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コーヒーと人殺し

作者: 熊と塩
掲載日:2014/09/10

 グアテマラとブラジルのブレンド。豆の煎りは中程度。

 砂糖もミルクも足す僕にはコーヒーの味の違いなど判らない。メニューにそう書いてあるのを読んだだけだ。酸味やら苦味やらがグラフで表記されているが、コクなどとなると意味不明だ。

 だから僕は茶褐色の液体を口に含み、ああ苦いなと、舌に載っかる重たさの様なものを感じ、ああコクがあるなと思う訳である。

 湯気の立つカップを見て、何と無く、喉元過ぎれば熱さを忘れるという諺を思い出した。昔の人は上手い事を言うものだが、正確には間違いではないか。

 熱い物は口に入れられない。まず息を吹き掛けて、少し温度を下げる。そして口中ですっかり温くしてから飲み込む。そして生温かく胃の中へ落ちて行く。熱さなどは、最初の頃の口先から既に失われているはずだ。

 出来事の本質はそういうものだろう。


 この店のマスターが向かいの席に断りもなくどっかり座り込む。別に興味がある訳でもなかろうに、またネタ切れかい作家先生、などと軽口を叩いた。

「今日はただの気分さ」

「へえ、そうか」

 オールバックの強面に口髭、蝶ネクタイなどしている滑稽な男は近藤という名だ。いや可笑しく見えるのは僕が彼を高校生の頃から知っているからであって、客観ではいかにも美味いコーヒーを淹れてくれそうに見えるのかも知れない。昔は随分と適当な男だったのだ。無断欠席の常習犯で、出席日数不足を泣き落としで何とか卒業した様な奴だ。

 それがどうして喫茶店などやっているのか。そこのところはよく知らない。まあどうせ思い付きだろう。

 ちなみに――僕は作家と名乗るにはおこがましい人間だ。箸にも棒にも掛からないただの作家志望である。

「暇なのか」

 見りゃ解るだろう、と言って近藤は肩を竦めた。そうだなと笑ってやる。昼時だというのに店内に他の客の姿は無い。この店を訪れるのに決まった時間は設けていないが、大抵がこの通り閑散としている。希に通り掛かりのおばさん連中がわいわいやっていたり、職業不明の若い男がノートパソコンを叩いていたりするのを見掛けるが、本当に希だ。

 おかげで物思いに耽るには絶好のスポット――とは言い難い。毎度毎度この昔馴染みが、客への応対としてあるまじき態度でやって来るのだ。思惑をしようというならこれ程邪魔な存在は無い。

 じゃあどうして来るかと言えば、物思いに耽りたくないからだ。一人で居れば脳内はぐるぐると空転し続けるし、通りへ出れば雑音に引っ掻き回され混沌とする。噛み合わない思考の歯車を止めつつ軋ませまいとするには、近藤という奴は実に良い役割を持っているのだ。

 悔しい様な気もするけれど。

 それで今度は何をお悩みだ――近藤はふんぞり返って言った。

「ネタ切れじゃないって、さっき言ったばかりじゃないか」

「だから、小説のネタ以外で悩んでいるんだろ。顔に出てるぞ」

 出ていたか。

 出ているよと近藤は胸ポケットをまさぐって煙草を咥えた。コーヒーを飲む客の前でして良い事ではなかろうが、近藤は構いやしない。

「まあ話してみろよ。聞くだけ聞くぜ」

 それなら、単刀直入に尋ねる事にする。

「お前、人を……殺した事があるか」

 近藤はライターを構えたままぴたりと静止した。それから、何だってと借金取りが凄む様な顔付きをした。

「人殺しだよ。経験あるか?」

 何言ってんだお前は――咥えたばかりの煙草とライターとを乱暴にテーブルに叩き付ける。

「俺がそんな風に見えるか」

 見える。仮に近藤を知らない人間を集めて二十年の刑期を終えたばかりの元凶悪犯だと言ったなら、百人中八十人はそれを信じるだろう。そんな容貌こそこの店が繁盛しない理由の一つに違い無い。

 ――冗談は兎も角として。

「どうやらな、近藤。僕は人を殺したらしいんだ」



挿絵(By みてみん)



