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7.14 一週間くらい更新してないけどエタってないよ、今週中に全部投下します。
翌日、花沢一行はセインツロックの地に立っていた。
今日は自営の押止から情報を仕入れてきたのではなく、気軽にセインツロックをそぞろ歩いて探勝しているだけだが、普段は訪れない地帯を訪ねて調査領域を広げるという意味合いも兼ねている。
観光用の広小路しか歩けない一般人とは違って、セインツロックを自由に駆け巡るパパラッチは穴場を知っている。それは、人気が少ない上に花畑が広がっているピクニックに適した場所であったり、絶景を楽しめる秘密の場所であったりする。
花沢の場合は、ついこの間発見した森林地帯の大樹周辺というのもあるが、筆頭は針葉樹林に囲まれた神秘的な小さい氷湖である。
多少肌寒いとは言ってもリラクゼーション可能な居心地の良さがあるので、睡魔に襲われることもある。そういうときは、針葉樹の根元にできた窪みに倒れ込む。地面がふかふかなので、体を休めるにはもってこいなのだ。
そんなわけで浅い眠りについている花沢じゃスクープによって起こされる。全身にくまなく行き渡っている眠気の波濤に押し寄せられて、まだまどろみに呑まれたままだった。
「……あの、ちょっといいですか、花沢さん?」
「……んだよ、俺は見ての通り気持ち良く眠ってたんだが?」
「眠らないでください! 一応、今日だって仕事の一部なんですからね!? ちゃんとフィールドワークしましょうよ、範囲広げましょうよ!」
怒気交じりに弁を振るうが、花沢はビクともしない。
「範囲広げて自力でめぼしいものを見つけようとせずとも、そこのポン子に聞けば一発だろうが」
「元も子もないこと言わないでください、それを言ったらおしまいですよ! ポン子ちゃんには極力っていうか、神に誓って頼らないって約束したじゃないですか!」
約束――それは、ポン子を捕まえて捕虜とした日に交わされた。条文をいくつも羅列した複雑な約束ではない口約束でも重さは変わらない。
セインツロックを誰よりも知るポン子を手札に加えたなど、反則級の戦力を獲得したようなものだ。対戦ゲームで例えるなら、チートをいつでも使える圧倒的優位な状態に立ったようなもので、そのカードを切れば一瞬にして勝負が決まってしまう。ポン子を有効に使えば、今までの常識を覆して情勢を大きく揺るがすことも可能だろう。
でもそれはつまらないと花沢とスクープは声を揃える。
生きるか死ぬかの瀬戸際や、一大事の胸突き八丁に差し掛かったとしたらポン子に助力を乞うのもやむなしと苦渋の決断を下すのかもしれない。だが普段のなんでもないパパラッチライフにおいては、ポン子からの度が過ぎた情報提供は拒否することに決め、その誓いを心に鏤刻した――それにも関わらず、花沢が安直な発言をしたのでスクープは怒ったのである。
「ポンは別に話してもいいんだけど、二人の信念を邪魔するつもりはないから言いつけを遵守するポン。空気を読むポン?」
「お前って妙に理性的だよな、生物としての格の違いに劣等感だ」
「文明の年季の違いポン。ヒトが石製武器持ってマンモスと追いかけっこしてたときに、シュヴェールトゥトラは3C的な製品で快適な生活を送っていたというポン」
「マンモスってことは地球でいう氷河期の頃だろう!? 発展半端ねぇな!」
「シュヴェールトゥトラという種族の誕生が早かった分、ヒトよりも発展してるのは当然ポン。ポンたちの発展速度が特別逸脱してるわけではないポン?」
「ふぅん、それじゃあ遠い未来の人間も、お前らみたいに科学力を持て余して地球から飛び出ていくとか、次元を越えるとかしちゃうのかな?」
「その前に人間同士で殺し合って破壊の限りを尽くさなければそこそこ発展するとは思うポン。時の流れは確実に技術を更新させるポン?」
「ちょっと待って、そんな壮大なことは帰ってからじっくり話してください!」
他愛もない話をしている風で、実はとんでもない規格外の会話を繰り広げていた二人にスクープから注意が入る。干渉するのが遅すぎたくらいだ。
