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作者: 笠原白雨

 部屋の戸を開けて三秒後、異変に気づく。何か、別の存在。耳に響く微かな羽音。宙に揺らめく黒点。

 蚊だ。蚊が部屋の中を飛んでいる。ふらふらと揺らめきながら、ふと思いついたように壁に吸いついた。羽を収め、じっと動かない。

 私は蚊の存在を無視した。

 コンビニで買ってきたとんかつ弁当を卓に置き、テレビの電源を入れる。一発屋の芸人たちが、くだらない一発芸を披露して会場から笑いが起こった。ボケ役の芸人が、ツッコミ役に頭を叩かれる。叩かれた本人は、スクリーンの向こうでヘラヘラと笑った。それを見て、私もつられて笑ってしまう。ひとしきり笑った後で、始末の悪いその口角を下げる。少し、口の端が痙攣している。

 人の笑いの根源は、嘲笑、侮蔑にある。人は、ピエロを笑う。笑うと、人は安心する。百人の安心は、一人のピエロを基礎に持つ。その芸人は、今、この瞬間、私の安心の基礎となった。

 新聞、記憶の亡骸。本、情報の死骸。ペットボトル、空間の残骸。物の散らかった床を、足で払い、人ひとり座れる分のスペースを確保する。次第に熱を帯び始めた外気と対照的に、冷えた床が私の臀部を迎えた。

 弁当から湯気が立ち上る。カロリーの湯気。炭水化物の湯気。添加物の湯気。湯気の向こうで人がまた笑われている。人は人を笑って生きている。私もそうだ。人を笑って生きている。笑う私は、人の真似事をして時間を潰している。潰す時間を延長させるため、こうして飯に食らいついている。中身のない時間が際限無く続いていく。続いていくのは……つまり、それを断絶させる勇気が私に無いから。


 食事を終えたとき、私は腕にとまった一匹の蚊に気づいた。入口で存在に気づいた蚊だ。不敬にも、家主の腕から粛々と血を吸い続けている。

 殺してしまってよかった。ひと思いにピシャリとやって、潰してしまってよかった。この虫の生命は、私にとって何の価値も無かった。しかし、私はそれをしなかった。

 何故か。

 理由などない。ただの気晴らしだった。時々、人には自分をぞんざいに扱いたくなる瞬間というものがある。今が、私にとってまさにその瞬間だった。蚊に血を吸われている私。一匹の蚊にほしいままにされる、私。この、一分の虫。私に見つかっていないと信じて、私の生き血を吸い続けている、この、愚かで醜い害虫め。しかし、なんと細い身体だろうか。作り物のような、それこそガラス細工のような、糸のような身体。みすぼらしい身体。弱弱しい身体。薄い羽。退化した平均棍。およそ四百から九百ヘルツのモスキート音を導く、その羽……こんな貧弱なナリで、世界中でどんな生物よりも、それこそ、ライオンよりも、サメよりも、人よりも、人類を殺している。その数、年間に七十万人強。まさに、悪魔……

 汚らしい腹が膨れていく。私の血を吸ってその腹はますます大きくなっていった。

「気づいていないとでも思うのか」

 不意に、テレビからセリフが流れた。背景と化した笑い声の中から、意味のある言葉がこぼれる。

「私は気づいているぞ。お前の視線に気づいている。私を愚かだと思うお前の心に気づいている」

 私は蚊を凝視し続けた。蚊の身体は既にピンポン玉大の大きさにまで膨れている。私の腕に差し込まれた口吻はその口径を拡大させ、吸血量を増大させているように見える。細く思われたその脚は、今や力強く私の腕を掴み、自らの身体を支えている。

「孤独な男よ、無意味な経験の集積体よ。この世に生れ落ちてから今この瞬間を迎えるまで、お前にはどれだけの時間があったか、どれだけの選択肢があったか。お前はその選択を、何度も、何度も間違えて、今、この瞬間を迎えた。それは、何も選択してこなかったに等しいな。経験と呼ぶにはあまりに無価値な、粗悪で雑多な記憶の塊と言えよう。時間をドブに捨て続けてきたも同義だ。それでいて、まだ心の中では、自分は特別だ、自分はピエロなどではない、笑われる側の人間などではない、大多数の、笑う側の人間なのだと、高みの見物を気取っていやがる。愚かな男だね。たかがサラリーマンのくせに。事業を始める努力もしなかった。多少のリスクさえ背負えず、月に一回のこぢんまりとしたお給金で満足する、鎖につながれた資本主義の犬よ。愚かであるだけならいいさ。実際有害だね。生きているだけで不快な存在だよ」

「そんな風に言うのはよしてくれ」たまらず、私は言った。「私はきちんと働いているし、納税もしている。市民としての義務は果たしているはずだ」

「違うな、私が言いたいのはそんな二義的、三義的なことではないよ。もっと原理的なこと、つまり、私はお前の命の価値の話をしているんだよ」

 テニスボールほどにまで丸まると膨らみつつある蚊から、テレビのスクリーンへと、恐るおそる視線を移す。そこには、ボケ役の芸人が、スクリーンいっぱいにアップになって映っていた。額から滲む脂汗が、会場の照明を反射している。信じられないほど青白い唇を微細に震わせながら、目をこれでもかというぐらいに開き切っている。その瞳は、私に向かって一直線に伸びていた。

「こうは思わないか。命を定量的に扱った場合、人間などという存在は多くの命を消耗する、つまり、命―経済的に言って。あまりに非効率的な存在だということを、だ。その、お前が食べたとんかつ弁当のゴミを見ろ。お前ひとりの命を維持するのに、今まで何頭の豚が死ぬことになったか。そら、部屋の隅を蠢く、あの、虫を見ろ。お前ひとりの生活を快適に保つために、どれだけのゴキブリが毒を食わされたか。お前は、考えたことがあろうか」

