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死神の子

作者: 志内炎

この小説は完全なフィクションです。

 空調の音よりも静かに流れる寝息を乱さぬように、ベッドを抜け出した。足の裏に柔らかい絨毯の感触が心地よい。あらわになった細い肩にそっと唇を触れて、その温度を確かめ部屋を出る。

 リビングに脱ぎっぱなしにしたトレーナーの上下を着込み、上着を引っ掛け、玄関に向かう。姿見に映る自分の身体をみて、

(随分と痩せたものだ)と思うが、世間の標準からはまだまだ遠い。サンダルを引っ掛けるときに、あいつの履いていたブーツを倒してしまい、壁へと立てかけなおす。

(なんて細いヒールで歩いてるんだ)十センチ近いその踵は、あいつの指のように簡単に折れてしまいそうに細い。

 音を立てないようにドアを開け、ゆっくりと鍵をかけてマンションを出た。

 天気予報の知らせ通り、春一番が吹いているのか生暖かい風が上着のパーカーを膨らませる。マンションを出てすぐの自動販売機で用を済ませようかと思ったが、真夜中の陽気に誘われて少し離れたコンビニエンスストアまで歩くことにする。人通りはない。

(あいつと出会ったのもこんな頃か)

正確にはもっと前に出会ってはいた。付き合い始めたのが春一番が吹く少し前で、むさぼるようにあいつを抱いていた。

(今も変わらねぇか)お陰で少しは腹が邪魔ではなくなった。この二年で変わったところといえば、ほんの少しだけ引っ込んだ腹と、ほんの少しだけ偉くなったこと。真夜中までオヤジの都合であいつを待たせることはなくなり、あいつまで姐さんと呼ばれるようになった。もっとも、威圧的な態度を嫌うあいつは、道端で頭を下げられようものなら、眉間に深く皺を寄せて知らん顔をする。

「若い衆たちが困るから、無視するのだけは辞めてやってくれ」といくら言いきかせてもその態度だけは変わることがない。

 コンビニに入ると、男の店員が二人、なにやら冷蔵庫の前で忙しなく作業をしながら、

「いらっしゃいませー」と間延びした挨拶をよこした。以前だったら態度が悪いと難癖をつけるところだが、あまり気にならない。これもあいつと付き合いだしてからのことだ。

 真っ直ぐレジカウンターに向かい、

「セブンスターとマルボロのメンソールをくれ」と小銭をカウンターに出す。俺の声に驚いたように、一人の店員が顔を上げる。

「あ、どうも、いらっしゃいませ……」明らかに脅威を感じている声に苦笑し、陳列しようとその手に持っていたプリンを差して、

「それも二つくれ」というと、慌てて今届いたばかりであろうケースの中から二つ持ってレジカウンターの中に走りこんできた。

「今晩は暖かいですね」引きつった作り笑いを浮かべながら、そんな愛想をいう。

「ああ」適当に答えながら、そういえばあいつは一度も俺を特別扱いしたことがないな、と思った。時にわがままをいい、時にやきもちをやき、たまに手料理を作ってくれて、たまに背中を流してくれる。普通の女が普通に彼氏に接するように、それ以外の何者でもないといわんばかりに当たり前に俺を一人の人間として扱った。

「都合、五年だな」

「別荘?」

「ああ」

「そう――私は薄情だから待っててなんてあげないからね」陶器のような肌を俺の身体にぴったりと寄り添わせながら、それだけいうと目を閉じた。

(罪状を聞かれなかったのも初めてだったな)俺みたいな族がうようよしている町で育ったせいなのか、あいつの態度はいつも堂々としたものだった。

 コンビニを出て、すぐに煙草に火を点けようとした。持っていた使い捨てライターは、一瞬炎を上げるが、すぐに生暖かい風に溶けてなくなる。

「ちっ」あいつがくれたライターを持ってくればよかった。

「アニキ、そんな安物持ってたら笑われますって」

弟分のケンヂをあいつは思いっきり睨みつけた。

「安物で悪かったわね」ケンヂは、しまったという顔をする。あいつは俺の手から軍用のオイルライターをうけとり、手をかざして俺の煙草に火を点けた。

「姐さんからのプレゼントとは知らず、申し訳ありません」床に手をついて謝るケンヂを無視して、あいつはそのライターを見つめた。

「この子は本物の戦争を見てきたのよ」小さな声でそう呟きながら、ボディーに残る溝を撫でた。弾痕が作るそれからは、今でもオイルの匂いに混じって血の匂いがすることを、俺は知っていた。