「情報提供ではないですけど、今のはグレーゾーンな会話だと思いますよ」
「んー、そうか? 好奇心で聞いただけなんだが……」
この手の話は男心を無茶苦茶擽る。スクープにはこの良さや浪漫が感じ取れないみたいで、花沢は損なやつだと心の中で冷笑した。
「お前ももっと話聞いた方がいいんじゃね?」
「え、えー……なんかイケナイ何かに足を踏み入れてるみたいな背徳感あるんでいいです」
「早い年頃から男を知りたくないみたいな感じか?」
「セクハラは消えてください」
悪辣に言葉を吐き捨ててから、でもちょっと興味を惹かれないわけではないし、と自分に言い聞かせたスクープは花沢にああして断っておきながらも質問内容を考える。
「……あの、じゃあ、一つだけ……」
「結局聞くのかよ!」
控えめに手を挙げたスクープに定番的な突っ込みを入れる。
「なんだポン? スクープのお願いならなるべく叶えてあげたいポン?」
「好感度の差が発言に現れやがる。まあいい、ほれスクープ、言ってみろよ」
「はい、じゃあそのポン子ちゃん、所謂穴場って知りませんか?」
「それグレーゾーンじゃねぇの!?」
安穏な氷湖の湖畔に花沢の声が響き渡る。
規則等の決まりごとをきっちり守る生真面目なスクープが、まさかの言ってることとやってることが違うというような質問をかまして花沢の度肝を抜いた。
「い、いいんですよ! ほら、初回サービスみたいな?」
「……うーん、滑稽だ」
呆れ果てた花沢の一言が槍となってスクープの心に突き刺さる。錯誤を犯していることは自覚して後ろ暗さを感じていたけれど、でも自分だけの場所と呼べるような穴場を持っていなかったスクープは是非ともそんな場所を紹介して欲しかった。
「分かったポン。それじゃ、一か所だけ教えてあげるポン」
「本当に!? やったぁ!」
「ずりーなー、あーずりーなー」
指を噛みながらスクープとポン子を睨む。俺だってそろそろ新しい穴場が欲しかったのに、原住民のポン子だからこそ知っている穴場というのもあったろうに、とネチネチと妬む花沢をよそに、女子二人はきゃっきゃきゃっきゃとシェアハウスを決めるかのように明るかった。
「今から連れて行ってくれる穴場ってどんなところなんですか?」
「詳細はお楽しみにしてほしいから秘密にするポン」
「それもそうだね。分かった、もう野暮なことは聞かないでおくよ。あー、楽しみだなぁ」
自分だけ面白くない花沢は仏頂面で口を開く。
「おいポン子、その穴場ってのはどの辺にあるんだよ。遠すぎてもセグウェイの充電が切れちまうんだが?」
「そこは心配いらないポン。この広大なセインツロックにはヒトが未踏の領域が山ほどあるポン? というわけでNHK、あの四角い機械の貸し出しを要請するポン」
「リアライターのことか? なんだ、機械頼りかよ」
言わんでもいい嫌味にしかめっ面したのはスクープで、最近めっきりポン子側についた身らしく一言文句を言ってやろうとした。けれど、その気配を汲み取ったのかポン子はスクープを宥め、そりゃそうだポンと開き直ったと思われかねない発言をした。
「逆に聞くけど、NHKは地球規模の土地勘を持ってるポン?」
「持ってないけど、お前らは人間じゃないし……」
「そんなところまで特別扱いされても困るポン。文明の利器に縋って生存しているのがポンたちシュヴェールトゥトラポン。ポンたち自体は別にアンドロイド化してるわけではなく、あなたたちヒトと一緒くたということを覚えておいてほしいポン」
「えぇっと……あー、なんかすまんな」
真面目な回答に調子を狂わされ、花沢は中途半端に謝った。と、同時にがっかりした。ここまで率直に自分たちは特別じゃないと言われるなんて、抱いていた浪漫が一つ砕かれたようなものだ。まあまだ完全に失望はしていないし、その予定もないけれど。
「ちゅーわけで借りるポン?」
花沢からリアライターを借りたポン子は鳥瞰マップを出力し、上からの広範囲に及ぶ視点で目的地を探す。
「この辺ポン」
「おっ、案外近いんだな」
