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スクープは怒っていた。当たり前である。自分に注意しておきながら他の地帯に入ってしまって溺死しかけるだけには留まらず、助けてもらった金髪の欧米人と一緒に自分を置き去りにして姿を消してしまったのだから――剰え、酷い捨て台詞を吐いて、だ。
「もう頭にきた! やめてやる、あんな奴の下で働くのなんてやめてやる! やってられるか、くそったれ! 一番心配してやったのは誰だと思ってやがる!」
収まらない憤怒の情を声に出しながら、事務所で着実に荷造りを進める。
時計の針は午後十時過ぎを差している。今日は外泊してくるつもりだろう。飯の他にも用を足しているに違いない。帰ってきたら部下の辞表が机上にポツンと置いてあるなんて、いくら花沢でもさぞ驚くであろう。慌てふためきながら昨日の失態を悔やむ花沢を思い浮かべたら自然とニヤついたが、季節外れの花曇が心までも覆っていた。
それに、あの捨て台詞が花沢の本心だとしたら悲しみすらしないのかもしれない。
拾ったばかりの捨て猫が逃げたときみたいななんだこいつ的感情を抱かれるだけで、さっさと次の部下の募集をかけることだって有り得る。
そうなったら、二年付き合ってきたスクープという部下はなんだったんだろう。
私という人間は――彼にとってはいくらでも代わりがいる駒の一つに過ぎなかったということなのだろうか?
「……こんなに悲しい気持ちになるのは久し振りだ」
悲しいから涙が出る。そうだ、これは私が出て行くのではなく、私が彼に用済みだと告げられて捨てられるのだ――思うことは全てマイナス極へ傾き、十七歳になってこんなに泣ける自分に驚嘆しつつ声を殺して忍び泣いた。
下唇に歯を立てながら荷造りを完了し、それでも空いた気のしない部屋を最後に二度見してから玄関のドアノブに手をかけようすると、まだ触れていないのにも関わらずドアが開いて突風のような夜風が吹きこんできた。
「悪かったスクープっ!!」
目の前で花沢が頭を垂れる。幻覚かと思った。もう帰ってこないものだと想定していたから――けれど、こんな謝罪一つで許せるはずもなく、寧ろ悲しみに打ちひしがれていたスクープの中で潜めていた怒りの灯火がぶり返した。
「……なんですか、今頃謝ったって手遅れですよ」
トーンの低い冷淡な声はとある事情で焦る花沢を急かした。
「本当にすまなかった! 目が醒めたんだ、俺の本妻はやっぱりお前だ!」
「浮気から帰ってきた男が何を言っても信じられません。……私、今から出て行くところなんで、おとなしくそこを通してください」
「それは困る!」
「え?」
「お前がいなきゃ困るんだぁい!」
「………………!」
語尾がおかしかったものの、男気溢れる台詞にスクープは頬を紅潮させた。自分の意志に反して頬が赤らんでしまったのは、明確に花沢が自分を必要としている意志をはっきりと声に出したからだ。
てっきりその真逆だと思っていたスクープの気が、許してもいいんじゃないか? という風に移り変わり始める。その兆候を察知して、これじゃ扱いやすい女じゃないかとか、一度徹底的に懲らしめるべきだとか様々な葛藤に苛まれたが、たった一瞬の感動は幾重にも重なったそれらを全て上回ってみせた。
「は、花沢さぁあああん……ただいまぁあああ」
「お、おお……おかえりスクープ」
涙って永久に水を汲める魔法の湖みたいだ――ボロボロと大粒の涙を流しながら、立っていられなくなったスクープは花沢に体重を預けた。胸板に鼻水の垂れた顔面をぐりぐり押しつけて、せめてもの嫌がらせだとこんな状態でも恨み辛みを忘れない。
「あの……スクープ」
花沢の心臓の高鳴りを直に感じていると、困った声音で名を呼ばれた。
顔を上げようとスクープは涙の粒を花沢のシャツの袖で拭き取ってやろうとその手を掴みかかると、そこにあった温もりのあるふかふかした何かに違和感を覚えた。
「尻尾……?」
尻尾と呼ぶにはいささか抵抗せざるを得ない蹴鞠のようなそれは触り心地からして毛並みが良い。色は黒交じりの茶色。視線をさらに奥へやると、柴犬の如く頭から三角形の短い耳がちょんと生えているのが見えた。
罪滅ぼしに捨て犬でも拾って私にプレゼントでもする気だったのだろうか――花沢の思考回路に疑問符を浮かべたスクープは、隠すように抱えていたそれを近くに寄せた。
「なにこれ可愛いっ!」
