第五十話 「二人の思いは結ばれて」
ドアノブに手をかけ、ゆっくりと中へと入る。
部屋の中は何故か真っ暗だった。
俺は手探りで扉の近くに設置されてあった電灯のスイッチをいれる。
すると明るくなった部屋の中央に、ベッドに腰掛けた渚の姿があった。
たった三日見なかっただけで渚は酷くやつれており、触ると儚く崩れてしまいそうだった。
「……渚」
話しかけると、渚はこちらに顔を向ける。
俺の顔をまっすぐに見た渚は。
「――誰?」
その言葉に涙が出そうだった。
分かっていても実際言われると辛いものがあった。
渚は体を強張らせて俺を警戒していた。
「俺だ、亮介だ」
「……りょう……くん?」
あまりに俺の訪問が意外だったのか、渚の驚いた様子が見て取れる。
「渚、大丈夫か?」
俺は渚の側に行こうとした時。
「来ないで!」
「えっ?」
その言葉に足が止まる。
渚は俺の方に手をかざし、俺が行くのを拒む。
「どうして……どうして来たの?」
「どうしてって、渚が心配だったんだ」
「私が? 何で?」
「ルビアから話は聞いた。それで明日この街を出て行くことも……。
それで、渚に大事な話があるんだ。だから――」
「……馬鹿じゃないの?」
「えっ?」
渚はハッ、とはき捨てるようにそんな言葉を口にした。
そして突然渚らしくない高飛車な態度を見せる。
「私ね、実はリョウ君の事なんか何にも思ってなかったの。今までの事は
只のあ・そ・び。分かる?
可笑しかったなー、少しからかうだけで頬を赤らめたり、嬉しそうに笑ったり。
本当、心の底から笑わせて貰ったわ」
アハハ、と高らかに笑う渚。
それからも罵詈雑言の嵐。
それらを黙って俺は聞き続けた。
「分かった? 私は本当に何にも思ってないんだから。だからさっさと帰って。
正直迷惑なの」
「……渚」
「何? 何か不満でもあるの?」
「どうして泣いているんだ?」
「――」
渚は咄嗟に近くにあった枕に手を伸ばして俺の方向けて投げつけてきた。
けれどそれは横を掠めて壁に当たる。
「知らない! 早く帰ってよ! 何にも思ってないんだから!
嫌い! 大嫌い! 貴方なんか大嫌い!」
渚は手探りで近くにある物を捜し、手当たり次第に俺に向けて投げつけてくる。
それを黙って俺は受け止める。
投げつけている最中、渚の表情は辛く、苦しそうだった。
そしてある程度物を投げつけた後、ベッドに手をつきうなだれる。
「分かんない……分かんないよ! 何もかも! 誰も信じれない。誰も分からない。
リョウ君の顔も、貴方が本当にリョウ君なのかも!」
「渚……」
渚は髪を振り乱し、唇を噛締め、両手で震える体を押さえ込む。
俺はそんな渚を見てゆっくりと近づいていく。
「来ないで! 嫌、誰か――」
渚の目の前まで来た時、俺はそっと渚の片手を両手で包み込む。
それから渚が落ち着くまでずっとその状態を維持する。
「渚……これじゃあ駄目か?」
訊ねると渚はもう片方の手で俺の手を覆いかぶせる。
そして、ゆっくりと撫でるように俺の手をじっくりと、丹念に手を触っていく。
「……温かい。大きくて、優しい手。分かる、分かるよ……。この手はリョウ君だ」
部屋に入って初めて見せてくれた安堵の表情。
その顔を見てホッとする。
「渚、ゴメン」
「えっ?」
「俺、以前渚に言っただろ? 渚は変わってしまったって。それ間違ってた。
渚は変わってない、むしろ俺の方が変わっていたんだ。久しぶりに出会って
お嬢様になっていた渚が手の届かない存在の人だと勝手に決め付けていた。
変な世間体や、周りの人を気にしていた。渚は昔と変わらず俺と接して
くれてたというのに」
「リョウ君……」