セグウェイで飛ばして一時間程度で着ける距離だった。かなりの長旅を覚悟していた花沢のドキドキが収まる。
「それじゃー、地図も大体暗記したしポンがナビゲートするポン」
「頼むから事故はやめてくれよ……」
セグウェイ初心者の言う台詞ではない。でも、ポン子の運転は上手だった。いや、上手くなったというべきだろう――ポン子がセインツロックに同行するのも今日で四回目を数えるが、その度に上達しているのが目に見えて分かる。呑み込みが早いのだ。日数的には初心運転者だが、実力的には熟練運転者と大差ない。
「それじゃーついてくるポン!」
セグウェイの電源を入れてただちに走り出す。
湖畔のひんやりとした空気から脱出すると次に待っていたのはサバンナ。視界が利くので一直線に突き進む。さらにその先で待ち構えていたのは珍しい竹林地帯だ。観光ルートに入っている地帯なので石くれ剥き出しとは言え整備された道があるのでそこを通行する――と思いきや、ショートカットだポン、とポン子がルートを変更して竹の間を強行突破する。
「あいつうめぇな!」
「本当ですよ、私なんて自在に使いこなせるまでに三か月は要したのに!」
風切り音で邪魔されるため、後続の二人は日常会話よりも断然大きな声で会話する。叫んでいるのと変わりない大声だ。この辺はセグウェイだとどうしようもない部分である。
速度を落としながら竹林をなんとか抜けると、またも厄介そうな地帯に差し掛かる。山岳地帯だった。緩やかな坂が続く上に道が悪い。申し訳程度に道なりにロープが張られているが、危険な山道でロープは心許ない。出来るだけ内側を走って、下へ転げ落ちてしまわないよう注意深く進んだ。
今まで通過してきた二つの地帯よりも幾分長かった山道を突破して、やっとポン子の言った穴場――岩石地帯へと辿り着いた。
ひび割れた岩肌剥き出しの地面をゆっくりと行く。尖がった巌が連なり、先端に上空から落下した場合を想像したら花沢の股間がきゅっと締め上がった。
二人ががたんごとんと上下しながら時々気持ち悪くなりながら進む一方で、前方では既にセグウェイを降りたピンピンのポン子が手招いていた。
「早くするポン!」
「頑張る! 待っててポン子ちゃん――さ、花沢さん」
「おっしゃ!」
最後にもうひと頑張りだ! とセグウェイの運転でここまで体力を擦り減らすとは思っていなかった二人はへろへろなりに速度を上げて、道の悪さで跳ね上がったりしながらポン子に追いついた。
「あー……疲れた……」
上下長袖の探検服姿の花沢とスクープは電源を切るとその場に倒れ込んだ。岩の冷たさが気持ち良い。花沢は昨日行った銭湯で扇風機の風を浴びているときを思い出した。
「二人共しっかりするポン?」
ポン子に起こしてもらって立ち上がった花沢はこの岩石地帯の閑散さに物恐ろしさを感じた。取り残されたような感覚が花沢を襲う。
「どうしてこんなに人気がないんだ?」
「そりゃー穴場だからに決まってるポン? ポートから結構離れてるし、パッと見ただけで何もないことが分かるから人気度低いんだと思うポン」
「私、岩石地帯って初めて来ましたよ。一見なんにもないんですけど……」
見渡す限り、岩、岩、岩――空を濃い千切れ雲が覆っていることで日は遮られ、無彩色の風景が完成していた。
「気味悪ぃよ、ここ。さっさと穴場の行き方教えてもらって帰ろうぜ」
「そうですね、気味の悪さは拭い切れません……ポン子ちゃん、悪いんだけど巻きでお願いできる?」
「了解ポン。じゃあもう入り口は目の前だからついてくるポン?」
「へ? 目の前だって?」
何を言っているんだ、こいつは――疑問符を浮かべた花沢の視界に入り口らしきものは一つも見えない。可視範囲の果てまでずっと灰色が続いている。
「遠くを見ようとするなポン。探し物は近くにあるも」
「あった! ありましたよ花沢さん、それっぽいのが!」
「マジか!? 教えてくれ!」
「まだ台詞の途中だったのにポン……」
話を聞かずに辺りをぷらついていたスクープが漬物の置石をそのまま大きくしたような丸みを帯びた岩を指差していた。
