第三十六話 「キライな理由」
秋も終わりが近づき、段々と寒さが増してくる今日この頃。
外では木枯らしが否応なしに吹き付けてくる。
そして、町はクリスマスに向けて準備を始めていた。
季節が冬に変わって来ていた証拠だ。
そういえば最近……。
「こんにちは」
「あれ? 拓海さん?」
家に毎日のように訪れてくる拓海さん。
もちろん目当てはひとつ。
玄関から拓海さんの声が聞こえてきたと分かった途端に
のそっと玄関に顔を見せる涼子さん。
「拓海、お前は毎日よく来るな……」
「うーん、邪魔かな?」
「ああ、邪魔」
そんな涼子さんの言葉にガーンとショックを受ける拓海さん。
思わず涙が目頭にたまっているのが見て取れる。
涼子さんはそんな拓海さんに頭を抱える。
「あー、もう! だったらちょっと買い物に付き合え。荷物持ちぐらい
できるだろ?」
「もちろん!」
そうして涼子さんは拓海さんと何処かへ出かけていく。
まぁ、涼子さんも嫌そうにしているけど、一緒に居られて楽しそうだ。
仲むつまじい二人を見て俺は何処か憧れる。
そんなある日の事だった――。
何時もの様に学校から帰って玄関を開けた時、偶然にも涼子さんと出くわす。
涼子さんは俺とすれ違うように靴を履く。
「あれ? 涼子さんお出かけですか?」
「……ああ。アトリエに行ってくる」
「? 分かりました」
何処か何時もと違って様子が違う涼子さん。
元気が無いというか、覇気が無い。
涼子さんはゆっくりと玄関を出て行った。
俺は荷物を置いて居間でくつろいでいた時、突然玄関の呼び鈴が鳴る。
玄関に向かってみると。
「あれ? 拓海さん? どうしたんですか?」
「やぁ、元気かい亮介君?」
何時もと違って両手に大きな紙袋を持って現れた拓海さん。
重たそうに玄関に紙袋をひとつ置く。
「どうしたんですかこの紙袋?」
「いや、何時も迷惑かけてるからこれ、つまらないものだけどもらって」
「あ、ありがとうございます」
俺は置いてある紙袋を手に持つとずっしりとした重さが腕にかかる。
かなりの重さで中身を見ると、一升瓶が二つ入っていた。
銘柄は超がつくほど有名なお酒だった。高かっただろうなー、これ。
「拓海さん、涼子さんならさっき出かけていきましたけど?」
「えっ? そうなのかい?」
「どうします? 中で待ちますか? しばらくすればかえってくると思いますし」
俺はどうぞ、と拓海さんを招く。
だが、拓海さんは玄関に立ったままあがろうとはしなかった。
「? 拓海さん?」
「ごめん、今日はそういう訳にはいかないんだ」
「えっ?」
「今日、パリに戻る予定なんだ」
「――! そ、そんな! 何で突然!?」
「いや、話しては無かったけど、既に帰る日にちは決まっていたんだ」
「な、何時に帰るんですか?」
「午後九時の飛行機だね。まぁ、少し寄るところもあるからもうここには居られないんだ。
最後に涼子と会いたかったけど、そうは上手くいかないか。まぁ少し心残り――
ち、ちょっと亮介君!? どこに行く気だい!」
「涼子さんを連れて帰ってきます! 九時ですね!? 空港で待っててください!」
俺は紙袋を置いて玄関を飛び出し、急いで自分の自転車に乗って走りだす。
冗談じゃない、こんな別れ方させてたまるものか。
涼子さんだって絶対に拓海さんと会いたいはずだ。
以前アトリエには行った事があるから場所は分かっている。
無我夢中で自転車を飛ばし、町を抜けて山付近にある涼子さんのアトリエにたどり着く。
「涼子さん!」
扉を開くと同時に叫ぶ。
肩で息をしながら枯れたような声で涼子さんを呼んだ。
涼子さんは俺の方を振り向くこと無く絵にかかりっきりだった。
「何だ少年、さわがしいな」
「そんな事やっている場合じゃないですよ! 実は今日拓海さんがパリに帰って
しまうらしいですよ!」
俺の言葉に涼子さんの筆がピタリと止まる。
だが何故かその場から動こうとはしなかった。
「何しているんですか涼子さん! 早く行かないと――」
「……少年、私は行かない」
「なっ!?」
信じられない一言。
それだけ言うと涼子さんは再び筆を動かし、何事も
なかったかのように振舞う。
「何を言ってるんですか涼子さん! 拓海さん居なくなるんですよ! さびしくないんですか!」
「何、今生の別れではないからそんな焦らなくてもいつか――」
「そんな事ありません!」
分かる。
例えもし、今生の別れでなくても好きな人が遠くに行く辛さを俺は良く知っている。
あのもどかしさ、悲しさを。
「何時どうなるか何て分からないんですよ? 辛くないんですか涼子さんは?」
「…………」
「だから、この時だけでも一緒に――」
「少年、少し勘違いをしているみたいだな」
「えっ?」
「私は拓海の事が嫌いだ。嫌いな男を見送るなどできない」
「っ――、なんで今になってもそんなありえない事を言い続けているんですか!」
「二度は言わない、さっさと帰れ少年。最後に拓海を少年が見送ってやればいい」
「この……涼子さんの馬鹿! 分からず屋! そんな涼子さん大っ嫌いです!」
俺は力任せに扉を閉めた。
涼子さんの理解できない行動に腹が立つ。
どうしてそんな事ができるのか。
そしてアトリエに居る涼子さんを残して空港へと向かった。
◆◆◆
「すみません、拓海さん……」
空港の持ち物検査前で待っていた拓海さんに事情を話す。
それを聞いた拓海さんはガッカリはしていたものの、どこか納得している
様子だった。
「まぁ、仕方ないか」
「拓海さん? どうしてですか? 仕方なくなんか――」
「涼子には話していたんだ、今日パリに帰るという事は」
「えっ?」
「だから、家に行った時居ないと聞いた時にある程度予想できたよ」
「だったら……どうして涼子さんはアトリエになんかに行ったんですか!」
益々涼子さんの行動が分からない。
あの時拓海さんを待っていれば別れの挨拶ぐらいできたはず。
それを自分から拒否するようにアトリエへ……。
「拓海さん、もしかしたら涼子さんはあなたの事が――」
言いかけた言葉をふさぐように拓海さんはあるものを俺に見せる。
それは小さなお守りだった。
「これは前日に涼子がくれたんだ。死んだら困るやつがいるだろうから
一応渡しておくって」
「じゃあ、どうして涼子さんは?」
「やっぱり別れって辛いからね。僕もずっと涼子のそばにいたい
ぐらいだからね」
「どうして居てあげないのですか?」
「約束だよ。涼子と二人で以前交わした昔の約束、それを涼子は律儀に守ってくれてる。
僕もまたその約束を守っている。だからパリに向かう」
「約束って……どんな約束ですか?」
「うん、実はね――」
◆◆◆
「……もう出発した頃か」
涼子は壁にかかってある時計を見つめる。
すでに時計の針は午後九時を過ぎていた。
彼との別れはこれが初めてではない、これで二度目。
目の前にある絵を描きながらあの過去に思いふける――。
●●●
"えっ? 海外へ?"
