天使と悪魔と女子大生
「おや、一人で道に迷ってしまっている女の子がいますね。助けなくては」
天使がそう言う。
「ひとりになって好都合だ、犯して殺して身ぐるみを剥いでしまおうぜ」
悪魔がそう言う。
人間――俺の行動はどちらでもない、ただ歩いて通りすぎるだけだ。天使の言うような善行や悪魔の言うような悪行なんて、どちらも人間らしくない。人間はずっと、善行でも悪行でもないただ単なる行動をし続けているだけなんだ。
スマホを持っているし迷子もその内解決するだろう。
俺は友達が待っているだろう映画館へ足を進めなければいけない。人は悪行や善行なんかより、ずっとそんなどうでもよさげなものが大事なんだから。
「おいおい待てよ、よく見ろあの子を。お前好みの借りてきた猫みたいな顔した小柄な雌だ。あの顔を汚したくなるだろ、あの華奢な腰を嬲りたくなるだろ」
「待ちなさい。困っている人を放っておいて、それで気持ちよく映像娯楽になど浸れるものですか。ほんの数分もかからないのでしょうから話しかけるくらいするべきです」
天使と悪魔が、俺の頭の中で結託をはじめる。
俺は善行や悪行をしようと思ったなんてことはないのだけど、ついなんとなく、足を止めて女の子の方を振り返ってしまう。要領が悪いのか、スマホを上下左右にぐるぐる回して頭を捻らせている。ふと、女の子を目が合ってしまった。
すぐに目を逸らされて、しばらくするとまたこちらを向いてくる。困っていますと言いたげな苦笑いを浮かべて遠慮がちに体を縮み込ませている。さすがにもう無視ができない。
「……あー、道に迷ってんですか?」
「は、はい。その、恥ずかしながら地図にも機械にも弱くて……」
女の子は初対面の俺に頼ることに戸惑いを感じつつも、どうしようもなさからこちらへ歩み寄ってくる。
「うひょっ。やっぱりいい顔してやがるぜ、お前好みだ。どれをとってもいいな、脚の肉付き、指の細さ、眉の形、檻で囲って部屋に飾っちまおう」
「余計なことをする必要はありません。すぐに道を教えたら映画館へ急ぎましょう。人を助け友との約束を守る、どちらもすべきことです」
悪魔の言うとおりだった。女の子の容姿は俺の好きなものだ。
目的地を俺に指し示そうとしてスマホの中の地図を弄り始めた女の子は、めちゃくちゃな方向に行ったり来たりして顔を上げられなくなってしまう。友人にそうするような、女の子のスマホを掠め取って操作をしてやるような真似は躊躇われる。
「目的地はどこ?」
「え、えっとちょっと待ってください、あの、今見つけるので……おかしいなぁ、さっきまでここに……」
女の子の指や目がスマホの上で右往左往する。眺めるには可愛い姿だけど、眺めていても話は進まない。天使も悪魔も早く話を進めろと急かす。
「言葉で言ってくれれば分かるよ。多分、その方が早いだろうし」
「そ、そうですね……。ごめんなさい鈍臭くて」
そう言って顔を上げると、女の子はスマホを使うことを諦めて懐にしまってしまう。まだ使うかもしれないのに。確かに鈍臭い。俺は悪魔の言うようにするつもりはなかったけれど、女の子の目的地が映画館と同じ方向だったら案内するくらいはしてもいいかなと思っていた。
「おいおい、友達よりこっちのが美味しいだろ。いいかよく考えろ、友達には突っ込める穴が無いが、このチビにはある。どっちに首輪をつけたいかなんて自分でも分かってんだろ」
悪魔が野蛮なことを言う。
俺は友人にも初対面の女の子にも首輪なんてつけるつもりはない。だけど両手で包んでしまいたくなるのは、確かに目の前の女の子だった。悪行なんてするつもりはないから、偶然同じ方向に行くんだったら案内をしてもいいかもと思っているだけだから、別にそんなつもりはないけれど。
「片宮駅に行きたいんですけど、どっちだか分からなくなってしまって」
女の子が行こうとしている目的地は映画館とは真逆の方向だった。俺は片宮駅から映画館に向かっている途中だった。
「ちょうどいいじゃないか。片宮から電車に乗ってうちまで持ち帰っちまおう」
「仕方ありませんね……スマホを借りて地図のスクリーンショットにアプリで道筋を描いてあげるとかしましょうか。後は目印になる建物でも教えてあげましょう」
「あの……片宮駅ってどっちなのかだけでも教えて貰えると……」
天使と悪魔と女の子が同時に喋る。
天使の言っている通りにするのが一番適当だろうなと思ったけど、連絡先を貰えるわけでも体に触れるわけでもないのにそんなことをわざわざするのが億劫だとも思う。悪魔の言うようにできるわけもないし、女の子に言わるままにおざなりに方向だけ指差して映画館へ向かってしまってもいいかもしれない。
迷っている間にも時間は過ぎていく。
「ねえ、スマホ借りてもいい?」