 なかなか点かないガスの匂いに混じって、かすかに血の匂いがして、俺は自分の掌を見た。

「洗っても洗っても、すぐにとれるものじゃないんだ」毎日のように手に他人の血を浴びていた頃、俺は何度も何度も手を洗っていた。枯れたワインのようなその色はすぐに落ちても、錆びた匂いはなかなか消え去らなかった。その話をするとあいつは、俺の掌に小さな鼻を押し付けるようにして匂いを嗅いだ。そしてそのまま唇を押し当てると、

「臭くないよ」といって笑い、睫を少し伏せて、「私の全身からは血の匂いがしないの?」と聞いた。

「殺ったのか?」

「直接手は下してないわ」あいつは、俺の腕の中に身体を滑り込ませて、「ちょっと背中を押しただけ」と答えた。

「どうやって?」

「薬で」

「それじゃあ死んじまうだろう」

「薬は眠らせるのに使っただけよ。そのあと素っ裸でその隣に寝ていたの。十七歳のときだった」

「目が覚めたときに十七歳の女が隣で寝てたって死にゃあしないだろう」

「そうね」あいつは目を閉じたまま続けた。「でもそれがただの女子高生ではなく、別れた女房の一人娘だったら?」

「それは……」

「私を捨てた復讐をしただけよ。実の父親にね」そういい終わると、何事もなかったように寝息を立て始めた。

 その後あいつに聞いた話を繋ぎ合わせると、父親は二ヵ月後に自殺したらしい。あいつは執拗に父親の会社に電話をかけた。

「パパ、私初めてだったのよ」

「パパ、なんだか体の調子が悪いわ」

「パパ、生理がこないの」

「パパ、産んでもいいわよね――」

父親の葬儀の二日後、今度は母親が首を括った。

「――その背中も押したのか」

「ママだって私が邪魔だったのよ――十七歳って残酷な歳よね。パパには私、月に一度は会っていたから」あいつが吐き出した煙の色を鮮明に覚えている。「ママにはこういった――あなたが今までもらってきた養育費は、私が身体を提供してきたお金よ――急な吐き気を始末したキッチンでね」

「子供はどうした?」

あいつは天使のように微笑んだだけで、何も答えなかった。薄紫の煙が、漂うように立ち昇っては、乾ききった部屋の空気と混ざっていった。

 死神の子――両親が相次いで自殺したあいつはしばらくそう呼ばれた。成人して生まれた町を捨て、この町に流れ着き、俺にたどり着いた。夜の街で生きてきたのに、あいつの黒い噂は聞かなかった。

「縁起が悪いからじゃない?」死神の子は笑った。

「いや、死神も貧乏神も、味方につけりゃこっちのもんだろう」

「そうね、でも」耳元でささやく。「もしも私から血の匂いがしたら、逃げ出して」

 忠告通り、やばいことがあるたびにあいつを連れ出し、ホテルに詰めてはその身体をむさぼった。曇りのない陶器の肌は、もぎたての桃のようにびっしりと、そして柔らかく産毛で覆われていて吸い付いてくるようだった。それはただ、甘く酸っぱい女の色香を漂わせるだけで、一度も錆びた匂いをたてることはなかった。半年ほど前には、俺の指も十本そろったまま出世するはこびになった。

(今日は――)

どこからか香った血の匂いを捨て去るように、煙草をあきらめてマンションに向かい歩き始めた。

 今日はあいつの体からかすかに血の匂いがした気がした。あいつが嫌がるのも構わず、部屋の明かりをつけたまま、執拗に全身を愛撫した。

(どこかに傷があるはずだ)それで納得しようとしたが、あいつの身体には切り傷や擦り傷の類はなく、俺が果てるのを我慢するのに掴む二の腕が薄っすらと内出血しているだけだった。

