1-1 元気ですか?
第一章 元気ですか?
1-1 元気ですか?
「元気ですか?」と表題に書かれたメールが届いた。本文は白紙だった。ただ表題に「元気ですか?」とあるだけだった。メールに心当たりはなかった。それでもクエッションマークの記号が、かれに強く何かを問いかけているように思われた。
私は今日医者から癌を宣告された。それもステージⅣの末期癌とのことだった。原発は肺で、すでに全身に転移している。全身に転移しているわりには、たまに起こる激しい咳や胸の痛み以外は、どこにも痛みがない。誤診ではないかと疑うほどだが、何週間もかけてたくさんの検査をしたのだから間違いはないようだ。このまま痛みもなく死を迎えることができるならば、これほど幸せなことはない。死に特別の思い入れがあるわけではない。
私は70歳で、築48年の古ぼけたアパートの一室に一人で住んでいる。私は結婚もしなかったし、子供がいるわけでもない。部屋には机を兼ねたテーブルがあり、椅子に座ってテレビやパソコンを見ながら、おおかた一日を過ごしている。身寄りは誰もいない。食料品と日用雑貨を購入するために、週に一回スーパーマーケットに行く以外は、外出することもほとんどない。もちろん人と話す機会はない。隠遁生活と呼んでも、はたまた引きこもりと呼んでも差し支えない生活ぶりである。別に寂しくもない。かえって煩わしくなくて気は楽である。少ない年金でそこそこ生活を送ることができている。何一つ贅沢を望んでいるわけではない。
たまに絵本をかいている。一人で文章を書き、クレヨンで絵も描いている。どちらも誰に習ったわけでもない。絵本を見たのは、自分が小さかった頃だけだ。どんな絵本だったかも忘れてしまうくらいだから、絵本が好きだったわけでもない。絵本に思い入れがあるわけでもないのにどうして絵本をかこうと思ったのか、自分でもよくわからない。別に仕事でもなければ、趣味と呼べるようなものでもない。誰かに見せたいとも思っていない。定年後に始めた、ただの時間潰しに過ぎないのだろう。題材は自分が子供の頃のことのようだが、本当にそうだかよくわからない。文章を先に書くこともあれば、絵が先のこともある。かいては消して、破って、捨ててを繰り返し、まだ一作も完成していない。発表するあても締め切りの期限もないのだから、この無限とも思える試行錯誤の作業が心地いい。
ここにきて末期癌が判明したので、自分の最後の段取りを決めなければならなくなった。身寄りがいなくても、死ねば誰かに迷惑がかかるので、なるべくそうしないようにするために、少しは準備をしておかなければならない。人知れず自室で死ねば、大家や警察や役場の人間にいらぬ手間をかけることになるだろう。新聞に載ってしまうかもしれない。こうした騒ぎは私の本意ではない。いよいよとなったら、どこかのホスピスの施設に入ろう。そのくらいの金は残っている。ホスピスの人に最後の段取りを委ねればいいのだ。
いまは癌のことよりもメールの方が気がかりである。送り主の名前はどこにも見当たらない。アドレスの@の前はxtqqpz3908とランダムに並んだアルファベットと数字で構成され、名前を示すものではない。
会社を退職して5年が経っているので、誰からもメールが来ない。
「元気ですか?」、この言葉を最近使わなくなっていたが、以前は自分と同年代の人たちが、書き出しで用いる常套句だった。だが、文末にクエッションマークをつけていたかどうかは覚えていない。
今回のメールは、常套句の持つ無味乾燥さよりも、ある種の懐かしさを感じさせるところがあった。孤独な日々を過ごし、癌を宣告されて、少し感傷的になっているのだろうか。いや、そんなことはないはずだ。これは外部と接触のなかった5年という時の長さのせいなのだろう。
送り主は私のメールアドレスを知っている人間に違いない。だが、送り主がわかる情報はどこにもない。表題から推測するしかない。おそらく送り主とはしばらく会っていないはずだ。最近会っていれば、こんな表題にするわけがない。とは言っても、最近会った人間は誰もいないのだが。
私が癌になったことを知って、こんなメールをよこしたのか? いや、今のところこのことを知っているのは、主治医以外には誰もいない。いや、待てよ。かれ以外に検査や診断に立ち会った看護師や臨床検査技師は、私が癌であることを知っている。だが、そうした人たちと私は一言も言葉を交わしていない。かれらは無表情で、機械のように淡々と仕事をこなしていた。かれらからメールが来るはずはない。もしそうした人たちが、カルテを見て私にメールをよこしたとしたら、かれらの仕事の範疇を越えている。わかったら懲戒免職になるかもしれない。そもそも私にこんなメールをよこす理由などどこにもないはずだ。
かれらの中に新興宗教の信者がいて、私を入信させようと企てているなら・・・。入信させようとしていなくても、こちらの弱みに付け込んで高価な数珠や壺を売ろうとしていることだって考えられる。10万円の護符を売りつけにくるかもしれない。いかがわしい薬や飲料水かもしれないし、温泉ツアーの誘いかもしれない。施療だと言って手をかざされて100万円要求されるかもしれない。いかん、私の妄想が始まった。これは引きこもってから始まったもので、脳に回った癌のせいではない。
きっと私が癌になったことを知らない人からのメールなんだろう。間が悪いとはこのことだ。知っていたら、私が癌を宣告された日に「元気ですか?」なんて言葉はないはずだ。いくら鈍感な人でも、こんな日にわざわざ声をかけたりしないだろう。