「あ、はい……」
女の子は不審がりもしないでロックを解いたスマホを手渡す。地図アプリが開いたままになっていた。なぜか表示されている地図は隣県にまで移動していたが、少し操作すればすぐに片宮駅まで辿り着く。
「片宮駅はここ」
「あ、はい。でもその……」
「ここからだとあっち」
指差して俺が来た方向をさす。女の子はほっとした表情を見せるけど、勿論すぐには出発できない。俺がスマホを持ってしまっているからだ。
「あのさ、どこから来たの?」
「え? あ、えっと……」
「どうして迷子になったのかなって思っただけだから、変な意味じゃないよ」
「あ、なるほど……」
言っていいのかと逡巡していた女の子はそれで納得してしまう。悪い人に騙されそうな子だ。
「道縁線の南方宮駅です」
「そっか……南方宮か……南方宮かぁ……」
「えっ、え? なにかいけなかったですか……?」
「南方宮ですか。それは……南方宮ですか……それは、どうしたものでしょうかね」
天使まで唸り始める。
南方宮は片宮駅の目と鼻の先で、徒歩三分もあれば着く。女の子の酷い方向音痴が見て取れる。俺が受け取った地図サイトにはルート検索機能があった。女の子はルート検索を使って南方宮から片宮に徒歩三分で乗り換えるようにと指示されて、そしてその上で迷ったのだろうと想像がつく。
地図サイトのルート指示があってもこんな酷い迷い方をしたなら、方向と道筋を教えただけではきっとまた迷子になるだろう。
「方向音痴なんだね」
「ええっ! なんでバレたんですか……いや、そんな酷い方向音痴じゃないです!」
「うん。でもここら辺に慣れてないでしょ」
「はい……えっと、よく分かりましたね……」
「連絡先入れていい? また迷子になったらその都度教えてよ……目印になりそうな場所とか教えるからさ」
「ええっ」
女の子は顔をはね上げて驚く。目は輝いているけど眉は不安そうで、喜び半分戸惑い半分と見えた。「よかったな」と悪魔が囁いて、「悪用してはいけませんよ」と天使が注意を差した。
「連絡先は勿論いいですけど……そんな、そこまでさせるわけには……」
俺はアプリを開いて自分のIDを入力して友人登録を済ませてしまってから女の子へスマホを返した。『ミルホ』で名前を登録していた。観る予定だった映画の上映時間までそんなに余裕がなくなっている。でも走っていったら間に合うだろう。
女の子は戸惑いでスマホを持ったまま突っ立っている。
「それじゃあちょっと急ぐから、じゃあね」
女の子は俺の突然の言葉に戸惑う。
「えっ、えっ?」
「またね」
「ええっ! あ、はいっ、また!」
女の子は小さな手を振って俺を見送った。
また、という言葉は悪魔も天使も人間の俺も……なにか少しずつ思うところがあったろう。善行も悪行もただ単なる行動もみんな人の欲で動いていることに変わりはない。だから天使も悪魔も人間もみんな揃って同じものに反応してしまうんだ。
走っていった俺は映画には間に合って、そして女の子は俺と分かれた後になぜか俺が差したのとは真逆の方向へ進んだらしく、結局俺は連絡を取るために映画の前半で四度もトイレに立つことになってしまった。
『今どこにいる?』
『サイゼリヤっていうレストランがあります』
『どのサイゼ?』
『どの……?』
『サイゼ以外に見えるものは?』
『映画館が見えます』
そんな有様だった。
「こいつとデートは無理だな、待ち合わせができやしない。家で飼うか使い捨てるかだな、やっぱり」
悪魔の言葉にも納得せざるを得ない程だった。もちろん前半だけだけど。
映画館の中で映画を見ていると伝えると、出てくるまで待っていていいかと聞かれた。会って数時間も経っていないのに図太くなったかなと少し思ったが、会ってからの時間に比さないくらい信用されているということだろう。映画のクライマックスを渇いた目で眺めながら、中断せずに全部見ていたらもうちょっと感動できたのかなと思った。
「余計な欲をかいて女の子との関係を取りたがるから映像娯楽に浸れなくなってしまったのですよ」
天使がそう言った。俺が悪魔に流されてしまっていたと思っているのか。
「流されるののどこに問題がある」
悪魔がそう言った。
天使と悪魔は互いに言及しない。悪魔の言葉に耳傾けた俺に天使が苦言を呈して、天使の言葉に耳を傾けたら悪魔が俺へ言葉を向けるのだ。天使と悪魔の口論はそうやってしか起こらない。
「それはそうでしょう」
「そりゃそうだろ」
勿論、それはそうだ。
「同じなのですから」
「同じなんだからな」
「同じなんだもんな」
天使も悪魔もいない。
女の子はサイゼでドリンクバーだけを頼んで待っていた。俺を見かけると安堵を顔に浮かべて手を振った。見知らぬ街で何時間も迷子になって本当に不安だったらしく、半分泣いていそうな目元を緩ませて俺の顔を見た。