「どうかしたの?」俺とその自らの汗を纏い、しっとりと濡れた身体を寄せて、あいつは聞いた。

「いや」ベランダへ続くガラス戸がほんの少しだけ開いていて、カーテンを揺らしていた。

(春一番が運んできたんだろう)寄り添う身体からは甘い香りがしていた。

 角を曲がればマンションが見えるところで、電話が鳴った。ケンヂの番号だ。

「もしもし」ぶっきらぼうに出ると、向こうから忍び笑いが聞こえる。

「片桐、これがお前が可愛がってる女か」

全身の毛が逆立った。三日前にある会社の負債回収から手を引いてくれと持ちかけてきたあの声だった。

「アニキ!」

電話の向こうで、ケンヂの声が聞こえた。続いて、パン、パンという乾いた音に重なり合うように、チンという薬きょうが飛び跳ね、床に落ちる音が二回響き電話が切れた。

 オートロックを叩き割るように開け、階段を駆け上る。腕に引っ掛けたコンビニのビニール袋がカシャカシャと音を立てる。信用できる筋に連絡を入れる。

「女が撃たれました。多分ケンヂも」

「どこだ」

「マンションです」

「お前は外か?」

「今部屋に向かってます」

「こっちも向かわせるからお前は入るな」

「……行かせてください」

「片桐! やめろ、片桐!」

携帯を切って、部屋の前の廊下に出る。誰もいない。部屋に向かい、乱暴にドアノブをまわすが鍵がかかっている。

「くそ」ケンヂの持っていた鍵だろう。ご丁寧に掛けていくなんて。乱暴に開けると、キーケースはドアにつけたまま部屋の中へ駆け込んだ。誰の気配もしない。何かがおかしい。思い切りよく寝室のドアを開けると、胸まで布団に包まったあいつの身体が見えた。近付くとあいつは寝返りを打って目を覚ました。

「どこにいってたの?」伸びをするように腕を俺に差し出す。俺は答えて馬乗りになるようにその腕の中へ首を預ける。柔らかい唇が俺の顎に触れる。

「煙草買いに行ってたんだ」持っていたコンビニ袋があいつの頭の横でしゃりしゃりと音を立てる。

「これは何?」何かがおかしい。

「プリン。お土産――」

かちりという音が、安全装置をはずした音だと認識する前に乾いた破裂音が二回響いた。薬きょうが廊下に転がる金属音。そして走り去る聞き慣れた足音。

(そうだ――この部屋では薬きょうの音はしない)一階階下のケンヂの部屋を思い浮かべる。フローリングの床に直に布団を敷いて寝ていやがったな、とぼんやり思う。

「下手くそめ」二発目は肩を貫通してプリンを飛び散らせている。反対の腕で身体を支え、あいつに体重を掛けないようにする。

「大丈夫か?」目を大きく開いたまま小刻みに頷く。

「ど、どうすればいいか、教えて」

「まず、玄関に行って」ドアにつきっ放しの鍵を抜いて、鍵を掛けろ。ロックも忘れるな。それから戻ってきて傷口を押さえてくれ。ケンヂは絶対に入れるな。

 パタパタと子供のような足音が遠ざかって戻ってきた。手には真っ白いタオルを持っている。部屋の中を見回すと、掛けてあったスーツからネクタイを抜き取り太ももを縛り上げた。

(ああ……それはお前が初めてプレゼントしてくれた俺のお気に入りなのに――)

それが終わると、肩の傷にタオルを乗せて両手で押さえつけた。感覚の鈍くなったその手で、あいつの太もも辺りを撫でる。タオル越しに見える顔は薄っすらと眉間に皺を寄せ、唇を真一文字に結んでいた。

「もうすぐ、応援来るからよ」

「――信用できるの?」

「ああ」

頷いて、両手に力をこめる。

「死神の子よぉ」俺の言葉に顔をこちらに向ける。「血の匂いはするかい?」

死神の子は何度もかぶりを振った。

「しない」声がかすれている。「血の匂いなんてしない。プリンの匂いしかしない」

「ああ、たしかにな」

ぽたぽたと目から大粒の涙を流しながら、傷口を押さえている。大丈夫、急所ははずれているからよ。――ああだめだ。ちょっと眠るからよ……あ、そうだ、お前、オジキたちが来たら裸で出て行くんじゃないぞ。あのエロ親父、「お前がだめな間、可愛がっておいてやるよ」とかいいかねねぇ。俺はそんなの耐えられないから。泣くなよ。俺だめだなぁ、お前だけは泣かせねえとか思ってたのによ。十七歳のときのお前が両親に復讐しちまうほど欲しがったものを与え続けてやれるのは俺だけだ、なんて思ってるのによ。ああ……プリンの匂いがするねぇ――

 遠ざかる意識の中、口を真一文字に結んだまんまのその顔がタオル越しに見えた。まるで天使の羽があいつを包んでいるようだった。

「血の匂いってなかなかとれないよね」という友人との物騒な話からできた作品です。

ロマンスの部分を感じていただければ、これ幸いかと。

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