 一昨日の事だ。僕は致し方無く大宮の駅前をうろついていた。

 用事は様々だ。傷だらけの眼鏡を安く新調できないかとか、二年近く履き潰した靴を買い換えたいとか、傑作との出会いを期待して本屋を覗くとか。要するに暇潰しではあるのだけれど、そう言うと自虐的なニュアンスを含んでしまう。

 人混みは大嫌いだ。特に駅前などは厄介極まり無い。

 道行く人々は縦横無尽で無秩序。その中を擦り抜けたり、追い越したり追い越されたりする度に、神経がひりつくのだ。これは生まれもっての性質で、経験や習慣でどうにかなるものではなかった。

 かと言って家に引き籠もっている訳にもいかない。インターネットで何でも揃う時代とは言え、たまには表に出なければならないというのが結局は社会の規則なのであって、これを破れば社会不適合者のレッテルを貼られてしまう。

 だから――仕方無く、嫌々ながら、うろうろした。

 収穫は無かった。眼鏡は高いし靴を見ていると今のままで良い気がしてくるし、本屋では知った作家の本ばかり手に取ってしまう。無理に得たものを挙げるなら、人酔いと疲労感だけだった。


 それで、もう帰ろうとバスを待っていた。経由地の違う一本を見逃しても待ち時間は五分程度。待機列は少ない。漸く落ち着けると、そう思っていた時だ。

 女の声がした。大声だ。何と言ったのか聞き取れなかったがそっちの方へ目を向ける。僕ばかりでなく近辺に居た誰もが見た。

 若い女だった。一目見た瞬間に不潔だと感じた。肩まで伸びた黒髪は無造作に縮れているし、鼠色のパーカーやジーンズが所々薄茶に汚れている。

 いや何よりも印象的だったのはその表情だ。女の顔は恐怖を浮かべていたのだ。

 そして見開かれた目は――僕を見ていた。

「人殺し」

 女は叫んだ。他の誰でも無く僕を真っ直ぐ見据え、指を僕に向けて叫んだのだ。

 聞き間違いではない。女が繰り返し喚くのだ。

 人殺し、人殺しです、この人、人殺し――。

 僕は全く愕然として身動きも出来なかった。鎖で縛り付けられた錯覚に陥った。

 身に憶えの無い事だとか、とんだ言い掛かりだとか、そうした言葉も浮かんでこなかった。

 人殺し――頭の中はすっかりその一言に支配されてしまったのだ。

 いずれ別の女が現れた。ずっと老けていて服装も良い。母親だろうか。

 母親らしき女は叫び続ける女を抱き寄せて、僕を指差す腕を押さえ付け、喚き声に覆い被せる様に繰り返し何か言った。そして何度も頭を下げながら、ずっと叫び続ける女を連れ去っていった。

 僕はただ立ち尽くした。頭蓋骨を響き続ける女の声に眩暈を覚えながら。



挿絵(By みてみん)



 お前なあ――と近藤は呆れ顔で煙草に火を灯す。

「その女はつまり、アレだろう。そしてアレな人間にたまたま目を付けられたってそれだけの話じゃねえか。まあ良くある話とは言わないが」

 そう。

 近藤の言う通りだ。精神疾患、精神的外傷、脳障害。それらを患っている人間は決して珍しくない。不幸な境遇にある人々がトラブルを起こしてしまう事や、そしてそれは悪意からではない事くらい、最低限の良識として知っている。だから僕は被害者ではないし彼女は加害者ではない。不慮の事故の様なものだと思っている。

 けれど――僕の胸に痞えているのは、あの出来事それ自体ではないのだ。

「僕は人を殺した事なんか無い。殺してやりたいと憎んだ相手だって思い当たらない。でもな近藤。僕は僕が人殺しじゃないなんて自信が持てなくなってしまった」

 コーヒーの水面に向かってそう言うと、近藤は煙をぺっと吐き出して、意味解んねえよと言った。

「お前の事はお前が一番知ってるだろうが。何だよ。俺に保証して欲しいのか? おう、お前は人殺しなんかじゃねえよ。何なら書面に起こして血判してやっても良い。それでも足りなきゃ警察に行ってお前が如何に糞真面目で臆病な人間か切々と訴えてやろうか。まあそんな無意味で迷惑な事はしねえが」