立ち位置のせいで上目遣いになった。かわいかった。
「猛烈な方向音痴なんだね」
「猛れ……は、はい……猛烈です……」
「お腹空いてないの?」
「あ、いえ、別に……」
「時間は大丈夫って言ってたよね」
「はい、もうこんだけ遅れたら変わらないので……」
メニュー表を開くとぱっと目にチーズドリアの写真が飛び込んできた。2ページめくるとパフェがあった。女の子は眉根を寄せてこちらを見る。
「困っているじゃないですか。説明もせずに動くのはよくありませんよ」
天使が口を差す。無視してメニュー表を閉じる。
「ドリア頼んでいい? なんか奢るからさ」
「えっ」
「お腹すいちゃってさ」
すぐに食べたいというほど腹が減っていたわけではない。メニュー表を女の子の目の前に開いて、ぱらぱらとパフェが載っているページまでまくって見せる。
「パフェ嫌い?」
「あ、いいえ。甘いのも好きです」
「そう。なら好きなの選んで」
「いえ、奢ってもらうなんてそんな。そこまで……」
「待たせた上に一人で食べるの悪いしさ、奢られてやってよ。……イヤなら仕方ないけど」
「え、いえ! イヤじゃないです!」
結局女の子はいちごパフェを選んだ。
「よし、頼んでから食べ終わるまでこの女はここを出れねえな。まあお前がやらかさない前提だけどよ。だが、いいか、今じゃねえ。今しっかり篭絡してから、殴るも嬲るも犯すもその後だ。荒事するのに人の多いここじゃ分が悪いからな」
悪魔がそう言った。俺は苦笑いしそうになるのを我慢する。苦笑いしそうになったのは悪魔の言ったことが俺の考えていたこととそっくりだったからだ。『楽しく話して仲良くなってあわよくば』というのも『時間を取らせて篭絡して向こうから来させてから』というのも同じだとするなら、俺は悪魔と同じだという事になる。
「さすがに違うでしょう」
「俺もお前も同じなんだよ」
天使と悪魔の意見が割れた。
だがきっとどっちでもいい。どっちでも同じだ。
女の子は少し居づらそうにもじもじしていた。奢らせてしまったことがよかったのかまだ迷っているように見えた。
「えっと、名前ってミルホちゃんでいいのかな……?」
「はい。……漢字分かります? 今まですぐに分かった人いないんですよ」
「なんだろう……美しいに瑠璃色の瑠、穂波の穂。とか?」
「残念、ひとつもあってないです」
えへへ、とミルホは得意げに笑う。
「楽しそうですね」
天使が微笑ましいですねと呟く。その呟きは心なしか嬉しそうだ。俺も楽しい。俺は他にも思いつく漢字を言っていく。しかし一向に掠りもしないので、ミルホは俺にヒントを出してくれるらしい。ミルホに言われて手を出すとその手を握られる。
「肌質もやっぱり悪くないな。服を剥いで確かめるのが楽しみだろ」
悪魔が下世話なことを言った。
ミルホが俺の手のひらの上を指でなぞる。くすぐったい。
「分かりましたか。これが私の名前です」
「……二文字だってことだけは分かったかな。見聞の見に歩む、とか?」
「おおー! めっちゃ近付きましたよ! すごく惜しいです!」
「じゃあ、これかな」
ミルホの手を取って『看歩』と指で書く。くすぐったさでミルホは身じろぎする。看歩の手は特別柔らかいわけじゃなかったけど、確かに女の子の手で、男心をそそるものがあった。看歩は俺の顔を見て笑顔を浮かべる。楽しそうだ。
「当たりです。えっと……」
「栃、栃操音だよ」
看歩が俺のことを下の名前で呼んでくれるようになるころにはパフェとドリアが来た。食事をしながら看歩のことを聞いた。天使に言わせれば「仲良くお話」、悪魔に言わせれば「飯を使って吐かせた」。
看歩は短大から大学へ編入学したためそれに合わせて引っ越しをしてきたのだそうだ。俺の一年年下らしいが、大学の名前を聞く限り俺よりも頭がいい。「順当に生きればお前よりも年収、上だよなぁ。飼って食うより働かせるべきか……」なんて悪魔は言っていた。引っ越し先予定の最寄り駅は俺の家の最寄り駅から二駅先。今日はいくつかある候補を直接見てどこにするか最終決定をする予定だったらしいけど、その予定はなくなった。
「家なしか。いいじゃねえか、口実ができた。持ち帰って食おう」
悪魔がそう言った。甘い発想に舌なめずりをしたくなる。目の前の可愛い女の子を見ていると悪魔になってみるのもいい気がしてくる。
「傷つけてはいけませんよ。行為は相手の了解を取ってから、安全には気を付けなくてはいけません」
天使もお持ち帰りは否定しなかった。
俺は天使にも悪魔にもなれる。
「それが人間なんだからな」
「それが人間ですからね」
悪魔と天使が声を揃えてそう言った。続けて俺はこう言った。
「看歩、今夜泊まる場所は?」