生には貴重な貸スタジオとして利用されているらしい。近隣にはそれ目当ての小さな楽器屋と学生相手の安い料理屋と喫茶店も増えていて、プチバンド文化圏になっている。
そして、週4勤務で空いた時間を過ごすために、僕はシンセサイザーを買った。いわゆるライブ用キーボードでなんと5kgで電池駆動が可能でマイクも繋げてリバーブも掛けられ、ドラム機能も昔のものよりうんと進化したものがついている。それに2kgのスタンドと椅子。僕はそれらが全部入った大きなバックをえっちらおっちら運んで、高校時代に散々練習した丘の上にたどり着いた。
アンプとスピーカーは自作の超小型デジタルアンプでこれも電池駆動なのだが、びっくりするくらい大きな音が出る。僕はすこーしだけ音を大きくすると1曲目を弾き始める。敬意を評して田中ヤスオミの曲にしよう。彼はLaxelというエレクトロ・ハウス系のアーティストなのだが、昔は渋谷系だったり心優しいバラードを作ったりもしていたのだ。
僕は知った。真面目にやるだけではダメだ。好きなことをしなくては。僕は心の中に引っかかっていたモヤモヤが晴れた気がして、ヤスオミには珍しいエレピ主体の優しいバラードを歌い始めた。すると
「すごーい」
「あー、聞いてた?」
「うん、聞いてた。歌とドラムとキーボードで1人3役だよ。すごい。それに、それLaxelの古い曲でしょ。私、好きなんだあ」
「ヤスオミといえばエレクトロだけど、これは珍しくバラードなんだよ」
「んー、でもきっとこれもエレクトロなんだよ。この丘の上では。田舎のエレクトロ」
「そうか、そうかもね。」
この丘の上には似合いのバラードをちょっとチープなシンセとリズムで弾いたこの曲は、田舎のエレクトロなのかもしれない。それより、沢田圭子。何年ぶりだろう。でも、結婚したはずだから、えーと。結婚後の苗字が思い出せない。
「相変わらず、すごいね。歌とキーボードとドラム。昔より音が良くなってるし」
「いやー、大したことないよ。それにドラムは自動で勝手に演奏してくれるし。えーと、沢田さんじゃなくって、えーと」
「うん、沢田圭子。ちょっと前まで、沢田じゃなかったけど、今はまた、沢田圭子」
そうなんだ。ああ、そうなんだ。
「隣、空いてる?」
「空いてるよ。このベンチは少し大きいから」
そう、僕の隣は空いている。彼女の隣も少しばかり空いているらしい。