夕暮れの教室の中、彼の突然の決意。
私の言葉に目の前に居る彼は頷く。
"実は審査員の人から誘いがあったんだ。よかったら本格的に絵の勉強をして
みないかって……"
彼は恥ずかしそうに頬を指で掻きながらそんな事を私に話した。
私はそれに驚くことは無かった。なにしろ彼にはそれだけの才能があると
分かっていたからだ。
『天は二物を与えず』とはよく言うが、そんな言葉は嘘だ。
天は気まぐれで二物を与える人もいる。なんとも不公平な神様だ。
そしてその二物をもらったのが目の前に居る彼だ。
『努力』と『絵』の才能を。
彼が信じられないぐらい絵にのめり込んで努力していた事を私は知っている。
身近でそれを見てきたのだから。そしてそれが今実ったというわけだ。
"良かったじゃないか。おめでとう"
"…………"
"どうした? 嬉しくないのか?"
"嬉しいさ……けど"
彼はチラリと私の方を見て俯く。
そんな彼の態度を見て私は感づく。
私は彼の足かせになっていると。
今まさに大空に羽ばたこうとする鳥を私という名の籠が邪魔をしていた。
彼は私が行かないで欲しいといえばおそらく行かないだろう。
……それは駄目だ。
たった一人の身勝手な思いで彼を、才能ある人の芽をつぶすなどという事は。
なら取るべき道は一つだろう。
"なんだ? もしかして私が行かないでなどと言うとでも思ったのか?"
"えっ?"
"馬鹿馬鹿しい。お前の絵に対する思いはそんなものか? そんなお前は『嫌い』だ。
私たちはそんな親しい仲でもないだろう? そうだ、どうせ海外に行くなら
向こうで良い女でも捕まえればいい。お前にとって至れりつくせりじゃないか"
私は気丈に振舞い、彼に対して背を向ける。
心に思っても無い事を口にする事はこんなにも苦しいものだとは思わなかった。
――行かないで欲しい。ずっと傍に居て欲しい。
胸の奥からどうしようもなく抑え切れない感情が込みあがる。
肩は震え、視界が霞む。
もう彼を直視する事ができない。彼の顔を見れば感情が噴出してしまいそうだったからだ。
そんな私に対して彼は。
"涼子、俺行くよ海外に。絶対に立派な画家になって見せる。それでもし、
世界的なコンクールで金賞とった時……俺と――。"
"……待ってる"
"えっ?"
"お前が立派な画家になるまで。それまでお前の事は嫌いだからな"
彼との約束。
彼はその後パリに出発した。私は彼を見送る事はしなかった。
必ず果たしてくれると信じて――。
◆◆◆
懐かしい過去の約束を振り返った後、私はひと段落ついて家へと戻る。
すでに夜中の十時を過ぎていた。
私は静かに玄関に入ると、目の前に少年の姿があった。
「なんだ? 怒っているのか少年?」
私がそう言うと、なぜか少年は深々と頭を下げた。
突然の事に目が点になる。
「すみません涼子さん! 俺、涼子さんの気持ち考えずに……」
「なんだ? 拓海に何か吹き込まれたか?」
「えっと……涼子さんとの約束を少し」
「あの馬鹿」
全く、人の気持ちも知らずにベラベラと。
しかし、少しホッとした。あいつもちゃんと約束を覚えていたという事に。
「涼子さんは信じてるんですね、拓海さんの事」
「いや、全く。あいつは結構いい加減だからな」
「りょ、涼子さん〜」
私の言葉にあたふたとする少年。
ああ、しかし似ているなこの少年は。高校時代の拓海に。
初めて見たとき、本当に拓海かと思ったほどだった。
まさか自分の従弟だとは思わなかったがな。
「よし、少年今日は付き合え」
「えっ? 何にですか?」
「酒だよ、酒。今日はパーッと飲むぞー!」
「いいっ! か、勘弁してください涼子さん! 俺未成年ですよ!?」
「許す。好きなだけ飲め」
「涼子さーん!」
別れは言わない。
……だから早く迎えに来い馬鹿。