このメールが私の状況を知らない人からだとすると、「元気ですか?」という言葉の発する爽やかさが心地良いものに感じられてきた。雲一つない青空から、ゆっくりと旋回しながら私の元に舞い降りてきた、一つの羽毛のようなものだ。
誰がどうしてメールをよこしたんだろう。送り主は自分の名前を打ち忘れたのだろうか? 本文を打つ前に間違って送信ボタンを押してしまったのだろうか? それに類することは現役の頃の私にもあった。それならば、しばらく待てば自分の間違いに気づいて、本文を送ってくるだろう。誰からにせよ、きっと意味のない時候の挨拶程度のメールだろう。
本文のないメールなど、すぐに忘れてしまっていいはずだ。働いていた時分にはいつもそうしていた。だが、引退してからは外からの刺激がなくなっている。テレビやネットは不特定多数に発信されたもので、刺激があるわけではない。だからこんなとるに足らないメールでさえ、私宛であるというだけで、琴線を震わせている。
引退した身には時間はたっぷりある。だから待つことにしよう。しかし、年齢のせいか気が短くなっている。これはほとんどの年寄りが共通してかかる病らしい。
パソコンのモニターに向かってじっと待っていては、どうにも時間が立たない。そこでお茶を入れて飲む。まずは湯を沸かす。湯が沸くのをじっと待つ。気持ちをそこに集中しないと、意識がメールの方に向かってしまう。沸騰して湯気が出て、ピーピーピー、そしてビーと興奮したような音がして、火を止める。急須に熱湯を注いで温め、それを湯呑に入れ、湯呑を温めながら湯が適温になるのを待つ。時々、湯呑に指を当てて冷め具合を確かめる。丁度いい具合になった頃に、急須に茶葉を入れて湯呑の湯を注ぐ。一番茶は高温でいれると渋くなる。冷ました方が甘い味になる。うん、美味しく入れることができた。隠遁生活に入ってからお茶の入れ方を拘るようになった。これは一種の呪文を唱えるような儀式でもあり、時間つぶしでもある。だが、いくらこんな儀式を行っても、お茶を入れて飲むのにそう時間はかからない。時間が立たないので、2杯目のお茶を入れて飲む。今度は熱湯を注いだので、熱くて一気には飲めない。時間を待つには、ちびちびと口に運ぶくらいの熱さがいい。もはや味などどうでもいいのだが、渋い茶もきりっとして美味しい。
メールが来ていないか気になるが、気にしないそぶりをする。誰も見ていないのにどうしてそんなそぶりをしないといけないのだろうと思ってしまうが、この気にしないそぶりは大切だと思う。どんな時も決してもの欲しそうなそぶりをしてはいけない、とむかし母に聞かされたことを思い出した。いや、それは父だったかもしれない。
それにしても歳をとると時間は十分にあるのに、どうしてせっかちになるのだろう。おそらく身体全体が時間があまり残っていないことを知っているからかもしれない。老人には確実に死が近づいている。慰めなんかいらない。感傷に浸る必要もない。これは人間に平等に与えられた崇高な宝なのだから。人間に平等に与えられたものなんて、死以外に他に何があるのだろうか? 英雄の国葬であろうが、貧民が無縁仏になろうが、個人にとっては死んだことになんら変わりはない。なんら変わりはないと思いたくないから、派手な儀式を願うのかもしれないが、それは空しいことだ。死がなかったら、人間に平等なんてことはありえないだろう。死はすべてがチャラになる瞬間だ。
湯呑の中に茶柱が立っているのを見つけた。自分でも気づかないうちに、口元に笑みが漏れた。
気が付くと、いつの間にか部屋は暗くなっていた。かなり時間が経ってしまったようだ。私はずっと何かを考えていたわけではない。とぎれとぎれに記憶が飛んでいた。もしかすると、うとうとと寝ていたのかもしれないが、寝ていたという記憶もない。老人はせっかちではあるが、時間はこうしてワープするように、意味もなく過ぎていく。もし時間がワープしなかったら、老人は時間の重さに耐えられないのかもしれない。
一日にどれほどの無為な時間があるのだろうか。どのくらいの割合を占めているのだろうか。10%、いやそんな数値ではない。30%、いやもっとだろう。90%、睡眠を入れるとそんなところだ。私は仕事という社会的な時間つぶしから外れたので、1日の10%程度の時間を私のものとして使っているようだ。でも、私のものと言えるのはいったい何だろう? ここで言っている私のものとは、自分が考えているということだが、それすらも本当は怪しいのかもしれない。世間一般の定型化された思考パターンをなぞっているだけかもしれないからだ。
食事はいかにも動物的である。もはや私には文化的な営為にはなっていない。ただ生命を維持するためにエネルギーを補給しているに過ぎない。最近は癌のせいかもしれないが、その食もずいぶん細くなっている。生命を維持しなくてもよくなってきたのかもしれない。身体が意識とは無関係に死の準備に入っているなんて、これはこれで凄いことではないか。
お茶を何杯も飲んでいると、それなりに時間は過ぎていった。そんな無為な時間の過ごし方をとがめる人は誰もいない。別に罪悪感を持つ必要もない。孤独は無為と類義語のようだ。人間はいくら歳をとっても、意味もなしに生きることは難しい。それほど達観できるわけでもない。若い頃は達観することに憧れていたが、歳をとると達観することがそれほどかっこいいものであるとも思えなくなった。おそらく達観しているように見えても深いところでは達観していないのだろう。少なくとも自らを達観しているという人を信じることはできない。人間は所詮煩悩の塊である。それでいいのではないか。煩悩は燃え尽きずに、死ぬまで私の奥深く滓のように残っている。
つづく