開口一番、スクープは花沢が連れてきた愛玩動物の姿を目にして、珍しく近所迷惑を顧みずに大声を発した。……いや、でもなんだこれは? 可愛いが種類が分からない。見たところ犬ではない。似たような動物で狐やアライグマを思い浮かべたが、これともいまいち一致しない。
色々思索を張り巡らせてみたが考えはまとまらず、いつの間にか可愛さよりも不審感が先行し始め、小柄な体躯を撫でていた手の動きを止めた。
拱き候補を整理していると、ある答えに行き着いた。スクープはそれを、疑うような口調で自信なさげに言った。
「もしかして狸?」
「狸じゃないポン!」
「ひぇえええ!?」
愛玩動物の口の動きと連動して言葉が発せられる――その声はまるで、花沢が持っているエロゲーに出てくる女の子のようだった。
「花沢さん、こいつ喋るんですけど!?」
動転したスクープは目の周りを赤くして鼻水も垂れ流しにしたまま詰め寄る。花沢はきまりが悪そうに頬を指先で掻いた。
「ああ……喋るんだよ、なんてったってセインツロックの知的生命体だからな」
「はぁ!? うそっ、嘘でしょう!?」
あの金髪女にどれだけ飲まされたんだろうと思わずにはいられない衝撃発言が飛び出た。しかし花沢の口調は至って平常で、大酔した人間のそれではないことは明らかだ。
つまりこの時点で、ドッキリを仕掛けてからかっているのか、事実を述べているのかの二択に絞られるが、状況的に判断して前者の可能性は希薄である。以上から導き出される解答は、自ずと後者になるのだった。
「……いや、でも」
目が泳ぐのは次のアクションを決めあぐねているから。
一つに絞られたからといって、そこで終わるスクープではない。まだ何か……他の可能性があるはずだ。既に決まっている大局を覆す術を必死に探したが、結局自分を納得させるに足り得る第三の可能性を見出すことができなかった。
「だからお前が必要なんだよ、スクープ。お前が出て行かれたら、こいつの面倒はどうすんだってな」
「はあなるほど……って、ちょっと待ってください花沢さん」
上の空で聞き流しかけていたが、流石に強烈過ぎる一言だったので脳内に反響して留まった。もう一度頭の中で再生して反芻し、花沢が自分に謝った理由を完璧に理解し、把握したスクープは地獄の鬼も慄くくらいの迫力で仁王立ちした。
気圧された花沢は躊躇うことなくコンクリートの上で土下座して、そのままの姿勢で洗いざらいここに至るまでの経緯を話す。傍から見たらアパートの廊下で女王様と下僕ごっこをして戯れている危険な香り漂うカップルでしかない。
花沢にパパラッチとしてのお前が必要だと言わしめたことで心が二分目くらいまで満たされたスクープは、泣き疲れていたことも手伝って今日はこの辺で勘弁してやることにした。土下座を解いていいと言うと、土下座も結構疲弊するらしく花沢はのろのろと立ち上がってうんと体を伸ばした。急な筋肉運動だったので足をつっていた。
「そろそろいいポン?」
「お、おおいいぞ……」
痛みから回復した花沢を室内に招き入れると、その手から離れた狸もどきの小動物が部屋で一番良い位置であるパソコン前の座椅子に陣取った。身軽そうな見た目を裏切らない俊敏さだ。
「全く汚い部屋、これには感心しないポン?」
「ねぇ、悪いんだけど……あまりその容姿で喋らないでほしいです」
「人種差別だポン?」
「生理的嫌悪です」
日曜朝にやっているような子供向けアニメだと当たり前のこととして観賞できるが、人ではない動物が言葉を巧みに操ることは実際目の当たりにして気持ち悪かった。
狸もどきは「しょうがないポン」と郷に入っては郷に従えの精神に従って譲歩し、以降口を閉ざした。ほっと胸を撫で下ろして安堵したスクープだったがそれも一瞬の安息、次の瞬間には狸もどきが乗っ取っていたはずの座椅子の上にあの金髪女が鎮座ましましていた。
「うぉあああ!? なんですか、あなたどこから入ってきたんですか!? いやでもそこには喋る狸もどきがいたのに、え、えぇ? どういうこと?」
「ふふっ、もうちょっとからかってやろうかしら」
忽焉として現れた金髪女はスクープの反応を面白がって忽然と姿を消し、今度は頭から獣耳、臀部から尻尾を生やした人と動物を組み合わせた姿形に早変わりした。スクープは敢えて、何故衣装がセーラー服なのかということは問わなかった。
「どうだポン?」
驚愕のあまり息が詰まったスクープから生理的嫌悪感は取り除かれていた。
この姿だと気持ち悪さ半減というより、かえって可愛いと感じる――それはこんな造形の人外娘を花沢所有のエロゲーで目にしたことがあるからなのだが、惑わされて冷静に分析する余裕が失われている今のスクープでは想起不能である。