「なんだよ、ただの岩じゃないか。それのどこが入り口だって言うんだ?」
たったっと駆け足しながら尋ねると、スクープは強調するように肘から下を上下させて岩の後ろを指し示した。
岩の陰に何が隠れているのだろうか――花沢は少年心を高鳴らせながら覗き込む。するとそこには、ガマのような狭い穴があった。
「こんなに早く見つけられるとは思わなかったポン……この穴こそ、ポンが紹介しようと思ってた穴場への入り口ポン。なかなか風情があるでしょポン?」
「風情よりも怖さが先行してるよ……」
人の踏み入った形跡のない荒れように加え、奥の方は真っ暗だ。
親切にトーチが配置されていることもなく、松明でも懐中電灯でも、なんでもいいから光源を手に持って歩くことを強いられるらしい。
「花沢さん、途中でしがみついても怒らないでくださいね?」
「しょうがねえな、許可してやる」
反対に今からここに足を踏み入れることに冒険心を擽られている花沢は毅然としていた。早く入りたいという気持ちのせいでそわそわしていて落ち着きのなさが目立つ。
二人はリアライターのフラッシュ機能を用いて光源を確保してから、膝を折って屈んだ姿勢で穴を潜る。入ってみると入り口の割に縦横共に広かった。
花沢は頬に洞窟の肌寒さを感じつつ感想を述べる。
「鍾乳洞ってわけでもないんだな」
「面白みのないただの洞窟ポン。だけど先にあるのは面白みに溢れてるポン」
「俺たち限定で?」
「そうポン。ポンにとってはなんでもない場所だけど、ヒトにとっては喉から手が出るほどって感じの場所ポン? 刺激が強過ぎず、かと言って退屈過ぎない適度な場所だとポンは誇らしげに自負しちゃうポン」
「へぇ、そいつは期待しとくぜ」
「それがいいポン。というわけで、右手左手好きな方向をご覧くださいポン?」
「え?」
唐突にバスガイドみたいなことを言われて花沢は思わず聞き返した。でもまあ見ないことには始まらないかと騙されたと思って、言われた通りに左右を見た。
「……石が光ってる?」
岩肌に埋まった黒曜石のように黒光りしているそれにはどこか違和感があった。
透き通っているというか、透明な容器に黒い何か流し込んだようなというか……。
花沢は期待外れに備えて予防線を張りつつドアをノックするように石を叩く――すると、ゆらゆらと石の中身が波打った。
「おいポン子! これ、中に何か入ってんのか!?」
「ご名答だポン――その石は世にも珍しい原油石だポン」
『原油石!?』
小学生の考える夢物語に出てきそうな存在に花沢とスクープの二人は仰天した。
「ま、これもポンたちが作ったものポン」
平然と言ってから、ポン子は庭先の柿の木に生えた実を収穫するように石油石を岩肌から抜き取る。
セインツロックならではの産物、原油石はシュヴェールトゥトラの発明の一つだ。元から原油石が存在していたわけではないということを述べておこう。
「この石をかち割ればあら不思議、石油に変換できる原油が取り出せるポン」
「お、おいおい冗談は程々にしてくれよ。もどき生成がお家芸なお前たちのことだ。それだってどうせ原油に見せかけた黒い絵の具とかなんだろう?」
「残念ながら本物の原油ポン。なんなら一口如何ポン?」
「暗に俺を殺そうとするな。……分かったよ、信じ難いけど信じるよ」
花沢は肩を竦めて釈然としない態度で言った。
「ほら、秘密の鉱石は原油石だけじゃないポン。他にもこんなのがあるポン?」
原油石の代わりにポン子が持ってきたのは雹のような大きな白い塊だった。
「また変なもの持ってきたんだね……ポン子ちゃん、この正体は一体?」
「なんだと思うポン?」
「ダイヤモンドの原石とかですか?」
「ダイヤモンドの原石はもうちょっと澄んでるポン。でも、割と良い線は行ってるポン。まあ正解を言っちゃえば、これはダイヤモンドよりも強硬な鉱石の一種ポン?」
「……えぇっと、それってどれくらい硬いんですかね?」
さらっとダイヤモンドよりも硬いと言われても実感が沸かなかったスクープが尋ねる。