子供の頃の俺はどんなに周りがとやかく言おうと全然平気だった。
だって俺は渚の事しか見えなかったから。
渚と会うのが楽しみだった。些細な事で笑ったり、喜んだり、泣いたり。
それなのに、俺は何時の間にかそんな周りの大人たちと同じようになっていた。
「渚……ごめん、ゴメンな」
それを思うだけで目から涙がこぼれ落ちる。
渚は辛い思いを隠してまでなんら変わらず俺と接してくれていた。
自分の病が発病する最後の最後まで。
渚は俺の言葉に首を横に振る。
「ううん、リョウ君が謝ることは無いよ。だって、リョウ君は昔も今も
私を助けてくれたんだもん」
「えっ?」
「一人ぼっちだった子供の頃、そして病気で目の前が真っ暗だった私に光を与えてくれた。
生きる楽しさ、喜び。もう一度リョウ君に会えた事でそれが思い出せた。
ありがとう、リョウ君」
渚は微笑む。何も後悔は無い、と彼女はそう言ったのだ。
それだけで俺はその場に泣き崩れてしまいそうな勢いだった。
だがそれを必死に踏みとどまる。
泣き崩れてどうする。俺がここまで来た理由は彼女に別れの挨拶をする為か?
そうじゃない。
涙を袖で拭い、渚を見る。
「渚、話があるんだ。良かったら聞いてくれないか?」
渚は頷く。
深呼吸をして落ち着こうとするものの、先ほどから心臓がいう事を聞いてくれない。
今にも破裂してしまいそうなほど緊張しているのが分かる。
「俺、今まで渚に黙っていた事があったんだ。その言葉を口にするのが
怖かった。自分に自信が無くてふさぎ込んでた。けど、今はもう迷わない」
「? リョウ君?」
部屋が静まり返る。自分の心音がやけにうるさく感じてしまうほどに。
この言葉で渚がどう思うのかは分からない。だけど、俺の答えは決まっている。
渚の手をギュッと握りしめた後。
「渚、好きだ」
「――え?」
「俺と……結婚して欲しい」
静かな部屋の中に響き渡る告白。
時が止まったかのような感覚に陥る。
そんな時、握っている手に不意に冷たいものが当たる。
それは涙。渚の目からとめどなく涙がこぼれ落ちていた。
「どう……して? どうして私なんかと?」
「ずっと前から好きだった。今まで決心がつかなくて言い出せなかった」
「私、もう何も見えないんだよ? リョウ君に迷惑かけることになっちゃうよ?
歳をとってよぼよぼのおばあちゃんになっても迷惑かけることになってもいいの?」
「構わない。俺が渚を支えていく。俺はお前が側にいてくれるだけで、それで十分だ」
「でも……でも……!」
なきじゃくりながら渚は、必死に俺のためを思って告白を断ろうとする。
どうしてそんな辛い道を歩もうとするのか。渚は今までずっと辛いことばかりだったはずだ。
その苦しみを俺は少しでも和らげてやりたい。
「俺じゃあ駄目か?」
「そんな事無い! そうじゃないけど――!」
「俺には渚しかいない。白鳥渚という一人の女性だけを俺は愛している。
渚の気持ちを聞かせて欲しい」
そう言うと、渚はうつむいてしまう。
そして。
「ずるい、ずるいよリョウ君」
「えっ?」
「私の気持ち知っててそんな事聞いて来るんだもん」
「……それじゃあ!」
渚は目に涙を浮かべる。それは決して悲しくて泣いているわけではない。
渚は満面の笑みを浮かべて。
「私も、リョウ君しか居ない。神崎亮介という一人の男性を誰よりも愛しています」
「――渚!」
その言葉は今まで生きていて一番嬉しかった。
思わず渚を抱きしめる。渚もまた俺を抱きしめる。
「離さない。もう二度と遠くへなんか行かせない」
「私も……私もリョウ君の側から離れない」
そして、自然と互いに口付けを交わした。
俺たち二人のすれ違い続けた思いはようやく結ばれた。