「私、狸もどきが神として君臨する壷中の天に迷い込んでしまったんでしょうか……?」
「壷中の天なんて難しい言葉使われても困るポン。ポンは神様なんて大それたもんじゃないからひとまず落ち着くポン?」
「私から平静を奪ったのはあなたじゃないですか……」
散々な一日の終わりにもっと体力を削り取られて青息吐息だ。
というかこの謎の生物を連れてきた張本人は何をしている。
「花沢さん、そろそろ起きてもらえませんか?」
玄関付近の床で寝そべっていた花沢はむくりと体を起こして一つ欠伸をした。ふらつきながら狸もどき改め人外娘に近付いて、その耳と耳の間にポンと手を置く。因みに人としての耳はない。本来耳があるべきところには何もなく、一丁前に人と同じように伸ばしている頭髪によって覆われている。
「こいつの名前は……えーっと、なんだっけ?」
「生物としての名称は《シュヴェールトゥトラ》、個人の名称はセルフィだポン?」
「シュヴェールトゥトラ人のセルフィさんってことですか?」
「ヒトじゃないから人付けは不本意ポン。犬とか猫みたいに、シュヴェールトゥトラという名前なのですポン」
「長いですけどやけにかっちょええ名前ですね……」
「だろう? だからポン子って呼ぼうぜ。いいよな、ポン子で?」
「急にダサくなった気がするんですけれど。いいんですか、セルフィさん?」
「あなた良い人みたいだけど、別にポン子でも許容するポン?」
随所で心の広さをさりげなく披露するポン子にスクープは大人の烙印を押してやった。自分は置いておくとして、少なくとも花沢よりは大人だ。
一定のリズムで頭をメトロノームの真似事みたいに左右に動かすポン子の愛らしさに何気心を奪われていたスクープはいけないいけないと気持ちを入れ替えてから、話の根幹というか本筋を花沢に問うた。
「ポン子さんを捕まえてきたのはいいとして、どう処理するつもりなんですか?」
「あ?」
目覚まし目的で台所で顔を洗っていた花沢が顔を上げた。冷水のせいで立った腕の鳥肌を手持ち無沙汰のように揉みながら、視線を斜め上に向けた。
「そりゃ売りつけてやるとは思ったけどよ」
目だけをぎょろりと動かしてポン子を見た。するとそれに気付いたポン子は瞬発的に座椅子を降りると知り合って三十分も経っていない間柄のスクープに土下座した。
「お願いです、売るのだけは勘弁して欲しいポン!」
「ちょっ、私に言われても困りますよ!」
微塵の躊躇いもない美しい形の土下座に狼狽したスクープは、花沢に助け船の要請をした。いきなりこんなことを言われても困る。そもそも部下の自分に決定権はないだろうというのがスクープの抱いた当然の所感だった。
ところが話を振られた花沢は回答をはぐらかす。
「いざ大金を手にしてみても使い道が思いつかないように、こうして血眼になって探してた異界の知的生命体を手中に収めて売るとなったら罪悪感がな……」
「単に良心が痛めつけられてるだけじゃないですか、なよっちいですね。いつもの冷徹で野心に塗れた俗物キャラはどこへ」
「お前の中での俺って酷いイメージだよな、どこの人畜さんだ。ちょっと日々の行いを反省しちゃったじゃねぇか」
と、良心の痛みという言い得て妙な躊躇の真意を言い当てられた花沢は、頭と心の中で色々なものとの暗闘の末に一つの結論を出した。
「……もじもじしてんのもウザいだろうし売っちまうか!」
「ひぇえええ!」
「ポン子さん!?」
ポン子はこの世の終わりを迎えたような悲鳴を上げて卒倒した。泡こそ吹いていないが白目を剥いている美少女を見ていると、スクープはふと込み上げてきた酸っぱい胃液を味わうハメになった。嘔吐こそ回避したが、口内にほんのり風味が広がって気分を害し、思わず床に転がったそいつから目を逸らした。
「くっ……悪いがもうこれは決定事項だ。覆ることはない」
肝っ玉があった分そこまでではなかったにしろ多少なりとも戦慄した花沢は、なんとか強気で押し通そうとする。
「どうにか!」
「ひぇっ」
パッと起き上がったポン子はビビるスクープを気にも留めず、誠心誠意花沢に頭を下げた。一緒に耳も垂れる。
「……どうにか、勘弁して頂けませんでしょうかポン……?」
うるうると潤いに満ちた上目遣いに十八歳の息が詰まった。表情筋がセメントで塗り固められたように動かなくなって、口を開けたままの阿呆面を披露している。
大きなターニングポイントを迎えている。