「ナイフで切りつけてもチェーンソーの歯を立てても掠り傷一つ付けられないポン。ダイヤモンドと同じく金槌には弱いけど……ポン」
「ダイヤモンドって金槌に弱いんですか? 地球上で一番硬いと言われているのに?」
「石の硬度っていうのは傷のつくつかないのことを言うのであって、破壊に対する耐性を示しているのではないポン。そっちは鉄の得意分野ポン。石は引っ掻きに強くて、鉄は破壊に強い、ちょっとしたトリビアとして頭に入れておくとお得ポン?」
「ほほー、勉強になりましたよ、ありがとうございます、ポン子ちゃん」
「間違ってたらごめんポン」
自信なさげに一言付け加える。その後各々離れすぎない程度に散らばって、洞窟探索をすることになった。ほとんどポン子と一緒に行動しているスクープとは違い単独行動を取る花沢は、目を皿にして岩肌を観察していた。
「この鉱石も見たことねぇな……」
ポン子でもできたんだから俺でもできるだろうと岩肌に埋まった鉱石を引っ張り出そうと手に力を入れてみるも、これがなかなかどうして大の男の力を以てしても難しい。
「取れうぉっ!?」
やっとの思いで引っ張り出すと、綱引きをしている途中に相手から勝負を放棄されたときのように余力で後方に飛んで尻餅をつく。
「おお、これが……」
刺々しい石にリアライターの明かりを当ててまじまじと見つめる。そのまま撮影機能を使って写真にしまおうとか、ポケットに入れて持って帰ろうとかパパラッチとしては至極当然なことを考えた。
けれど、回収して機関に提出した時点でここは穴場ではなくなってしまうという危惧によって思い直し、手に持っていたそれをそっと地面に置いた。
惜しい。報酬的にも大変惜しい。
持って帰ることができないのなら、せめて目に焼きつけておくかと花沢は離れすぎないという取り決めを放棄してどんどん奥へ進んでいく。
「……ん?」
快調に鉱石の発見を繰り返していた花沢は、ある地点で立ち止まった。
「この匂いはなんだ?」
洞窟の奥地におやつの時間を彷彿とさせる甘い香りがほのかに漂っている。それにいつの間にか肌寒さも消えて、額には汗が滲んでいた。堪らず上着を脱いだ花沢は黒い半袖シャツ姿になって、くたくたの襟元を扇いて風を送る。
からっとした暑さではなく、じめっとした暑さだ。湿度が高く、空間に湿気が充満している。洞窟内で気候が変わるなんて聞いたことがないが、この先には一体何があるのだろうか?
花沢は持ち前の荒肝を発揮して、恐れることなく前へ前と早足で進む。そして再び立ち止まったのは、このじめじめを生み出す根源と巡り逢えたのはすぐのことで――待避所のようなスペースに、もくもくと湯気立つ温泉が沸いていた。
「……ワンダホー」
純然たる日本人である花沢が思わずハリウッド俳優よろしくそう漏らした。
天然の浴槽とは思えない寸分狂わぬ正方形の窪みは、これなら子供の友達が大勢泊まりに来ても安心と奥さんも満足の面積を擁していて、具体的に言えば家庭用の浴槽三据分くらいの大きさがある。
湿気の正体ついでに甘い香りの詳しい正体も明らかになった。これはココアの匂いである。温泉がココアの甘い香りを発している。
「……ココアだよな?」
疑心暗鬼になりながら花沢はリアライターで温泉を照らす。ココアと同じダークカラーだったが、その正体は泥水かもしれないので心配だ。
それでも無理押しして指を湯船につけて、ぺろりと舌の先で舐めてみた。
「甘い!」
口から消えたあとも微かな粉っぽさが残留するこれはココアに違いなかった――となると、この風呂はこう名付けられる。
「ココア風呂だ」
蛇口からオレンジジュースとか、そんな類の眉唾物がここセインツロックでは現実となってしまっていた。
ドリンクの風呂に浸かるというのは子供時代からの夢ではあったが、やっぱり気味が悪かったのでスルーすることにした。ココア風呂に別れを告げてから急ぎ足でその場を去る。
「セインツロック……やはり侮れないな」
またセインツロックを見直して、よりのめり込むきっかけとなってしまったココア風呂発見だったが、ここからが本領発揮――怒涛の温泉発見劇の幕が開ける。