「そういう事じゃないんだよ、近藤」

 そういう事じゃねえのかよ――と近藤は灰皿を引き寄せた。

 物解りの悪い友人だとは思わない。物を解り易く語れない僕が悪いのだ。

「例えば……そうだ。近藤お前、岸辺を覚えてるか。同じクラスだった」

「ああ、彼奴か。二年の時に事故で死んだ」

 近藤は相槌を打ちながら煙草の灰を叩き落とした。

 その程度の仲だった。いや仲と呼ぶ程の関係すら無かった。岸辺という奴は暴走族紛いのグループに属していて、深夜にバイクを乗り回し、単身事故を起こして死んだのだ。クラスメートとして葬式に出席したし、全校集会で弔辞と警告を聞かされた。それだけの認識しか無い。近藤も同じだろう。

「それがどうした。まさか、お前が殺したんじゃねえだろ」

 小馬鹿にした笑みで煙草の先を向けてくる。

「聞けよ。お前はさ、どうしたら岸辺が死なずに済んだか考えた事あるか」

「あァ?」

 近藤は顔中をひしゃげさせて首を突き出した。それから、ねえよそんなもんと吐き捨てた。

「ある訳ねえよ。彼奴は勝手に馬鹿やって死んだんだろうが。俺の知った事じゃねえよ。仮に死ぬって解ってたらまあ、赤の他人だろうと止めたかも知れねえが」

 そう、それなのだ。

「例えばだ、近藤。例えば、僕やお前が岸辺と仲良くしていたら、彼奴は悪い連中とつるんでいなかったかも知れないだろう。それなら彼奴が死ぬ事はなかった」

「かも知れねえが――」

 その逆なら、と僕は言った。

「岸辺が死んだのは、僕が彼奴と仲良くしなかったからだ。そういう事になってしまわないか、近藤」

 一息に言った僕を、近藤は哀れむ様な目で見返していた。呆れているのだ。

 呆れられるだけの理由はある。例えに例えを、仮に仮を重ねた話だ。それは解っている。だが僕は構わず続けた。

「僕が道を歩いていたとする。擦れ違った男が、その後自殺したとする。そんな事は僕に関わりが無い。でももしかすると、僕が挨拶も無しに通り過ぎてしまったから、その男は死のうと思ったかも知れない。いや……僕がコンビニで買い物をする、そこでつい不機嫌な態度を取ってしまって、店員も機嫌が悪くなる。すると不機嫌な店員は次の客に悪い応対をしてしまう。客は苛々する。苛々した客は帰って家族に当たり散らす。八つ当たりされた家族が友達に愚痴る。愚痴られた友達は気分が落ち込む。そこへ会社の上司が小言を言う。そして怒りを買った上司はカッターナイフで刺される。それは巡り巡って」

 僕が人を殺した事にならないか。

 僕の行いで人が死んだ事にならないか。

 思い付く限りをそのままに口から発していた。

 眉根を寄せて聞いていた近藤は、ややあって、大量の煙と共に溜息を吐いた。

「馬鹿馬鹿しい事考えてんな」

 そうだ。馬鹿馬鹿しい。一蹴されて然るべき事だ。

 けれど。

「全く無いって言い切れるか、近藤」

 人は他人について剰りに無関心だ。僕らが何かをする度に、何かをしない度に、どこかで別の何かが起きているというのに。それを知ろうとしない、知る術が無い、知り得ない。知る訳が無い。

 僕はいつかどこかで人を殺したかも知れない。

 そんな想像に取り憑かれて、僕は恐怖しているのだ。

 ああそうだな――と近藤は半ばも残った煙草を揉み消した。

「やっぱりお前は人殺しかも知れねえ」

 そこへ鈴が鳴った。来客を告げるドアベルだ。

 おっと人殺しが来たぞ――近藤は声を低くして笑った。

「おい、その一杯は無料にしてやるよ。人殺しから人殺しへ奢りだ」

 けけけと笑って席を立つ。いらっしゃいませと声音を作って言った。

 僕は何故だか、近藤の言葉に救われた気分がしていた。

 コーヒーはすっかり冷たくなっている。


挿絵(By みてみん)

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