売り飛ばして大金を手に入れ、パパラッチとしての本望を果たすか。
パパラッチとしては失格だが、人として人道を貫くか。
迷いに迷う花沢をスクープはまどろっこしいと評すわけがなく、委託した決断を待つ――そして、花沢は決めた。
ふっ、と自分を嘲るように鼻で嗤ってから瞬きも忘れて上目遣いを続けるポン子の頭を優しく叩いた。
「分かったよ、すぐには売らないでやる。保留だ保留。そしてお前は捕虜だ捕虜」
「NHK……! よかった、よかったポン!」
感極まったポン子は喜びを爆発させて花沢に抱きついた。柔らかい女性の抱き心地に陶酔する花沢が、密かにこの状況ってエロゲーみたいだなと最低な感想を思い浮かべていると、目の据わったスクープがボソッと呟いた。
「こういうのが目的でポン子さんを……なるほどねぇ」
「違う違う違う違う!」
スクープの極悪な表情に――漫画的に言えば額辺りが陰で暗澹としている表情に肝を冷やした花沢は即応して、その誤解を否定した。
今は人の形貌をしているとは言え元は狸もどきだ。そんなものと抱き合ったって毛ほども興奮しない――という大嘘を吐こうか吐かまいか逡巡していると、その間に離れて再び座椅子にキャッチャーみたいにしゃがみ込んだポン子が挙手した。
「どうしたの、ポン子さん?」
もたもたしている花沢にかわってスクープが答えた。
小ぶりな胸の前で指先と指先をちょんちょんとぶつけ合いながらもじもじしているポン子は遠慮気味に切り出した。
「厚かましいようだけどお願いがあるポン」
「なんですか? 言ってみてください、内容次第で協力しますよ」
「快い返事に感謝するポン。やっぱりあなた、良い人ポン」
互いに好意的な印象を抱いている二人は花沢を置き去りにして、とんとん拍子で話を進める。ポン子のことを最初は奇妙としか思えなかったスクープは早くも心変わりした。こうして話してみると全然普通だ――そんな安心感が悪印象を覆したのだった。
「ポンはもっとヒトのことが知りたいポン。というかポンだけじゃなくて、ポンたちの世界の皆がヒトのことを知りたがってるポン。だから、捕虜としてでも構わないから外出時は極力同行させてほしいんだけどいいポン?」
姿形は人状態を保つからお願いポン、とスクープに手と手を合わせて懇請した。
「とりあえず逃げないことは約束してもらえますか?」
「もちろんだポン。なんなら契約書書いてもいいポン、指印付きで」
「変身スキル持ちのポン子さんの指印は意味ないと思うんですけど……。まあ、そこまで言うんならいいですよね、花沢さ――じゃなくって、いいですよ、同行しても」
途中まで言いかけてやめたのは、この場の決定権は自分に移ったと判断したからだ。いちいち花沢に許可を得るのも考えものだとスクープの考え方がここにきて一皮剥けた。一方、介入できなかった花沢はぽかんとして流れについていけてなかった。
「そういえばポン子さん、私たちに何か見返りとかないんですか?」
言い方が嫌な人っぽかったかな? と内心心配したスクープだったが、ポン子はハキハキとした態度で嬉しそうに返した。
「ポンが持ってる情報をあげるポン。人間がセインツロックと呼んでいる私たちの世界のことを、喋ってもいい範囲で喋るポン?」
「喋ってもいい範囲って?」
無理やり会話に割り込んだ花沢にもポン子は嫌な顔一つせずに、腕を組んで深く思慮してから言った。
「ヒトが知ったらショック死しちゃうような情報は喋らないでおくポン」
『…………』
どんな情報だよ。花沢とスクープは心の声を合わせた。
「……んじゃまあ、そうだな。試しで一つ聞いてみようか」
「どんどんくるポン?」
「セインツロック――お前たちシュヴェールトゥトラの世界ってなんなんだ?」
純粋なる疑問が核心に迫るような口調で空気に乗って、ポン子の聴覚を刺激する。
「のっけからそんな重要なこと聞いちゃうんですか!?」
「言ってから思った! なんでもいいかと思って聞いたんだけど迂闊だったな、迂闊だった。すまんポン子、難しい質問だったろう? 取り消して――」
「あの世界は、ポンたちの実験場みたいなものだポン」
ポン子は、友達に新しいバイト先決まったよとでも伝えるようにさらっと言った。
精神を揺るがす様々な感情が心の奥底で混沌と渦巻いていた二人は、ただ一個だけ、これだけは明瞭にはっきりと思った。
(こいつの言う、喋ってもいい範囲は信用できない)
今後暴露されていくであろう痴れ言の如き一驚の新事実に戦々恐々とする二人だった。
一話終わりです。