「考えたことなどない。そもそも命の価値などというものは、主体の、対象との関わり方によって大きく変わるものだろう。そんな、見もしない、聞きもしない養豚場の豚の命を巡って私が断罪されても甚だ迷惑というものだ……」

 頭が上手く働かない。舌先がぴりぴりと痙攣し、言葉を紡ぐのに難がある。腕に視線を戻すと、さらに大きく膨れた蚊が、じっと私を見つめている。ちうちうと私の腕から生き血を飲み干しながら、じっと、ただじっと、私の顔を見つめている……そんな気がした。

「それに、ゴキブリのことは別にして、こと豚に関して言えば、豚は同族の一部を食用に出すことによって、種族の繁栄を人類によって保障されている。つまり、豚は自らの種の保存を人類に託していることになるのだから……豚にとっても利益のあることだと思うが」

 画面に映る芸人の下唇が、これまでになく震える。悪寒に襲われる病人のように、芸人の顔は血の気が引けている。その口から紡がれた言葉は、やはり声の調子が波打っていた。

「豚はそんな風には……思っていないよ。豚だって自由が欲しいさ。野原を自らの脚で意のままに走るあの心地よさ。養豚場の暗い天井でなく、遥か蒼天を見上げる晴れ晴れしさ。豚がそれらを望んでいたとしたらどうする? 君は何と言って抵抗するのか。いいかい、そんなものは人類側の勝手な解釈さ。本気でそう思っていたとして、それはほとんど偽善者に近い傲慢さがあるね。押しつけがましいはた迷惑な善意さね。人類の善意などというものは、どうしてこう、一方的で、暴力的な行為に収束していくものなのだろうね。人間の善意というものはね、大概戦争の火種になるのさ。善意を下敷きにした人間の行為は、他の動植物もびっくりするぐらい、残忍な行為をしでかすしね。自らの主義に反した行為をする人間、虐殺。大多数の意見を受け入れられない少数派、惨殺。意見の食い違い、抹殺。呆れるほど気まぐれに命を粗末に扱ったり、吐きたくなるほど気味の悪い笑顔を振りまいたりする。人間という種族は、倒錯した、本当に残酷で、時間を持て余した暇人の集まりなのだろうと私なんかは時々思っているよ」

 私は、いつの間にか背を床に預け、冷ややかな床面に耳を押しつけていた。視界がチカチカと眩く光り、身体中を嫌に冷たい汗が伝わっている。全身が極端に寒い。凍えるようだ。下あごが収まらず、ガクガクと震え続けている。私はもう、まともに会話さえできなくなっていた。

「おやおや、そろそろ君も限界のようだね。では最後に言っておこう。人類などという存在は本当に下劣で嫌なものだが、その中でも君みたいな考えなしで高慢ちき、愚昧であるがそれを認めようとしないくそ忌々しい怠け者は、はっきり言ってとっとと退場してもらおうと思うのさ。ピエロというのはね、確かにみじめで低劣なものだが、ひとつ美徳があるとすれば、それは人を笑わせることができるということさ。一方の君は、ピエロを笑い、高みの見物を決め込んでいるが、果たしてピエロ以上に役立っている場面があるのだろうか。そもそも、君は自分がピエロでないと本気で思っているのか。時間を空費し、無目的に生を延長し続け、そのために周りの生命を食い潰していく。ほとんど公害クラスの化け物だね。外から君を観察すれば、君こそ本物のピエロみたいだな。自分をピエロと認められないピエロ。もし本当にそうであるならば、それこそまさしく正真正銘の道化師さ。冷笑を浴びせるに相応しい存在だよ。そんな人生、やめてしまうがいいよ。これが良い機会だと思うね。お疲れ様。君の無意味な人生もこれで終わりだ」

 私の腕に付いた蚊は、その脚を私の胴体に巻きつかせ、なお血を吸い続けていた。蚊の腹は際限なく膨らみ続け、その大きさは私の頭部を優に超えていた。蛍光灯の白々しい光を背景に、その蚊は、もうほとんど機能しなくなった私の視覚の大半を占めるように覆いかぶさっている。蚊は、それでもなお一心不乱に私の体内の血という血を吸いつくそうと躍起だ。私は、抵抗しようにも、もはや身動きも取れそうにない。

 私は死ぬ。直感した。この蚊は、私を殺しにかかっている。抵抗するには、もう遅い。ああ、寒い。何も考えられない。薄らいでいく視界の中で、再び、芸人の顔が飛び込んできた。最後の最後に気づいたことだが、その芸人の顔は、どことなく私に似ていた。


 ♰


 以下、新聞記事より抜粋。


 〇日、江戸川区在住の会社員、金田誠さん(三十二)が、自室で死亡しているのが発見された。死因は失血死。金田さんの右腕には大きな刺し傷があるものの、室内に血痕は残されておらず、また凶器も不明とのこと。

 金田さんは△日、いつも通りに会社に出勤し、定時に退社したとのこと。三日後、金田さんの無断欠勤が続いたことから不審に思った同僚が警察へ通報し、事態が発覚した。

 警察は事件、事故両面から捜査を進めていくことと発表した。


 〈了〉

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― 新着の感想 ―
[良い点] 蚊の語り口が残酷で、 獲物にどんな抵抗も許さない、 狩人のような恐ろしさがあった。 [気になる点] まさか蚊が語りかけてくるなんて。 [一言] やっぱり人間であるだけで、 滑稽な面は否めな…
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